両親と絶縁
日曜日。朝五時に起きた。
自分の部屋に残していた物は、薄い敷き布団と古い毛布と掛け布団だけだった。
もう使う事もないので布団を処分しようと思い、荷造り紐で縛ろうとしたら母親が来て「来客用に使うから」と奪い取る様に抱えて持って行った。処分する手間が省けて助かった。
着替えを済ませ、洗顔をして、歯を磨いた。洗面台に置いてあった私の歯ブラシはゴミ箱に捨てた。化粧を済ませ、基礎化粧品と化粧品類は手荷物のバックに詰め込んだ。着替えた服と昨夜使ったタオル類を洗濯物用の袋に入れて車に詰め込んだ。
これで、この家には私の持ち物は何も無くなった。すっきりした。もう一度、自分の部屋に行ってみた。
物が何も無くなった部屋は、がらんどうで使っていた時よりもとても広く感じた。物心ついた時から使っていた部屋だが、愛着はなかった。
私がこの部屋に戻って来る事は二度とないだろう。たった今から私の部屋では無くなった。部屋に「長い間お世話になりました。ありがとう。永遠にさようなら」と別れの言葉を言った。
私が育った家族は機能不全家庭だ。だから、私は両親と上手く生活できなかった。
私は両親と上手く行っていないから、二度とこの家に帰るつもりはない。
私が両親と上手く行かなかったのは、私が女として産まれたからだ。
私の生まれ育った土地では、未だに男尊女卑の扱いが根強く残っている。跡取りの長男を優遇して育てる家庭が多い。
だから、両親と親戚たちは、晩婚だった母の妊娠がわかったときに「最初で最後の子どもだろうから、きっと男の子だ。跡取り息子を授かった」とお腹の子どもが男の子だと決めつけ喜んだらしい。
さらに、男の子用のベビー服や布団を買い込み、男らしい強そうな名前も決めていたそうだ。
しかし、産まれて来たのは女の子の私であった。祝賀モードから一転、お通夜の様な雰囲気になり、私は男の子用のベビー服を着せられ、青い布団に寝かされて育ったらしい。
両親共々男の子を授かれなかったショックから、名前を自力で決める気になれず、産院の近くにあった神社で適当につけてもらったそうだ。
私は、幼い頃からこの話を両親と親戚から事あるごとに聞かされて育った「お前が男だったら良かったのに」と何度言われたかわからない。その度に、両親と親戚一同は自分の存在を疎んじているのだと思った。私は自分の名前が大嫌いだ。適当に付けられた名前ならない方がマシだ。両親も親戚も嫌いだから名字も嫌いだ。自分の名前が呼ばれる度、自分の名前を言う度嫌悪感がする。
だから、初対面の人にも私は名前を名乗らない。すると、当然だが名前を言わない無礼な人だと思われてしまう。とても損なことであるが、嫌悪感がするのだからしかたがない。私は両親が付けた名前を私自身では認めない。私は名前が無いのだ。私は「私」だ。
両親に社員昇格が決まって、一人暮らしをすること報告しても「あらそうなの」あっけらかんとして、寂しさや別れを惜しむ反応はなかった。
正社員として勤めると、入社にあたって保証人がいるのだが、親戚に保証人になって貰えるようにお願いしたら、母親から「世間体があるから保証人欄に記名捺印のお願いはするが、おまえが会社で問題を起こしても、絶対に責任はとらない。アクまで形式の保証人だ」と言われ
『私が会社で問題を起こしても、保証人の方には責任を負わせません。連絡も取りません。一切の負担を掛けません』と念書を書かされ、拇印を押させられた。
こんなことなら、親戚では無くても他の人にお願いすればよかったと思ったが、頼れる人はだれもいなかった。母親は実の子どもより、親戚たちを大切にするのだ。そもそも、両親は私が家から出て行く事を「厄介者がいなくなる」と喜んでいるのだ。実際に「娘が家を出て行くことになったのよ。親孝行の一つもしない子だったから、やっと楽になるわ」と電話で話しているのを聞いた。私がいなくなると「楽」になるらしい。
だが、母親が私を厄介者と思っているのと同じくらい、私だって両親のことを厄介者だと思っている。よく今まで一緒に生活できていたのだと、我ながら感心してしまう。
両親にとって、私は自分たちの思い通りに動く駒であった。愛する子どもではない。駒……物の扱だった。
彼らの思い通りとは、地元の大学を卒業してそれなりの名の知れた企業に就職し、結婚して婿養子を取り、自分たちの跡取りとしたかったらしい。
だから、大学を卒業しても正社員で就職出来ずに、派遣社員として働いていた私の事を、「高い学費をかけて大学に行かせたのに、学費に見合う様に稼げないとはどう言うことだ!!」と両親はかなりご立腹だったのだ。
さらに、三十歳を過ぎても結婚するそぶりも見せないことが気に入らないらしく、父親から「ムダに歳だけとりやがって!!」と面と向かって怒鳴られたこともあった。
私は、幼いころから両親に甘えさせて貰ったことがない。あったかも知れないが、覚えていない。女の子であると言う理由だけで……。
父親は控えめに言って、余り仕事ができる人ではなかった様だ。家ではいつも同僚の悪口を言っていた。自分の機嫌で母親に八つ当たりをして、母親の精神状態を不安定にさせていた。
母親は父親の顔色を伺い、私の前では常にイライラしていた。私の荒探しをして、荒を見つけてはヒステリックになり怒鳴りつけ、頬を平手で殴った。百科事典の角で頭を殴られ、大きなこぶができ二週間くらい痛みが消えなかった事もあった。私を殴ることで自分のイライラのはけ口にしていた。幼稚園に入園した頃には、すでに幼児語を使うことは許されず、私は、母親にいつ怒鳴られるか、母親の気に入らない行動をして平手打ちや頭を殴られないかと、ビクビク脅え、母親の機嫌に左右される生活をしていた。いわゆる虐待だったと思う。
私たち親子は、子育てに肝心な『親から子への愛情を与える事、子が愛情をしっかり受け止める事』が抜けてしまったのだ。
だから、我が家の親子関係はギクシャクしていて、愛情関係が成立なかった。
「虐待されたことが辛かった」と私は両親に言ったことがあったが、
「自分たちは一生懸命子育てをして、沢山お金をかけて大学まで行かせ教育した。親としての責任を十分果たした」と言い返された。お互いに言いたい事を叫び合い、言い争いになってしまった。
彼らにとって子育てとは『飯を食わせることと、学校に行かせる事』だったらしい。
母親は私を虐待していたことを、都合良く忘れている。私の存在は母親の所有物だから、自分の機嫌が悪い時に、物に当たっても悪いと思わない様だ。そんな両親だから、常に血のつながりが煩わしく思っていた。
世の中には「家族が一番」とか「家族の為なら頑張れる」と言う人がいるが、私はその気持ちが全く分からない。家族愛がどんなものかを知らないのだから。
私は、たぶん結婚をせず一人身の人生を歩むことになるだろう。
私は、結婚に対する希望や夢はない。子どもを産み育てたいとも思っていない。自分が子どもを育てたら母親と同じ様に虐待をしそうで恐い。自分の愛するべき子供を虐待する母親にはなりたくはない。だから、結婚しないのではなく、結婚してもまともな母親になれず、虐待をする母親に……犯罪者になってしまうだろう。私は犯罪者になりたくない。だから結婚できないのだ。
私は、最後にもう一つ作業をする事にした。
スケジュール帳のメモページを一枚破り、両親宛の手紙を書いた。
手紙の内容は「私は二度とこの家には戻りません。虐待、暴力を受けた両親とは金輪際縁を切り、連絡も取りません。あなた方も二度と私に連絡をしないでください。今日限りで親子の縁を切らせて頂きます。私とあなた方は、何の関係もない他人です」
両親に手紙を見せたら、母親が「あらそうなの」と言い、父親は「さんざん無駄飯食っておいて良く言うよな。おまえは疫病神みたいだったよ」と言って鼻で笑った。
私は「あなた方どちらが死んでも私に連絡をしないでください。葬式に参列するつもりはありません。病気になっても他人だから介護もしません」
父親はさらに鼻で笑い「跡取りにならないおまえに遺産をやるつもりはないから、調度良いな。うちの遺産は、進次を養子にして全額、進次に与える」と言った。母親も「そうね」と言った。進次とは、私の従兄。父親の妹の次男坊だ。子どもの頃から、父親が娘の私より可愛がっていた。跡取りにしようとかなり前から考えていたのだろう。
だが、遺産と言っても、両親の貯蓄はあまりないし、父親の退職金を切り崩して生活しているので、たいして広くもない古びたこの家屋敷だけなのだが……。
私は「疫病神は出て行きます」と言って、玄関に三十万円を輪ゴムで止めた札束を父親に向かって放り投げた。
「手切れ金です。女に生れてすいませんでしたね。永遠にさようなら。二度と私には近付かないで!!」
現金が飛び出たら、両親の目が変わった。うれしそうだった。この人たちは本当にお金の事しか考えてないのだ。三十万円はとても痛い出費だが、これで両親と絶縁するためなら、仕方あるまい。
「大学まで出してやって、たかだかこれっぽっちで手切れ金とは安過ぎるが、言われなくても疫病神を追いかけたりしない」と父親が履き捨てる様に言った。母親が頷いた。
私は、玄関のドアを荒っぽく閉めて、車に乗り込んだ。
確かに、大学までの学費を考えたら、手切れ金が三十万では安過ぎる金額だろうが、今の私に払えるのはこれが精一杯なのだ。引っ越し費用でなんだかんだとお金が掛かったし、貯金は殆ど底をついていた。
両親との別れは少し荒っぽい物になってしまったが、絶縁するのだからこれくらい荒っぽくても良いだろうと思うことにした。
絶縁できてうれしいはずなのに、涙が出て来た。
私は幼いころから女の子と言うだけで両親に苦しめられた。これからは自由だ。世の中の楽しいことうれしいことを沢山経験して、今までの荒んだ人生を取り戻すべく、人生を謳歌しよう。
興奮した気持ちを落ち着かせるため、大きく深呼吸して新しい住みかに向かって車を走らせた。