三章 * ルブルデン 2
フィオラは特殊な立場だ。
この国でも数人しかいないと言われる膨大な魔力を保有し、極めて精密な操作能力も持ち合わせているため、のちの魔導院最高儀長候補にすでに名を連ねている。
聖女ミオに直接見初められた数少ない魔導師で、いずれはこの国の行く末にさえ影響を及ぼすと言われている。
王宮に入ったときから理由は不明だが自他共に認める騎士嫌いで、それはどの世代にも例外なく、リオンの恋人であるセリードにすら向ける嫌悪は知らない人はいないとも言われている。
そのフィオラが、ジェスター・アルファロスが連れてきた不明な点が多い女の護衛として動いていることは大きな衝撃を与えた。身分のない人物の護衛などをする立場ではないからだ。
そして何より騎士嫌いの彼女は今、マリオと並んで同じ速度で、妊娠しているティナに気遣うような速度で森の中を進んでいるのだ。
「な、なんなのあの子」
「フィオラのこと?」
「騎士嫌いじゃなかった? なのに、マリオと並んで歩いてるじゃないの」
「嫌いよ今でも。でも、マリオのことは認めたというかなんていうか、色々あって共通の使命感を持ってるのよね今。だから並んで歩く位はするらしいわ」
二人の会話をブルーノとグレイが黙って聞きながら後ろを歩く。
「仲がいいわけじゃないわよ? 目的が一緒だから協力してるよの。マリオもフィオラは必ず役に立つって認めてるからね、フィオラはそれを受け入れてるの」
「さっきから気になってるんだが、本気で会いに行くだけなのか。討伐方法を見つけたんじゃないのか?」
「討伐? 冗談よしてよ。あんたたちが手出ししなかったのだって、それが手出ししていいものじゃないって本能で察知したからでしょ? 出来ない出来ない、出来ると豪語するやつは勇敢でも男でもなくただのバカよ」
ティナは軽々しい、人によっては気に障るような笑い声を混ぜ込みながらブルーノの疑問を一蹴する。
「どういうことですか」
「死ぬだけよ、討伐なんて出来ないから」
「え?」
余りにもサラッと、世間話をするようにティナが発した言葉をすぐに飲み込めた者などいなかった。
「さあ、お出ましよ」
マリオとフィオラの足が止まる。突然終わった進行とティナの発言に戸惑いつつも三人もほぼ同時に立ち止まったティナに並ぶようにして歩を止めた。
「あらホントにおっきいわねえ。真っ黒」
ティナが感心したような声で言った。
「え?」
上を見上げた。
三人は剣に手がかけられなかった。
足がすくんで、なにも出来なかった。
息をするのも忘れそうな緊張感だった。
「ごめんなさい、勝手にあなたの領域に入って。会いに来たのよ」
そして衝撃の光景は続く。
フィオラはマリオよりも前に出て一人立ち、上を見上げている。
とても穏やかな声だった。微かな緊張感はあるけれど、それでもその声には攻撃性は全くない。
『ほう、お前が、エールと語りあったという魔導師フィオラか』
低く、這うような声の黒い巨体は恐ろしい異形に変化した虎らしい姿をしている。その漆黒の体をゆっくり動かすと顔を近づけフィオラの顔を間近で覗きこむように体を低くした。
「近い。鼻しか見えないわよ」
『ふはははは!なるほど、なるほど、エールが気に入る訳だ、おもしろい女だ』
「知ってる? それ、女には褒め言葉じゃないのよ、覚えておいてね」
『達者な口だ、大物さな。私が怖くないのか?本当に変わっている』
「怖くない、といえば嘘になるわね。リオンがいないもの。でも、リオンは言ってくれたのよ。私なら必ず分かりあえる、大丈夫って」
『そうか、あれを信じてくれるか』
「ええ、信じてる」
『おまえのような人間が増えたならこの世界も変わるのだがな』
「な、なんなの……」
「なんだよ、これ、魔物だろ?」
「どうなって、いるんだ、ティナ」
「いいから、黙って見ていて」
その会話に黒い巨体が反応した。そしてマリオも。マリオは黒い巨体が顔を三人に向けるとその黒い巨大に背を向けて、剣を抜いた。剣先を黒い巨大ではなく三人に向ける。
「なにもしない、そのまま会話をつづけてくれ。俺たちはそれを見たい。見せてくれ、真実を」
『おもしろいことを言う。そして仲間に剣を向けるか、この私ではなく』
「敵対するためではないさ、ただ、お前に剣を向けるならそれを、阻止するまで。俺はお前を傷つけたりしない」
『なるほど。リオンの唯一無二の守護者からあの石を託されただけのことはある』
「癪に触るがな、悪くはない」
『ふははは、フィオラ、面白いのを連れてきたな?』
「違うわよ、変わってるのよこの夫婦。自分から会いに行くって言い出したんだから。王都近くにいるなら会ってみたいって」
「俺は言ってねえぞ」
「妊婦がね。まさかの妊婦が言い出したの」
そしてティナは自ら前に出た。
「だってあたしだけ見れなかったのよ!! 不公平よ! 妊娠してるだけなのに!!」
「おい待てよ!! なに楽しそうに話してんだよ!! なんだよ!!」
グレイが罵声に近い声を出した瞬間だった。
『黙れ、小賢しい』
「う、あ」
強烈な威圧感に、グレイが言葉を失った。その事に誰よりもグレイ本人が驚いただろう。騎士団団長が、一瞬で抗う心を奪われたのだから。
「黙ってろ、グレイ」
「ほんと、鬱陶しい」
マリオが冷ややかな声で制した。そしてフィオラは不愉快そうに吐き捨てた。
「ごめんね、話をさせてくれるかしら」
『お前なら構わぬさ』
「ありがと、えっと、名前ある?」
『名はコウエンシェン』
「……変わってる」
『古い時代の名前だ。さて、何を話そうか? そこの三人も聞くか? お前たちが信じる信じないに興味はない。そのかわり黙って聞く気がないなら我が糧となるがいい、私はうるさい人間が嫌いだ、弱いくせに吠える人間が特にな』
ルブルデンは過去、王族が隠居先として発展させた経緯がある。
そのため王都の町並みに酷似しており非常に住み良い整備された市である。
広大な森林はここにも広がり、たくさんの動植物が存在する。
もちろん魔物も。
その魔物がこの一年で急激に増えた。
その勢いはティルバの副都とも言われ美しい住み良いこの土地を捨てる住民が後をたたないほどに深刻化している。
数ヵ月前、その存在が間近に迫る危機的状況が発生した。
リオンが王都に入ったときに偶然聞いた魔物による被害。
ルブルデンのすぐそばに位置する町、ガダルー。昼間太陽の射す時間に魔物が町の外れにある畑に侵入し、そこにいた小動物を捕食していた。目撃した人が多かったため、その時は魔物がすぐに去ったがそれ以降頻繁に目撃されている。それはルブルデンが発端だということは間もなくわかったが、倒しても倒しても湧いて出てくる魔物に騎士団が疑問を持ち始めていた。
そもそも、どこからやってくるのか?
そんな疑問が生じた矢先の巨大な黒い存在、そしてルブルデン周辺の徘徊だ。
「もともとあなたはここにいたわけではないでしょ? なぜ、ここに?」
フィオラの問いに、コウエンシェンは彼女の顔をしばらくじっと見てから答えた。
『おまえも会ったか? あの愚か者に。危うく〔オアシス〕をこの闇色にしようとした愚かな男に』
「!! まさか、ハルク?!」
フィオラはハッと詰まらせるような息を吐いて口を手で覆った。マリオとティナの顔も険しなる。
「あいつか? 大陸中を股にかける盗賊集団のリーダーで、お前たちが合流する前に会ったという。」
「……聖獣を、傷つけた盗賊ね」
フィオラは眉間にシワを寄せて髪をかきあげ、目を閉じ天を仰ぐ。
「冗談でしょ、魔物が数を増やしているのはあいつのせいなの? 今度は‥‥いいえ、〔オアシス〕の前に、何したのあいつは」
『この国は聖獣が多い。長年の経験と情報収集で奴はそれに気づいたようでな、至るところに罠を張っているのさ』
「罠ですって?」
『高山菖蒲の香り、フォルサが愛したあの花を利用して、香りをその場にあった方法で漂わせる。それに惹き付けられる聖獣に接触を試みるのを繰り返していたのさ。もちろん、事情も知らぬ他人を聖獣に会えるとそそのかし巻き込んで、自分達では手を下さない』
「くそったれ、なんてことを」
ぼそりと、マリオが呟いた。
『我々はこの世界を自由に行き来する。ほんの偶然さ、〔オアシス〕がこの地でその香りを嗅いだ。そしてあの愚か者の仲間と接触した。上手く言いくるめられた。〔オアシス〕に心を開かせ体に触れることを許し、そして目を抉った』
「いつから? あの男はいつからそんなことを」
『この世界でここ数年、もっとも、かなり前から色々試しているようだがな』
「ここ数年って、魔物が急激な速さで異常に増えた時期と重なるんじゃないの?」
ティナが額に手をあてがい項垂れる。
「もしかして、ほかにも、傷つけられた聖獣がいる?」
『別の地に。あの愚か者の仲間だけではなく、他にも聖獣を金になると思う人間が多いことは忘れるな』
「いるのね。なんてこと……リオンが知ったらどんなにショックを」
フィオラは顔を手で覆う。
「その、聖獣は、どうしてるの?」
『闇色に。聖域に帰れず、憎しみだけを募らせさ迷っている。〔オアシス〕と違いもはや聖域には扉が修復されなければ戻れないほどの穢れを溜め込んだ』
「何を、失ったの? その子は、なにを」
『ほとんどない。だが爪を奪い取ろうとしたらしく、足元を切りつけられ毛をむしられた。〔トパーズ〕は気性が激しい、己では憎悪を押さえ込めず自ら完全な闇色に。自我はほとんど憎悪に売り渡した、私やエールのようにはいかないぞ、たとえお前であってもな。〔トパーズ〕を静められるのはリオンのみ。救いは人の手の及ばぬ地下深くにある洞窟で、今は眠りについているということだろう。そう簡単には目覚めないが……いずれ目覚めたとき、その憎悪も共に目覚める』