ユリの秘密
三日目は何事もなく過ぎた。
四日目の朝、三回目のアラームで目が覚めた。一回目も二回目のアラームでも起きられなかった。
以前と同じ会社とは言え、営業所が変わり職場環境に慣れていないせいで疲れ気味だった様だ。少し体が重い。洗顔と、うがいを済ませて朝食の膳を取りに行く。
スミコさんがいつもと変わらぬ笑顔で膳を渡してくれる。温かいご飯は美味しい。温かいと言う贅沢だ。
もしアパートで一人暮らしだったら、慌てて朝食を用意して、急いでかき込むか、最悪朝食抜きになるだろう。昼用の弁当は作れない。下宿にして良かったと改めて思った。
出勤の準備を済ませ玄関に行くと、スミコさんに呼び止められた。
「今日は、町内の寄り合いで、私もお父さんも出かけてしまうから、夕食の準備は茶の間に用意しておきますね」
これは鈴木部長が言っていた寄り合いのことかな、と思った。
「わかりました。事前に知らせて頂きありがとうございます」と言ったら、スミコさんは少し安心した顔をして、見送ってくれた。
夕食を用意して貰えるなら、問題ない。「今日は外で済ませて来い」と言われてもそれまでだ。
仕事は相変わらずだった。頑張り過ぎない様にと思っていたのに、五日目にして、藤原より私の方が三倍はサクサク動いている。周りの社員にも、慣れていると認識された様で、新入社員扱いされずに仕事が回って来る。慣れていると認識されることはありがたいのだが、藤原の機嫌がイマイチなのがちょっと気に掛かる。藤原は、仕事の要領は悪いが、自分より仕事ができる後輩を目の敵にする面倒な人だ。思わずため息が出た。
今日やらなければならないことだけ済ませたら、今日も速効で帰る事にした。
今日は、寄り道せずにカトウ家に帰った。
スミコさんたちは寄り合いに行っているのだ。
玄関の鍵を持っていない事に気がついた。下宿人だから当然なのだが、鍵の事はスミコさんは何も言っていなかった。私は締め出しされてしまったのだろうか……どうしよう……。このまま、カトウ夫妻が帰るまで車の中で待つのは、お腹も減っているし、仕事の疲れもあるし、辛い。
ダメ元でインターホンを押してみた。
「はい」と応答があった。いつもの「お風呂空きました」と同じ声だった。娘さんだろう。
「ただいま帰りました」と言ったら、玄関のカギが開く音がした。
娘さん……先日洗面所で会った女性が「お帰りなさい」と言った。
さらに「弁当箱洗いますよ」と言った。
「ありがとうございます」と言って弁当箱を渡したら、受け取るなりすぐに、女性は逃げる様にキッチンへ走って行った。
私は、逃げるように走って行った姿を見て、少し驚いたが、気にしていないふりをして下宿部屋に行き、部屋着に着替え、茶の間へ夕食の膳を受け取りに行った。
茶の間のテーブルの膳の上に、大きな皿とスプーンが用意されていた。スミコさんが書いたと思われる手紙が置いてあった。
『おかえりなさい。今夜はカレーなので、キッチンで装って沢山食べてください。冷蔵庫にサラダとコーヒーゼリーが冷えています』
文面から、スミコさんの優しさを感じた。皿を持って、キッチンで炊飯器からご飯を装って、ご飯にルーを掛けた。ルーが程良い温度に温められていた。
茶の間に戻ったら、膳の上に生野菜のサラダとコーヒーゼリーが乗っていた。
さっきは無かったので驚いた。娘さんが用意してくれたのだろう。だが、娘さんの気配はない。ルーが程良く温められていたのも、娘さんがやってくれたのだろうか。
「ありがとうございます」と言ってみた。娘さんの姿は見当たらないし、反応もなかった。膳とスミコさんの手紙を持って下宿部屋に向かった。
カレーはココナッツと本格的なスパイスの香がしてカレー専門店で食べている様で、とてもおいしかった。コーヒーゼリーもお手製らしい。インスタントコーヒーではなく、きちんとレギュラーコーヒーから作っているのか、とても香りが良くて美味しかった。
夕食を食べ終え、キッチンへ膳を返しに行った。
スミコさんがいないのだから、食器を洗っておいた方が良いだろうと思った。
キッチンで流しの水を出し初めたら「皿は流しに置いといて下さい!!」と怒鳴り声がした。
娘さんがキッチンの入口に怒った顔で立っていた。私はとても驚いて「わかりました。ごめんなさい」と言って急いでキッチンから下宿部屋に戻った。
部屋に戻っても、怒鳴られたショックで落ち着かなかった。
娘さんは、どうして怒鳴ったのだろう。
勝手にキッチンを触られたくなかったのだろうか。自分のテリトリーを荒らされると思ったのだろうか?
私が思っていたより、娘さんにはメンタル的に重症かも知れない。今後はキッチンには無断で立ち入らない方が良さそうだ。もっと気を使わなければなさそうだと感じた。気が重くなった。
絶縁した両親と散々怒鳴り合いをしたのに、娘さんに怒鳴られたショックは、今までに体験したこと無いほどの打撃を受けた。
ショックから立ち直れず、ぐったりしながらテレビを見ていたら、玄関の方から話し声が聞こえて来た。トミオさんとスミコさんが帰ってきた様だ。
ドアをノックする音がした。「はい」と返事をしてドアを開けると。スミコさんがいた。
「出かけていてごめんなさいね。お夕飯は済んだかしら?」
「はい。いただきました。ただ、キッチンでお皿を洗おうとしたら、お嬢さんを怒らせてしまったみたいで……すいません」
スミコさんの顔が青ざめた。
「そうだったのね。この件はまた後でゆっくり話しましょう」と言って慌てて去って行った。
その後、私の隣の部屋(たぶん娘さんの部屋だと思う)から、娘さんの大きな叫び声が聞こえた。ドアをバタンと強く締める音がした。私はますます不安になった。
一時間以上経って、また部屋のドアをノックする音がした。スミコさんだった
「お風呂が空きましたよ」と声を掛けてくれた。娘さんがどうなったか聞きたかったのだが、スミコさんは聞いて欲しくないオーラを出していた。
私は手早く風呂を済ませると、さっさと寝てしまう事にした。無責任だと思うが、こう言う時には寝てしまうに限る。実家で両親と言い争いをした時もそうだった。無理にでも寝てしまう方が良いのだ。怒鳴り合う程の家族の問題は、すぐには解決されないのだから……。
翌朝、一回目のアラームできっちり目が覚めた。
しかし、昨日の娘さんとの事が気になり、起きぬけの気分が悪い。
いつもの様に朝食の膳を取りに行くと、スミコさんがおはようと声を掛けてくれたが、いつもの笑顔がなかった。
「昨日は、すいませんでした。お嬢さんのご様子はどうでしょうか? お嬢さんに謝らないといけないと思って……」
「こちらこそ、昨日はごめんなさいね。もっと早くに知らせておけばよかったのだけど、娘の事で話しておきたい事があるの。今夜は少し時間を頂けないかしら?」
「今夜、大丈夫です」
「そう。それじゃあ、今夜、夕飯が済んだら話しましょう」
スミコさんとの会話で、私のことを完全に悪いと思っていない気がしたので、少し安心した。
しかし、今朝のメニューは昨夜の温め直したカレーと生野菜サラダだった。
スミコさんは朝食を作る元気が無かったのかも知れない。だが、一晩置いたカレーは更に美味かった。
今夜のスミコさんの話しはどんなものになるのだろうか……。
機能不全家庭で両親に虐待されて育ったから、引きこもりの娘さんは気にならないと思っていたが甘かった様だ。
スミコさんの朝の笑顔の無さを思い出したら、ますます自分がとんでもないことをしてしまったと感じた。私がこの家族の問題の導火線に火を付けてしまったのだ。責任は重大だ。
出勤の身支度を済ませて下宿部屋を出た。玄関に昼の弁当はキチンと用意されていた。
疲れた笑顔でスミコさんが「いってらっしゃい」と送り出してくれた。
「行ってきます」と言って玄関を出た。
今日は金曜日だ。今までの派遣先でも前の営業所でもそうだったが、たいてい金曜の午後は、週末モードで浮かれ気味になっているか、来週までに仕事を残さない様に必死にやっているかの二パターンに分かれる。この営業所は皆浮かれモードの様だ。
私も、週末の予定を考えてみる。まかない食がないので、まずは食事の準備だ。朝は米を炊こう。昨日の様子では、キッチンが使えそうにないから、おかずはスーパーのお惣菜を買っておこう。納豆でもよいだろう。昼は、溜まった洗濯物をコインランドリーに洗いに行きながら外食にしよう。ホームセンターに行って、便利グッズや日用品の足りない物を探すのも楽しいかもしれない。それから夕飯の買い物と、日曜日の食事の買出しもしよう。日曜日は下宿部屋の掃除をしたいな。引っ越しの疲れが残っているので、なるべくゆっくりと体を休めたい。
だが、この予定は未定。今夜のスミコさんとの話し合い次第と言う事になるだろう。娘さんを怒鳴らせるほど怒らせてしまったから、場合によって私はカトウ家から追い出されるかも知れない。そうなったら、また住むところから探さなくてはならない。一応、最悪の事態の覚悟はしておく。
終業のチャイムが鳴って、皆浮かれ気味に帰って行った。藤原は、明日、どこかの団体が主催する、母子家庭の親子を対象にした、格安で遊園地に遊びに行ける団体バスツアーがあるのだと言って、超うかれモードで帰って行った。
私は、明日の朝食用に通勤途中のスーパーでひじきの炒め煮と肉じゃがを買った。ついでに、ミネラルウォーターとポテトチップスとチョコレートも買った。休日のお供である。
カトウ家に帰った。スミコさんはいつもの笑顔で迎えてくれた。昨日のことなど何もなかったかの様に見えた。
だが、話し合いの事が気になって、夕食はさっさと済ませてしまった。食べた気がしなかった。歯磨きをしてから、茶の間に膳を返しに行った。
スミコさんが待っていた。お茶と大福を出してくれた。
「昨日は驚かせちゃったわよね。ごめんなさいね」
「いいえ、私が勝手に……」と言ったらスミコさんが私の言葉を制した。
「あなたがこの家に来る前に、言うべきだったのだけれど」と言って、娘さんの事を話し始めた。
娘さんの名前は「ユリ」と言う。
大学二年生の秋からアメリカのイリノイ州の大学に短期留学した。半年間の予定だった。
だが、ユリさんは留学先で恋人ができ妊娠した。相手は四十代の実業家だったらしい。ユリさんは結婚したいと言った。トミオさんやスミコさんは大反対をした。まだ学生で異国の歳の離れた相手との結婚、しかも妊娠していることが許せなかったのだ。
それでも、ユリさんはどうしても結婚すると言った。トミオさんが連れ戻しに行くと言ったら、絶対帰らないし、子供を産むのだと言った。
トミオさんが「結婚するなら勘当してやる」と言ったら、それきり連絡が取れなくなってしまった。ホストファミリーに電話をしたら「結婚したので引っ越した。引っ越し先は知らない」と言った。留学先の学校に問い合わると、既に学校を辞めていた引っ越し先は大学にも言っていなかった。恐らく、実家から問い合わせがある事を想定してのことだったのだろう。手当たり次第問合せをしたが、引っ越し先は分からぬままだった。
翌年の十月、国際電話が架かって来た。男性の声だった。
「ユリニ、オンナノコガウマレマシタ。ボシトモニ、ゲンキデス」と片言の日本語で言って、電話は切れた。
二年の月日が過ぎた。ユリさんから突然電話が架かって来た。
「日本に帰って来た。行くところが無いから帰っても良いか?」と言った。
カトウ夫妻は驚いた。「結婚したのか、子供はどうしたのか?」と聞くと沈黙してしまった。
「どこにいるのか?」と尋ねると
「成田空港近くのホテルにいる」と言った。
カトウ夫妻は急いでホテルに迎えに行った。
二年半ぶりに会ったユリさんは、げっそりとやせ細り、化粧もせず、うつろな目で、立っているのも辛そうだった。
自宅に連れ帰って事情を聞いた。
カトウ夫妻と連絡を取らなくなった後、お腹の子どもの父親と入籍届を書いて、夫の会社の社員が代理人として届を出しに行った。夫になった男が所有するマンションに引っ越しをした。
夫は、両親と勘当状態になってしまったユリさんを気遣って、日本語のできる住み込みのメイドを雇ってくれた。翌年、女の子が生まれた。エミと名付けた。
実業家だった夫は、出張で家を空ける事が多かったが、メイドがいたので家事や育児の心配はそれほどなかった。幸せで順調な生活だと思っていた。
子供が一歳を過ぎたある日、突然見知ぬ男がマンションにやって来た。
男は、自分は弁護士だと言った。
「このマンションの持ち主の男性と、あなたは正式な夫婦ではない。あなたは不倫の末に子供を産んだ」と言った。
ユリさんはこの男が何を言っているのか理解できなかった。
「私には夫がいる。正式に結婚している」と言ったら
「あなたは戸籍上独身のままだ」と言われた。さらに男は
「男性から、あなたとの関係を清算したいとの相談があった。穏やかに話を進めたいので、今後は私を通して話し合いを進めて行く」と言った。
ますますユリさんは理解できなくなった。メイドと二人で、男をマンションから追い出した。
混乱した心を落ち着かせ、夫が帰って来るのを待ち事情を聞く事にした。何かの間違いに違いない。見知らぬ男が言っていた「男性」とは、自分の夫であるはずがないと思いたかった。
だが、夫は十日も帰って来なかった。携帯電話は繋がらず、会社に連絡すると電話に出た社員が「出張中」と繰り返すばかりだった。
十一日目、夫からやっと電話が架かって来た。
夫は「暫く帰れない事情ができた」と言った。
ユリさんが「弁護士がマンションに来て、『あなたは不倫の末に子どもを産んだ』と言われた」と言ったら、
夫は深いため息をつき「マンション近くのホテルのロビーに来て欲しい」と言った。
ユリは子供をメイドに預けて、指定されたホテルのロビーに行くと、夫とマンションに来た弁護士と金髪の女性がいた。
夫は何も言わず、弁護士が話しを始めた。
「こちらの男性と女性は婚姻関係にあり、正式な夫婦で子供が四人いる。あなたは、この男性と不倫の末に子供を産んだ。あなたが夫だと思っているこちらの男性と、あなたは正式な夫婦ではない」とマンションで言われた事と同じことを言われた。
「あなたと私が不倫関係ってどう言うことなの?」とユリさんは、夫に強い口調で言った。
「君とは間違いなく不倫だ。私には妻がいる」
「入籍届を出しているはずよ」
「結婚ごっこの様な、そんな遊びをしたかも知れない。届は出していない」
「私を騙して、不倫なのに結婚したふりをしたの?」ユリさんは怒りで震えながら言った。
「私が独身だとは一度も言っていない。君とは別れて妻の元に戻る。日本人とは文化の違いがあって生活に疲れた」
ユリさんは目の前が真っ暗になった。
さらに、弁護士が「子供は、夫妻が引取り責任を持って養育する」と言った。
ユリさんはショックが大きくて言葉が出なかった。
暫くの沈黙の後、ユリさんは怒鳴った。
「だまして結婚したふりをして、子供を取り上げるとはどういうこと!! 人を騙して罪の意識はないの!!」と夫だと思っていた男に向かって叫ぶと
「騙していない。恋をしただけだ。恋の清算をするのだから、大袈裟な事ではない。そんなに騒ぐな」男は余裕の笑みを浮かべながら言った。
「人の子供を勝手に育てるなんて、誘拐と同じじゃないか。あんたは犯罪者になるつもりか?」と金髪の女性に言うと
「あなたはまだ学生なのだから、大学に行って勉強しなければならない。子育てをする時間はないはずよ」と金髪の女性は言った。
「子供は私が育てる権利がある。絶対に渡さない」とユリさんは言った。
「収入のない女性と、実業家の男性ではどちらが子育てに適しているか一目瞭然だ。君は裁判をするつもりか? 裁判費用を払えるのか?」と弁護士は笑いながら言った。
ユリさんは「子供は絶対渡さない」と叫んで、ホテルからマンションに走って帰った。
マンションに帰るとメイドが「主人からたった今、契約を打ち切られた」と言った。
「詳しい事情は聞かされていないが、今日でお別れです。ユリさんとは気が合うし、エミちゃんとは生まれ前から一緒にいたので、本当のファミリーと離れる様で悲しい。突然の解雇なので、主人から半年分の賃金を貰う約束をしました。これから弁護士の所にお金を貰いに行きます」と言って荷物をまとめて出て行った。
「あの夫婦と弁護士たちが強制的に私との関係を断ち、子供を奪おうとしているのだ」と思い、ユリさんは怒りが収まらなかった。
マンションの管理人から「この部屋は、来月から売りに出されることになった。契約上今月いっぱいはここにいても良いが、なるべく早く出て行ってほしい。家具は元々備え付けなので、私物だけ持って行く様に」と言われた。ユリさんは住む場所も奪われてしまった。
とても受け入れられない現実と、向き合うことになった。三日間は何も考えられなかった。子供の世話をすることだけで精一杯だった。
だが、十日後には、マンションを出て行かなければならない。
ユリさんには、アメリカに相談できる友人や知人がいなかった。留学したときのホストファミリーは、元々夫の知り合いだった。一緒に留学した時の大学の友達は皆日本に帰ってしまった。
手当たりしだい思いつく場所に助けを求め、相談をしに行った。
警察には、不倫の相談は傷害事件でないなら、当事者同時で何とかしてくれと言われた。
警察と同じように、殆どの場所で相手にしてもらえなかった。
役所では、ボランティアで母子を支援してくれる団体があるから、相談してみてはどうかと言われた。すがる思いで団体に相談をしてみた。
この団体は、施設を所有しており、家庭の事情で住む場所のない母子を保護している。ユリさんが事情を話すと、保護してもらえることになった。
最低限必要な荷物をまとめ、マンションを出た。
施設では、皆で食事を作り、内職の様な作業をして過ごした。あっと言う間に、一か月が過ぎた。
施設に弁護士がやって来た。
「子供を引き渡す様に」と言った。
「子供は絶対に渡さない」とユリさんは言った。
弁護士は「裁判の準備はできていますよ」と冷ややかな視線を投げかけ、帰った。
施設の職員が「裁判になったら、あなたには不利な立場になると思う」と言った。
「それでも、子供を失いたくない」と言うと、無料で弁護士に相談できる団体を紹介してもらえた。
裁判では、ユリさんは惨敗だった。養育権は、夫だと思っていた男とその妻に取られた。
ユリさんは、事実無根の乳幼児虐待の容疑をかけられてしまったのだ。
弁護士が上手く根回しをして、常駐していたメイドが長期休暇を取るときに、臨時で来ていた若いメイドを証言台に立たせ
「ユリさんが子供を強く揺さぶり、虐待しているところを見た」と言わせた。
だが、決定的な虐待の証拠がなく、子どもにも虐待された痕跡がないことで、ユリさんが賞罰を受ける事はなかった。
しかし、虐待をする可能性がある要注意人物として「養育権のある夫妻の許可なしに子供に会ってはいけない」と処分が下った。
どんなに反論し、虐待がなかったことをユリさんが訴えても、処分は覆らなかった。
ユリさんは、子供を弁護士に引き渡すことになった。どうすることもできなかった。嫌がって泣きじゃくる子供を弁護士に渡した。
「夫妻は、二度と子供とあなたを会わせることはない」と弁護士は言った。
引き渡しが終わると、施設の職員から「施設の決まりで、子供がいない女性は保護できないので、別の施設に行って欲しい」と言われた。
ユリさんは承諾した。行先は、職員が探してくれると言った。次の行き先が決まるまで、この施設にいても良いとの事だった。
三日後、別の施設への移動が決まり荷物をまとめていると、また弁護士がやって来た。
「子供は奥さんが大切に育てているから、安心しろ」とのことだった。
ユリさんにとってはうれしくない情報だった。弁護士を睨んで「嘘つき野郎、人攫い!! 二度と私の前に現れるな!!」と叫んだ。
弁護士は重いため息をつき、ユリさんに分厚い封筒を渡した。子供の父親からユリさんに渡す様に頼まれたのだと言った。
さらに「あなたは、世の中を知らな過ぎる。日本に帰ってしっかり勉強しなさい。これからは悪い男には引っかからない様に」と言った。
弁護士が帰った後、封筒を開けると中には、日本円にして百万円が入っていた。
ユリさんは日本に帰る事にした。子供に会えないのなら、アメリカにいても辛いだけだった。一刻も早くアメリカから離れたかった。
成田空港行きのチケットを買い、日本に向かった。
両親と勘当状態になっていたから、実家に帰るべきか迷った。成田空港近くのホテルに二泊して、これからの事を考えたが、行く場所は思いつかなかった。帰る場所は他にないと思い、実家に電話をした。
すべての話を聞き終えた後、トミオさんは
「だから、俺は反対したんだ!!」とユリさんを怒鳴りつけた。スミコさんは泣いていた。
ユリさんはうつろな目で「私はこの家にいたらイケないでしょうか」と言った。
「他に行く場所はないだろう!! 馬鹿娘が!!」とトミオさんはさらに怒鳴った。
それから、ユリさんは一年間、自分の部屋に引きこもった。部屋から出てくるのは、トイレや入浴、洗顔、歯磨きだけだった。食事もスミコさんが部屋に運んで一人で食べていた。
トミオさんと顔を合わせるのを嫌がった。スミコさんが話しかけても、相槌をうつだけだった。
一年過ぎた頃、スミコさんとは、少しずつ会話をする様になり、「車を運転したい」と言った。ユリさんは留学する直前に自動車の免許を取っていた。
スミコさんが横に乗って、自動車運転の練習をした。すぐに運転の勘が戻ったらしく、一人で運転する様になった。
それから、自分で車を運転して買い物や映画を観に行くようになった。誘えば旅行にも行った。
少しずつ、トミオさんとも話をする様になった。
だが、極端に人とコミュニケーションを取る事を嫌がった。自宅に見知らぬ人が来るとパニック状態になった。夜中に、突然叫び声を上げ、泣きだす事も度々あった。
スミコさんが病院に行くようにと何度も言ったが、ユリさんは「私の心の傷は病院では治せない」と言って拒否した。
そんな状態が十数年続いていた。
しかし、家事はよく手伝ってくれた。洗濯は完全にユリさんが担当になっている。
昨日の夕食もユリさんが作ってくれたらしい。
「あのカレーは、高級ホテルのシェフが作ったみたいにおいしかった」と言ったら、スミコさんは少しだけうれしそうな顔をした。
「引っ越しのときに、『ご夫妻が手伝うから業者を入れない様に』とおっしゃったのは、ユリさんがパニックにならない為だったのですね」と言うと、スミコさんは頷いた。
「でも、ユリさんは極端に人を避けているのに、どうして下宿を始めようと思ったのですか?」
「確かに、おかしな話よね。実はまた別の事情があってね……」と言って、新たな話しを始めた。
「ユリの五歳下に息子がいるの。東京で独り暮らしをしていたのだけれど、先月おめでた婚をして、来年孫が生まれるのよ」
そういえば、不動産屋でカトウ夫妻は「息子が世帯を持った」と言っていた事を思い出した。
「おめでとうございます。良かったですね」
「ありがとう。でもね、そうなると、お嫁さん側とのお付き合いが始まったのだけれど、東京からこちらに泊まりで来てもらうわけにいかなくてね……」
「ユリさんが混乱するからですか?」
スミコさんは頷いた。
「息子の事は大事な弟だと思っているみたいだし、子供が生まれる事はとても喜んでいるのよ。でも、昨日みたいに怒鳴っているところをお嫁さんに見られたら、事実を伝えても、お嫁さんや親戚に理解してもらえるかわからないでしょう?」
「そうかもしれませんね」
「だから、ユリは小林さんの店を手伝っていて、何れは若い人向けのおしゃれなシェアハウスをやりたいから、手始めに下宿を始めるために準備をしていると言う事にしたの。そうすれば、お嫁さんがこちらに来ても、泊まる部屋がないと言い訳ができるでしょう」
「なるほど。それで下宿を始めたのですね。……でも、ユリさんは他人が自分の家で生活するのに、混乱しなかったのですか」
「最初はとても嫌がったわ。でも、息子の為だと言ったら、渋々了承したの。それに、ユリ自身が「今のままではダメだ」と思っているから、一歩踏み出すために了承したんだと思うの。下宿を始めると決めた日から家中大掃除して、恐いくらいに動きまわっていたわ。あなたがうちに来る前の日には、歓迎会の準備まですべてやってくれたのよ」
「そうだったんですね」ユリさんが私の事をそれほど意識してくれていたのは意外だった。
「この話は、貝岸不動産の小林さんが考えてくれたのよ。小林さんは主人の妹の夫、つまり、血縁はないけどユリの叔父になるの。ユリもが高校生の時から、店でちょっとした書類整理なんかのアルバイトをしていたの。留学前には本格的に不動産の資格をとる勉強もしていたのよ。小林さんも冗談で『ユリは不動産業に向いているから店の後継ぎにしたい』なんて言ったこともあったの」
「だから、下宿を始める事にある程度抵抗はなかったのですね。でも、結婚式や親戚同士の挨拶の時はどうされたのですか?」
「結婚式は二人の親しい友人と、家族だけで済ませたの。ユリはインフルエンザにかかって出席できないという事にしたわ。親戚の顔合わせの時は、お嫁さんの悪阻が重い時期だったし、あちらのご両親が『親戚の皆さんで貝岸から東京に来るのは大変だから』と気を使ってくださって、私と主人だけで行ったのよ」
「上手く切り抜けましたね。でも、今後もなんとか誤魔化して行けるのでしょうか?」
「わからないわ。でも、息子や生まれてくる孫のために、どうしても切り抜けなければならないでしょうね」
しばらく、沈黙した。
「スミコさんは、なぜ、私にここまで詳しく話してくれたんですか? 単なる下宿人だから、娘がちょっと病気だから気が滅入っているとか、適当な言い訳をして誤魔化す事もできたはずですよね」
「隠してもいずれわかることだから。それに、あなたは初対面の時に、今時下宿を始める私たちを警戒せずに家を見に来てくれたから、なぜか理解してくれそうな気がしたのよ」
スミコさんが何となく感じたのは、私が両親の愛情に恵まれない家庭で育ったから、愛情に飢えている臭いをかぎ取ったのだろうか。
それか、類は友を呼ぶ。同じように家庭に問題を抱えている物同士、引かれ合ってしまったのかも知れない。
私はユリさんの話しを聞いて、自分が育った環境を簡単に話して置く事にした。
だから「どこの家庭でも多少なりとも問題を抱えていることは当然で、ユリさんのことを特別おかしいとは思わない」と言った。
スミコさんは、力なく笑って
「あなたも大変だったのね。でもどこの家庭で問題を抱えていると思って理解してもらえるなら、ありがたいわ」
「ユリさんを刺激しないように、充分気をつけますね。でも腫れものを扱う様にすると、余計気になさると思うので、私は下宿先の家主の娘さんとして、挨拶したり普通に接して行きます」
スミコさんはうなずいた。
「ただ、キッチンや洗濯機は触らない方が良さそうですね」
「そうね。あの子は、潔癖気味なところがあって、他人に触られるのを異常に嫌がるのよね」
「わかる様な気がします。実家の母親がそんな感じでした」
スミコさんは、黙ったままだった。
「私が食事の準備をするのは週末だけだから、大がかりな自炊はしないので、炊飯器や電子レンジで済むものでなんとかします。それか、カセットコンロとかホットプレートを買ってガス台代わりに使っても良いですし。今はIHクッキングヒーターも電源コード式のものが売っているんですよね。電気代掛かってしまうかもしれないけど……洗濯は、コインランドリーで洗います」
「電気代の事は気にしなくていいわ。洗濯のことが本当に申し訳ないわ。下宿なのに自由にできなくて、ごめんなさいね」
「平日は洗う時間が無いから、洗濯機使わせてもらうとしても週末ですし、一週間洗濯物を溜めるのは、臭いが気になるし衛生面も心配なので、コインランドリーを使うので調度いいです」
「そう言ってもらえるとありがたいわ」
「自炊した食器や鍋は洗面台で洗わせていただきますね。排水溝に生ゴミが溜まって、詰まらせない様に充分気をつけます」
「余計な気を遣わせてしまって、本当にごめんなさい。うちの問題なのに……ユリが早く慣れてくれればキッチンも洗濯機も使って貰えるのに……」
「私は大丈夫です。安価で住まわせて頂いてる下宿人ですから。家主さんのルールがわかれば、そのルールに従って生活します」
「ありがとう」
スミコさんとの話を終えて、下宿部屋に戻った。二十二時を回っていた。三時間近くも話し込んでいたらしい。カトウ家の謎が解けた。これで、気をつけるべき事がわかったから、生活し易くなるだろう。下宿を追い出されずに済んだ事も安心した。
娘さんの怒るポイントと、私の母親の怒りのポイントは同じだ。精神的に病んでいる人は、心に傷があるのだろう。そこに触れられると痛いのだ。
ただ、体の傷の様に実体がないから、「痛い」と感じず、怒りとなって叫ぶのかも知れない。今後、ユリさんが叫ぶ事があったら、恐いと恐れずユリさんが心の傷が痛いと泣いていると思うことにしよう。
ユリさんが泣いていると思えば、叫んでいる事が恐いとは思わない。
それに、私の母親とは違って、ユリさんは「このままではダメだ」と思っているのだから、改善していく可能性は大いにあるだろう。
明日は休みだ。今日はちょっと夜更かしして明日の朝ちょっとお寝坊しようかな。
スマホでテレビの深夜番組表をチェックしながら、私もやっと週末の浮かれモードになった。実家では、テレビの音を気にして、深夜番組なんて観る事ができなかった。
スミコさんが「お風呂空きましたよ」と声を掛けてくれた。
そうだった。すっかり話し込んでいたので、まだ風呂に入っていなかったのだ。
すぐに風呂セットを抱えて、風呂に行った。
夜更かししようと思っていたのに、風呂からあがったら眠くなってしまった。
今週はいろいろあった。下宿生活が始まり、営業所への初出勤、カトウ家の娘さんの話し。自分の両親との関係をスミコさんに話した。疲れて当然だろう。夜更かしは明日の楽しみに取っておく事にして寝た。