暇つぶしの悪魔
退屈だった。
お嬢様にとって、それは存外深刻な問題だった。
「……暇ですわ」
広すぎる応接間で、お嬢様はソファに身を沈めていた。窓の外には、よく手入れされた庭がある。読みたい本は読み終えた。見たい映画も見た。買い物も、旅行も、少し前までなら気晴らしになった。
けれど最近は、それすらも少し飽きていた。両親が亡くなってから、屋敷は妙に広く感じる。使用人はいる。生活に不自由もない。テーブルの上には、飲みかけの紅茶と、毎日決まった時間に飲む薬が置かれていた。
お嬢様は薬を一粒口に入れ、紅茶で流し込む。
「…………」
もう何年も続けていることだった。
そして、それで何かが変わるわけでもない。お嬢様は空になった薬包をテーブルへ置いた。
「何か、面白いことはありませんの……?」
そんな折だった。
書庫で一冊の古い本を見つけたのは。
「……悪魔召喚術?」
お嬢様は眉を上げた。
古びた革張りの本。
中には見慣れない文字と、いくつかの図形。そして最後に、日本語で簡潔にこう書かれていた。
『呼び出された者は、召喚者の願いを一つ叶える』
「……ふふ」
思わず笑みがこぼれた。
もちろん、本気で信じているわけではない。
ただ――
「暇つぶしには、ちょうどよろしいですわね」
お嬢様はそう言って、本を閉じた。
その日の夜。
屋敷の一室に、簡単な召喚陣を描いた。蝋燭を並べる。本に記された文言を読む。
「――我が声に応えよ」
静寂。
「…………」
何も起こらない。
「やっぱり偽物ですの?」
お嬢様が少し残念そうに立ち上がろうとした、その瞬間。
蝋燭の炎が、すべて消えた。
暗闇。
そして――
「お呼びでしょうか、お嬢様」
背後から声がした。
「……!」
お嬢様は振り返った。
そこには、一人の男が立っていた。
黒い服。穏やかな表情。
どこから現れたのか、まるで分からない。
「あなた……」
「はい」
「悪魔?」
「左様です」
男は丁寧に頭を下げた。
「お初にお目にかかります」
お嬢様はしばらく男を眺めた。
怖くない。
むしろ、不思議と落ち着いている。
「……本当に出てくるとは思いませんでしたわ」
「よく言われます」
「そう」
お嬢様は少し考えた。
そして――
「では」
窓の外を指差す。
「庭を薔薇園にしてくださる?」
「承知しました」
男が指を鳴らした。
瞬間。
窓の外の景色が変わった。
何もなかった庭を、無数の薔薇が埋め尽くしていく。
赤。白。淡い黄色。
月明かりの下で、幻想的な庭園が広がった。
「まあ……!」
お嬢様は思わず窓に駆け寄った。
「本当に……」
「お気に召しましたか?」
「ええ。とても」
お嬢様はしばらく庭を眺めていた。
そして満足したように振り返る。
「あなた、なかなか面白いですわね」
「ありがとうございます」
しばしの沈黙。
お嬢様は首を傾げた。
「ところで」
「はい」
「あなた、帰りませんの?」
悪魔は穏やかに答えた。
「帰る必要がございますか?」
「え?」
「お嬢様がお呼びになったのでしょう?」
「それは……そうですけれど」
「では、ここにおります」
「…………」
お嬢様は悪魔を見る。
そして、ようやく何かに気づいたような顔をした。
「……待ってくださいな」
「はい」
「そもそも――」
お嬢様は眉を寄せる。
「対価は?」
「ございません」
「……契約は?」
「ございません」
「後から何か要求されることは?」
「ございません」
「…………」
お嬢様は黙った。
少ししてから、ぽつり。
「……私、先にそれを確認するべきでしたわね」
「ええ」
即答だった。
「まあ!」
「申し訳ありません」
悪魔は全く申し訳なさそうではない。
「召喚なさった時点で確認されるものと思っておりましたので」
「……普通、そう思いますの?」
「私には分かりません」
「悪魔なのに?」
「悪魔ですので」
「意味が分かりませんわ」
お嬢様は呆れたように息を吐く。
だが、不思議と嫌ではなかった。
「では……あなたは本当に、何も求めないの?」
「はい」
「私が願ったから、叶えた。それだけ?」
「左様です」
「なぜ?」
悪魔は答えた。
「私は、願いを叶えることが好きなのです」
「……趣味?」
「ええ」
「変わった趣味ですこと」
「よく言われます」
お嬢様は薔薇園を振り返った。
「……では」
お嬢様は悪魔を見る。
「あなた、しばらくここにいなさいな」
「承知しました」
悪魔は一礼した。
「お嬢様がお望みになる限り」
その言葉を聞いて、お嬢様は少し笑った。
その頃。
世界のどこかでは、最初の感染者が確認されていた。
まだニュースにもなっていない。
誰も知らない。
この屋敷にいる二人も、知らない。
そして、この日からしばらくの間。
お嬢様は悪魔を相手に、願いを口にして過ごすことになる。世界が、静かに壊れ始めていることにも気づかずに。
◇
翌朝。
お嬢様が目を覚ますと、悪魔はベッドの傍らに立っていた。
「…………」
「おはようございます、お嬢様」
「……おはよう」
お嬢様はしばらく悪魔を見つめた。
「あなた、ずっとそこにいましたの?」
「はい」
「一晩中?」
「はい」
「…………」
昨日、自分が悪魔を召喚したことは夢ではなかったらしい。
お嬢様は身体を起こした。
「別に、寝ているところまで見張っていなくてもよろしいのよ?」
「そうですか」
「ええ」
「では、次からそういたします」
「そうしてくださいな」
お嬢様はベッドから降りる。
窓の外には、昨日現れた薔薇園がそのまま残っていた。
「……夢ではありませんのね」
「はい」
「そう」
お嬢様は少しだけ嬉しそうに笑った。
朝食を終えたあと。
お嬢様は応接間のソファに座っていた。
「紅茶をお願いできます?」
「かしこまりました」
悪魔が手を差し出す。
次の瞬間、テーブルの上にティーポットとカップが現れた。
湯気が立っている。
お嬢様は紅茶を一口飲んだ。
「……美味しい」
「ありがとうございます」
「これは、どこの茶葉ですの?」
「この世界には存在しない茶葉です」
「…………」
お嬢様はカップを見る。
もう一口飲んだ。
「では、もう二度と普通の紅茶では満足できなくなるかもしれませんわね」
「元に戻しましょうか?」
「いいえ。このままで」
「かしこまりました」
お嬢様は満足そうに紅茶を飲んだ。
それから。
お嬢様は悪魔を連れて、自室へ向かった。
大きな姿見の前に立つ。
「このドレス」
「はい」
「もう少し丈を長くできます?」
「もちろんです」
悪魔が指を動かす。
ドレスの裾が伸びた。
「……もう少し」
さらに伸びる。
「もう少し」
また伸びる。
「…………」
お嬢様は鏡を見る。
「長すぎますわね」
「はい」
「戻して」
「かしこまりました」
元に戻る。
「今度は短く」
「はい」
短くなる。
「もう少し」
さらに短くなる。
「…………」
「いかがでしょう」
「短すぎますわ」
「はい」
「戻して」
「かしこまりました」
元に戻った。
お嬢様は鏡の前で腕を組んだ。
「……便利ですわね」
「ありがとうございます」
「褒めているのかは分かりませんけれど」
「そうですか」
「ええ」
お嬢様は悪魔を見る。
何を頼んでも、同じ調子で答える。
嫌な顔もしない。
困りもしない。
怒りもしない。
「…………」
少し、試してみたくなった。
「ねえ」
「はい」
「私が何をお願いしても、聞いてくださるの?」
「可能なことであれば」
「では」
お嬢様は少し考えた。
「『嫌です』と言ってみてくださる?」
「嫌です」
「…………」
お嬢様は固まった。
悪魔はいつもの穏やかな顔をしている。
「……今、私のお願いを断りました?」
「はい」
「でも、『嫌です』と言いましたわね?」
「はい」
「それは私のお願いを聞いたことになりませんの?」
「はい」
「では、聞いたの?」
「はい」
「断ったの?」
「はい」
「…………」
お嬢様はしばらく考えた。
そして。
「ふふっ」
笑った。
「ふふふ……!」
悪魔は黙って見ている。
「あなた、本当に面白いですわね」
「ありがとうございます」
「褒めましたわ」
「それは何よりです」
お嬢様はしばらく笑っていた。
こんなふうに笑ったのは、随分と久しぶりだった。
「では、次は何をしましょうか」
昼過ぎ。
お嬢様は薔薇園を歩きながら考えていた。
「そうですわね……」
赤い薔薇に触れる。
「海が見たいですわ」
「かしこまりました」
「…………」
お嬢様は悪魔を見る。
「今から?」
「はい」
「準備は?」
「必要ございません」
「車は?」
「必要ございません」
「では、どうやって?」
「このまま」
「このまま?」
「はい」
次の瞬間。
潮の香りがした。
「…………」
お嬢様は瞬きをする。
目の前には海が広がっていた。
青い空。
白い砂浜。
波の音。
そして――
誰もいない。
「まあ……」
お嬢様は砂浜へ歩いていった。
靴を脱ぐ。
裸足で波打ち際へ。
「冷たいですわ」
「そうですね」
「でも、気持ちいい」
しばらく波と戯れていたお嬢様が、ふと周囲を見回した。
「……誰もいませんのね」
「はい」
「ここはどこですの?」
「人のほとんど来ない海岸です」
「そう」
お嬢様は少し考えた。
「では、今度は人のいる海へ行ってみましょうか」
「かしこまりました」
景色が変わる。
今度は、人がいた。
海水浴を楽しむ家族。
砂浜を走る子供たち。
写真を撮る若者。
海の家からは音楽が聞こえてくる。
「まあ」
お嬢様は辺りを見回した。
「こちらはこちらで、賑やかですわね」
「はい」
「悪魔はどちらがお好き?」
「私ですか?」
「ええ」
悪魔は少し考えた。
「お嬢様がお楽しみになれる方を」
「……またそれですのね」
「はい」
「あなた自身の好みを聞いたのですけれど」
「特にはございません」
「そう」
お嬢様はそれ以上聞かなかった。
海の方へ歩いていく。
悪魔も、その後ろをついていった。
夕方。
二人は海の近くにある店で休んでいた。壁に掛けられたテレビから、ニュースが流れている。
『――各地で確認されている原因不明の感染症について、専門家は引き続き調査を――』
お嬢様は紅茶を飲みながら画面を見る。
『感染者には発熱や大量の発汗、強い喉の渇きなどが確認されており――』
「感染症?」
「そのようですね」
『一部の患者には、異常な興奮状態や攻撃的な行動も――』
画面には病院の前に集まる報道陣が映っている。
「大変ですわね」
「はい」
お嬢様は少し眺めていたが、やがて興味を失った。
「まあ、私たちには関係ありませんわね」
「そうですね」
「それより」
「はい」
お嬢様は窓の外を見る。
夕暮れの海。
今日はずっと暖かかった。
「雪が見たいですわ」
「かしこまりました」
「……ふふっ」
お嬢様は立ち上がった。
「では、参りましょう」
二人が店を出る。
その横を、一台の救急車が走り抜けていった。
少しして、もう一台。
遠くからも、サイレンの音が聞こえている。お嬢様は一度だけ、その方向を見た。
けれど。
「悪魔」
「はい」
「雪は、どこへ見に行きますの?」
「お好きなところへ」
「では、一番綺麗なところにしてくださいな」
「かしこまりました」
二人の姿が消える。
その夜。
街では、救急車のサイレンが途切れることはなかった。
◇
翌日。
お嬢様は薔薇園で紅茶を飲んでいた。
昨日とは違う茶葉らしい。
どこのものか尋ねると、悪魔はやはり、
「この世界には存在しません」
と答えた。
「……まだありますの?」
「はい」
「どれくらい?」
「お嬢様が飽きるまで」
「まあ」
お嬢様はカップを置いた。
「それでは、一生かかっても飲みきれないかもしれませんわね」
「その場合は、一生お出しいたします」
「そう」
お嬢様は少し笑った。
それから、向かいに立つ悪魔を見る。
「ところで」
「はい」
「あなた、本当に何でもできますの?」
「お嬢様がお望みになることであれば、大抵は」
「大抵?」
「はい」
「では、できないこともありますのね」
「ございます」
「まあ」
お嬢様は少し身を乗り出した。
初めて聞いた。
「何ができませんの?」
「お嬢様がお望みにならないことです」
「…………」
お嬢様は悪魔を見る。
「それは、できないのではなく、しないだけではなくて?」
「そうとも言います」
「もう」
お嬢様は呆れたように紅茶を飲んだ。
「では、試してみましょうか」
「かしこまりました」
お嬢様は少し考える。
「世界で一番美しい宝石を見せてくださる?」
「はい」
悪魔が手を差し出す。
その掌の上に、大きな宝石が現れた。
透明にも見える。
けれど、光が当たるたびに色が変わった。
青。
赤。
紫。
見たことのない輝きだった。
「……綺麗」
「お気に召しましたか?」
「ええ」
お嬢様はしばらく眺めた。
「これは、なんという宝石ですの?」
「名前はありません」
「ありませんの?」
「この世界には存在しませんので」
「…………」
お嬢様は宝石を見る。
「それでは、世界で一番ではないのではなくて?」
「そうですね」
「ずるいですわ」
「申し訳ありません」
「思ってませんでしょう」
「はい」
「まあ!」
お嬢様は笑った。
「では、今度は音楽」
「はい」
「私が一度も聞いたことのない音楽を聴かせて」
「かしこまりました」
どこからともなく、音楽が流れ始めた。
聞いたことのない楽器。
知らない旋律。
けれど、不思議と心地よい。
お嬢様は目を閉じた。
しばらく、その音を聞く。
やがて音楽が終わった。
「……素敵でしたわ」
「ありがとうございます」
「これは誰の曲?」
「誰のものでもございません」
「今、作ったの?」
「はい」
「…………」
お嬢様は悪魔を見た。
「本当に、何でもできますのね」
「大抵は」
「その“大抵”は、もう結構ですわ」
「かしこまりました」
お嬢様は椅子の背にもたれた。
宝石。
音楽。
薔薇園。
どこにでも行ける。
欲しいものは、ほとんど何でも手に入る。
ふと、気になった。
「ねえ」
「はい」
「あなたは?」
「私ですか?」
「ええ」
お嬢様は悪魔を見る。
「私の願いばかり叶えておりますけれど」
「はい」
「あなた自身は、何か欲しいものはありませんの?」
悪魔は少し考えた。
「特には」
「本当に?」
「はい」
「何も?」
「はい」
「退屈ではありませんの?」
「いいえ」
「どうして?」
「お嬢様の願いを叶えておりますので」
「…………」
お嬢様は瞬きをした。
「それが楽しいの?」
「はい」
「変わっていますわね」
「よく言われます」
「誰に?」
「以前お会いした方々に」
「……私以外にも呼ばれたことがありますのね」
「ございます」
「そう」
少しだけ気になった。
けれど、今はそれ以上尋ねなかった。
「まあ、いいですわ」
お嬢様はカップを持ち上げる。
「あなたが楽しいのでしたら」
「ありがとうございます」
午後。
二人は街へ出ていた。
今日は瞬間移動ではない。
お嬢様が普通に街を歩きたいと言ったからだ。
「たまには、こういうのもよろしいですわね」
「はい」
店の前を通る。
人々が行き交う。
車が走る。
少し前と何も変わらないように見える。
ただ。
マスクをしている人が増えていた。
薬局の前には、いつもより長い列ができている。通りの大型画面ではニュースが流れていた。
『――国内で確認された感染者は、昨日からさらに増加し――』
お嬢様は歩きながら画面を見上げる。
「まだ増えているのですわね」
「そのようですね」
『厚生当局は、十分な水分補給を心がけるよう――』
「水分?」
「はい」
「昨日も喉が渇くと言っていましたわね」
「そうですね」
お嬢様は少しだけニュースを眺めた。
しかし、すぐに歩き出す。
まだ街には人がいる。
店も開いている。
誰も逃げてはいない。
少し騒がしいだけの、いつもの街だった。しばらく歩いていると、お嬢様が一軒の店の前で足を止めた。ショーウィンドウに、小さな髪飾りが置かれている。
お嬢様はそれを眺めた。
「……可愛らしいですわね」
「はい」
「…………」
悪魔は何もしない。
お嬢様は横を見る。
「出しませんの?」
「何をでしょう」
「これですわ」
お嬢様は髪飾りを指差した。
「お気に召したのでは?」
「ええ」
「では、お買いになりますか?」
「…………」
お嬢様は悪魔を見る。
「あなたなら、すぐに出せるのでしょう?」
「はい」
「では、なぜ出さないの?」
「お嬢様がお望みになっておりませんので」
「可愛いと言いましたわ」
「はい」
「欲しいとは言っておりませんわね」
「はい」
「…………」
お嬢様はもう一度、髪飾りを見る。
「そう」
少しだけ笑った。
「そういうところは、きちんとしておりますのね」
「ありがとうございます」
「褒めましたわ」
「それは何よりです」
お嬢様は髪飾りを買わなかった。
そのまま店を離れる。
悪魔も何も言わず、隣を歩いた。
夕暮れ。
二人は街を歩いていた。
遠くで、また救急車のサイレンが聞こえた。
昨日よりも多い。
通りの大型画面では、感染者数が表示されている。
数字は、朝より増えていた。
「…………」
お嬢様は一度だけ立ち止まった。
「随分と増えましたわね」
「はい」
「大丈夫なのかしら」
「どうでしょう」
「あなたなら分かるのではなくて?」
「分かります」
「…………」
お嬢様は悪魔を見る。
「お尋ねになりますか?」
「…………」
少し考えた。
「いいえ。今は結構ですわ」
「かしこまりました」
お嬢様は再び歩き出した。
「それより、明日は何をしましょうか」
「何をご希望でしょう」
「そうですわね……」
お嬢様は空を見上げた。
少し考えて。
「月なんて、いかがかしら」
「よろしいかと」
お嬢様は足を止めた。
「…………」
「どうかなさいましたか?」
「行けますの?」
「はい」
「月へ?」
「はい」
「…………」
お嬢様は笑った。
「では、明日は月へ行きましょう」
「かしこまりました」
◇
翌日。
お嬢様は朝から機嫌がよかった。
「では、参りましょうか」
「はい」
悪魔はいつも通り、お嬢様の前に立っている。
「…………」
「どうかなさいましたか?」
「いえ」
お嬢様は自分の服を見る。
いつもの服。
特別な装備など何もない。
「宇宙服は?」
「必要ございません」
「酸素は?」
「必要ございません」
「月はとても寒かったり、暑かったりするのでしょう?」
「問題ございません」
「放射線は?」
「問題ございません」
「…………」
お嬢様は少し考えた。
「では、本当にこのままで?」
「はい」
「便利ですわね」
「ありがとうございます」
「褒めておりますわ」
「それは何よりです」
お嬢様は悪魔へ手を差し出した。
「では、お願い」
「かしこまりました」
次の瞬間。
音が消えた。
「…………」
お嬢様は辺りを見回した。
灰色の大地。
遠くまで続く、何もない地面。
空は真っ黒だった。
風もない。
鳥の声もない。
車も、人の話し声もない。
本当に、何の音もしない。
「……ここが?」
「月です」
「…………」
お嬢様は足元を見る。
恐る恐る、一歩踏み出した。
身体が妙に軽い。
「まあ」
もう一歩。
少し強く地面を蹴ってみる。
「わっ」
身体がふわりと浮いた。
思っていたより高く上がる。
ゆっくりと地面へ戻った。
「…………」
お嬢様は悪魔を見る。
「今の、ご覧になりました?」
「はい」
「もう一度やっても?」
「お好きなだけ」
お嬢様は地面を蹴った。
ふわり。
着地。
もう一度。
ふわり。
「ふふっ」
また跳ぶ。
「面白いですわ!」
「それは何よりです」
しばらくの間、お嬢様は月面を跳ね回っていた。悪魔はいつものように、その後ろを歩いている。やがて満足したのか、お嬢様は足を止めた。
「……疲れましたわ」
「お休みになりますか?」
「そうします」
悪魔が手を動かす。
何もなかった月面に、白いテーブルと二脚の椅子が現れた。その上には、ティーポットと二つのカップ。
「…………」
お嬢様はそれを見る。
「月でも紅茶ですのね」
「お嫌でしたか?」
「いいえ?」
お嬢様は椅子に座った。
「むしろ、安心しましたわ」
「それは何よりです」
悪魔も向かいに座る。
お嬢様は紅茶を一口飲んだ。
「……美味しい」
「ありがとうございます」
「昨日とも違いますわね」
「はい」
「まだあるの?」
「ございます」
「本当に飲みきれそうにありませんわね」
「ごゆっくりどうぞ」
「そうしますわ」
月面で紅茶を飲む。
お嬢様は、その状況がおかしくなって笑った。
「こんなところで紅茶を飲んでいる方なんて、他にいないでしょうね」
「現在は、おそらく」
「現在は?」
「将来は分かりませんので」
「まあ。では、先を越されないうちに楽しんでおきましょう」
「はい」
紅茶を飲み終えたあと。
二人は再び歩き始めた。
お嬢様は時々跳ねたり、地面を蹴ったりしながら進む。
「ねえ」
「はい」
「地球はどちら?」
「あちらです」
悪魔が指差す。
お嬢様は、その方向を見た。
「…………」
青い星が浮かんでいた。
黒い空の中に、ぽつりと。
白い雲。
青い海。
大陸。
お嬢様はしばらく黙って眺めた。
「……綺麗」
「はい」
「こんなに小さいのですわね」
「ここから見れば」
「そう」
お嬢様は地球を見つめる。
あそこに、自分の屋敷がある。
昨日歩いた街がある。
海がある。
今も大勢の人が暮らしている。
「……不思議ですわね」
「何がでしょう」
「ここからでは、あそこにたくさんの人がいるなんて、全然分かりませんもの」
「そうですね」
「皆さん、今頃何をしているのかしら」
「様々でしょう」
「そうでしょうね」
お嬢様は少し笑った。
「私が月で紅茶を飲んでいたなんて、誰も思っていないでしょうけれど」
「おそらくは」
「ふふっ」
もう一度、地球を見る。
「……綺麗ですわね」
「はい」
それからしばらく。
二人は何も話さず、青い地球を眺めていた。
その頃。
地上では、一人の男が走っていた。
「水……」
息が苦しい。
全身から汗が流れている。
喉が焼けるように渇いていた。
男は立ち止まり、持っていたペットボトルの水を一気に飲み干した。
「……足りない」
空になった。
それでも渇きは消えない。
「水……水……」
自動販売機へ向かう。
売り切れ。
隣も。
その隣も。
「くそ……!」
男はスマートフォンを取り出した。
震える指で地図を開く。
近くに川はない。
だが――
「……湖」
少し離れた場所に、大きな湖があった。
男は画面を見つめた。
距離など、もうどうでもよかった。
「水……」
再び走り出す。
喉が渇く。
身体が水を求めている。
考えられるのは、それだけだった。
「水……水……」
男は湖を目指して走り続けた。
その遥か上空。
月から見える地球は、今日も青く輝いていた。
◇
数日後。
お嬢様は街を歩いていた。
悪魔はいつものように、その隣にいる。
「……随分、人が多いですわね」
「はい」
普段から人通りの多い場所ではある。
だが、今日は少し様子が違った。
店の前に列ができている。
コンビニ。
スーパー。
薬局。
どこも同じだった。
「何を並んでおりますの?」
「水のようです」
「水?」
お嬢様は店の中を見る。
棚の一角だけが綺麗に空になっている。
ミネラルウォーター。
お茶。
スポーツドリンク。
飲み物という飲み物が、ほとんど残っていない。
「まあ」
お嬢様は少し驚いた。
「昨日まで普通に売っていたでしょう?」
「はい」
「なくなるものなのですね」
「皆が一度に求めれば」
「なるほど」
店の前では、店員が何度も頭を下げていた。
「申し訳ありません! 水は完売しました!」
「次はいつ入るんだ!」
「子供がいるんです!」
「一本もないのか!」
声が飛び交う。
お嬢様は少し離れたところから、それを眺めていた。
「大変そうですわね」
「はい」
「私たちの水は?」
「ございます」
「そう」
それだけ確認すると、お嬢様は歩き出した。街頭の大型画面では、ニュースが流れていた。
『――原因不明の感染症について、感染者数は全国で急増しています』
画面が切り替わる。
病院。
長い列。
担架で運ばれる人。
『主な症状は、大量の発汗と強い喉の渇きです。患者の中には、一日に通常では考えられない量の水分を摂取する例も確認されています』
「だから、水がなくなっておりますのね」
「そのようです」
『政府は各自治体に臨時の給水所を設置し、必要以上の買い占めを控えるよう呼びかけています』
「給水所」
お嬢様は少し考えた。
「見に行ってみましょうか」
「かしこまりました」
広場には、大勢の人が集まっていた。給水車の前から、長い列が伸びている。
係員が水を配っている。
一人につき、決められた量。
ポリタンク。
ペットボトル。
鍋を持ってきている人までいた。
「……すごい人数ですわね」
「はい」
列の途中で、怒鳴り声が聞こえた。
「これだけかよ!」
「一人でも多くの方に配るためです!」
「足りねえんだよ!」
「押さないでください!」
別の場所では、子供が泣いている。
その隣では、母親らしき女性が何度も水筒を振っていた。
空らしい。
お嬢様は黙って見ていた。
「…………」
そのとき。
一人の男が列を飛び出した。
「水!」
給水車へ向かって走る。
係員が止めようとする。
「待ってください!」
「水をくれ!」
男は全身汗だくだった。
数人がかりで押さえられる。
「離せ! 水! 水!」
周囲がざわつく。
お嬢様はその様子を見つめた。
「……昨日のニュースで言っていた方でしょうか」
「おそらくは」
「随分と苦しそうですわね」
「はい」
やがて男は救急隊員に取り押さえられ、運ばれていった。
列は少し乱れた。
それでも、水の配給は再開された。
誰も帰らない。
水が必要なのだ。
「…………」
お嬢様はしばらくそれを眺めていた。
まだ、ニュースがある。
まだ、電気がある。
まだ、車が走っている。
警察もいる。
救急車も走っている。
政府は給水所を作り、人々はそこへ並んでいる。
店が閉まっているわけでもない。
明日になれば水が入荷すると思っている人もいる。感染症も、いつか収まると思われている。まだ、人々は明日が来ると思っている。
世界は少しおかしくなっただけだった。
まだ、終わってはいない。
「悪魔」
「はい」
「少し休みましょうか」
「かしこまりました」
二人は広場を離れた。
近くの公園。
人はほとんどいなかった。
皆、給水所へ向かっているのだろう。
お嬢様はベンチに座る。
「喉が渇きましたわ」
「かしこまりました」
悪魔が手を差し出す。
テーブルが現れた。
椅子。
ティーポット。
二つのカップ。
「…………」
お嬢様はそれを見る。
「公園でも紅茶なのですね」
「お嫌でしたか?」
「いいえ?」
お嬢様は椅子へ移った。
「いただきますわ」
カップを持ち上げる。
今日は、アイスで。
一口飲む。
「……美味しい」
「ありがとうございます」
遠くから声が聞こえる。
「押さないでください!」
「水はまだあります!」
「一列に並んでください!」
お嬢様は紅茶を飲みながら、その声を聞いていた。
「不思議ですわね」
「何がでしょう」
「あちらでは、皆さん水を求めておりますのに」
カップを見る。
「こちらには、こうしていくらでもある」
「お望みでしたら」
「ええ」
お嬢様はもう一口飲んだ。
「便利ですわね」
「ありがとうございます」
「褒めておりますわ」
「それは何よりです」
いつものやり取り。
お嬢様は少し笑った。
世界が騒がしくなっても。
二人の間では、まだ何も変わっていなかった。
「そういえば」
お嬢様がカップを置いた。
「昨日、月から見た地球は、とても静かでしたわね」
「はい」
「ここでは、こんなに騒がしいのに」
「遠くからでは、分からないこともございます」
「そうですわね」
お嬢様は空を見上げた。
昼間なので、月は見えない。
「今日は、静かなところへ行きたいですわ」
「どちらへ?」
「そうですわね……」
少し考える。
「森など、いかがかしら」
「よろしいかと」
「人の少ないところがいいですわ」
「かしこまりました」
お嬢様は立ち上がった。
「綺麗なところにしてくださいな」
「はい」
二人は公園を後にした。
背後では、今も水を求める人々の声が響いている。その声は、昨日よりも少しだけ大きくなっていた。
◇
街を離れてしばらく。
二人は森の中を歩いていた。
先ほどまで聞こえていた車の音も、人々の声も、もう聞こえない。聞こえるのは、風に揺れる葉の音と、鳥の声だけだった。
「静かですわね」
「はい」
「こちらの方が落ち着きますわ」
お嬢様はゆっくりと森の中を歩いていく。
悪魔は少し後ろをついていた。
「どこまで行きますの?」
「もう少しです」
「何がありますの?」
「池がございます」
「池?」
「はい」
「綺麗?」
「おそらく、お気に召すかと」
お嬢様は少し楽しそうに歩みを速めた。
やがて木々が途切れた。
「……まあ」
森の中に、小さな池があった。
水は澄んでいる。
風が吹くたび、水面がわずかに揺れる。周囲には人工物らしいものがほとんどない。
人の姿もない。
先ほどまで見ていた街の騒ぎが、まるで遠い世界の出来事のようだった。お嬢様は池のそばまで歩いていった。
「綺麗ですわね」
「はい」
水面を覗き込む。
空と木々が映っている。
「こういう場所もあるのですね」
「ございます」
「誰も来ませんの?」
「ほとんど」
「それは素敵ですわ」
お嬢様は池のほとりに腰を下ろした。
しばらく、何もせず水面を眺める。
「…………」
悪魔も何も言わない。
鳥の声。
葉の擦れる音。
水面を渡る風。
それだけだった。
「悪魔」
「はい」
「ここ、気に入りましたわ」
「それは何よりです」
「覚えておいてくださいな」
「はい」
「また来ましょう」
「かしこまりました」
お嬢様は満足そうに池を眺めた。
しばらくして。
お嬢様は立ち上がった。
「では、そろそろ参りましょうか」
「はい」
二人は池を離れた。
お嬢様は一度だけ振り返る。
木々の間に、静かな水面が見えた。
それから二人は森の外へ向かった。
森を抜けると、道路に出た。
「…………」
お嬢様は辺りを見回す。
「こちらも静かですわね」
「はい」
先ほどの街とは違い、人通りは少ない。
車もほとんど走っていなかった。
「まあ、こちらは元から人が少ないのでしょうね」
「そうですね」
二人は道路沿いを歩いていく。
少し進んだところで。
「…………水」
声がした。
お嬢様が足を止める。
「今、何か聞こえませんでした?」
「はい」
「水……」
道路脇に、一人の男がいた。
ガードレールにもたれかかっている。
服は汗で濡れていた。
顔色も悪い。
唇は乾ききっている。
「大丈夫ですの?」
お嬢様が声をかける。
男が顔を上げた。
「……水」
「水?」
「水……ください……」
お嬢様は男を見る。
そして悪魔へ視線を向けた。
「お水を」
「かしこまりました」
悪魔の手に、一本の水が現れる。
男はそれを見るなり、奪うように受け取った。
蓋を開ける。
一気に飲む。
「…………」
一本すべて飲み干した。
「もう……一本……」
悪魔がお嬢様を見る。
「差し上げて」
「はい」
もう一本。
男はそれも一気に飲んだ。
「もう……」
「まだ?」
「水……」
三本目。
それもなくなる。
お嬢様は少し眉を寄せた。
「…………」
男の呼吸は荒い。
これだけ飲んでも、まるで楽になっていない。
「水……水……」
男が悪魔の方へ手を伸ばす。
「もっと……」
さらに水が出される。
飲む。
それでも足りない。
「…………」
お嬢様は、数日前に見たニュースを思い出した。
大量の発汗。
強い喉の渇き。
「あなた……」
男が顔を上げる。
その目は、水しか見ていないようだった。
「水……」
ふらつきながら立ち上がる。
そして、お嬢様の方へ一歩踏み出した。
悪魔がその間に入った。
「水……!」
男は悪魔の向こうにいるお嬢様へ手を伸ばす。
悪魔は動かない。
ただ、男を通さない。
「…………」
お嬢様は男を見た。
「この方、病気なの?」
「はい」
「先ほどニュースで見たもの?」
「はい」
お嬢様は少し考える。
「……治せますの?」
「はい」
即答だった。
「そう」
お嬢様はもう一度、男を見る。
汗だくで。
息を切らし。
それでも水を求め続けている。
「では、ひとまず治して差し上げて」
「かしこまりました」
悪魔が男へ手を向けた。
◇
悪魔が男へ手を向ける。
それだけだった。
「…………」
男の動きが止まった。
荒かった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。額から流れ続けていた汗も止まった。
「……あれ」
男は自分の喉に触れた。
「水……」
足元に転がっている空のペットボトルを見る。
「……いらない」
男は呆然としていた。
「喉が……渇いてない」
何度か唾を飲み込む。
それから、自分の身体を確かめるように腕や胸に触れた。
「治った……?」
「そのようですわね」
男が顔を上げる。
お嬢様を見る。
その隣に立つ悪魔を見る。
「あなたたちは……」
「通りすがりですわ」
「…………」
男は何かを言おうとして、やめた。
まだ状況を理解できていないらしい。
「病院……」
「はい?」
「病院に行った方が……」
「行きたいのでしたら、行けばよろしいのでは?」
「でも……家にも帰った方が……」
「そうですわね」
「仕事も……ずっと休んでて……」
「…………」
お嬢様は首を傾げた。
「それを、なぜ私に?」
「え?」
「それはあなたが決めることではございませんこと?」
男は黙った。
「治すかどうかは、私が決めましたわ」
お嬢様は淡々と言う。
「でも、その後どうするかまで、私が決める必要はありませんでしょう?」
「…………」
「あなたのことでしょう?」
「……はい」
「でしたら、お好きになさればよろしいかと」
男はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございました」
「ええ」
お嬢様はそれだけ答えた。
「では、参りましょうか」
「はい」
悪魔はいつものように、その後ろについていく。
二人は男を残して歩き始めた。
しばらくして、お嬢様が口を開く。
「治りましたわね」
「はい」
「随分と簡単に」
「はい」
「あなた、本当に便利ですわね」
「ありがとうございます」
「今回は褒めておりますわ」
「それは何よりです」
お嬢様は少し笑った。
それから、後ろを振り返る。
男はまだ同じ場所に立っていた。
けれど、もう水を求めてはいなかった。
「……まあ」
お嬢様は前を向いた。
「あとは、あの方のことでしょう」
「はい」
それから二人は、いくつもの場所へ行った。お嬢様が行きたいと言えば、悪魔はどこへでも連れていった。
山へ行った。
雪原を歩いた。
高い崖の上から景色を眺めた。
そして、また海へも行った。
その日は、人の少ない静かな海だった。お嬢様は靴を脱ぎ、波打ち際を歩いていた。
「やはり海はよろしいですわね」
「お気に召されたようで」
「ええ」
お嬢様は水平線を見る。
「向こうまで行ってみたいですわ」
「かしこまりました」
悪魔が手を差し出した。
お嬢様はその手を見る。
「何をなさるの?」
「向こうへ」
「今すぐ?」
「はい」
「…………」
お嬢様は少し考えた。
「それは、つまらないですわ」
「そうですか」
「ええ」
お嬢様は海を見る。
「船をお願いできます?」
「かしこまりました」
海の上に、小さな船が現れた。
「まあ」
お嬢様は嬉しそうに乗り込む。
悪魔も続いた。
しばらく海を進む。
風が気持ちいい。
波で船が揺れる。
お嬢様は甲板から海を眺めていた。
「悪魔」
「はい」
「海の上を歩くこともできますの?」
「できます」
「では、やってみたいですわ」
「かしこまりました」
二人は船を降りた。
お嬢様の足が水面に触れる。
「…………」
沈まない。
一歩。
もう一歩。
水の上を歩いている。
「ふふっ」
お嬢様は少し先まで歩いていった。
「不思議な感じですわね」
「はい」
「走っても?」
「問題ございません」
お嬢様は少し走ってみる。
水面を蹴るたび、小さな波紋が広がった。
「これは面白いですわ!」
しばらく遊んでから、お嬢様は立ち止まった。
空を見上げる。
「では……」
「はい」
「飛ぶことも?」
「できます」
「やってみましょう」
「かしこまりました」
身体が、ゆっくりと浮かび上がった。
「まあ……」
海が遠ざかる。
船が小さくなる。
さらに高く。
風を感じながら、お嬢様は空を進んでいく。
「ふふっ」
楽しそうに笑う。
「これはいいですわね」
「お気に召しましたか?」
「ええ」
お嬢様は眼下の海を見る。
「瞬間移動より、こちらの方がよろしいですわ」
「なぜでしょう?」
「だって」
お嬢様は前を見る。
遠くに陸地が見えている。
「ちゃんと途中がありますもの」
「途中、ですか」
「ええ」
「すぐ着いてしまっては、つまらないでしょう?」
「そういうものですか」
「そういうものですわ」
お嬢様は少し速度を上げた。
「ほら、参りますわよ」
「はい」
空から街が見えてきた。
お嬢様の笑顔が、少しだけ消える。
「…………」
以前とは様子が違っていた。
道路には車が少ない。
閉まっている店もある。
大きな交差点の近くには、人だかりができている。
遠くでは救急車が走っていた。
さらに別の場所では、警察車両が道路を塞いでいる。
「……随分と変わりましたわね」
「はい」
二人は少し離れた場所へ降りた。
街を歩く。
店先には、
『飲料水 完売』
と書かれた紙。
自動販売機も売り切れている。
給水所には長い列。
以前より、明らかに人々が苛立っていた。
「押すな!」
「並んでください!」
「水をよこせ!」
怒鳴り声。
少し離れた場所では、誰かが地面に倒れている。
その横を救急隊員が走っていく。
「…………」
お嬢様は周囲を見た。
「まだ収まっていませんのね」
「はい」
「むしろ、酷くなっているような」
「そうですね」
そのとき。
遠くから大きな声がした。
「そっちへ行かせるな!」
数人の警察官が、一人の男を追いかけていた。
男は汗だくで走っている。
「水!」
警察官の制止を振り切る。
「水! 水!」
男が向かっている先には、小さな川があった。
お嬢様はその様子を見つめる。
「……皆さん、水のある方へ向かうのですね」
「はい」
「どうして止めておりますの?」
悪魔は男たちを見る。
「感染を広げないためでしょう」
「水に近づくだけで?」
「感染者が水へ入れば、その水を介して広がる可能性があります」
「まあ」
お嬢様は川を見る。
警察官たちは必死に男を取り押さえていた。
「それは困りますわね」
「はい」
「だから、水場を守っているのですか」
「そのようです」
お嬢様は少しだけ考えた。
だが、それ以上は尋ねなかった。
さらに歩いていると、声を掛けられた。振り返ると、一人の女性が立っていた。
「お願いします! 助けてください!」
「……私が?」
「はい! 家族が感染してるんです!」
「なぜ?」
「え……?」
「なぜ、私が助けるのです?」
「だって……治せるんでしょう!?」
「ええ。治せるそうですわ」
「だったらお願いします! 家族を助けてください!」
お嬢様は少し考えた。
「……治った後は、どうするんですの?」
「え?」
「治したとして。その後は?」
「それは……家に戻って……」
「また感染するかもしれませんわよ?」
「…………」
「水も足りないのでしょう?」
「……はい」
「では、治した後はどうなさるの?」
女性は答えられなかった。
お嬢様はしばらく女性を見る。
「まあ、いいですわ」
悪魔を見る。
「治せますの?」
「はい」
「では、治して差し上げて」
「かしこまりました」
家の中には、三人の感染者がいた。
皆、汗を流し、水を求めている。
悪魔が手を向ける。
ほどなくして、三人とも静かになった。
「……治った」
女性が泣きながら家族に抱きつく。
「ありがとうございます……本当に……」
「ええ」
お嬢様は軽く頷いた。
「では」
「え?」
「私たちは参りますわ」
「あの……」
女性が戸惑ったようにお嬢様を見る。
「これから、どうしたら……」
お嬢様は少し首を傾げた。
「それは、皆さんでお決めになればよろしいのでは?」
「…………」
「もう治ったのでしょう?」
「はい……」
「でしたら」
お嬢様は微笑んだ。
「お元気で」
それだけ言って、家を出た。
悪魔が後ろからついてくる。
「よろしかったのですか?」
「何が?」
「何も仰らなくて」
「何を言うのです?」
「例えば、安全な場所へ移動するように、と」
「まあ」
お嬢様は少し考えた。
「それを決めるのは、あの方々でしょう?」
「はい」
「でしたら、私が決めることではありませんわ」
「かしこまりました」
お嬢様は歩き続ける。
少し先で、また救急車のサイレンが聞こえた。以前なら、一台走れば目立っていた。今では、どこから聞こえているのか分からないほどだった。
それでも。
お嬢様はまだ、この世界が終わるとは思っていなかった。
屋敷へ戻ったあと。
お嬢様はいつものように薬を手に取った。
一粒、口に入れる。
紅茶で流し込む。
「お嬢様」
「何かしら?」
「そちらは、治さなくてよろしいのですか?」
お嬢様の手が止まった。
「……私の病気?」
「はい」
「治せますの?」
「はい」
やはり、返事は簡単だった。
お嬢様は少し考える。
「完全に?」
「お望みでしたら」
「そう」
カップを置く。
「では、苦しいのは嫌なので、それはどうにかしてくださいな」
「かしこまりました」
「それと……少しくらい、進むのを遅くしてくださっても構いませんわ」
「どの程度でしょう?」
「そうですわね」
お嬢様は少し考えた。
「私が十分に楽しめるくらい」
「かしこまりました」
「でも、完全には治さなくて結構ですわ」
「よろしいのですか?」
「ええ」
お嬢様は自分の手を見る。
「姿も、このままがいいのですけれど」
「かしこまりました」
悪魔が手を向ける。
何かが光るわけでもない。
音がするわけでもない。
ただ、それだけだった。
「終わりました」
「そう」
お嬢様は自分の身体を確かめる。
「これで苦しくありませんの?」
「はい」
「病気は?」
「残っております」
「そう」
お嬢様は満足そうに紅茶を飲んだ。
「では、それで結構ですわ」
◇
それから数日が経った。
感染症は、収まらなかった。
むしろ、日に日に広がっていた。
街から水が消えた。
店の棚から飲料水がなくなっただけではない。公園の水道には使用禁止の札が掛けられ、噴水は止められている。川沿いには柵が置かれ、警察官が立っていた。
湖や貯水池へ続く道も、次々と封鎖されている。
『感染者を水源へ近づけないでください』
『河川、湖、貯水施設への立ち入りは――』
街頭の画面から、同じ注意が何度も流れていた。
お嬢様はそれを眺める。
「随分と厳しくなりましたわね」
「はい」
「感染した方が水に入ると、広がるのでしたわね」
「はい」
「飲んでも?」
「感染する可能性があります」
「触れるだけでも?」
「状況によります」
「まあ」
お嬢様は少し考える。
「では、水があるのに飲めないのですね」
「そうなります」
「困った病気ですこと」
二人は歩き出した。
以前は人で溢れていた通りも、随分と静かになっている。
営業している店は少ない。
学校は休校。
会社も、多くが休業しているらしい。
それでも人はいる。
マスクをつけて歩く者。
水を抱えて急ぐ者。
家族と電話をしている者。
救急車も走っている。
警察もいる。
まだ、街は動いていた。
「あら」
お嬢様が足を止めた。
少し先。
一人の男が、建物の壁にもたれていた。
「…………」
見覚えがある。
「悪魔」
「はい」
「あの方」
「以前、治した方ですね」
「やっぱりそうですわね」
最初に出会った感染者だった。
お嬢様は男へ近づく。
「ごきげんよう」
男が顔を上げた。
「……あなた」
「またお会いしましたわね」
「あ……」
男は何か言おうとして、咳き込んだ。
「…………」
お嬢様は男を見る。
額には汗。
荒い呼吸。
乾いた唇。
そして、男の手には空になったペットボトルが握られていた。
「まさか」
「……また、なんです」
男は力なく笑った。
「治ったと思ったのに……」
「また感染しましたの?」
「多分……」
お嬢様は悪魔を見る。
「そうなの?」
「はい」
「一度治しても、もう感染しないわけではないのですね」
「はい」
「そう」
男がまた咳き込む。
お嬢様は少し考えた。
「では、もう一度治して差し上げて」
「かしこまりました」
悪魔が手を向ける。
男の呼吸が落ち着いていく。
汗が止まる。
「……あ」
男は喉に触れた。
「また……治った」
「そのようですわね」
「ありがとうございます……」
「ええ」
男は深く頭を下げた。
そして、今度は何も尋ねなかった。
どこへ行くのか。
何をすればいいのか。
それを、お嬢様に聞くことはなかった。
「では」
お嬢様は歩き出す。
「お気をつけて」
「……はい」
二人は再び街を歩く。
「悪魔」
「はい」
「私も感染しますの?」
「します」
「まあ」
お嬢様は自分の身体を見る。
「もう感染しております」
「…………」
足が止まった。
「いつ?」
「先ほどです」
「先ほど?」
「はい」
お嬢様は振り返る。
先ほどの男が、遠くに見える。
「……あの方から?」
「はい」
「まあ」
お嬢様は少し驚いたようだった。
それから、自分の額に触れる。
「まだ何ともありませんわね」
「症状が出るまでには時間がございます」
「そう」
お嬢様は少し考えた。
「治せますの?」
「はい」
「では、お願いしますわ」
「かしこまりました」
悪魔が手を向ける。
「終わりました」
「早いですわね」
「はい」
お嬢様は何度か自分の身体を確かめる。当然ながら、何も変わったようには見えない。
「これで感染しておりませんの?」
「はい」
「そう」
再び歩き出す。
しばらくして、お嬢様が口を開いた。
「……面倒ですわね」
「そうですね」
「治しても、また感染する」
「はい」
「私も、また感染することがありますの?」
「ございます」
「そのたびに治せる?」
「はい」
「そう」
お嬢様は少し黙った。
道の向こうを、給水車が走っていく。その後ろを救急車が追い越していった。
「治せるからといって、終わりではありませんのね」
「はい」
お嬢様は街を見る。
閉じた店。
封鎖された水道。
水を抱えて歩く人々。
遠くから聞こえるサイレン。
「…………」
少し前まで。
この騒ぎも、そのうち収まるものだと思っていた。
けれど。
初めてほんの少しだけ。
お嬢様は、そうではないのかもしれないと思った。
◇
それから、さらに時間が経った。
街を歩く人は、日に日に減っていった。最初に閉まったのは、小さな店だった。
次に飲食店。
それから、大きな商業施設も営業時間を短くし、やがて扉を閉ざした。
電車の本数が減った。
バスも減った。
道路を走る車も少なくなった。
病院の前には人が溢れ、救急車のサイレンだけが以前より増えている。感染者数を伝えていたニュースは、いつしか死者数を伝えるようになっていた。お嬢様は屋敷の窓から、外を眺めていた。
「今日は静かですわね」
「はい」
「最近、車の音がほとんどしませんわ」
「そうですね」
お嬢様は紅茶を飲む。
屋敷の中は、以前と変わらない。
電気がつく。
水も出る。
食事もある。
紅茶もある。
だが、街ではそうではなかった。
『――一部地域で断水が発生しています』
『物流の停滞により、食料品および生活必需品の供給が――』
『不要不急の外出を控え――』
画面の中では、同じような言葉が繰り返されている。
「水だけではなくなってきましたわね」
「はい」
「食べ物も?」
「不足しているようです」
「そう」
お嬢様はテーブルを見る。
焼き菓子が置かれている。
「私にはありますわね」
「はい」
「これは、屋敷にあったもの?」
「いいえ」
「あなたが?」
「はい」
「そう」
一つ取って食べる。
「美味しいですわ」
「ありがとうございます」
お嬢様はもう一つ取った。
翌日。
二人は街へ出た。
以前なら人で埋まっていた大通りを、数えるほどの人しか歩いていない。閉まった店のシャッターには、張り紙が増えていた。
『当面の間、休業いたします』
『商品の入荷は未定です』
『営業再開時期未定』
お嬢様は一枚ずつ眺めながら歩く。
「お買い物もできませんわね」
「はい」
「映画館も?」
「閉まっております」
「ホテルは?」
「多くは営業を停止しております」
「旅行も難しくなりましたわね」
「通常の方法では」
お嬢様が悪魔を見る。
「通常の方法では?」
「お嬢様がお望みでしたら、どこへでも」
「ああ」
お嬢様は納得した。
「そうでしたわね」
二人は歩き続ける。
しばらくして、お嬢様が指を折り始めた。
「お店が閉まっても」
「はい」
「食事は出せますわね?」
「はい」
「水も?」
「はい」
「服も?」
「はい」
「泊まるところがなくても?」
「ご用意できます」
「移動手段がなくなっても?」
「問題ございません」
「電気がなくなっても?」
「問題ございません」
「…………」
お嬢様は指を止めた。
「では」
「はい」
「私、何も困りませんの?」
「はい」
悪魔はいつも通り答えた。
「まあ」
お嬢様は周囲を見る。
閉まった店。
止まったバス。
空になった自動販売機。
遠くを、荷物を抱えた人が歩いている。
「皆さん、大変そうなのに」
「はい」
「私には、あまり関係ありませんのね」
「お嬢様がお望みになるものは、ご用意できますので」
「そう」
お嬢様は少し考えた。
「世界中を旅行することも?」
「できます」
「海の上でも?」
「はい」
「空でも?」
「はい」
「月でも?」
「はい」
「…………」
少しだけ笑う。
「本当に、何も困りませんわね」
「はい」
その日の帰り。
二人は歩いて屋敷へ向かっていた。
瞬間移動でもよかった。
飛んでもよかった。
けれど、お嬢様が歩きたいと言ったので、歩いている。
道の途中。
お嬢様がふと悪魔を見る。
「そういえば」
「はい」
「あなた、ずっとおりますわね」
「はい」
「最初から」
「はい」
「…………」
お嬢様は少し考えた。
「私、あなたと何か契約をしました?」
「いいえ」
「しておりませんわよね」
「はい」
「魂を差し上げるとも言っていませんし」
「はい」
「いつまでいなさい、と決めたわけでもありませんわね」
「はい」
お嬢様は足を止めた。
悪魔も止まる。
「では」
「はい」
「あなた、帰ろうと思えば帰れますの?」
「はい」
「…………」
お嬢様は悪魔を見る。
「帰らないの?」
「今のところは」
「なぜですの?」
「お嬢様がお望みですので」
「でも、それは契約ではないでしょう?」
「はい」
「命令でも?」
「ございません」
「…………」
お嬢様は少し黙った。
これまで、考えたことがなかった。
朝になればいる。
出かければついてくる。
願えば叶える。
それが、いつの間にか当たり前になっていた。
「では、私が明日ここにいてほしいと思っていても」
「はい」
「あなたが帰りたいと思えば、帰れるのですね」
「はい」
「そう」
お嬢様は再び歩き出した。
悪魔もついてくる。
「それなら、それで結構ですわ」
「よろしいのですか?」
「何がですの?」
「私が帰っても」
「嫌ですわ」
即答だった。
悪魔がお嬢様を見る。
「それは、感染症のためですか?」
「まあ、それもありますけれど」
お嬢様は少し考えた。
「つまらなくなってしまうことの方が嫌ですわ」
「つまらなく?」
「ええ」
お嬢様は悪魔を見る。
「あなたが来てから、退屈しておりませんもの」
「そうですか」
お嬢様は前を向いた。
「でも」
お嬢様は前を向いたまま続ける。
「あなたが帰ると決めたのでしたら、仕方ありませんでしょう?」
「…………」
「私があなたと契約しなかったのですもの」
少し間を置く。
「それで困ることになったとしても、私が選んだことですわ」
「そうですか」
「ええ」
お嬢様は振り返る。
「でも、今日は帰りませんでしょう?」
「はい」
「でしたら、問題ありませんわ」
また前を向く。
「帰ったら紅茶をお願いしますわね」
「かしこまりました」
二人は並んで、静かな道を歩いていった。
◇
翌朝。
お嬢様は庭にいた。
薔薇園には、今日も花が咲いている。
最初に悪魔へ願ったもの。
あれから随分と時間が経ったような気もする。お嬢様は白い椅子に座り、紅茶を飲んでいた。悪魔はいつものように、そのそばにいる。
「…………」
お嬢様は薔薇を見る。
「悪魔」
「はい」
「以前、あなたに聞いたことがありましたわね」
「何でしょう」
「あなた自身は、何か欲しいものはないのか、と」
「はい」
「あのときは、特にないと仰いましたわ」
「はい」
お嬢様はカップを置いた。
「昨日、少し考えましたの」
「何をでしょう」
「あなたのことを」
「私の?」
「ええ」
お嬢様は悪魔を見る。
「私は、あなたに随分いろいろお願いしましたわね」
「はい」
「薔薇園」
「はい」
「紅茶」
「はい」
「服」
「はい」
「海へ行ったり」
「はい」
「月にも行きましたわね」
「はい」
「人を治していただいたこともありますわ」
「はい」
「…………」
お嬢様は少し考える。
「でも、あなたは何もお願いしませんわね」
「そうですね」
「願いを叶えるのがお好きなのでしょう?」
「はい」
「では――」
お嬢様は首を傾げた。
「貴方の願いは?」
「…………」
悪魔は答えなかった。
お嬢様は待つ。
「…………」
少し長い。
「あら?」
「…………」
「ありませんの?」
「分かりません」
お嬢様は目を瞬いた。
「分からない?」
「はい」
「以前は、特にないと仰ったでしょう?」
「はい」
「今は?」
「分かりません」
「…………」
お嬢様は悪魔を見る。
いつもなら、何を聞いてもすぐに答える。
できる。
できない。
知っている。
知らない。
それだけだった。
こんなふうに答えに迷う悪魔を見るのは、初めてだった。
「不思議ですわね」
「申し訳ございません」
「なぜ謝りますの?」
「お答えできませんでしたので」
「別に構いませんわ」
お嬢様は紅茶を一口飲む。
「分からないものは、仕方ありませんもの」
「はい」
「でも」
カップを置く。
「お分かりになりましたら、教えてくださいまし」
「私の願いを?」
「ええ」
「なぜでしょう」
「聞いてみたいからですわ」
「…………」
「私はあなたにお願いしてばかりでしょう?」
「はい」
「ですから、一度くらいは逆でも面白いかと思いまして」
「そうですか」
「ええ」
お嬢様は少し笑った。
「そのとき、私に叶えられるものでしたら考えて差し上げますわ」
「考える、ですか」
「当然でしょう?」
お嬢様は澄ました顔で紅茶を飲む。
「何でも叶えるとは言っておりませんもの」
「そうですね」
「ええ」
風が吹く。
薔薇が揺れた。
お嬢様はしばらく庭を眺めていた。
やがて、遠くから救急車の音が聞こえた。
一台。
それが消える前に、もう一台。
「…………」
お嬢様は庭の向こうを見る。
「今日も多いですわね」
「はい」
「街へ行ってみましょうか」
「よろしいのですか?」
「ええ」
お嬢様は立ち上がった。
「昨日より、どうなったのか気になりますもの」
「かしこまりました」
街には、以前よりも多くの救急車が止まっていた。
だが。
動いていないものも多かった。
「あら」
お嬢様は一台の救急車を見る。
運転席には誰もいない。
病院の前には人がいる。
けれど、以前のように列を作ってはいなかった。
地面に座っている者。
横になっている者。
壁にもたれている者。
そして。
動かない者。
「…………」
お嬢様は足を止める。
少し先。
歩道に人が倒れていた。
誰も近づかない。
「亡くなっておりますの?」
「はい」
「そう」
少し歩く。
また一人。
その先にも。
「増えましたわね」
「はい」
お嬢様は悪魔を見る。
「人は、死ぬのでしたわね」
「はい」
「私も」
「はい」
お嬢様は前を向く。
しばらく歩いた。
「…………」
そして、何気ない調子で尋ねた。
「あなた、死にますの?」
悪魔は少し考えた。
「分かりません」
お嬢様が悪魔を見る。
「また分からないの?」
「はい」
「まあ」
少しだけ笑う。
「今日は分からないことばかりですわね」
「申し訳ございません」
「だから、謝らなくて結構ですわ」
二人は再び歩き出した。
◇
二人は街を歩き続けていた。
以前なら、信号が変わるたびに大勢の人が行き交っていた道。
今は、ほとんど誰もいない。
風が吹く。
道路の上を、紙袋が転がっていった。
「悪魔」
「はい」
「先ほど、死ぬかどうか分からないと仰いましたわね」
「はい」
「そもそも」
お嬢様は悪魔を見る。
「あなた、生きておりますの?」
「…………」
悪魔は少し考えた。
「存在はしています」
「存在」
「はい」
「生きている、ではなく?」
「人間と同じ意味で生きているかと問われますと、少し違います」
「まあ」
お嬢様は悪魔を眺める。
見た目だけなら人間の男と変わらない。
歩く。
話す。
紅茶も淹れる。
「では、あなたは生きているのではなく、存在している?」
「そうなります」
「変なの」
「悪魔ですので」
「それを言われると何でも済んでしまいますわね」
「そうかもしれません」
お嬢様は少し笑った。
道の途中。
一台の車が止まっていた。
ドアは開いたまま。
中には誰もいない。
お嬢様はその横を通り過ぎる。
「では、私は?」
「お嬢様?」
「私も存在している?」
「はい」
「生きてもいる?」
「はい」
「そう」
数歩進む。
「……存在はしていますわね」
「はい」
「なんだか妙な言い方ですわ」
「お嬢様がおっしゃったのですが」
「そうでしたわね」
お嬢様は気にせず歩き続けた。
「では、もう一つ」
「はい」
「あなたは老いますの?」
「いいえ」
「老いない?」
「はい」
「ずっと、その姿?」
「通常であれば」
お嬢様は足を止めた。
「通常であれば?」
「はい」
「では、変わることもありますの?」
「可能性としては」
「そう」
お嬢様は悪魔の顔を見る。
最初に召喚した日から、何も変わっていない。
「便利ですわね」
「そうでしょうか」
「だって、歳を取らないのでしょう?」
「はい」
「私は歳を取りますわね」
「はい」
「あなたは取らない」
「はい」
「…………」
お嬢様は悪魔を眺めた。
「では、いつか随分と違ってしまいますわね」
「そうですね」
「…………」
また歩き出す。
しばらくして。
お嬢様は何かを思いついたように悪魔を見る。
「……あなたも」
「はい」
「老いたほうがよろしいのではなくて?」
「…………」
悪魔は答えなかった。
「あら?」
「…………」
「嫌なの?」
「分かりません」
「また?」
「はい」
「まあ」
お嬢様は少し笑った。
「本当に分からないことが増えましたわね」
「申し訳ございません」
「謝らなくていいと、先ほど言ったでしょう?」
「はい」
「もう」
お嬢様は前を向いた。
それ以上、その話をすることはなかった。
お願いしたつもりだったのか。
ただ思ったことを口にしただけなのか。お嬢様自身も、特に考えてはいなかった。
二人は街を抜けた。
遠くに高速道路が見える。
走っている車は、ほとんどない。
「こちらから帰りましょうか」
「高速道路を?」
「ええ」
「歩いて?」
「もちろん」
お嬢様は少し楽しそうに言った。
「今なら、歩いても怒られないでしょう?」
「おそらくは」
「では、決まりですわ」
二人は高速道路へ向かった。
道路へ上がる。
車は来ない。
何車線もある広い道路を、二人だけで歩いていく。
「ふふっ」
お嬢様は道路の真ん中を歩いていた。
「一度やってみたかったのです」
「そうでしたか」
「普通ならできませんもの」
「はい」
しばらく進む。
やがて。
「……あら?」
お嬢様が足を止めた。
前方に、車が見えた。
一台ではない。
十台。
数十台。
さらに、その向こうにも。
「事故ですの?」
「違うようです」
すべての車が、同じ方向を向いて止まっていた。
乗り捨てられた車。
ドアが開いたままの車。
まだ中に人がいる車もある。
そして。
車列の間を、大勢の人が歩いていた。
皆、同じ方向へ。
「…………」
お嬢様はその先を見る。
「皆さん、どちらへ向かっておりますの?」
「この先に、大きな湖があります」
「湖?」
「はい」
お嬢様は歩いていく人々を見る。
手には空の容器。
ペットボトル。
ポリタンク。
バケツ。
「……水ですのね」
「はい」
お嬢様は車列の先を見る。
「では」
少しだけ興味を示す。
「私たちも行ってみましょうか」
「かしこまりました」
二人は、人々と同じ方向へ歩き始めた。
◇
車列は、どこまでも続いていた。
二人はその横を歩いていく。
車の中でぐったりしている人。
荷物を抱えて歩く人。
子供の手を引く人。
空のポリタンクを引きずる人。
皆、同じ方向へ進んでいる。
「随分と遠いですわね」
「もう少しです」
「皆さん、ここまで歩いておりますの?」
「車が動かなくなった方も多いのでしょう」
「大変ですわね」
お嬢様は歩き続ける。
やがて、道路の先が開けた。
「……まあ」
湖が見えた。
大きな湖だった。
そして。
その周囲を、人が埋め尽くしていた。
「…………」
お嬢様は足を止める。
数百人。
いや、それ以上。
湖岸には車が乗り捨てられ、そこから先は人で溢れている。
水を汲む者。
その場で飲む者。
服のまま湖へ入っていく者。
倒れている者。
怒鳴っている者。
泣いている者。
そして。
水の中にも、大勢の人がいた。
「すごいですわね」
「はい」
「皆さん、水を?」
「はい」
一人の男が湖へ駆け込んでいく。
膝まで。
腰まで。
そのまま水に顔をつけた。
飲む。
何度も。
何度も。
別の女性は、ペットボトルに湖の水を詰めている。その隣では、子供が両手ですくって飲んでいた。
「…………」
お嬢様はその光景を眺める。
「止める方は、もういないのですね」
「はい」
以前なら、水辺には警察官がいた。
柵があった。
立ち入りを止める者がいた。
今は、何もない。
「これでは、感染が広がるのではなくて?」
「広がるでしょう」
「でも、皆さん飲んでおりますわね」
「飲まなければ生きられませんので」
「飲めば感染する」
「はい」
「飲まなくても死ぬ」
「はい」
「…………」
お嬢様は少し考えた。
「困りましたわね」
「はい」
二人は湖のそばまで歩いた。
近くで見ると、水は濁っていた。
人が大勢入り込んでいるせいだけではない。
水面に何かが浮いている。
お嬢様はしゃがみ込んだ。
「…………」
水を見る。
何かが動いたような気がした。
「悪魔」
「はい」
「この病気」
「はい」
「水を求めるのでしょう?」
「はい」
「感染した方は、異常なほど喉が渇く」
「はい」
「そして、水に入ると感染が広がる」
「はい」
お嬢様は湖を見る。
水の中には、感染者が大勢いる。
「…………」
少し考える。
「これは、寄生体ですの?」
「はい」
「まあ」
お嬢様は立ち上がった。
「病気ではなかったのですね」
「感染症ではあります」
「そういうものなの?」
「はい」
「では、この方々は」
湖の中にいる人々を見る。
「寄生されている?」
「はい」
「それで水を求めているの?」
「はい」
悪魔は湖を見る。
「宿主を水辺へ向かわせる性質があります」
「宿主?」
「感染した人間です」
「なるほど」
お嬢様は再び湖を見る。
「人間を使って、水へ戻るのですね」
「はい」
「そして、また別の人がその水を飲む」
「はい」
「よくできておりますわね」
「そうですね」
「褒めているわけではありませんわよ」
「はい」
しばらく湖を眺める。
「悪魔」
「はい」
「あなた、このことをご存じでしたの?」
「はい」
「いつから?」
「最初からです」
「…………」
お嬢様が悪魔を見る。
「最初から?」
「はい」
「では、最初にニュースを見ていたときも?」
「はい」
「私が感染したときも?」
「はい」
「このようになることも?」
「ある程度は」
「…………」
お嬢様は少し考える。
「では、なぜ教えてくださらなかったの?」
「お尋ねになりませんでしたので」
「…………」
お嬢様は悪魔を見る。
悪魔もお嬢様を見る。
「そう」
それだけだった。
「そういえば、以前も」
「はい」
「あなたなら分かるのでは、と聞きましたわね」
「はい」
「そのとき、お尋ねになりますか、と聞かれましたわ」
「はい」
「私、聞きませんでしたわね」
「はい」
「…………」
お嬢様は少し笑った。
「では、私が悪いですわね」
「そうは申し上げておりません」
「そう?」
「はい」
「まあ、いいですわ」
お嬢様は湖へ視線を戻した。
水を求める人々は、今も次々と湖へ入っていく。
水を飲む。
容器へ詰める。
倒れる。
その横を、別の人が通り過ぎる。
「悪魔」
「はい」
「この方々、治せますの?」
「はい」
「全員?」
「はい」
「この湖も?」
「元に戻せます」
「そう」
お嬢様は人々を見る。
「治しますか?」
悪魔が尋ねた。
「…………」
お嬢様は少し考えた。
「いいえ」
「かしこまりました」
「私が治しても、また同じでしょう?」
「可能性は高いかと」
「でしたら、結構ですわ」
お嬢様は湖を眺める。
しばらくして。
「少し疲れましたわ」
「お休みになりますか?」
「ええ」
悪魔が手を差し出した。
湖畔に、白いテーブルが現れる。
二脚の椅子。
ティーポット。
カップ。
お嬢様はそれを見る。
「…………」
「何か?」
「いいえ」
椅子に座る。
「もう慣れましたわ」
「そうですか」
「ええ」
悪魔も向かいに座った。
お嬢様は紅茶を一口飲む。
湖では、今も人々が水を求めていた。
叫び声が聞こえる。
泣き声も。
水をかき分ける音も。
お嬢様はその光景を眺めながら、静かに紅茶を飲んでいた。
◇
湖を離れた頃には、日が傾き始めていた。
二人は街へ戻った。
「…………」
お嬢様は辺りを見回す。
「暗いですわね」
「はい」
まだ夜ではない。
けれど、街は妙に暗かった。
店の看板が消えている。
信号もついていない。
自動販売機の明かりもない。
「停電ですの?」
「はい」
「いつから?」
「今日の午後からのようです」
「まあ」
お嬢様は交差点を見る。
信号の消えた道路には、何台かの車が止まっている。
だが、動く車はない。
「電気も止まってしまいましたのね」
「はい」
「復旧は?」
「難しいでしょう」
「そう」
二人は暗くなり始めた街を歩いていく。以前なら、この時間から街は明るくなった。
店の看板。
ビルの窓。
街灯。
車のライト。
今は、そのどれもない。
聞こえるのは二人の足音だけだった。
「…………」
お嬢様は歩きながら周囲を見る。
「静かですわね」
「はい」
「こんなに静かになるものなのですね」
「人が少なくなりましたので」
「そう」
少し先。
コンビニの扉が開いたままになっていた。
中は暗い。
棚はほとんど空だった。
お嬢様は入口から中を覗く。
「誰もおりませんわね」
「はい」
「勝手に入っても怒られないかしら」
「怒る方はいないかと」
「それもそうですわね」
中へ入る。
何も買わず、少し見て回る。
「…………」
「いかがされました?」
「いえ」
お嬢様は空になった棚を見る。
「以前は、ここにたくさん並んでおりましたわね」
「はい」
「なくなると、随分広く見えますわ」
「そうですね」
二人は店を出た。
さらに歩く。
道路脇に、人が倒れている。
一人。
また一人。
お嬢様は以前のように、一人ずつ足を止めることはなくなっていた。
少し前なら、救急車が来た。
誰かが通報した。
警察官がいた。
今は、誰も来ない。
「…………」
お嬢様は空を見る。
日が沈んでいく。
「今日は、どこかに泊まりましょうか」
「屋敷へ戻られないのですか?」
「せっかくですもの」
お嬢様は暗い街を見る。
「電気の消えた街というのも、見てみたいですわ」
「かしこまりました」
二人は近くにあったホテルへ向かった。
入口の自動ドアは動かなかった。
「開きませんわ」
「停電しておりますので」
「そうでしたわね」
お嬢様は少し考える。
「入れます?」
「はい」
悪魔が扉へ手を向ける。
扉が開いた。
「便利ですわね」
「ありがとうございます」
「褒めておりますわ」
「それは何よりです」
中へ入る。
ロビーは暗かった。
誰もいない。
フロントにも。
ソファにも。
エレベーターも動いていない。
「部屋は使えますの?」
「はい」
「では、一番いいお部屋を」
「かしこまりました」
「こういうときくらい、よろしいでしょう?」
「お嬢様がお望みでしたら」
「ふふっ」
最上階。
広い部屋だった。
大きな窓から、街が見える。
お嬢様は窓辺に立った。
「…………」
暗い。
どこまでも。
ところどころに小さな明かりが見える。
懐中電灯。
車のライト。
蝋燭らしき光。
だが、それだけだった。
「綺麗ですわね」
「そうですか?」
「ええ」
お嬢様は窓に手を触れる。
「いつもと全然違いますもの」
しばらく眺める。
「悪魔」
「はい」
「お風呂は?」
「ご用意できます」
「食事も?」
「はい」
「紅茶も?」
「もちろん」
「では、お願いしますわ」
「かしこまりました」
翌朝。
お嬢様はカーテンを開けた。
「…………」
昨日よりも、静かだった。
道路に人影はない。
動く車もない。
「悪魔」
「はい」
「皆さん、どこへ行ったの?」
「水のある場所へ向かった方が多いようです」
「湖?」
「湖や川などへ」
「そう」
お嬢様は街を見る。
「…………」
窓の下。
道路脇に人が倒れている。
動かない。
その少し先にも。
「亡くなっている?」
「はい」
「そう」
お嬢様はしばらく見ていた。
「悪魔」
「はい」
「あなたなら、この方々を助けられるのでしょう?」
「はい」
「今からでも?」
「はい」
「…………」
お嬢様は少し考えた。
「助けますか?」
「お嬢様がお望みでしたら」
「そう」
窓の外を見る。
「今日は結構ですわ」
「かしこまりました」
悪魔はそれ以上、何も言わなかった。
しばらくして。
お嬢様が尋ねる。
「あなたは、どう思っておりますの?」
「何についてでしょう」
「人が死んでいくこと」
「…………」
悪魔は少し考えた。
「私は人間ではありませんので、人間と同じようには感じません」
「そう」
「ですが」
悪魔はお嬢様を見る。
「お嬢様がお気になさるのであれば、私も気にいたします」
「…………」
お嬢様は悪魔を見る。
「それ、あなたがどう思っているかの答えになっておりませんわ」
「そうかもしれません」
「もう」
お嬢様は小さく笑った。
再び窓の外を見る。
「まあ、いいですわ」
街は静かだった。
昨日まで聞こえていたサイレンも。
人々の声も。
もう、聞こえなかった。
しばらくして。
「そういえば」
「はい」
「あなたがいなければ、私も水を求めていたのでしょうね」
「はい」
「湖へ行ったり?」
「おそらくは」
「まあ」
お嬢様は昨日の湖を思い出した。
水へ入っていく人々。
何度飲んでも、まだ水を求めていた人々。
「私も、あの中にいたかもしれませんのね」
「はい」
「…………」
お嬢様は少しだけ考えた。
「不思議ですわね」
「何がでしょう?」
「同じ病気なのに、私はこうしてここにいる」
お嬢様は悪魔を見る。
「あなたがいるというだけで」
「はい」
「…………」
再び街を見る。
「本当に、私は困りませんのね」
「はい」
「そう」
お嬢様はそれ以上、何も言わなかった。
「残っている方は?」
「おります」
「どのくらい?」
「かなり少なくなりました」
◇
ホテルを出た二人は、街を歩いた。
昨日よりも静かだった。
信号は消えたまま。
店も閉まったまま。
道路には、動かなくなった車が残されている。
「今日は、どちらへ?」
「そうですわね」
お嬢様は辺りを見回した。
「少し歩きましょうか」
「かしこまりました」
二人は街を歩いていく。
しばらくして。
小さな公園の前を通った。
「あら」
お嬢様が足を止める。
以前、子供たちが遊んでいた噴水。
水は出ていなかった。
「停電だから?」
「それもあります」
「それも?」
「はい」
お嬢様は噴水を見る。
底には、少しだけ濁った水が残っている。
「水もありませんの?」
「少なくなっています」
「そう」
二人は再び歩き出した。
住宅街。
道の脇に、バケツや鍋が並んでいた。
空だった。
家の前には、ペットボトル。
ポリタンク。
水を入れられそうなものが、いくつも置かれている。
「雨を待っていたのかしら」
「そうでしょう」
「降りませんわね」
「はい」
空は晴れていた。
街を抜ける。
橋に差しかかったところで、お嬢様は立ち止まった。
「…………」
下を見る。
「この川」
「はい」
「こんなに浅かったかしら?」
「以前は、もっと水がありました」
「やっぱり」
川底が見えていた。
水は細く流れているだけだった。
ところどころ、完全に地面が露出している。
「どうして?」
「使われた水が、戻らなくなっているからでしょう」
「戻らない?」
「はい」
お嬢様は川を見る。
「人が飲んだから?」
「それだけではありません」
「では?」
「多くの生き物が、水を求めています」
「生き物?」
「人間だけではありません」
「…………」
お嬢様は悪魔を見る。
「動物も感染するの?」
「種類によっては」
「まあ」
川岸を見る。
鳥が何羽か集まっていた。
わずかに残った水を飲んでいる。
「では、皆で水を使っている?」
「はい」
「それで減っているのね」
「それだけでもありません」
「まだありますの?」
「はい」
「何ですの?」
「雨がほとんど降っていません」
「そういえば、最近見ておりませんわね」
「はい」
お嬢様は空を見る。
雲はほとんどなかった。
「それも、この寄生体のせい?」
「直接ではありません」
「では、偶然?」
「そうとも言えます」
「…………」
「運が悪いですわね」
「はい」
二人は橋を渡った。
さらに歩く。
道の脇には、枯れ始めた草が増えていた。
街路樹の葉も萎れている。
「植物も困りますわね」
「水が必要ですので」
「人も」
「はい」
「動物も」
「はい」
「寄生体も?」
「はい」
お嬢様は足を止めた。
「寄生体も水が必要なの?」
「はい」
「では」
少し考える。
「水がなくなったら、この方々も困るのではなくて?」
「そうなります」
「自分たちで水をなくして、自分たちも困る?」
「結果としては」
「まあ」
お嬢様は少し呆れたように言った。
「随分と考えなしですわね」
「生き物ですので」
「そういうものなの?」
「そういうものもおります」
「そう」
お嬢様は納得したような、していないような顔で歩き出した。
昼を過ぎた頃。
「喉が渇きましたわ」
「はい」
悪魔が手を差し出す。
冷たい紅茶の入ったグラスが現れた。
「ありがとう」
お嬢様は受け取る。
一口飲む。
「…………」
周囲を見る。
枯れた草。
空の水路。
水の出ない蛇口。
その中で、グラスには冷たい紅茶が入っている。
「あなた」
「はい」
「これ、水から作っておりますの?」
「はい」
「どこの?」
「どこのものでもありません」
「そう」
お嬢様はグラスを見る。
「では、本当に関係ありませんのね」
「何がでしょう?」
「世界から水がなくなっても」
「お嬢様がお望みでしたら、ご用意できます」
「海がなくなっても?」
「はい」
「川も?」
「はい」
「湖も?」
「はい」
「…………」
お嬢様は紅茶をもう一口飲んだ。
「やっぱり、私だけ困りませんのね」
「はい」
「変な感じですわ」
それでも、グラスを返すことはなかった。
夕方。
二人は街から離れた場所を歩いていた。
お嬢様が、ふと立ち止まる。
「悪魔」
「はい」
「以前の池」
「はい」
「覚えております?」
「もちろん」
「行ってみましょうか」
「かしこまりました」
二人の姿が消える。
次の瞬間。
森の中。
以前訪れた場所だった。
お嬢様は前を見る。
「…………」
何も言わなかった。
そこにあったはずの池は。
もう、ほとんど残っていなかった。
◇
それから、さらに時間が経った。
水は減り続けた。
川は細くなり。
湖は小さくなり。
やがて、街の中から水の流れる音が消えた。
そして。
人の姿も、ほとんど見なくなった。
「…………」
お嬢様は街を歩いていた。
隣には、いつものように悪魔がいる。
「誰もおりませんわね」
「はい」
道路には車が残っている。
店もある。
ビルもある。
看板もある。
けれど、動いているものがない。
二人の足音だけが響いていた。
「以前は、ここも随分とうるさかったですわね」
「はい」
「車もたくさん走っておりましたし」
「はい」
「人もたくさん」
「はい」
お嬢様は交差点の真ん中で立ち止まった。
信号は消えている。
どこを見ても、人はいない。
「…………」
しばらく待ってみる。
何も起こらなかった。
「本当に来ませんわね」
「はい」
「一人くらい、来てもよろしいのに」
「そうですね」
また歩き出した。
以前訪れた店の前を通る。
扉は開いたままだった。
中を覗く。
「ここ、覚えております?」
「はい」
「紅茶を飲んだところですわ」
「そうですね」
「感染症のニュースを見ましたわね」
「はい」
「私、なんと言いましたっけ?」
「『まあ、私たちには関係ありませんわね』と」
「…………」
お嬢様は悪魔を見る。
「よく覚えておりますわね」
「はい」
「忘れてくださってもよろしいのですよ?」
「かしこまりました」
「本当に忘れられるの?」
「できます」
「では、やっぱり覚えておいてくださいな」
「かしこまりました」
「もう」
お嬢様は少し笑った。
二人は店を離れた。
街を歩く。
公園。
駅。
商店街。
住宅街。
どこにも人はいなかった。
「悪魔」
「はい」
「まだ、人はおりますの?」
「はい」
「どこに?」
「各地に」
「たくさん?」
「いいえ」
「そう」
お嬢様は前を見る。
「では、私たちが会わないだけなのね」
「はい」
「…………」
少し歩く。
「会いに行くこともできますの?」
「できます」
「そう」
「行かれますか?」
お嬢様は少し考えた。
「いいえ」
「かしこまりました」
「会いたくなったら、そのときお願いしますわ」
「はい」
夕方になった。
空が赤く染まる。
「そろそろ帰りましょうか」
「屋敷へ?」
「ええ」
二人は街を振り返る。
建物だけが残っている。
「しばらく、遠くへ行くのはやめましょうか」
「かしこまりました」
「少し疲れましたわ」
「お運びしましょうか?」
「結構です」
お嬢様は歩き出す。
「今日は歩いて帰りますわ」
「はい」
屋敷へ戻る頃には、すっかり暗くなっていた。
門を開ける。
庭を通る。
薔薇園は、今も咲いていた。
お嬢様が最初に願った薔薇。
世界の水が減っても。
街から人が消えても。
そこだけは、最初の日と変わらなかった。
「…………」
お嬢様は薔薇園を見る。
「これは枯れませんのね」
「お嬢様がお望みでしたので」
「そうでしたわね」
屋敷へ入る。
その夜。
お嬢様はいつもの椅子に座っていた。
悪魔が紅茶を淹れる。
「どうぞ」
「ありがとう」
カップを手に取る。
一口。
「…………」
お嬢様はカップを置いた。
「お嬢様?」
「何かしら?」
「今日は、あまりお飲みになりませんね」
「そう?」
「はい」
「…………」
お嬢様は自分の手を見る。
「少し、疲れているだけですわ」
「そうですか」
「ええ」
立ち上がる。
「今日はもう休みますわ」
「かしこまりました」
二階へ向かう。
階段を上る途中。
お嬢様は一度だけ足を止めた。
それから、何事もなかったように歩き出した。悪魔は何も言わず、その後ろをついていった。
◇
翌朝。
お嬢様が目を覚ましたのは、いつもより遅い時間だった。
「…………」
カーテンの隙間から、明るい光が差し込んでいる。
時計を見る。
「あら」
もう昼近い。
身体を起こす。
少し重い。
けれど、苦しくはない。
痛くもない。
「悪魔」
「はい」
すぐに返事があった。
見ると、いつもの場所に立っている。
「おはようございます」
「おはよう」
「よくお休みでしたね」
「そうみたいですわね」
お嬢様はもう一度時計を見る。
「随分と寝ましたわ」
「はい」
ベッドから降りる。
立ち上がったところで、少しだけ足を止めた。
「…………」
「お嬢様?」
「何でもありませんわ」
そのまま歩き出した。
着替えて、一階へ下りる。
テーブルには食事が用意されていた。
「朝食?」
「昼食でも構いません」
「では、昼食ということにしましょう」
「かしこまりました」
お嬢様は席につく。
少し食べる。
紅茶を飲む。
また少し食べる。
やがて、手が止まった。
「…………」
皿には、まだ半分以上残っている。
「今日は、あまり入りませんわね」
「はい」
「まあ、そういう日もありますわ」
お嬢様は紅茶を一口飲んだ。
午後。
庭へ出る。
薔薇園の間を歩いていく。
世界から人が消え始めても、ここだけは以前と変わらない。
薔薇は咲いている。
風が吹けば、花が揺れる。
「…………」
しばらく歩いたところで、お嬢様は近くの椅子に座った。
「今日は疲れますわね」
「はい」
「昨日、歩きすぎたかしら」
「それもあるかもしれません」
「それも?」
「はい」
お嬢様は悪魔を見る。
少し考える。
「……病気?」
「はい」
「進んでおりますの?」
「少しずつ」
「そう」
お嬢様は自分の手を見る。
「遅くしてくださったのではなくて?」
「遅くしております」
「では、これでも遅い方なのね」
「はい」
「そう」
お嬢様は薔薇園へ視線を戻した。
風が吹く。
薔薇が揺れる。
「苦しくはありませんわ」
「はい」
「痛くもありませんし」
「はい」
「ちゃんとお願いした通りですわね」
「はい」
「でしたら、結構ですわ」
それで話は終わった。
しばらく二人で庭にいた。
「悪魔」
「はい」
「紅茶をお願いしますわ」
「かしこまりました」
白いテーブルに、ティーポットとカップが現れる。
お嬢様は紅茶を一口飲んだ。
「…………」
「いかがですか?」
「美味しいですわ」
「それは何よりです」
もう一口。
以前より、少しゆっくりと飲む。
「悪魔」
「はい」
「明日は何をしましょうか」
「何でも」
「それが一番困りますのよね」
「申し訳ございません」
「ふふっ」
お嬢様は空を見る。
雲ひとつない。
雨は、まだ降らない。
「まあ、明日になってから考えましょう」
「かしこまりました」
「暇になったら、何かお願いしますわ」
「はい」
お嬢様は椅子にもたれた。
薔薇園を眺めながら、ゆっくりと紅茶を飲む。
世界は静かになっていた。
お嬢様の身体も、少しずつ変わり始めていた。
けれど。
今日することは、昨日までとそれほど変わらなかった。
◇
それからも、日々は過ぎていった。
お嬢様は、ときどき屋敷を出た。
街へ行った。
海へ行った。
山へも行った。
以前訪れた場所へ、もう一度行くこともあった。
けれど。
人には会わなかった。
「今日も、誰もおりませんわね」
「はい」
ある日。
二人は海岸を歩いていた。
以前、大勢の人がいた海だった。
海の家は壊れかけている。
砂浜には、誰もいない。
「ここ、最初に来たところですわね」
「はい」
「最初は誰もいなくて」
「はい」
「私が、人のいる海へ行きたいと言いましたわ」
「そうでしたね」
「今は、お願いしても?」
「人のいる場所へ、ですか?」
「ええ」
「…………」
悪魔は少し黙った。
「難しくなりました」
「そう」
お嬢様は海を見る。
「では、結構ですわ」
「はい」
波が寄せる。
引いていく。
それだけだった。
別の日。
二人は街を歩いた。
以前より、建物が傷んでいる。
道路には草が生え始めていた。
「悪魔」
「はい」
「まだ、人はおりますの?」
「はい」
「そう」
お嬢様は少し考える。
「どこかには?」
「はい」
「では、まだおりますのね」
「はい」
それ以上は聞かなかった。
さらに時間が経った。
屋敷で過ごす日が増えた。
朝。
紅茶を飲む。
本を読む。
庭を歩く。
悪魔と話す。
気が向けば、どこかへ出かける。
そして、帰ってくる。
そんな日が続いた。
ある日の午後。
お嬢様は書斎で本を読んでいた。
「悪魔」
「はい」
「暇ですわ」
「何かいたしましょうか?」
「そうですわね」
本を閉じる。
「何か面白いものをお願いしますわ」
「かしこまりました」
「ただし」
「はい」
「私が見たことのないもの」
「承知いたしました」
しばらくして。
「…………」
「いかがでしょう」
「これは何ですの?」
「お嬢様が見たことのないものです」
「それは分かりますわ」
「はい」
「何なのかを聞いておりますの」
「説明いたしましょうか?」
「お願いしますわ」
悪魔が説明を始める。
お嬢様は聞く。
途中で質問する。
また説明を聞く。
やがて。
「ふふっ」
笑った。
世界から人が消えても。
退屈することはなかった。
さらに、長い時間が過ぎた。
ある朝。
お嬢様は庭に出た。
薔薇園の前には、いつものテーブル。
いつもの椅子。
いつもの紅茶。
「おはようございます」
「おはよう」
椅子に座る。
カップを手に取ったところで。
「…………」
お嬢様は悪魔を見る。
「悪魔」
「はい」
「こちらへ」
「はい」
悪魔が近づく。
お嬢様は、その顔をじっと見る。
「…………」
「何か?」
「少し屈んでくださる?」
「かしこまりました」
悪魔が屈む。
お嬢様は顔を近づけた。
「…………」
「お嬢様?」
「あなた」
「はい」
「髪」
「髪?」
「一本、白くなっておりますわ」
「…………」
悪魔は自分の髪に触れる。
「そうですか」
「そうですか、ではありませんわ」
「はい」
「あなた、老いないのではありませんでした?」
「通常であれば」
「そうでしたわね」
お嬢様は白い髪を眺める。
「では、これは?」
「分かりません」
「…………」
「また分かりませんの?」
「はい」
「まあ」
お嬢様は少し笑った。
「本当に、分からないことばかりになりましたわね」
「申し訳ございません」
「だから、謝らなくて結構です」
「はい」
悪魔が身体を起こす。
お嬢様はもう一度、その髪を見る。
「一本だけですわね」
「はい」
「明日には二本になっているかしら」
「分かりません」
「そう」
お嬢様は紅茶を飲んだ。
「では、見ていれば分かりますわね」
「はい」
「楽しみにしておきますわ」
「かしこまりました」
風が吹く。
薔薇が揺れる。
悪魔の髪に混じった一本の白が、わずかに動いた。お嬢様はそれを眺めながら、もう一口紅茶を飲んだ。
◇
それから、さらに時間が経った。
悪魔の白い髪は、少しずつ増えていった。
一本。
二本。
いつから数えられなくなったのか、お嬢様も覚えていない。お嬢様も、以前より長く眠るようになった。
庭を歩く時間も短くなった。
それでも。
朝になれば紅茶を飲み。
気が向けば本を読み。
悪魔と話した。
そんな日々が続いていた。
ある朝。
「…………」
お嬢様は目を覚ました。
何か音がする。
窓の外からだった。
小さな音。
何度も。
何度も。
「悪魔」
「はい」
「何の音?」
「雨です」
「…………」
お嬢様は身体を起こした。
「雨?」
「はい」
ベッドを降りる。
窓へ向かう。
カーテンを開けた。
「まあ」
雨が降っていた。
庭の土が濡れている。
屋敷の屋根から水が落ちている。
薔薇の花にも、雨粒がついていた。
「久しぶりですわね」
「はい」
「いつ以来かしら」
「かなり前になります」
「そうでしょうね」
お嬢様は窓を開けた。
雨の音が大きくなる。
冷たい空気が入ってきた。
手を外へ出す。
雨粒が掌に落ちる。
「…………」
「濡れますよ」
「雨ですもの」
「はい」
「濡れるものですわ」
「そうですね」
お嬢様は少し笑った。
雨は、その日だけでは終わらなかった。
次の日も。
その次の日も。
降ったり、止んだりを繰り返した。
乾いていた庭の土が水を含んだ。
枯れていた水路に、小さな流れができた。川にも、少しずつ水が戻っていった。
それから、また時間が経った。
ある日。
二人は屋敷の窓から外を眺めていた。
「……また、巡り始めたんですのね」
「はい」
雨は止んでいた。
雲の隙間から、淡い光が差している。
遠くの川には水が流れていた。
「湖も?」
「水が戻り始めています」
「そう」
「海もございます」
「それは、なくなっておりませんでしたでしょう」
「はい」
「もう」
お嬢様は少し笑った。
それから、外を見る。
「…………」
「どうされました?」
「いいえ」
川が流れている。
雨が降る。
水が溜まる。
以前なら、当たり前だったこと。
「……その水を待っている人は、もういないんですわね」
「はい」
お嬢様はしばらく黙っていた。
「不思議ですわね」
「はい」
午後。
「悪魔」
「はい」
「出かけましょう」
「どちらへ?」
「決まっているでしょう?」
「…………」
「池ですわ」
「かしこまりました」
二人は森へ向かった。
以前と同じ道。
けれど、歩く速度は以前より遅い。
悪魔も、それに合わせて歩いた。
木々の間を抜ける。
そして。
「…………」
お嬢様は足を止めた。
水があった。
まだ以前ほどではない。
けれど。
あの池に、水が戻っていた。
「まあ」
お嬢様はゆっくりと近づく。
水面を見る。
雨粒が一つ落ちた。
小さな波紋が広がる。
「戻りましたわね」
「はい」
「ここも」
「はい」
お嬢様は池のそばに腰を下ろした。
「紅茶を」
「かしこまりました」
白いテーブルと、二脚の椅子が現れる。
悪魔が紅茶を淹れる。
お嬢様はカップを受け取った。
「ありがとう」
「はい」
二人は池を眺める。
誰もいない森。
戻ってきた水。
風に揺れる木々。
水面に落ちる雨粒。
「やっぱり」
「はい」
「ここ、綺麗ですわね」
「はい」
お嬢様は静かに紅茶を飲んだ。
◇
水が戻り始めてから、しばらく経った。
川は再び流れるようになった。
湖にも水が溜まり。
乾いていた大地には、少しずつ草が戻ってきた。
鳥の声を聞くことも増えた。
世界は、ゆっくりと変わっていた。
ある日。
二人は街へ出かけた。
「随分と緑が増えましたわね」
「はい」
道路のひび割れから草が伸びている。
歩道にも。
建物の隙間にも。
以前なら誰かが刈っていたものが、好きなように伸びていた。
「街なのか森なのか、分からなくなりそうですわ」
「いずれは、そうなるかもしれません」
「まあ」
お嬢様は少し楽しそうに辺りを見る。
「それはそれで、見てみたいですわね」
「はい」
二人は歩く。
店は残っている。
車も残っている。
家も。
信号も。
けれど、人はいない。
以前と違うのは。
そこに、植物が増え始めていることだった。お嬢様は一軒の店の前で足を止めた。
「あら」
「はい」
「ここ」
ガラスは割れている。
看板も傾いている。
中には草が生えていた。
「最初に感染症のニュースを見たところですわね」
「はい」
「随分と変わりましたわ」
「そうですね」
お嬢様は店の中を覗く。
あの日。
人がいた。
声があった。
画面にはニュースが流れていた。
今は、何もない。
「…………」
お嬢様はしばらく眺めていた。
「お嬢様」
「何かしら?」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「珍しいですわね」
「はい」
「何ですの?」
悪魔は少しだけ間を置いた。
「この世界を、元に戻しましょうか」
「…………」
お嬢様は悪魔を見る。
「元に?」
「はい」
「どこまで?」
「お望みのところまで」
「感染症が始まる前にも?」
「はい」
「人も?」
「戻せます」
「亡くなった方も?」
「はい」
「街も?」
「はい」
「水も?」
「はい」
「戻った方々の記憶は?」
「そのままです」
「まあ」
「皆さん、このことを覚えたまま?」
「はい」
「そう」
お嬢様は少し考えた。
「全部?」
「はい」
「まあ」
もう一度、街を見る。
「本当に何でもできますのね」
「お嬢様がお望みでしたら」
「そうでしたわね」
風が吹いた。
道路の草が揺れる。
どこかで鳥が鳴いている。
「…………」
お嬢様は長い間、街を眺めていた。
それから。
「いいえ」
悪魔を見る。
「このままで、結構ですわ」
「かしこまりました」
それだけだった。
二人は再び歩き出した。
少しして。
「理由は、お尋ねにならないの?」
「お尋ねした方がよろしいですか?」
「いいえ」
「では、お尋ねいたしません」
「そう」
お嬢様は少し笑った。
道路の真ん中を歩いていく。
以前、高速道路を歩いたときのように。もう、どこを歩いても怒る者はいない。
「悪魔」
「はい」
「帰ったら紅茶をお願いしますわ」
「かしこまりました」
「今日は、最初に出してくださったものがいいですわ」
「召喚された翌朝の?」
「ええ」
「覚えております」
「当然ですわ」
二人は、草の生えた街を歩いていった。
◇
それから、さらに時間が経った。
街の緑は増えていった。
道路を草が覆い。
建物には蔦が伸び。
人が作ったものは、少しずつ形を変えていった。
川には水が流れている。
湖にも水がある。
雨も、ときどき降った。
世界は、人がいなくても続いていた。
屋敷も、少しずつ古くなった。
壁には小さなひびが入り。
庭の木々は大きくなった。
それでも。
薔薇園だけは、変わらず咲いていた。
ある朝。
「悪魔」
「はい」
「紅茶を」
「かしこまりました」
悪魔が紅茶を淹れる。
お嬢様は椅子に座ったまま、それを眺めていた。
「…………」
「どうぞ」
「ありがとう」
カップを受け取る。
一口飲む。
「美味しいですわ」
「それは何よりです」
悪魔が向かいに座る。
お嬢様は、その顔を見る。
「…………」
「何か?」
「増えましたわね」
「何がでしょう?」
「皺」
「…………」
悪魔は自分の顔に触れた。
「そうですか」
「ええ」
「髪も、随分白くなりましたわ」
「はい」
「最初は一本でしたのに」
「そうでしたね」
「覚えておりますの?」
「はい」
「私も覚えておりますわ」
お嬢様は少し笑った。
「悪魔」
「はい」
「結局、どうして老いておりますの?」
「分かりません」
「まだ分かりませんの?」
「はい」
「まあ」
お嬢様は紅茶を飲む。
「随分と長く考えておりますのに」
「申し訳ございません」
「別に答えを急かしているわけではありませんわ」
「はい」
「ただ」
悪魔を見る。
「似合っておりますわよ」
「そうですか」
「ええ」
お嬢様は満足そうに頷いた。
「以前より、悪魔らしくないですわ」
「それは褒め言葉でしょうか」
「さあ?」
「分かりません」
「あら」
お嬢様が笑った。
「それは私の台詞ですわ」
「そうでしたか」
「ええ」
午後。
二人は庭を歩いた。
お嬢様の歩みは、以前よりずっと遅くなっている。
悪魔も同じ速さで歩く。
「…………」
お嬢様が立ち止まった。
「疲れましたわ」
「座りますか?」
「ええ」
近くの椅子に腰を下ろす。
悪魔も隣に立った。
「あなたも座れば?」
「よろしいのですか?」
「立っていたいのでしたら構いませんけれど」
「では」
悪魔も隣に座った。
二人で庭を見る。
「昔は、もっと歩けましたわね」
「はい」
「街も」
「はい」
「山も」
「はい」
「海も」
「はい」
「月にも行きましたわね」
「はい」
「…………」
お嬢様は空を見る。
青い空。
昼間なので、月は見えない。
「また行きたいですわね」
「いつでも」
「そうでしたわね」
お嬢様は少し考えた。
「では、そのうちお願いしますわ」
「かしこまりました」
夕方。
屋敷へ戻る。
階段の前で、お嬢様は足を止めた。
「…………」
「お嬢様?」
「階段というものは」
「はい」
「こんなに長かったかしら」
「以前と同じです」
「そう」
お嬢様は階段を見上げる。
「困りましたわね」
「お運びしましょうか?」
「…………」
少し考える。
「今日はお願いしますわ」
「かしこまりました」
悪魔がお嬢様を抱き上げる。
「あら」
「何か?」
「こういうこともできますのね」
「できます」
「知っておりましたけれど」
「はい」
「言ってみただけですわ」
「そうですか」
二階へ上がる。
お嬢様は悪魔の白くなった髪を見る。
「…………」
「何か?」
「いいえ」
少し笑う。
「随分、おじいさんになりましたわね」
「そうですね」
「私が言ったからかしら」
「分かりません」
「そう」
お嬢様はそれ以上聞かなかった。
その夜。
ベッドへ入る。
「悪魔」
「はい」
「明日も紅茶をお願いしますわね」
「かしこまりました」
「おやすみなさい」
「おやすみなさいませ」
灯りが消える。
世界には、もう二人の時間を急かすものはなかった。
それでも。
時間は、少しずつ進んでいた。
◇
ある日の午後。
お嬢様は窓辺の椅子に座っていた。
外では、雨が降っている。
以前なら珍しくもなかった雨。
今では、また時々見るようになった。
「悪魔」
「はい」
「紅茶を」
「かしこまりました」
悪魔がカップを置く。
「ありがとう」
お嬢様は両手でカップを持った。
少しずつ飲む。
悪魔は近くに立っている。
「…………」
お嬢様は悪魔を見る。
白くなった髪。
皺の増えた顔。
最初に現れた頃とは、随分と違う。
「座ったら?」
「はい」
悪魔が向かいに座った。
しばらく、雨を眺める。
「そういえば」
「はい」
「ずっと聞いておりませんでしたわね」
「何をでしょう?」
「あなたの願い」
「…………」
悪魔は黙った。
「覚えております?」
「はい」
「分かったら教えてください、と申し上げましたわね」
「はい」
「随分と時間が経ちましたけれど」
「そうですね」
お嬢様は紅茶を一口飲んだ。
「分かりましたの?」
「…………」
悪魔は少し考えた。
「はい」
「まあ」
お嬢様はカップを置いた。
「ようやくですのね」
「はい」
「では」
悪魔を見る。
「聞かせてくださいな」
「…………」
悪魔はお嬢様を見る。
「ここにいたいと思います」
「…………」
お嬢様は少し首を傾げた。
「ここ?」
「はい」
「屋敷に?」
「お嬢様のそばに」
「…………」
「それが、私の願いです」
雨の音だけが聞こえる。
お嬢様は悪魔を見ていた。
「まあ」
「はい」
「それだけ?」
「はい」
「随分と時間をかけて考えたわりには、簡単ですわね」
「申し訳ございません」
「謝るところではありませんわ」
「はい」
お嬢様は少し笑った。
「それに」
「はい」
「もう叶っておりますでしょう?」
「…………」
悪魔は少し考えた。
「はい」
「でしたら、私が叶えるまでもありませんわね」
「そうですね」
「せっかく、一度くらいはあなたの願いを叶えて差し上げようと思っておりましたのに」
「申し訳ございません」
「だから、謝らなくて結構です」
「はい」
お嬢様は窓の外を見る。
「でも」
「はい」
「それがあなたの願いなのでしたら」
カップを手に取る。
「お好きになさいな」
「…………」
「私は止めませんわ」
「はい」
「もっとも」
紅茶を一口飲む。
「今さら帰られても困りますけれど」
「帰りません」
「あら」
お嬢様が悪魔を見る。
「今回は、はっきり仰いますのね」
「はい」
「そう」
お嬢様は満足そうに笑った。
「では、結構ですわ」
しばらくして。
雨が弱くなった。
雲の切れ間から、少しだけ空が見える。
お嬢様はそこを眺めていた。
「悪魔」
「はい」
「明日」
「はい」
「月へ行きましょうか」
「かしこまりました」
「最初に行った場所へ」
「覚えております」
「テーブルも」
「はい」
「椅子も」
「はい」
「紅茶もお願いしますわ」
「もちろんです」
「では、決まりですわね」
「はい」
お嬢様は椅子にもたれた。
窓の外では、雨が止み始めていた。
◇
翌日。
「では、行きましょうか」
「はい」
お嬢様は悪魔の手を取った。
次の瞬間。
音が消えた。
灰色の大地。
黒い空。
遠くに見える、青い地球。
「…………」
お嬢様は辺りを見回した。
「久しぶりですわね」
「はい」
「変わりませんわね」
「はい」
「随分と時間が経ちましたのに」
「月ですので」
「そういうもの?」
「おそらくは」
「ふふっ」
お嬢様はゆっくりと歩き出した。
一歩。
また一歩。
「やっぱり軽いですわね」
「はい」
「最初に来たときは、もっと跳びましたわね」
「はい」
「今やったら転びそうですわ」
「お支えします」
「でしたら、少しくらい」
お嬢様は地面を蹴った。
身体がふわりと浮く。
「まあ」
悪魔が身体を支える。
ゆっくりと地面へ降りた。
「ふふっ」
「お怪我は?」
「しておりませんわ」
「それは何よりです」
「あなたがおりますもの」
「はい」
少し歩いたところで、お嬢様は足を止めた。
「疲れましたわ」
「では」
悪魔が手を向ける。
白いテーブル。
二脚の椅子。
ティーポット。
二つのカップ。
最初に月へ来たときと、同じだった。
「…………」
お嬢様はそれを見る。
「覚えておりますのね」
「はい」
「私はこちらに座りましたわ」
「はい」
「あなたは、そちら」
「はい」
「では」
お嬢様は椅子に座った。
「紅茶をお願いしますわ」
「かしこまりました」
悪魔が紅茶を注ぐ。
お嬢様はカップを受け取った。
一口飲む。
「…………」
「いかがですか?」
「美味しいですわ」
「それは何よりです」
「最初のときは」
「はい」
「月でも紅茶ですのね、と言いましたわね」
「はい」
「今では、ない方がおかしいですわ」
「そうですか」
「ええ」
悪魔も向かいに座った。
お嬢様は地球を見る。
「……綺麗」
青い星が浮かんでいる。
最初にここへ来たときと、ほとんど変わらない。
けれど。
夜の側に、人の作った光はない。
「…………」
「悪魔」
「はい」
「本当に、誰もいなくなりましたの?」
「はい」
「そう」
お嬢様は地球を見る。
「ここからでは」
「はい」
「何も変わっていないように見えますわね」
「そうですね」
「最初に来たときも、そう思いましたわ」
あそこにたくさんの人がいるなんて。
ここからでは、全然分からない。
あのときは、そう思った。
今は。
誰もいないことが、分からない。
「不思議ですわね」
「はい」
しばらく、二人で地球を眺めた。
「悪魔」
「はい」
「あなたも、老いましたわね」
「はい」
お嬢様は向かいに座る悪魔を見る。
白くなった髪。
皺の増えた顔。
最初に現れた頃とは、随分と違う。
「最初に会ったときとは、随分変わりましたわ」
「そうですね」
悪魔はお嬢様を見る。
「お嬢様は、お変わりありませんね」
「ええ」
お嬢様は自分の手を見る。
「そうお願いしましたもの」
「はい」
「あなたは随分変わりましたけれど」
「はい」
「結局、どうして老いたのか分かりませんでしたわね」
「はい」
「私が言ったからかしら」
「分かりません」
「そう」
お嬢様は少し笑った。
「まあ、いいですわ」
また、地球を見る。
「悪魔」
「はい」
「楽しかったですわね」
「はい」
「薔薇園も」
「はい」
「海も」
「はい」
「雪も」
「はい」
「月も」
「はい」
「世界がこんなことになってからも」
「はい」
「…………」
お嬢様は少し考えた。
「結局」
「はい」
「私、飽きませんでしたわね」
「はい」
「困りましたわ」
「なぜでしょう?」
「だって」
お嬢様は悪魔を見る。
「私が飽きるまで、ここにいなさいと言ったでしょう?」
「はい」
「これでは、いつまで経っても帰れませんわ」
「問題ありません」
「あら」
「ここにいたいので」
「…………」
お嬢様は少し笑った。
「そうでしたわね」
二人は紅茶を飲んだ。
青い地球を眺めながら。
急ぐこともなく。
話すことがなくなれば黙り。
何か思いつけば、また話した。
最初に月へ来たときと同じように。
ただ、二人で過ごした。
どれくらい、そうしていたのか。
分からない。
やがて。
月面には。
白いテーブルと。
二人分の椅子。
二つのカップだけが残っていた。
紅茶は、ゆっくりと冷めていく。
青い地球は。
何も知らないように、静かに浮かんでいた。




