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侯爵夫人の静かなる復讐

作者: ミソラ
掲載日:2026/08/15

 大陸の中央に位置する緑豊かなカーロイ王国。

 この国において指折りの大貴族であるオブリ侯爵は社交的で洒脱者。容姿端麗な上、三十七才という男盛り。朗らかで話題も多く、どこに行っても場の中心となる人物である。

 そんな彼は人生を謳歌していたが、ただ一つだけ不満があった。

 妻のアデールのことである。


 ミルクティー色の髪の毛に淡い青の瞳を持つアデールは、若い頃は美しかったものの、子を三人産んだ後はすっかり老け込んでしまい見るたびに憂鬱な気分になる。

 息子を二人と娘を一人産んだのだから、貴族の妻として役目も果たしたことだし今後も侯爵夫人として遇してやろうとは考えている。

 女として見ることはできないが。


 そうしてオブリ侯爵と侯爵夫人は形だけの夫婦となっていた。


 *


 ある朝、丘の上に建つオブリ侯爵邸に早馬が走り込んできた。

「旦那さまが大怪我を負いました!」


 オブリ侯爵は領地に戻ってきたばかりの一週間ほど前、旧知の仲のサンデル伯爵の別荘へ狩りのために赴いていた。

 意気揚々と出かけたオブリ侯爵は、早馬が着いてから半日後、大型の馬車に寝かされて帰ってきた。


 寝室のベッドに横たわるオブリ侯爵を見て、アデールは小さく「まあ」と声を出した。


「草むらに隠れていた石に蹄を滑らせた馬が倒れ、侯爵が背中から落ちたのです。こんなことになってしまい、どうお詫びしたらよいのか……」

 沈痛な顔をして手を震わせているサンデル伯爵にアデールは柔らかく声をかけた。

「事故ですわ。サンデル伯爵。あなたさまが気に病む必要はございません」

 アデールは視線を医師に移した。

「容態は?」

「どうやら首をやられているようで、首から下が動かないようです」

 アデールは再び「まあ」と呟いた。


 その場にいる者たちの視線がベッド上のオブリ侯爵に集中すると、オブリ侯爵が「うう、うあ……」と声を出した。

「喋れないのかしら?」

「一時的なものかもしれませんが、なんとも」

 医師が眉間に皺を寄せ、苦しそうに搾り出す。

「様子を見るしか」

「そうですか……」


 再び沈黙が落ちた。


「侍従長とラッセル、これから旦那さまのお世話をよろしくね」

「えっ……。あの、世話とは」

「体を拭いたり着替えさせたり。それから排泄、とか?」

「それは、私どもの仕事では……」

「貴族家からお預かりしている侍女たちにやらせるわけにはいかないし、旦那さまを平民のメイドや使用人に触れさせるわけにはいかないでしょう? あなたたちは旦那さまが信頼する側近なのだから旦那さまも安心でしょう。先生の指示をよく聞いてお世話してちょうだい」

 再び医師に視線を移すと医師は頷いた。

「そうですな。成人男性の世話は非力な女性には無理でしょう。痛み止めなどの薬の説明も、侍従長たちならば安心してできます」

 真顔になる侍従長とラッセルを見ないふりをして、アデールは医師に頷いた。

「よろしくお願いいたしますわ、先生。ではわたくしはこれから対処せねばならないことがありますのでこれで」

「奥さま! 事務処理ならばわたくしめも!」

 オブリ侯爵の補佐であるラッセルが声を上げたが、アデールは一蹴した。

「家令と事務弁護士がいれば問題ないわ。あなたは旦那さまの補佐ですもの。近くにいてらして。侍女長、あなたはわたくしについてきて」

「かしこまりました。奥さま」


 *


 医師も去り、静かになった寝室で侍従長とラッセルはどんよりとしていた。


「俺たちも貴族家出身なんだがなあ……」

「奥さま、他人事みたいだったよな」

「他人事だろ。もう十年、食事も一緒にしていないし、旦那さまがどれだけ女遊びしても無関心だった」

「まあなあ。旦那さまも隠していなかったし、奥さまも周囲から色々言われても気にしていなかった。大貴族らしいっちゃらしいが」

 

 オブリ侯爵は貴婦人のみならず侍女にもメイドにも手を出していた。彼女たちが世話をすればいいと二人は思っていたが、アデールは知っているからこそオブリ侯爵の世話を侍従長とラッセルに任せたのだろう。アレ(・・)は嫌味だ。

 

「事務の引き継ぎっていっても、旦那さまは遊んでばかりでほとんど奥さまが担っていたし今更やることなんてないんだぜ。マーカス坊ちゃんへの爵位継承も事務弁護士の仕事だしな」

 

 長男のマーカスは今年十四。家督を継ぐには早いが、不測の事態のためしばらくの間アデールが当主代理となり事務弁護士が処理をする。その後はアデールが後見としてマーカスを支える流れになるだろう。

 オブリ侯爵が回復すれば問題ないが、見る限りそれは奇跡に近い。

 

「お前、それなのに手伝うなんて言っていたのか。逃げるつもりだったんだな」

「はっはっはっ。それより臭くないか?」

「うえー」


 オブリ侯爵は聞いていた。

 言葉を発することはできなくても、耳は聞こえるし目も見えている。

 

 アデールが心配するそぶりも見せずに部屋から去っていたことに苛立ちを覚えたが、侍従長と補佐のラッセルの会話を聞くと情けなくなった。

 この二人は側近として長年信頼してきた。なのに目の前に主人が伏せっているというのに軽口を叩いている。

 そして今は文句を言いながらオブリ侯爵の体を転がしながら拭いている。これ以上の屈辱はないと怒りがふつふつとわいてきた。

(体が治って動くようになったら覚えておけよ)


 オブリ侯爵は体が元に戻ると信じて疑わなかった。マーカスはまだ子どもだ。家督を譲るわけにはいかない。

 前日までの輝かしい日々を全てを失うなど、とても考えられなかった。


 *


 その夜、侍従長もラッセルもいなくなった暗い部屋で、オブリ侯爵は体の痛みと熱に耐えていた。

 指先も動かせず、口から出るのはか細い呻き声だけ。


(なぜ誰もいないんだ。くそっ、身体中が熱くて痛い……)

 

 そこへ扉が開き、蝋燭の明かりが灯った燭台を持ったアデールが入ってきた。


 アデールが無言でオブリ侯爵の額に触れると、唯一動く頭部がぴくりと揺れる。

 アデールはサイドテーブルに置いてある布を取り侯爵の額の汗を押さえ、次に桶の水ですすいで絞って額にのせる。そして医師が処方した水薬を吸い飲みに入れて口の端にちょんちょんとつけた。オブリ侯爵はわずかに口を開け、薬を飲んだ。次にアデールは吸い飲みに水を入れ、オブリ侯爵に飲ませた。


 アデールが部屋を出ていった後、オブリ侯爵は詰めていた息を吐いた。しばらくすると水薬が効いたのか体が楽になった。水も飲んだことで体中が潤った気もする。

 

(あいつ、なぜ一言も話さなかったんだ。しかし看病し慣れているな)


 その後、オブリ侯爵はアデールの優しい手つきを何度も思い出していた。


 *


 翌日から見舞いの品が大量に届けられた。交友関係が広いオブリ侯爵であったから訪問の申し込みもたくさんあったが、侯爵の体調を考えて丁重に断っていた。オブリ侯爵自身も情けない姿を見せたくないので安堵していた。

 

 だが、その中で事情を知り罪悪感を持つサンデル伯爵のみが毎日面会した。


 *


 数か月が過ぎたが、オブリ侯爵は相変わらず首から下が動かず、言葉を発することができなかった。ただ、特注の車椅子ができたことで体を起こし、庭で外気を感じることはできるようになった。


 冬が終わり社交シーズンが始まる頃になると、サンデル伯爵も都に行かなければならなくなりオブリ邸に来ることがなくなった。


 退屈な日々の中、オブリ侯爵の楽しみはアデールが部屋を訪れる夜のひとときだった。

 アデールは毎晩オブリ侯爵の体調を観察し、世話に不備があると侍従長とラッセルに注意をした。

 最後に優しく額に触れて部屋を出ていく。それがオブリ侯爵にとって癒しの時間となっていた。


 オブリ侯爵は、アデールを目にすると嬉しそうに目を細め「アー……、アー……」と声をかけるようになった。

 アデールも目を細め、オブリ侯爵の髪を梳き優しく額に触れた。


 *


 ある夜、アデールが珍しくオブリ侯爵に話しかけた。

「マーカスへの爵位継承の準備が整いましたので、手続きのために当主代理であるわたくしも王都に赴くことになりました。帰りは二か月後になるでしょう」

 その言葉はオブリ侯爵、いや前侯爵となるジェイムズにとって絶望だった。日を追うごとに美しさを取り戻していくアデールの手が優しく額に触れることが何にも勝る喜びとなっていたのに、二か月も離れ離れになるなどと。

 爵位を失うことよりも社交界での立場を失うことよりも辛く悲嘆した。


「あう……、うう……」

 

 切なく唸るジェイムズにアデールは微笑んだ。

「明日、出立いたしますわ」


 *


「旦那さま、すっかり奥さまに依存していますわね」

 暗い廊下を歩くアデールの少し後ろでささやく侍女長にアデールは少し咎めるように名を呼んだ。

「マデラ」

「ふふっ、申し訳ございません」


 アデールは前を向き、小さく微笑んだ。


「明日から忙しくなるわ。王都に向かう準備はできていて?」

「ぬかりなく」


 アデールと侍女長は光りが満ちるエントランスの方に歩みを進めた。


【終わり】

良妻賢母として安泰!

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