一章 * アルファロス邸宅 2
それは彼女にとって、話し合うことも含めた中で、何よりも大切な一番にすべきことだったのだろう。
セリードとともに客間に入ってきたジェスターを見るなり、リオンは腰かけていたソファーから立ち上がってゆっくりとではあるが迷うことなく、物静かな、表情の読み取れないジェスターの前に向かって行き、立ち止まる。
お互い自己紹介もなくただ見つめ合う。ジェスターは何か感じるものがあったのだろう、リオンを見つめるその目から警戒心を消し去った。
「二十三年も‥‥」
そう呟いて寂しげな笑みを浮かべたリオンはスッと手を伸ばし躊躇い一つ見せず右目側、こめかみ辺りに指で触れた。
ジェスターがさっき告白したばかりの右目の失明と痛みを、リオンが知っていることはその言動で明白だった。
その事が信じられず、セリードは瞬きすら忘れてリオンを凝視している。
「何故知っている?」
「今知る限りのことをお話します。それより今はこちらがなによりも大切なことです」
「この目が?」
「大切です。これはあの日逃げることなく、戦った証であり、代償です。見知らぬ人が死んでゆく、町が闇に飲まれるのを見過ごせなかった故の、罪がないのに背負うことになってしまった代償なんです」
「代償? ‥‥不思議なことを言う。それで?私はどうすれば?」
「目を閉じてください」
リオンの言葉にジェスターは素直に従い目を閉じた。
「この苦痛をどうやって耐えていたんです?」
「若いときにつけた古傷とでも思えばそれなりに耐えられた。日常生活には支障はない。まぁもちろん‥‥騎士団を束ねるという役目には向かない程度に私を悩ませることにはなってしまったが」
「本当に、尊敬します。その痛みは人の心まで蝕むこともあるのに」
リオンの言葉から察するにジェスターのことをかなり詳しく知っている。けれどここに来る道中でセリードが簡単にではあるが質問をするなかで知り得た情報は二人は会ったことは一度としてないし、ジェスターはリオンを知るはずもなく、そして彼女自身がつい最近ジェスターの存在を知ったということだ。
「私には視力を元通りにすることはできません、強力な魔導師であってもこんなに長い期間失われたものは、生まれたときからそうである人のように新しくその能力を吹き込むことは‥‥残念ですが、無理だと思います」
「承知している。あれほどの体験をして、こうして生きていることが奇跡だ。この命があること以外に何に感謝すればいい?」
目を閉じたまま、ジェスターが表情を和らげる。リオンもそんな彼を見つめながら優しく微笑んだ。
「騎士団からは去ったが、それでも私には家を守る義務があるし、なによりあの体験を糧に別の形で国のために少し位は役に立てるだろうと今でも思い、尽くしているつもりだ。視力が失われたといっても幸か不幸かこの右目のみ、騎士としてはこれくらいのことは若かりしころ覚悟を決めていた。私には悲観するようなことではなかった」
「その強い揺るぎない意志があるから生きることを許されたんです」
「許された?」
「その、強い思いと共にもう一度表舞台に戻りませんか」
「え?」
「そして力を貸してください」
「いや、私は」
「その痛みからあなたを解放するために私は来ました。どうか、非力な私に助力と助言を。お願いです、私一人では立ち向かえないんです。あなたのような方が必要です、どうか、私にお力添えください」
あの日から片目の視力を失った。
体は回復し、騎士としても復帰は容易いほど完璧に。視力など訓練と慣れで補える。
けれど騎士として致命的なことがジェスターの体に刻まれた。
視力を失ったと同時に襲った右目の激痛。
体が受けた傷よりもはるかに上回るその痛みは体の回復とともに多少は軽減されたが消えることなく今日に至る。瞼の上に重く冷たい鋼を乗せられ強くきつく押し付けられて、針で何度も突かれるような痛みは、時として若かりしときに無茶をしてつけた古傷からも痛みを呼び覚ますこともある。夜寝ることを許さぬほど痛みが増幅することもあり、何度も唸り悶えた。
高名な魔術師や、先代の聖女ですらこの痛みを取り除けなかった。むしろその治療を試すたびに失明した瞬間に襲った激痛がジェスターを襲い、四度目の激痛の再発以降はもう治療をやめてしまった。
治療が怖いと思ってしまったからだ。情けなくも、切実な感情が諦めをジェスターに生み出していた。
だから死ぬその瞬間まで体を捕らえて離さない痛みだろうとずっとジェスターは思ってきた。
「私たちだけでは解決どころか前へ進むことすら困難です。あなたの経験と知識はかならず私たちを導いてくれるはずです」
リオンの指がジェスターの瞼を撫でた。
「そして、もう、いいでしょ、《シン》。この人を解放して。この人はあなたの敵ではなかったのよ。この人をずっとそこで見てきたのならもう分かってるはずよ。こんなに強い憎悪を向ける理由はわからないけど、お願いだからもう止めて。ジェスター様は、私たちの敵になる人ではないでしょ?」
事の成り行きを座って見つめていたミオが勢いよく立ち上がって、二人に向かって歩き出そうとするとその向かいに座っているビートが立ち上がり手を差し出すようにして制止した。
「何もしてはいけないですよ。大丈夫ですからどうかそのまま」
「しかし《あれ》は!!」
「なにもしなければ絶対何もしません。あなたが見えている《あれ》はジェスター様を執拗に捕らえているものです。他には目もくれないんです。本来はリオンにしか興味がないんですから。あの執着は理由があってのことですよ、憶測ですが。だから‥‥見守ってくれませんか、そうすれば色々分かるはずですよ」
ミオが胸の上できつく手を握った。
「ミオ、なんだいったい」
「《あれ》は、なに?」
「おい、なんのことだよ」
「見えないの?」
険しい表情のミオとは正反対にセリードとアクレスは訳がわからず互いに困ってミオとそれほど離れていないところにいるリオンとジェスターを見比べている。そんな状況に、言葉を発したのはジェナだった。
「私も見えないわ、それが普通だから安心してね。ミオ様が見えるのは聖女だからじゃないかしら。それよりも‥‥本当になにもしないでただそのままでいてね」
「絶対に、なにもしないで見守ってくれ。それが身の安全を保証してくれる」
「そろそろ来るわよ」
ビートとジェナの顔には明らかに緊張が浮かんでいる。
じっと、ただじっと、リオンを見つめる。
「来て、《シン》。ジェスター様に伝えることがあるんじゃないの?」
リオンは確かにジェスターをまっすぐ見つめている。けれど彼ではない《誰か》に話しかけている。
「理由を教えて。お願い。私は、黒いあなたがどうしてジェスター様たち三人を生かしたのか、知らなきゃならないの。」
空気が揺れた。室内で、風が吹くのとは明らかに違う空気の動き。
震えるような微細な振動のような、とても不可解な空気の揺れに、セリード達は室内を困惑した顔で見渡す。
「教えて《シン》」