風邪
素奈子は腕時計を見た。
あと20分で仕事が終わる。
デスクが並ぶフロアは、照明を消してあるので、暗く奥の方は、まったく見えない。
社長は今日も会社に残って、社長室にこもっている。
ドライブした日のことを思い出す。
(そうでもないよ)
きゃー。
思い出すと顔が火照る。
素奈子は掃除道具を、いつもの場所に片付けようと振り返ると、
「わっ! 池山さん…」
素奈子の後ろに池山が立っていた。
池山さんは…まだ謹慎のはずだけど…?
「池山さん、まだ謹慎中じゃ…」
「忘れ物をとりに来たんだ…」
「そう…ですか」
「そう…僕の忘れ物は、君だよ…」
素奈子は茫然として声をなくす。
「苦しまないで死なせてあげる」
池山は取り出した、ロープを左右に引っ張り、ニヤリと笑った。
瞬間、素奈子は身体を旋回させながら、池山のみぞおちを、右足の踵で蹴る。
みぞおちに後ろ回し蹴りをくらった、池山は勢いよく吹っ飛んで、壁にぶつかり、床に積んであったゴミの山の上に落ちた。
大きな音で気がついたのか
、社長室から亮が飛び出してくる。
変な姿勢でゴミ袋の山に埋れている池山と、その前に悠然と佇んでいる素奈子を見て、
「こらっ! 会社でケンカはやめなさい!!」
と怒鳴った。
「ゴミと一緒に燃やされろ〜」
いつの間に、そこにいたのか村田が革靴の爪先で、池山をつついている。
亮はため息をついて、素奈子を見た。
「平気ですか?」
「はい…」
素奈子は照れたように、微笑んだ。
******
木曜日。
素奈子はビルを出て村田と別れたしあと、会社近くのコンビニに向かった。
コンビニで通販の代金を払うためだ。
支払いを済ませて店から出たところで亮にばったり会った。
「社長もコンビニ来るんですね」
「うん」
「お家、この近くですか?」
「うん」
「……」
どうしたんだろう?
「社長? 大丈夫ですか? 顔色、悪いですよ…」
「ちょっと風邪ひいちゃってね…」
あっ、そっか…。
「コンビニ弁当ですか?」
「そう…」
亮は喘ぐように返事をして、うなだれている。
社長、苦しそうだ…。
「社長! 私にご飯を作らせて下さい!」
素奈子は亮に詰め寄り、その腕をがっちり掴む。
もーう、勘弁してくれよー。
亮はさらに、ぐったりとして、うなだれる。
弁当を買いに来ただけの亮は、結局、買い物をして素奈子を家に連れて帰ることになった。
******
わ! 思ったよりも、こじんまりしてる…。
素奈子は亮のマンションの部屋に、入れてもらい視線をキョロキョロと動かす。
「社長、寝ていて下さい。すぐに準備しますから」
「うん、あと水ちょうだい…」
「はい」
素奈子はコンビニで買った、ミネラルウォーターを渡す。
亮はキッチンからベッドのある部屋まで、移動すると服を脱ぎ捨てた。
キッチンは綺麗でやかんも見あたらない。洗った食器がカゴに置いてあった。
素奈子はコンビニで買ったキムチで味噌煮込みうどんを作る。
どんぶりはキッチン下の収納スペースから見つけた。
「うどん出来ました」
「ありがとう」
素奈子がうどんを持っていくと、亮はTシャツと派手な柄の膝まである短パンに着替えていた。
亮は暖かいうどんを、低いテーブルの上に置いて食べる。
「その格好、寒くないですか?」
「いや」
「風邪を引いてる時は、体を暖めたほうがいいです」
わかってるよ…。
「エアコンつけてないから、大丈夫だよ」
夏だし。
うどんを食べる亮の額に汗がにじむ。
素奈子は用意していた、自分の分の味噌煮込みうどんを持ってきて食べる。
一緒に、食べるんだ…。
亮はうどんを食べ終わると、錠剤の風邪薬を水で胃に流し込む。
「電車大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「ふーん」
「社長、横になってて下さい」
えー…。
「早く食べなさいよ、あなたが帰らなきゃ、おちおち寝てもいられないでしょ」
素奈子は一瞬、動きを止めて亮をみると、何かに取り憑かれたかのように、一心不乱にうどんを食べはじめた。
素奈子が完食すると、亮は「お疲れ様です」と言って玄関で素奈子を見送り、ドアを閉めるとすぐに鍵をかけた。
******
マンションを約30分で追い出された素奈子は、トボトボ駅に向かって歩いた。
現実はマンガのようにはいかないんだ…。
途中ヤンキーのお兄さんに声をかけられた素奈子は、それを無視して歩いた。
私、社長に好かれてないのかも…。
そう思うと、胸がチクっとした。