三章 * 熱帯夜 2
思いきって怒ってみたら案外セリードの反応が良くてリオンはホッとして、ムッとした顔をすぐに崩して笑う。
誤魔化せるなら誤魔化してしまえ、少し投げやりな気持ちの整理でも、今のリオンには必要なことなのかもしれない。
「結構近くにいたかもしれないんですね? 私イエント出身ですからジェスター様と会ってたりして?」
「オレと会ってるかもよ。騎士団に入る前まであの辺はずいぶん行ったし」
「えっそうなんですか?!」
話が軽やかに弾み出す。自然に二人で笑ったり怒ったりふざけたりする時間に夢中になって、気づけば坂を下りきり、漁村手前まできていたことに二人でびっくりしてやっぱり笑う。
「民家も多いから静かにしないといけないけど散歩して帰ろう」
「やった」
両手を上げて喜ぶリオンを笑いつつ嬉しそうにセリードも肩の力を抜くように腕を数回軽く回した。
そこは入江になっていて、船がいくつか並ぶ小さな小さな港がある。港といってもすぐ横は砂浜があり、そこにも小さい船が並んでいる。
白い砂と打ち寄せる波を前にするとセリードが靴を脱ぎそれを砂のうえに並べて置く。
「裸足になってみたら?」
セリードはひとりスタスタと波間に立つと振り向いて手招きをしてきた。初めての砂浜をいきなり裸足で? と、疑問を投げ掛けてくるリオンの表情にセリードは気安く微笑み手招きする。
「さすがに今の季節はちょっと冷たいけど、気持ちいいよ」
応えるように意を決して、セリードの靴の隣に靴を並べて、砂の上を歩き出したものの初めての海に若干躊躇して波が届かないギリギリの所でリオンが立ち止まる。
「怖くないよ、川とかと一緒」
そして、波が打ち寄せる、足首にも満たない海水が届く所にリオンは仁王立ち。
「……うーん」
「ほら、大丈夫だろ?今年はいつもより気温が高いらしい、おかげで水温も足くらいは平気だ」
「……」
「波も穏やかだから安全そうだし」
「あの」
「ん?」
「足……。砂が、波が引く瞬間サーって。これ、気持ち悪い……」
「あぁ、そう?」
吹き出すように、けれど声を押さえてセリードが笑う。リオンは妙な顔つきで足元をじっと睨むようにして見ている。
「慣れるしかないね」
「慣れますかね? これ」
「たぶん」
この状況、少しはロマンチックな展開になるだろうかなんて仄かな期待を彼はしていたが、そこはリオンである。思ったことが口に出やすいし顔にも出やすいし、なにより自然体の彼女は面白くて、やはり一緒にいると楽しくなる。
(しばらくはこういう関係も、悪くないのかもしれない)
「で? 今帰ってきたと」
「うん」
「セリード様って」
「うん?」
「仕事関連以外の女と二人きりにならないの知ってる?」
「うん。私仕事」
「違うから、そういう意味じゃないから」
「どんな意味よ」
「そもそも女と散歩なんてあの人しないんだけど?」
リオンは寝間着に着替えベッドに入ろうとしていた体をピタリと止めて振り向く。そこにはベッドに腰かけて真顔のフィオラ。
「過去に付き合ってた女ともしてないよ。そういうことすると気を許したことになるからすぐさま結婚か? って騒がれるみたい。立場が立場だからね、結構神経質にその辺堅く守ってたよ今までは。……でも、リオンには許してるんだね。セリード様の態度はそうなんだろうなって思わせることは何度もあったから驚きはないんだけど……」
リオンはベッドに腰かけて真顔のフィオラの前でうつむき加減になり手を見つめる。その顔には笑顔も照れもない。
「なにか、あった? 戻って来たときから様子おかしかったし」
少し心配そうに顔を覗き込こまれ、リオンは首を横に振り微笑をうかべた。
「なにもないよ。ただ、ね。……言われたの、どうしていいかわからなくて」
「何を……言われたのよ?」
ほんの少しの嘘をつく。
言われたことを正直に話す。
でも、されたこと、は言わない。
帰り際、引き止められた。
手を握られておどろいて振り向いた。
握られた手はそのまま彼の口元に持っていかれて、手のひらに彼の唇が触れた。
あまりの衝撃に体が震えそうになって、動けなくなった。
真っ直ぐ見つめられたまま今度は彼の頬を包むように手を動かされた。
彼の指が、爪をなでた。
「明日の夜、また会えるかな。二人で」
「……それで? なんて返したの?」
「なんか、断れなくて。はいって答えるしかできなかった……」
「まぁ、そうよね。……嫌なの?」
「嫌じゃないよ。嫌だったら二人きりになったりしないでしょ」
苦笑いを浮かべリオンはそのまま後ろに倒れ目を閉じた。
「でも、どうしていいかわからない」
「嫌じゃないけど、嬉しそうじゃないね? どうして?」
「こういう経験全然ないから。それと……今の私にはよそ見をしてる暇はない気がして。きっと気持ちがそれて、見落としちゃいけないことを見落としたり、忘れちゃいけないものを忘れたりする。自分のことを過信してるわけじゃないの、でも私には私にしか出来ないことがあるのが事実だから。必死でそれを何とかしようとする未熟すぎる私が、今悩むことじゃないと思っちゃうのよ……」
「リオン……」
「だから、今セリード様がちょっとだけ怖いかな……私の、そういう迷いを簡単に払いのけてきそうで。セリード様の本心が分からないのにそれは困る。……だからって、あからさまに避けたりして、嫌われたくもないのよね、難しいよね、本当に」
男と女の意識をしてこなかったわけではない。
今まではそんな気分になれないことが多かったし、そんなことを考える暇があまりなかったからだ。
けれど今日、セリードが変化を見せた。帰り道、途中までは今までと変わらなかったのに、些細なことが引き金になった。
「あ」
パチンっという音と共にリオンの髪を束ねていた髪留めが外れる。それをセリードが拾ってリオンは髪を押さえながら手を出した。
「ありがとうございます」
「壊れた?」
「んー、だと思います。最初からうまく金具がはまらなくて。昨日買ったばっかりなのに」
何故かセリードはそれをリオンに渡さない。
「そのまま降ろしてれば?」
「暑くて。普段からまとめてることが多いからここは特に辛いんです」
「何か結べるものがあればいいんだけど」
「あ、これがあるので。フィオラに言われて待ってて良かった」
リオンは腰に巻いていた薄いスカーフを外した。ポケットのない服の時に巻いておくと、日差しを避けたりタオルがわりになるので南方では重宝すると教えられていた。それで髪を束ねようとした時。
「貸して、やってあげるから」
さりげなく、落ち着いた声で言われたせいだろうか、リオンは一瞬の迷いはあったけれどそれを厚意として受け止めることにした。彼の気さくで優しい性格ゆえの女性への配慮なのだと。
「……えっと、ありがとうございます」
「うん」
顔は見れない。後ろから彼の手だけを感じた。髪の毛をまとめるときに首に触れる指先に緊張し、恥ずかしくて、お願いしたことをすぐに後悔した。
「リオン」
「あ、はい?」
「オレ以外の男にこんな風に触らせないでくれるかな?」
「え?」
「好意があると、勘違いさせるから」
「あの」
「はい、終わったよ」
「あ、ありがとうございます」
「いい? 約束だ。オレだけだよ」
どう答えたら正しいのかわからなかった。けれど否定する理由はなかった。
「は、い。……分かりました」
それが正しい返事なのか分からない。それでも無視することは出来なかった。
振り向くことも出来ず、返事をした瞬間スッと後ろからセリードは前に出て歩き出した。
「行こう、明日も忙しいからお互い休まないと大変だ」
そして、立ち止まり振り向いてリオンに手を差し出した。
「帰ろう」
リオンは数秒動かなかった。手を戻してくれるのを待った。セリードは、戻さず改めて手をわずかに揺らして催促した。
「リオン」
躊躇いがちに、リオンは手を伸ばす。指先が触れた瞬間、その手をグッと強く握ったセリードはそのまま歩き出した。
セリードはなにも話さない。
ただ、リオンは少し前を歩く彼がリオンに合わせて歩いてくれること、繋ぐ手が熱くてしっとりとしているのが恥ずかしこと、いつも隣や正面ばかりでこんな風に背中だけを見たことがないこと、色んな感情と思考が入り交じり、リオンも何を話せばいいのかわからなくて、結局二人は明日の夜の約束をするまで、何も話さなかった。
手を繋ぐという行為に、どれだけの意味があるのか、リオンには考える余裕などなかった。
この肌に『触れる』ことを許すことが、セリードの心をどれだけ傾けたのか、リオンには分からなかった。