三章 * 熱帯夜 1
長らく作者を悩ませていた幕がようやく掲載できました。
ティルバでも北側の、冬は雪に覆われ閉塞的になる地域で暮らしてきたリオンにとって、季節にさほど変化のない南方の夜は苦手だ。
もちろん今まで住んでいた北にも夏の夜の寝苦しさは時々あったけれど、期間は短く毎年数日あるかないかというところだった。
湿度が高くて、慣れない。
(疲れた……。これでも過ごしやすいって言ってたけど、簡単には慣れないよねぇ)
先日体調不良を起こしたことへの周りの厚意で、宿では休まらないからとフィオラと二人で宿の主の自宅に寝泊まりさせてもらっている。
風通しの良い造りは初日から感じた宿の寝苦しさとは比べ物にならない快適な空間で、ベッドも通気性が良いものだし、フィオラと共にハンモックも使ってみたりと実に楽しんで夜を迎えていた。
(あ、昨日より過ごしやすいかも)
町の復興はそれほど時間はかからないし、魔物も一気に減って落ち着きを取り戻せてよかったと考えながら、庭にあるブランコに体を任せ揺らて昨日よりわずかではあるが気温が下がったのを感じて今日は寝れそうだとホッとしている。
(……え?)
ブランコの揺れに任せた体を足で止め、そろそろ部屋に戻ろうと立ち上がり向いた方角に宿がある。開け放たれた窓が多い。所々ランプの光が仄かに漏れる。一階の食堂はまだ人がいておしゃべりを楽しんでいる人もいる。全体を見渡した。セリードやジル達が泊まっている部屋があるあたりで目が釘付けになった。
窓辺に立ち、窓枠に手をかけこちらを見ているセリードだった。いつから見ていたのかわからないが、確実にその視線は自分に向けられていることをリオンは気づいて、動けない。
(どうしよう?……目が、合ってるよねこれって)
気づかぬふりで立ち去れるならそうしたかった。リオンはこの頃セリードのことになると、鼓動が速くなるしこういう時は特に頬や耳が熱を帯びることを自覚した。なるべくそんな状況を作るべきではないと自重しているつもりだが、これはどうしたらいいだろうとまた頬が熱くなる。
この熱が起こると、冷静な判断力というものが僅かに不安定になり、欠如しやすいと、リオンはまだ自覚はないかもしれない。
気づかないふり?
でも、嫌われたくない。
葛藤は意外と早く答えを出す。胸のあたりまで手を上げて手を小さく振ってみた。
(ん? どういうこと?)
窓辺のセリードの体が背を向けて部屋に消えたのだ。
(え? まさか? 来るの?! うそ!!)
リオンの謎の行動が始まった。足早にうろうろ歩き回りピタリと止まる。それを何度も繰り返す。髪をまとめていた髪留めを外して慌てて手で髪をすいて、まとめ直す。いつものひっつめ頭ではないことがなんとなく恥ずかしくて必要以上に手で髪を撫でてしまう。
こんなこと、意識する性格じゃなかったのになぁ……。
そんな自嘲気味な心の呟きも、この男の姿を見るだけで吹き飛んでしまう。
「眠れない?」
リオンの足が止まった。店主の家と宿を繋ぐ小路から、セリードがゆっくりとした歩調で姿を現した。
こういう、穏やかで優しい、少し無防備に見える笑顔をすることは珍しい。この顔を見るとリオンは途端に鼓動が速くなり、落ち着かなくなる。それでもそれを隠して押さえて、同じように笑って見せる。
「少しだけ。目が覚めてしまってるので気分転換です」
「そうか」
落ち着いた会話とは裏腹に、リオンの心の中は騒がしい。
「あんなことがあったのに、もうこんなににぎやかなんですね」
少々驚き呆気に取られるリオンの隣を歩きながらセリードは面白そうに笑う。
「元気だよな、商売人って。めげない」
「集まる人もすごいですよ」
大通りから聞こえる酒場や入浴場付近の人の多さと声を離れたところから見聞きして、二人は通りすぎる。
「でもよかったですね?」
「うん?」
「店主さんも喜んでましたよ、復興に専念できるって。魔物がいなくなったわけじゃないけど騎士団がいてくれるから安心して立て直しに集中できるって」
「その騎士団が睨み合ってるからオレはそれを眺めて楽しませて貰ってるけどね」
「……面白いですか?」
「うちの騎士団関係ないから。オレ一人だしね」
「ああ、なるほど……なるほど? でいいんですか?」
ははっと二人で軽やかに笑い真っ直ぐ道を進んでゆく。
「ところでどこに向かってるんですか?」
「リオン、前に見たことないって言ってたのずっと気になってて。昨日南地区を巡回してるときに近道を見つけておいた」
「?」
「まあ、お楽しみ」
微かな緊張を保ちながらリオンはセリードと会話をしながら夜の散歩を楽しむ。とても緩やかな上り坂を十分程進むと至るところに茂る南方の木々の向こう側が開けていることに気がついた。そこから先は平坦な道。さらに十分は歩いただろう、しっとりと肌に汗を感じる。
「あ、これ……」
「海、初めてだろう?」
坂を登り切って前方に広がる平坦な景色が終わった途端。闇夜の中に別の景色が広がる。暗闇のなか月明かりを反射させ、陸地との境界線がはっきりわかる。
「そこが漁村。昼間みんな働いてるから見にこれないだろ?暗いけど今日は満月で明るいからよく見えると思って」
「海……」
水平線が、月の明かりでうっすらと見える。暗闇のなかにどこまでも広がるその線をぽかん、とした顔でリオンは眺めている。セリードはそれを面白がることなく、一緒に黙って見つめている。
感動しているのか、単に眺めているのか分からないのにそれでもセリードは何も問わずにリオンの言葉を待った。
「行ってみたい、かも……」
「海に?」
ぽつりと、小さく呟いたリオンに問いかけると彼女は頷いた。
「昼間は青くて透明で、夜とは違う景色になる。綺麗だよ。ずっと右の海岸線は白い砂浜になってたな、行こうか。せっかくだし」
不思議な気分になった。リオンはさっきの緊張感が薄れて、だだぼんやりと海を眺めていたくなった。もしかすると慣れない環境で疲れていたのかもしれない。町や宿の賑やかさが夜の眠りを浅くしていたのかもしれない。人の気配が薄れたそこは、リオンに一時の穏やかさをもたらした。
「いつか、ゆっくりと海岸線をたどってみても楽しいかな……」
「連れてくよ」
ぼんやりとしていた頭が一気に覚醒する。
「落ち着いたら一緒に行こう。色々なところを見せてあげたい」
どういう返事をしていいのか分からず、言葉が見つからず、リオンは沈黙を選択するしかなかった。頬と耳がまた一気にひどく熱を帯びたことを知られたくなくて、顔を見られたくなくて、リオンは海に向かって続く坂を歩き下り始める。
「セリード様は」
「うん?」
「今まで行った所で一番好きな場所はどこですか?」
後ろからついてくる足音がすぐに隣に並んだ。
その隣を見ることが出来なくてリオンは真っ直ぐ海を見つめ続ける。
「好きな場所、か。オレはまだ遠征に行った回数が少ないから……うちの領地のある湖が一番好きかな」
「湖ですか?」
「聖獣がいるかもしれないような森に囲まれてる、王都の真北でアントラット連峰にかかる少し標高もあるところだから小さな村が三つあるくらい。実は父がシンと遭遇したあの町に馬で一日あれば行ける」
「ほんとうに?」
「父が回復してからあの出来事を調べたくて静養ってことにして半年いたんだ。その時から色々な整備をして一番近い町にも行きやすくなったんだけどね、それでも森と湖はそのままに。綺麗な湖だよ、私有地みたいなものだから村人が魚を取りにきたりするくらいで人もいない。とても静かな、ところだ」
「寒いところですよね? 平気ですか?」
「全然平気。将来オレはどうせあの家を出ていく立場だから、そこに移ってもいいかなと思ってる。一緒に来る?」
リオンの足がピタリと止まる。
「セリード様さっきからすっごい軽々しく言ってませんか?!」
「あはは」
鼓動が速まるのをひた隠す。
顔が火照るのは隠せない。
そうだ、この気候のせいにすればいい。
今夜、寝れるだろうか。
寝具るしさではなく、この人の一語一句に翻弄されることで心がざわついて寝れないんだ、とリオンは心の中で苦笑した。
ビスに来てから、少し変だ。
心の浮き沈みが激しい。
リオンは確かに自分をもて余していた。