三章 * 暖かな冬、夜は 2
にわか雨が降った。
どしゃ降りでびっくりするリオンにこんなものだよと市民が面白おかしく言った。
慣れているからと濡れるのも平気で歩く人もいてますます驚くリオンの隣、セリードが腕を組んで柱に寄りかかった。
「ま、オレたちはのんびり待とうよ」
「賛成です」
この日は、市の東側にある畑や古い昔の住居跡も残る、鬱蒼と草木が茂る中にポツンとある空き地に新しい魔物らしき足跡があるから確認してほしいという、早朝の巡回を終えた守護隊からの要請でリオンとセリードは二人で確認に行った。
魔物のものではあるけれど、土地を荒らしたりした形跡がないことから、先日の緊迫するような状況を伺わせるものではなく、徘徊してビスの様子を監視する知能がある魔物の行動で、こちらから手を出すことがなければ決して害をなすことはないとリオンが断言した。同行した守護隊も安堵しながら念のため見回りを少し増やす、といった内容の会話をしながらの帰り道で降りだした雨で、守護隊の男たちは気にせず雨の中を帰っていった。
セリードも気にすることはないから濡れてもよかったのだろうが、リオンが直ぐに晴れるなら雨宿りをすると一人、乗り合い馬車の待合所に入ってしまった。乗り合い馬車はここに駆け込む前に、雨が降りだす前に丁度すれちがっているから当分来ないと分かっていたので、セリードとしては別に寒くもないこの気候なら濡れて帰るのも面白ろそうだなぁ、なんて呑気な事を考えた。
だから、面白半分で提案したのだが。
「んー、面白そうですけど、遠慮します。今日は、ちょっと、その、諸事情がありまして濡れるのは抵抗がありますね」
(オレとしたことが)
セリードは反省する。
リオンはここに来てから薄着だ。周りがそうするように当然だ、暑いのだから。
そして気づいた。いつもなら日除けのためにこの地方で女性が使う大きめのストールをリオンも持っているのだが、今日は森の中まで見に行くかもしれないからとストールではなく帽子を被っている。
多分みんなが口に出さずに思っていること。胸元の膨らみは、とても豊かだと。
おそらく隠しているのはなんとなくわかっていたが、改めてこういう時気がつくもので、意識してつい目がいってしまった。屈んだときに不意に微かに覗けてしまった胸元はきっちりと何かで押さえらているようだが、そこから隠しきれない豊かさが見てとれた。
どしゃ降りの雨、ストールのない彼女が歩いたらどうなるか。
リオンの言葉では煮え切らない、けれどはっきりとした態度で雨の中を歩くことへの強い抵抗を察してセリードは納得と共に、自分に沸き上がる妙に熱っぽい感情に動揺する。
(ガキじゃあるまいし、今さら胸の谷間みたくらいで動揺とかあり得ない、情けないな)
濡れたらきっと隠しきれないその豊かさが目に焼き付くだろうと想像した瞬間、性欲というものが目を覚まして焦った。一度想像してしまうと情けないもので、止められないその想像力は膨らむ一方だ。
(辛いなぁ、こういう経験ないから)
本気で好きになった初めての女。
その女の体を想像することがこんなにも自分の理性を簡単に崩すのかとセリードは動揺してしまって、誤魔化し方なんて今まで考えたことがなくて、頭を掻くしかなかった。
経験豊富な自分がまさか思春期の健全な少年のような好奇心や羞恥心、自尊心などあらゆるものが入り乱れた扱いに困る感情に支配されるとは思わず、自分で自分に呆れる始末だ。
「大丈夫ですか?」
「ん?なにが?」
「頭をずっと掻いてるから」
「ああ、うん、大丈夫」
「あせもでも出たんですかね?」
「ん?どうかな、そうかな」
「……え? どういうことです?」
「ん?」
「ものすごい困った顔が出てますけど、かゆいだけでそんなに?」
「心の顔見るのやめてくれる?」
「見えちゃうんですよ、しかたないじゃないですか」
「ああ、そうだった……」
どうしていいのか分からず、セリードはため息をついてしまった。きっと、リオンが見ることが出来る心の顔だけでなく実際表にも出ていたに違いない。彼の『面倒だな』と思ったことが。リオンは少しだけ笑って急に待合室を飛び出した。
「あ、おい!? リオン?!」
「なんか、一人になりたいみたいですねセリード様。先に帰ります」
「違うったら!!」
「わっ!?」
二人で水しぶきを上げて走った足元はずぶ濡れになった。続くどしゃ降りでみるみるうちに濡れていく二人の服と体。後ろから引き留められて強引に引き寄せられて腰を抱えられたリオンはふわりと体が浮き、驚きで一瞬声がでなくなってしまった。
「ああっクソッ、こんなつもりじやなかったんだよ」
ぶっきらぼうで怒っているようななげやりな言い方が新鮮で、腰を抱えられながらもリオンは振り向く。
「あ、あの……」
「オレがリオンを邪魔に思うわけがないだろう、いい加減それくらいはわかってくれ」
リオンは間近で初めて『男』のセリードをみた気がした。目の奥に何か込み上げるものが見えそうになって、それを見てはいけない気がしてぱっと顔を反らす。
「す、すみません。なんか、その、不機嫌そうだったから……」
「リオンに対してじゃないよ、オレ自身のことだから気にする必要はない」
「でも、濡れてもよかったと思ってましたよね? 私に合わせてくれてここで、雨宿りすることになっちゃったし。面倒だと思いましたよね?」
「そうだよ、だから自分に怒った。リオンが濡れるの躊躇ったことにすぐに気づいてやれなくて」
「え?」
「嫌なんだろう? 濡れたら体の線が出る」
リオンの顔が一瞬で赤くなって、後ろから抱えているセリードでもわかるくらい耳まで直ぐに反応していた。
どしゃ降りのせいで、あっという間に頭から水が流れ落ちてゆく。どうしていいか分からず動けず何も言わないリオンを抱えたまま、セリードは再び待合室に戻るとようやくリオンを下ろして正面に立たせた。リオンはうつ向いて直ぐに腕を組むような仕草をした。
(うわ、まずいな)
セリードは顔を反らしてグッと唇を噛む。
雨水が、流れ落ちリオンの唇を伝ったのを見た瞬間に熱でうなされた彼女に薬を、水を口移しで飲ませたことを鮮明に思い出した。
熱くて艶やかで柔らかな唇を思い出す。水で濡れた唇を何度も塞いだことを思い出す。あの時は性的欲求なんて不思議となかった。ただ、彼女に楽になってほしい、それだけだった。フィオラにも言ったように、苦しむ彼女にどうこうする気なんて本当になかったのだから。
でも今その思いは勝手に変換されて、男としての衝動に突き動かされそうになる。
その体を抱き締めたい。
唇を重ねて彼女を感じたい。
この体は唇のように柔らかいのだろうか? 滑らかで、艶やかだろうか?
抑えの効かないひどい妄想が始まる前に、理性を奮い立たせてセリードは大人の男を演じきる。
「これ着て」
セリードは騎士団団長の夏用の上着を脱ぐと、それをリオンの後ろにまわして肩からかけてあげた。
「え? あの」
「オレも男だから目のやり場に困る。着て。びしょ濡れだけど。お互い気まずくなるのは避けたいところだ」
「……ありがとう、ございます」
セリードの気持ちなど知らないリオン。服の大きさに男の感じてしまって、顔があげられない。包み込まれるような、彼の体の大きさを感じてしまった。その時に顔には何とも言えない恥ずかしさが滲む女の表情が滲んでいて、それを見てしまったセリードが
(理性を奮い立たせてるオレ、えらい)
と切ない遠い目をしたことなど知るよしもない。
リオンに上着を掛けてから、着ている意味をなさないずぶ濡れになった半袖の下着もセリードは躊躇わず脱いだので、ますます顔があげられなくてただひたすらリオンは足下を見つめる。
彼は脱いだ下着の水を絞ると、よくここまで一気に濡れるものだと笑って独り言をつぶやく。
「さて、行くか」
「え?!」
リオンが顔を上げた。
そこには笑顔のセリードがいた。
「ここまで濡れたら待とうが行こうが一緒だろう? こうなったら何事も経験、楽しみながら帰ろう。どしゃ降りの中、歩いたことなんてないだろう?」
上半身裸のセリードは髪をかきあげて笑った。
引き締まったしなやかでたくましい体が濡れていて、そして、かきあげられたいつもと違う髪型に、少年のようないたずらっ子の笑顔。
胸が締め付けられるほどトキメキを感じて、濡れた体が湯気を出してしまいそうなほどの高揚感に襲われて、リオンは体に表現しがたい感覚が走ったことに気がついた。
(うわ、なによこれ)
もて余す感情。
反則だ、こんな時に無邪気に笑うなんて。
エセ臭い、腹黒い笑顔で良からぬ事を考えている顔をしてくれたらどんなに楽か。
リオンでもそんな事気にするのかと笑い飛ばしてくれたらどんなに楽か。
自分に向けられる真摯な態度と、無防備な素顔を一度に見せられ抑えていたものが簡単に引きずり出されて、心臓がうるさく強く脈を打つ。
「……セリード様、今エセ臭い笑い出来ます?」
「は?」
「今無性にあの腹黒い何考えてるかわからないヤバい目のセリード様に会いたいんですが」
「ちょっと、待て。それ一回確認をしようと思ってはいた、エセ臭いってなんだ?!」
「ほら、セリード様って黒い時あるでしょ? あの顔のセリード様見ると、ああ、セリード様だなって安心するというか」
「待て待て待て。おかしい、リオンの目に写ってるオレがひどくおかしい!」
「正常ですよ、私の目は。視力いいです」
「違う! そうじゃなくて! オレの評価が非常におかしい!」
「おかしくないですよ! まともな人があんな腹黒い笑顔なんてしませんからね!」
「オレ、リオンにそう言われるようなことをした覚えがないぞ?! 最近も結構ひどいこと言われた記憶あるし!」
「ひどいことなんて言ってません! 正直な感想です!」
「はぁ?!だからそれがひどいってことなんだが?!」
「それはセリード様が悪いんですよ!!」
どしゃ降りで、恐ろしくどうでもいい話でちょっと揉めてる二人の声と男と女の少しばかり稚拙な感情はかき消されることになった。