棚から牡丹餅
私が高校生の時に、バブル景気が崩壊した。
日々テレビのニュースから、バブル崩壊後の厳しい経済情報を聞いて過ごした。
混乱した経済情勢の中で、私は地元の地方大学に進学し、三年生の春に就職活動を始めた。就職課の担当者が「君たちの就職活動は困難を極めるだろう」と言った。就職氷河期と言われた時代であった。
確かに、多くの企業が人件費削減のため、新卒採用を中止していた。新卒採用がある企業でも一、二名の少ない採用枠に多くの学生が殺到した。正社員より待遇の悪い準社員の採用枠にも、不採用となった学生が殺到し大激戦となった。
私も、数十社の採用試験を受けだが、ことごとく不採用であった。卒業間近になっても就職先が決まらず、正規採用での就職を諦め派遣会社に登録した。
それから十数年、派遣社員としていくつかの会社を転々とした。主な仕事は、営業事務や経理事務であった。
派遣先は転々としたものの、ありがたいことに働き口が途切れることはなかった。
そして今年の秋、派遣先の会社より「正社員として採用する」との話を頂いた。
かなり前から正社員への昇格は諦めていたので、嬉しいと言うより驚いた。
しかし、この歳で正社員に昇格するとは、うまい話ばかりであるはずがない。休日は派遣社員の頃に比べて十日程少ない。
さらに、勤務先は現在派遣中の営業所ではなく、貝岸市にある、貝岸営業所と言う所だ。貝岸営業所は、県内だが自宅から車で二時間以上かかる。通勤渋滞を考えるともう少しかかるかも知れない。さすがに、自宅からの通勤は無理だろう。正社員になるなら、家を出て一人暮らしをすることになる。
それでも、正社員採用の話は魅力的だった。断る理由にはならないと思った。本当は、以前から一人暮らしをしたかったのだ。だが派遣社員の薄給故、一人暮らしをする程の余裕がなかった。良い機会だと思い、正社員になって人生初の一人暮らしをすることに決めた。
「正社員として勤務したい」との意思を伝えると、早速来週から新しい営業所に行って欲しいとのことだった。急に社員が辞めてしまったので、すぐに人手が欲しいそうだ。
正社員として入社に必要な書類を手渡された。すべて記入して新しい営業所の人事担当者に提出して欲しいとの事だった。新しい営業所の大まかな説明を受けた。細かいことは貝岸営業所で聞いて欲しいとのことだったが、この会社の営業所には単身者向けの社宅はないそうだ。自力でアパートを探すことになった。この辺りと同じで、貝岸市も地方都市だから、都会ほど家賃は高くはないらしい。正社員の給料なら充分家賃を払って生活して行けるだろうとの事だった。正社員用の制服を支給された。
明日から今週末までは、転勤休暇を貰える事になった。営業所の世話になった社員たちには、お礼と昇格異動の報告をした。突然の異動なので、やり残した業務があり迷惑がかかるかも知れないと詫びを入れた。別段驚いている風でもなかった。余り興味がないらしい。だが、「正社員昇格おめでとう」や「異動でまた同じ営業所になったらよろしく」と言ってくれた社員もいた。机とロッカーに入っていた私物をすべて紙袋に入れ、私の痕跡をすべて消す様に営業所を後にした。
翌日の水曜日、新しい勤務先近くの不動産屋に単身者用の物件を探しに行った。
物件探しなどした事がないから、賃貸物件の間取り図を見てもどれが良いのか全くわからない。
「1R、1K、1DK、1LDK」の違いがわからない。一人暮らしだから1が付く方がよい事はわかるのだが「R、K、D、L」とは何を意味しているのかもわからなかった。
店内をウロウロと探し回っている私を、店主が見かねて話しかけてきた。
「お客さん、どんな物件をお探しですか? 一人暮らし用? えっ? 今週末から入居したいの?! 転勤? ずいぶん急だね。空いている物件探すから、ちょっと待っててね」と言って、慌ててパソコンで検索し始めた。
簡単な身元調査の様な用紙を渡された。記入項目は、氏名、性別、住所、必ず連絡が取れる電話番号、生年月日、年齢、勤務先名、おおよその年収、希望の間取りタイプ。私は間取りタイプ以外の項目をすべて記入して店主に渡した。
店主は、私が記入した用紙を見て、少し考えてから何か思い付いた様に言った。
「これだけ急な話しなら、アパートより下宿を使ってみるのも良いかも知れませんよ。今は、やっているところは少ないんだけどね」
下宿? 下宿と言えば私の中では、学生が使うまかない食がついている薄暗い建物のイメージなのだが……。
「下宿屋をやりたいと言っている知り合いがいて、初めてだから女性限定で、あまり若い子ではなく、なるべく落ち着いた感じの人を希望しているんだ。契約しなくてもいいから家主の話だけでも聞いて見ない?」と店主は言った。
『あまり若い子ではなく、落ち着いた人』とは、確かに私はぴったり条件に当てはまっていた。
「本当に話を聞くだけ」と言う条件で、家主に会ってみる事にした。
店主が家主に電話を架けた。すぐにこちらに来るらしい。
応接室に通され、店主が名刺をくれた。
「貝岸不動産 店長 小林正男」と書かれていた。
スタッフの女性がお茶を出してくれた。女性は何かを見定める様な目で、私をちらちらと見て、店主に意味ありげな視線を投げかけている……私のどこか気に入らないところがあるのだろうか。それとも私は、年収が少ないから家賃を滞納しそうな信用のないやっかいな客に見えたのだろうか……少し悲しくなった。
店主から、なぜ急に新しい勤務先の営業所に転勤になったのか聞かれたので、正直に派遣社員から正社員に昇格して、配属されたことを話した。店主は納得した様子だった。
十分後、初老の夫婦がやって来た。
男性は、大柄でおなかぽっこりメタボ体型。女性は中肉中背。どちらも穏やかそうな顔でにこにこ笑っていた。
夫妻の名前は「カトウトミオさんとスミコさん」と言うらしい。
これから、シェアハウスを手掛けたいので、手始めに自宅の空いている部屋で、下宿を始めたいとの事だった。
自宅は娘と三人住まい。息子が世帯を持ち東京にいる。
下宿用の部屋は二階で、朝日の当たる東向きの六畳半。室内は完全禁煙。
バス、トイレ、洗面所、風呂、キッチン、洗濯機等、下宿部屋以外はすべてこの家族と共用。
しかし、下宿部屋以外の掃除はしなくて良い。
下宿の条件としては、悪くないのかも知れない。しかし、肝心の家賃はいくらだろうか?
「あのう……家賃はおいくらでしょうか?」と遠慮がちに聞いてみたら
「水道光熱費、平日朝夕二食さらに、一台分の駐車場代込みで、一カ月、二万五千円です」
二万五千円!!! 水道光熱費と食費込み??? 下宿とは言え、安価ではないか!!! 毎月母親に生活費として三万円払っているのだが、自宅住まいより安いなんて驚きだ。
二万五千円では、まともなアパートは借りられないだろう。
さらに、スミコさんが「お勤めだと、お昼の準備が大変でしょうから、前の晩御飯の余り物でよければ、昼の弁当を作ってもいいわ」と言ってくれた。三食付きだ!!
ここまで好条件の物件はないだろう。契約するべきだと思った。
興味津々になった私に、スミコさんが
「まずは家を見て頂きましょうね」と言った。夫妻の所有する車に乗せてもらい、家を見に行く事にした。