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菫の花に祝福を  作者: 夏野ゆき
本編
8/35

8

 


 ジェラルドと婚約を結んで一月ほど。

 ウォルター家の中にある自室でうつらうつらと船をこいでいたニルチェニアは、微睡みから目覚める際に、一度だけ目を薄く開いた。いつも、何故かやってしまうことだが――当然、彼女の視界は光で白く染まったままだ。何も見えない。再び、瞼を閉じた。もたれかかっていた長椅子から身を起こす。

 いつの間にか、眠っていたようだ。膝の上には読んでいた点字の本がのったまま。


 ――眩しい。


 陽光に耐え切れぬ己の瞳。


 自分の瞳が瞳としての役割を果たせないことは知っていたが、それが只単純に目の構造だけの問題でないことを知っているのは、彼女自身と彼女の両親だけだった。その両親も今はもういないから、その秘密を知っているのは彼女だけになる。


 ――夜空なら見えるのに。


 満ち欠けを繰り返す月。その光に照らされるものなら、彼女は目にすることが出来た。星の光、月の光だけが彼女の視界に世界を与えてくれる。それを知ったばかりの時、絶望に満ちた声が父から出たのを彼女は忘れていないし、撫でられた頬に当たる母の指先が、ひどく震えていたのも覚えている。


 同じ一族の中で末席にはいたけれど、両親を幼い頃に亡くしたエリシア。彼女と一緒に育てられたニルチェニアは、ある日、月光の中で龍に変化した彼女の姿を窓越しに見たことがある。

 父も兄も変化できることは知っていた。龍の血を引くメイラー家だから。でも、幾年経とうと変化しなかったニルチェニアは、メイラー家の男のみが持つ能力なのではないかと思っていた。


 そんな最中の、エリシアの変化。

 ひどく動揺して、両親に尋ねたことがある。私はああは成れないのかと。

 両親は困ったような声を出して、それから、「誰にも言ってはならないよ」の約束の言葉とともに、彼女に一つ、大きな秘密を話した。


 ――“お前はね、龍に成れない代わりに、もっともっと大きなモノを持たされたんだ”


 いつかそのときが来たら話そうと思っていたのだけど、と父の声は悲しげで、ニルチェニアは自分が何かいけないことを尋ねてしまったことを悟った。


 その日の夜に、ニルチェニアは両親と二人、手を引かれながら月光の降り注ぐ庭へと降りたった。

 今までは許されていなかった部屋の外に出るという行為に、ニルチェニアはひどく興奮した。鼻を掠めていく草の香りも、頬を撫でるひんやりした夜風も。みんなみんな、部屋の中にはないモノだったから。


 あれは、十歳になったときの誕生会の夜だったろうか。


 父に促されて、ニルチェニアはそっとその瞼を月光の元で押し上げる。瞳に入ってきたのは、優しい光をともすレモンイエローの満月と、宝石のような星々。美しさに思わず見とれて、それからニルチェニアは目を見開いた。


 幾つもの声が聞こえる。男、女、老人、子供。出所の知れない声が、たくさんたくさん、ニルチェニアに降りかかってきていた。どれも、親しげな響きを持って。柔らかな優しさを持って。

 誰の声、と混乱したニルチェニアに、落ち着いて、と母が優しく娘を抱きしめる。


「それは星の声よ。――落ち着いて、ゆっくり耳を澄ませてみなさい」


 母に言われたとおりにニルチェニアは心を静める。じんわりと光る月を見ながら、耳を澄ませた。


 ――はじめまして。

 ――わたしたちの友人よ。

 ――ようやく、目にすることが出来た。


 たくさんの歓迎の言葉。あなた達は誰、と心の中で問うニルチェニアに、星達の声はくすくすと笑った。


 ――あなたの親愛なる友人の星の聖霊よ、星詠。


 ほしよみ? と混乱した声を出したニルチェニアの目を、母の白い手のひらが覆った。星の声はもう聞こえない。慣れ親しんだ黒い視界のみがそこにある。


「ニルチェニア、よく聞いてね。あなたは、“星詠”。星の声を聞く力を持って生まれたのよ。星の声を聞く子はね、星に愛される子でなくてはならないの。だからあなたは、星の光しか、月の光しか知らない。夜にしかその目を開けない――星は、きらきらと美しいけれど、嫉妬深くもあるのだから。星に愛されたあなたはね、日の光を見ることは叶わないの」

「――そう、なの?」

「星はあなたに沢山の英知を授けるでしょう。運命だって変えられる。あなたが望むこと全て、きっと星は叶えてくれる」


 でもね、と母は後ろから娘を抱きしめる。父は娘が夜空をみないように、前から母も一緒に抱きしめた。


「星に願ってはいけないわ。声を聞くのも程々にしなさい。でないと、あなたは星にとらわれてしまう」

「私たちと約束してくれ、ニルチェニア。父さんと母さんを悲しませないと」

「……わたしが星にお願いをしたら、お父様とお母様は悲しいのですか?」

「ああ。お前を失うことになるのだからね」

「なら、お星様の声は聞かないわ。遠く光るお星様よりも、わたしはお父様とお母様の方がだいじだもの」


 ね、と囁く娘の言葉に、両親が二人して涙を流したのは、目を閉じていたニルチェニアには分からないことだった。

 あれから、ニルチェニアは窓越しにしか夜空を見ていない。外に出て、満天の星空を見ていると、星達が楽しげに話しかけてくるから。



 ぼんやりと過去の光景に思いを馳せていたニルチェニアの桜色の唇が動き、何事かを紡ごうとしたけれど、それは音を成すことなく空気に溶ける。

 誰も知らなくて良いことだと、ニルチェニアは思う。兄にもこれ以上訳の分からない心配をかけさせたくはないし、知っていた両親も今はいないのだ。ニルチェニアが黙ってさえいれば――誰も。


「知らなくて良いこと」


 ニルチェニアは家から持ってきた点字の本を指先でなぞり続けた。過去を忘れるように。星空に思いを寄せないように。



 そんなニルチェニアの部屋の扉を叩いたのは、ウォルター家の侍女だった。とん、とん、とニルチェニアが驚かないようにゆっくりと叩かれた扉に、ニルチェニアは「どうぞ」と声をかける。

 これまたゆっくりと扉が開き、聞こえてくる声の感じからするに扉の丁度目の前あたりで用件が述べられる。


「ニルチェニア様、ジェラルド様がお呼びです。――お茶のお誘いのようですよ」

「まあ。とても嬉しいです」

「ふふ。それでは、参りましょうか」


 侍女の手に支えられて、ニルチェニアはウォルター家を歩く。相変わらず見えていないからどこを歩いているのかはさっぱりだが、日に弱いニルチェニアに配慮するジェラルドのことだから、陽光の元でないことだけは確かだ。

 ニルチェニアの体質のひとつひとつに気を配り、なおかつ出来る範囲でニルチェニアを喜ばせようとしてくれるジェラルドの心配りはひどく嬉しい。それが恋愛感情ではなく、どちらかといえば妹や娘に向けるような家族愛に似たものだということは察していたけれど、ニルチェニアにはそちらの方が心地よい。

 たまに、ジェラルドがひどく不安そうにニルチェニアを呼んだり、ニルチェニアの手をつないだりすることがあったけれど、それはそこにジェラルドなりの理由があることも理解している。


 彼はときおり、ニルチェニアを通して誰かを見ているようだった。

 それでも、ニルチェニアはそこに不快感を抱いたことはない。誰かの代わりであっても、ジェラルドに救われたことは事実だ。率先してその誰かに成り代わろうなどとは思わないが、ニルチェニアの存在が少しでも気休めになるのなら、それでよかった。


 どうしても気になって、一度だけ、ジェラルドが想う人の話を星に聞いたことがある。昔の恋人だよ、と星たちは応えた。君と同じ紫色の瞳を持った女性だったんだ、と。


 ――彼を、君に夢中にさせてあげようか。


 そう聞いてくる星に、いいえ、とニルチェニアは断った。人の心をねじ曲げようとは思わない、と。


「つきましたわよ、ニルチェニア様――ジェラルド様、ニルチェニア様を連れて参りました」

「さんきゅ。悪かったな」


 侍女からニルチェニアの手を取って、ジェラルドは恭しくニルチェニアを椅子へとエスコートした。ニルチェニアを座らせてから、「俺の部屋で悪いな」とばつの悪そうな声が聞こえる。


「別に何か、重い話があるわけでもねェんだけどな。ただ、ここが一番人に邪魔されずに話せるかと思ってよ」

「お話、ですか?」


 うん、と頷いてから、ジェラルドはニルチェニアに焼き菓子を持たせた。皿がどこにあるかわからないニルチェニアに気遣ってのそれに、ニルチェニアが丁寧に礼を述べる。律儀だなあ、とジェラルドは照れくさそうな声を出した。


「メイラー家らしくないな、君の周りは。ルティカルもエリシアも、威張り散らさない」

「――威張り散らすものなのですか、普通は」


 ことりと首を傾げたニルチェニアに、あー……とジェラルドは困ったような声を上げる。ニルチェニアはますます不思議そうな顔をした。


 恐らく、とジェラルドは思う。

 ニルチェニアは、メイラー家において隔離された場所にいたのではないだろうか。ルティカルやエリシア、両親しかわからないような、そんな場所に。


 だとすれば何故。

 ジェラルドが知る限り、あの「ランテリウス・メイラー」は、娘を閉じこめて育てるような真似はしない人間だ。メイラー家としても、普通の人としても変わってはいたけれど、人の道を踏み外すような外道ではなかった。多少、手段を選ばないところはあったが。


「お父様は、家に甘んじるなと常に仰っていました」


 例えば、使用人がいるのは自分が公爵家の人間だからであり、貴族でなければ使用人は普通はいないものと。

 信頼を築かぬ状況でも世話をしてくれるのは、それが令嬢であるからだと。


「与えられた環境を当たり前と思うのは愚か、と。それでもなお、その環境に身をおくのならば、環境に感謝し、その環境にふさわしい振る舞いをせよ、と。尊敬されるような立場にあるなら、尊敬されるような振る舞いを――というのが、お父様の教えでした」


 つまりは、家柄がなければ只の人間と変わらないとランテリウスは教えてきたらしい。それは当然のことなのだが、メイラー家にしては珍しい教育方針であるとも言える。


 周りのメイラー家の方はちがうのですか、と問うニルチェニアは、やはり何も知らないのだろう。箱入り娘だと思ったのは間違いがないようだった。


「――あー……人によりけりだけどな、メイラー家って誇りを重んじる家系だろう」

「そのようですね」

「まあその、何だ? 誇り高いから周りに人を寄せ付けないよな」


 軍でもそういうメイラー家出身のものは度々目にする。

 誇り高いがあまりに、まわりと同一に扱われるのを嫌うのだ。ようするに周りに対して傲慢という。


「誇るのと傲る、のは似て非なる、とお母様が仰っていましたが――そういうことなのかもしれませんね」


 当たり障り無く伝えたはずのジェラルドのそれを、ニルチェニアは案外ばっさりと切り捨てた。

 このあたりにランテリウスの血を感じる。穏やかであっても、言うことは言うのがランテリウスだった。それも、わりと言葉はきつい。


「エリシアもルティカルもそんな感じはないからな――不思議だと思って」

「お姉様もお兄様も素敵な方ですから」


 ふふ、と幸せそうに笑うニルチェニアは本当にの二人のことを愛しているのだろう。案外、小さな箱庭の中でもこの少女は楽しく暮らせていたのではないだろうか。或いは、ランテリウスやその妻自身がそうなるように配慮していたのか。


 ――有り得るな。


 頭が良く回っていた、希代の大将と呼ばれた亡きメイラー家の当主を思う。人懐っこい笑みを浮かべ、子供っぽい顔をしているときもあれば、歴戦の猛者ですらその雰囲気に飲まれてしまうような冷徹さを纏わせたときもあった。

 その娘を目の前にして、ジェラルドはどうしても気になってしまう。


 ランテリウスの性格を考えれば、例え周りのメイラー家の者が「目の色が違うからその娘はメイラー家ではない、面汚しになるから閉じ込めておけ」などと唱えようと、素直に聞くようなタイプではない。寧ろ、周りを黙らせてでも娘が伸び伸びと暮らせるような環境を整えたのではないだろうか。ルティカルは知らないかもしれないが、ランテリウスはひどく子煩悩な父親であるとよく七大公爵家の間では話題になっていたものだ。主に話題にしていたのはシトリーだけれども。


 そこまで考えて、話が本筋からそれていたことをジェラルドは思い出す。

 考え直してからやはり、「何故ニルチェニアは周りから隔離された場所で育てられたのか」が気になった。単純に、日光に弱いだとか視力がないとか、そういう話ではない気がしてくる。

 なんだかもっと、大きな話が隠れているのではないだろうか――そして、ランテリウスはそれを隠したくてニルチェニアと外界を閉ざしたのだとしたら?


「ジェラルドさま?」

「あ? ん、悪い」


 控えめに声をかけられて、ジェラルドは頭を下げる代わりにニルチェニアの頭を撫でた。こうするとニルチェニアが表情を綻ばせるのはこの一月で学んだ。

 撫でられるのが好きなのだろうか、と考えてから、もう一度頭を撫でる。

 ちょっと嬉しそうなその顔は、まるで小動物を手懐けているようでこそばゆかった。 



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