朱の檻に咲く毒華~騙されるな。これはただのデスゲームでも、成り上がり劇でもない。地獄を生き延びた女を待ち受ける、最悪のどんでん返し。~
一
重い鉄の匂いと、腐敗しかけた香料の匂いで目が覚めた。
「……ここは……?」
李玲は体を起こした。肌を刺す冷たい石畳。周囲を見回すと、見覚えのない地下の広間に、十数人の少女たちが倒れていた。いずれも絢爛豪華な絹の衣装を纏っている。名門の令嬢や、下級貴族から選ばれた「王妃候補」たちだ。
玲不もまた、貧乏貴族の家系から身を立てるため、この後宮へ上がった身であった。
「気がついたか、小娘」
暗がりから声がした。広間の天井近くにある小さな格子窓から、松明の灯りがぼんやりと落ちている。そこに立っていたのは、宮廷の総管太監であった。
太監は冷笑を浮かべながら、一枚の文を広げた。
「今宵より、これなる『選妃の儀』を始める。ルールは至極単純。この閉ざされた地下迷宮にて、最後のひとりとなるまで殺し合え。生き残った者こそが、我が国の新たな王妃となり、至高の栄誉をその手にするのだ」
ざわめく少女たち。「冗談でしょう!」「私は尚書の娘よ!」と叫ぶ声が響く。
しかし、太監が合図を送ると、鉄の扉が重々しい音を立てて固く閉ざされた。格子窓すらも鉄板で覆われ、完全な闇と沈黙が降り立つ。
「王妃になるのではない……生き残るのだ」
玲は即座に悟った。ここには愛も慈悲もない。ただの屠殺場だ。
地獄の蓋が開いた。
二
暗闇の中で、最初に動いたのは有力な大貴族の娘・張麗とその私兵同然の侍女たちだった。彼女たちは隠し持っていた簪や隠しナイフを抜き、乱戦の口火を切った。
暗闇に響く悲鳴、肉を裂く音、そして命を乞う声。
(正面から戦えば、下級貴族の私に勝ち目はない……!)
玲は身を低くし、死体の中に滑り込んだ。返り血を全身に浴び、死人の振りを決め込む。
数時間が経過した。血の匂いは部屋を覆い尽くし、生き残ったのはわずか数名となった。
最後に残ったのは、武官の娘である張麗と、知略に長けた才女・陳華、そして物陰に潜む玲だった。
張麗は刃を血で濡らしながら息を荒げている。「これで私は王妃よ……! 皇様のお側に行けるのよ!」
「お気の毒様、張麗様」
暗闇から放たれたのは、毒であった。陳華が事前に仕込んでいた服の香に混ざっていた遅効性の毒が、張麗の脂汗とともに体内に回る。張麗は血を吐きながら倒れ、絶命した。
「ふふ、これで私が最後のひとり……」
陳華が勝利を確信して笑った瞬間、その背後から玲が飛びかかった。
玲が手にしていたのは、乱戦の最中に死体から密かに引き抜いていた、長くて太い髪飾り——ただの金属の針ではない。迷宮の壁に生えていた「狂乱草」の汁を擦り込んだ毒針であった。
「なっ……!?」
「あなただけじゃない。生き残るために工夫を凝らしていたのは」
玲は容赦なく針を陳華の首筋に突き刺した。陳華は苦悶の表情を浮かべ、喉を鳴らしながら崩れ落ちた。
重い静寂が戻る。
周囲には、血の海の中に横たわる少女たちの死体。息をしているのは、全身血まみれになり、呼吸を乱す玲ただひとりだった。
三
「ギィィィ……」
重い鉄の扉が開いた。
光が差し込む。そこに立っていたのは、先ほどの総管太監と、金糸の刺繍が施された豪華な衣装を纏った男たちだった。
「見事なり、李玲。お前が最後の生き残りか」
太監が優雅に一礼する。
玲は膝をつき、激しい吐き気に耐えながら、血に染まった手を握りしめた。
「約束……通り……生き残りました。私を……王妃に……」
「もちろんだとも。お前こそが、我が国で最も強固な執念と、冷徹な牙を持つ『至高の王妃』だ」
豪華な輿に乗せられ、玲は地下迷宮から連れ出された。温かい湯で血を洗い流され、最高級の絹の衣を纏い、顔には完璧な化粧が施される。鏡の中に映るのは、修羅場を潜り抜けたとは思えぬほど美しく仕立て上げられた「王妃」の姿だった。
(勝ったのだ。私は泥をすする貧乏生活を脱し、この国の頂点に立ったのだ)
恐怖と狂気の中で勝ち取った勝利。玲の胸には、暗い歓喜が燃え上がっていた。
その夜、玲は皇帝の寝所である「紫宵殿」へと案内された。
四
重厚な扉が開かれ、玲は一人で部屋へ入った。
部屋の奥、薄絹の帳の向こうに、この国の主である皇帝が座していた。
「お前に会えるのを待っていたよ、我が王妃よ」
静かな声。玲は床にひれ伏した。
「不徳の身ながら、皇帝陛下のお側にお仕えいたします」
「面を上げよ」
玲が顔を上げると、薄絹が払われた。そこいたのは——若く麗しい皇帝ではなかった。
そこにいたのは、青白く痩せこけ、肌には気味の悪い黒い斑点が浮かび、血管が黒く浮き出た「怪物のような老人」であった。胸元からは、正体不明の妖しい香気の煙が立ち上っている。
「ヒッ……!?」
思わず息を忘れる玲に、皇帝は歪んだ笑みを向けた。
「驚くことはない。これが、我が一族が代々受け継ぐ『龍脈の呪い』の姿だ。この国を統べる代償として、我が肉体は刻一刻と腐敗し、霊力を食い荒らされている」
皇帝はゆっくりと立ち上がり、玲に近づいてきた。その手は枯れ木のように干からびている。
「陛下……これは……一体……?」
「知らぬか? なぜ後宮の『選妃の儀』で、候補者たちに殺し合いをさせるのかを」
皇帝は玲の顎を冷たい指でしゃくり上げた。
「愛や才覚など、王妃には不要なのだ。必要なのはただひとつ——極限の絶望と殺意を乗り越え、他者の生き血と執念を吸い尽くして生き残った『最も強靭で穢れた魂』だけなのだよ」
「な……にを……」
「我が呪いを抑え込み、我が命を永らえるには、純粋な娘の生き血では足りぬ。地獄を生き抜き、怨嗟を抱いた王妃の魂と肉体を『生贄』として捧げ、その生命力を我が身に注入し続けねばならんのだ」
玲の血が凍りついた。
王妃とは、国の頂点に立つ者ではない。
殺し合いの末に、最も濃厚で美味な「生贄の器」として熟成された、餌に過ぎなかったのだ。
「さあ、来い。我が愛しき王妃よ。お前のその燃えるような生の執念を、私に捧げるのだ」
皇帝が手をかざすと、部屋の四方に仕込まれていた陣が赤く光り輝いた。玲の身体が金縛りに遭ったように動かなくなる。
身体の奥底から、生命力が吸い上げられていく激痛。
「嫌……嫌ぁぁぁぁぁっ!!」
玲の叫び声は、紫宵殿の固い扉によって遮られ、夜の宮廷の中へと虚しく消えていった。
朱色に塗られた豪華絢爛な後宮の檻の中で、新たな王妃は、永遠に終わらない地獄の生贄として繋がり続けられるのであった。
(了)




