黒の王子
偉大な王国の辺境部。小さな村の近くに在る深い森の中に、1つの黒い沼があった。
瘴気を放つ黒い沼には、黒の王子と呼ばれる魔物が住んでいた。
黒の王子は、そこにいるだけで黒い沼を広げる力を持っていた。小さな村は、沼の瘴気ですっかりさびれてしまっていた。
「このままではいけない。」
白い王都の白くて大きな教会の中で、白い教皇が重々しく言った。
「沼が広がり続ければ、やがてこの国は全て黒く染まってしまう。」
「であれば教皇、沼を火で焼いてしまってはどうですか?」
赤と黒の服を着こんだ女道化が肩をすくめて言った。
「黒の王子に気取られぬよう、黒い服を着た者を黒の王子のもとへ送るのです。」
「しかし、王子がそれに乗るかな?」
「何、彼の者の父にして、偉大なる魔王、黒の王の使いといえば信じましょう。何せ黒の王子といえば、月のない夜に黒の王を想って泣いているので有名です。」
「そんなことは初めて聞いたぞ、女道化よ。」
不信を隠さぬ教皇に、女道化はおどけて答えた。
「かつて黒の王妃が王国にとらわれたことがあるのですよ、猊下。」
女道化は片目を閉じ、口角を吊り上げた。
「仮にも、黒の王の血族がそんなに簡単にとらえられるものか!」
「まぁまぁ、猊下。話は最後までお聞きください。黒の王妃は呪われていたのです。夜には一歩も動けなくなる、という呪いにね。」
「…なるほど。その目に嘘は感じられぬな。信じよう。…では、女道化よ。誰が黒の王子に会いに行くのだ?」
白い帽子を太陽に光らし、教皇は女道化に問いかけた。
「無論、私が向かいましょう。この私は、魔物の言葉を話せますゆえに。」
女道化は不敵に笑った。
「邪悪なる黒の王子、見事に我が手で静めて見せましょう。」
邪悪なものを秘めた笑みだった。
かくして、女道化は黒い老婆に化け、小さな村へと向かった。怪物的な黒の王子は、沼からは出てこれないのだった。喜び迎える村人たちに、道化は指を振って言った。
「まずは隠れて様子を見ようぞ。なに、私一人で十分ですじゃ。」
村人は頷き、女道化を残して村に消えた。ただ一人、女道化の正体を見抜き、心奪われた若者を残して。
「貴女を一人にはできない。僕の力は小さいけれど、必ず貴女を守って見せる!」
気炎を上げる若者を、女道化は細い目で見た後、小さくため息をついた。
「一人であればいいだろう。しかし、これから先のことは他言無用でなければならぬぞ。」
頷く若者を連れ、女道化は森の奥、大いなる黒の沼へと向かった。不思議なことに、女道化の周りには、黒い瘴気が寄ってこないのだった。
「これなら黒の王子とも戦える!」
拳を突き上げる若者。しかし、その若者の前で、森が一気に開けた。
「お前たちは…なんだ…。」
そこには、漆黒の体の巨人が立っていた。その姿は醜くねじれ、二目とみられぬものだった。
「…漸く、会えたな。」
女道化は言った。
「随分と、酷い怪我をしてきたのだな。」
震える声を抑えきれぬようだった。
「お前は…なんだ…。」
黒の王子は問いかけた。女道化は答えず、老人の服と仮面を脱ぎ捨てた。
――そこには、美しい黒髪と、漆黒の体を持つ魔人が立っていた。その姿は、まるで黒曜石を丹念に削って作り上げた聖母像にも見えた。
「…お前は?」
「私は、黒の王女。…お前の、いや、貴方の妹です!」
黒の王子は面食らった様子だった。
「私の母は呪いにより、王国に捕らわれて死を迎えました。ですが死に際に、お兄様のことを私に教えてくださったのです!」
「俺が…兄…?」
「もういいのです、お兄様。私と共に、静かに暮らしましょう! 沼を広げ、いたずらに戦いを招くことはありません!」
黒の王子はたじろいだ。その表情がわかりにくい顔に、はっきりと困惑が浮かんでいた。
「だが、お前のその横の男は何だ。俺を倒しに来たのではないのか?」
黒の王女は若者を見た。すがるような目つきだった。
「いいえ…いいえ、違います!私は、貴方の妹に仕えるもの…黒の騎士を目指すものです!」
若者は叫んだ。
「黒の王子、私からもお願いいたします。どうか、お引き願います!」
いまや、黒の王子の目からは、はっきりと温和な光が放たれていた。
「わかった。ともに、行こう。」
黒の王子は大きくうなずき、大きな腕で空間を引き裂いた。
以後、若者と女道化、そして黒の王子を見た者はいない。黒い沼も、いつの間にか消えていた。
そして、村は繁栄を取り戻したのだった。