二章 * 裏での出来事 《口は災いの‥‥ 2》
ニアはブラインが出ていった後すぐに鍵を閉めた扉に背をもたれるとそのままズルズルと背中を擦り付けながら座り込んだ。
男なんて怖いと思ったことはない。騎士団団長イオタに睨まれたときだってびっくりして一瞬怖いとは思ったがその怖さはすぐに薄れて忘れてしまった。
多分それはニアに対して怒りをぶつけるというより関わるなという拒絶感が先行した態度だったために男が持つ強さや圧というものが出ていなかっただけなのだと、彼女は初めてこの日知ったようだ。
ブラインが見せたのは軽蔑とそれを上回る怒り。
ニアの中に漠然とした不安が生まれる。
特に最後に言っていたことが、ニアから血の気を引かせた。
(あの時、私‥‥)
必死にあの日を思い出す。バノンが部下二人と酒場に入って来た日のことを。
(バノンにバカにされて、ブラインの名前を出して‥‥それから)
酒がだいぶ進んでいて気持ちが大きくなっていた。知りあった女二人と男は金がなきゃダメだと陽気に笑って語っていたとき現れて、確かにニアは自分からちょっかいを出してバノンに冷たい視線を送られてブラインの名前を出していた。知り合った女たちもふざけてバノンをからかって、バノンが呆れて冷笑したことにカチンと来て、というところまではっきり覚えている。
(えっと、それで‥‥何の、話になった?)
バノンに身の丈に合わないものを着けて恥ずかしくないのかと諭すように言われたのをニアは思い出す。それがまた彼女の琴線に触れたのだ。その時身に付けていたのは前日にブラインからもらったサファイアのネックレス。同席している女達が羨ましいと目を輝かせていた。
「名前も出せない男から貢がせたものを自慢して何が楽しいんだよ?」
バノンの部下一人が言った言葉にニアが返した言葉。
「ふふん、そんなこと言ってられなくなるんだから覚えてなさい。これはね」
―――ブラインが王子から働きを認められて貰ったものなのよ。わかる? あんたなんかそのうちブラインの一言で王子から直接クビにされるんだから―――
そこまで思い出せば十分だった。
ニアは立ち上がることが出来ない。
また、ブラインの言葉が頭をよぎる。
「特に王子の名前などだしたら俺は責任は一切取らないからな」
(私‥‥王子って、バノンに‥‥)
微かに震える指を口元に持っていき、一人しかいない自分の部屋で口を多い、息を殺すような呼吸を繰り返す。
どれくらい時間が経っただろう。お尻が冷えて足がこわばり動くのが辛いと気づいてようやく長い時間扉前にへたり込んでいた事を思い出したニアは固まった体に力を込めて立ち上がり、よろめきながらドレッサーに向かうと引き出しを一つ勢いよく引いた。
「‥‥ある」
そこにはブラインから貰った宝飾品が三つと他の男に貢がせた宝飾品が入っている。その引き出しを閉めると今度はその下を再び勢いよく引いた。
「‥‥あるわ」
そこは小遣いとして貰って溜め込んだ金貨が無造作にぎっしり詰まっていた。再びニアは引き出しを押し戻し、身を翻してクローゼットに向かい両手で開け放ちしゃがみこむと奥から箱を引きずり出して蓋をあける。
「‥‥ある、あるわ」
使わなくなった流行遅れのもの、チェーンが切れて使えなくなったもの、石が外れてしまったもの、傷がついたもの、そんな宝飾品と、金貨がつまった小さな袋が数袋入っている。
「これだけあれば」
こんなに頭を使ったのは初めてだとニアが自嘲気味な事を考えている。
王都を出る。
ニアが出した結論だ。
王子についてはいい話は王宮でも聞かなかった。そしてブラインは多くを語らず彼の口からはほとんど情報が入ってくることはなかったが、魔導院の付き合いのある男が言っていたことがある。『王子は出所がわからない金を使っているらしい』と。ブラインが、なぜ王子の名前を出さないのか、ニアが聞いてもはぐらかしてきたのが、ここに来てようやく分かった。
ブラインは知っているのだ、王子は出所のわからない金を持っていることを。そしてそれに関わっていることを。その一部、ごくわずかといってもその金の一部がニアの手元にも。
ブラインの羽振りの良さは有名だ。本人が爵位持ち、その妻が資産家で伯爵家でも彼の財力には敵わない家もあると。
しかしこうなるとニアだって考える。
本当にそれだけなのか? と。
考えて、気がついて、今に至る。
「落ち着くのよ、私。今じゃないわ、そうよ、もう少し様子を見なきゃ。下手に動いて追いかけられたら最悪よ。‥‥考えなきゃ、何処に行こう? 国外?‥‥待って、考えるのよ」
「旦那様。ただいま戻りました」
「ああ、おかえり。いいタイミングだ、久しぶりにエレガムレスの王室御用達の紅茶が手に入ったんだよ、去年は出来が悪いとかで市場にあまり出回らなかったから直接交渉して今年は手に入れたから思う存分飲める。うん、いい香りだ」
レオン・メルティオスは外の冷たい空気を纏って戻ってきた側近に淹れたての熱い紅茶を差し出した。
「ほら、今晩は冷える、まずは一杯」
「ありがたく頂戴いたします」
「おいしいだろ?」
「‥‥はい。さすがは旦那様です、紅茶を淹れることに関しては右に出る者はおりません」
側近がホッと息をついて紅茶を嗜む姿をニコニコしながらレオンが眺める。
側近がカップをテーブルに置くと、それがいつもの合図でレオンは椅子に深く腰かけた。
「‥‥で? あの女についてはあまり期待出来る話はなさそうだけど、一応聞こうかな」
「あのニアという女ですが、ブラインの他にも政経院の議員二人、領有院の副議長の一人、そして魔導院の議員と文官の二人、他に王宮勤めの文官三人と関係がありました」
それを聞いて、面白そうにレオンが笑う。
「ああ、それは既に聞いてる。凄い女だよ、あれだろ? 魔導院議員は百十八歳のウォルト氏。しわがれたあのじいさんまで許容範囲とは恐れ入る」
「はい。‥‥それで、その内の一人ですが、相談を持ちかけられたようです」
「相談?」
「王都から遠く、けれど不便のない、不自由のない都市は何処かと」
「ほう?」
「色々調べているようで、長期の護衛も請け負う人間が登録している紹介所にも顔をだしています」
「おやおや」
「ブラインとは接触が無くなっています。女の部屋を出入りしなくなり、その周辺でも見かけなくなりました」
「ついに、ブラインに見切りをつけたかな?」
「その逆、のようです」
レオンはふふっと息を漏らすように笑う。
「穏やかでないなぁ。あれでブラインも用心深いからニアが他所で軽口叩いたことを知ったのかもしれないな」
「ブラインに注意され関係がギクシャクし始めたと漏らしたそうです、よく行く酒場で話しているのを他の者が確認しています」
「‥‥なんでそこで喋っちゃうんだろう? 変わってるねそのニアって女は」
笑っていたレオンは途端に難しい顔をして首を傾げた。
「んー、どうするかな。金で情報引き出してもいいんだけど、その事も秘匿できないだろうしブラインが重要なことを話してるとも思えないし。でもなぁ‥‥」
「王都を出る際も諜報員を付けますか?」
「‥‥どうするか。王都を出てしまえば追いかける価値はないと思うけど、議員と接点があるうちはまた他所で内緒話を広げてくれるだろうからそこは注意すべきか。ブラインと繋がりがある人物の割り出しに役立つし」
やや難しい顔をしつつ、レオンはうーん、と声を漏らして悩みながらもどことなく神妙さのないいつもの呑気さを醸し出す。
「まさか、ブラインのやつ、殺したりしないかな?」
側近はピクリと眉を反応させた。
「気にするのはそっちかな。王子の名前を出していることを考えると……可能性としてはなきにしもあらず」
「どうなさいますか?」
「やっぱり、監視はつけるか」
「かしこまりました」
「ブラインが雇っている《何でも屋》の正体が分かるかもしれないし。そこはお前たちもまだ掴めていないんだろう?」
「……申し訳ございません」
険しい顔つきで側近は頭を下げたが、レオンは特段気に掛ける様子は見せない。
「責めてるわけじゃない、それに多少なりとも情報は得ているんだろう?確証を得ないまでは話を挙げてこないのはお前の美徳でもあるし信頼の証しでもあるけど、たまにはいいじゃないか?」
「……しかし」
「その躊躇いをみると、厄介なのがからみそうかな?」
側近は下げていた頭をゆっくりと戻し、真っ直ぐレオンに視線を向けた。
「ブラインが雇っている《何でも屋》のリーダーですが、盗賊《疾風のハルク》の一味に同じ名の男が」
レオンの目がパッと見開かれる。
「あのハルクか」
「はい。まだ同一人物かどうかの特定が出来ておりません、他の者にも探らせておりますがなかなか詳細が掴めず」
「仕方ない、盗賊を徹底して排除した時期を潜り抜けて生き延びた奴等だ、相当なやり手だからなぁ。それにしても、ハルクか」
「はい。しかも、現在南部にて本人主導の活動があると確認が取れています」
「あの男、ティルバに戻ったか」
「はい」
「そうか‥‥あの男は金のためならなんでもするからなぁ。関わると事が大きくなる、うん、ニアとブライン、下手に口封じされても困るから監視を強化して」
「かしこまりました」
「ジェスターにも相談してみよう、何だかこの先妙なことになりそうだし」




