淡いグリーンのスニーカーを履いた先輩を探した少年は、十数年後、その娘が同じ靴を履いて教授室のドアをノックする日が来るとは、知る由もなかった。
夢は壮大な幻想だ。
君よ、その壮大な幻想に立ち向かえ。
その情熱で幻想をブチ破れ。
トクメイ
高校生となって初めての国語の授業。
まだ新しい制服の硬い生地が肌に馴染まない、四月の少し肌寒い教室だった。窓から差し込む春の光には細かな埃が白く揺らめき、独特の緊張感が満ちている。
先生からいきなり出されたのは、自分に言いたいことを書けという漠然とした課題だった。通称・『君に届けろ(きみけろ)』という、どっかのアニメの題名そっくりのこの課題は、毎年の恒例の国語教師からの洗礼でもあった。これが意外に他の教師にも受けて、その年の学校祭では親達にも披露し、好評が持続していた。
そして、先生の恣意的な判断で、三十名ほどの生徒の言葉が廊下に張り出され、その中にペンネーム・トクメイの僕の言葉も存在していた。
僕の通っていた高校は、電車で一時間半乗って、駅から丘の頂上へ向かって三十分歩く距離にあった。片道二時間。
錆びた鉄の匂いと朝の湿った空気が充満する電車通学をする生徒は自ずとグループとなり、また、先輩が座れる車両、二年生、一年生が座れる車両が決められ、車内は、階級と序列を否応なしに認識させられるものとなっていた。
僕らが一年生の時から、電車通学する者の間で常に話題となっていたのが、グリーンシューズだった。
学校近くになって、四、五人の二年生の女子が乗車してくる。その中に、淡いグリーン色のスニーカーを履いた先輩がいた。綺麗で可愛くて、どことなく可憐なその容姿を見て虜にならない男はいない。悪友の林は、彼女をそう表現し、言葉にならない、いやむしろ言葉にしたくない。などと訳のわからないことをのたまわっていた。
そして、グリーンシューズとあだ名されたその先輩は、僕たちの間では、不可侵の存在として認識された。
友人と思われる、その四、五人の女子は、乗車してから必ず僕らが座っている座席の前を通って、違う車両に向かう。
僕らは、その僅かな十秒ほどの間に、グリーンシューズが通過して行く様子に一喜一憂し、今日、俺の方見たぞ、いや、俺の方だ。などとどうでもいいことで言い争い、しまいにその虚しい喧喧囂囂に飽きて、なんだか悲しい気持ちのまま学校へ向かうという日常を形成していた。
一年生の夏、僕たちのグループの一人が、意を決してグリーンシューズに手紙を渡した。
「僕はあなたを幸せにできる唯一の男です。どうかお付き合いください」
僕たちは、その古臭くてダサイ言葉と、玉砕覚悟の上の彼の行動自体を賛美したものの、万に一つも成就するはずもない彼の心に憐れみを感じざるを得なかった。
そいつに帰ってきた返信の手紙には「ごめんなさい」と一言書かれていた。
そいつは、一丁前に落胆していたが、その返信された手紙がグループ全員で取り合いになり、オプションにかけると本気で言うやつもいたが、その神聖な返信の手紙を汚してはいかんということで、結局ジャンケンで僕が勝ってしまい、その神聖なる物を所有しなければならなくなった。
僕自身はグリーンシューズに対して、個人的な感情は抱いていなかったし、むしろ、否応なく衆目の的となっている立場を気の毒だと思い、同情の目で彼女を見ていた。要するにグループの中では唯一冷めた目でグリーンシューズを見ていたのだ。
グループで、その返信の手紙を納めておく小さな神棚を作り、それを所有者である僕の家の机に置き、日々拝礼と感謝を捧よという掟が生まれた。ただ、グループのやつらが何時家に来るかわからないので、その神棚とやらを常に机の上に飾っておかなければならないことには閉口した。
一年生の冬、深々と雪が降る期末試験の最終日。
音のない世界が世界を白く塗りつぶしていくような、重苦しい雪だった。窓の外は、視界のすべてがミルク色の闇に没していく。大雪となる見込みで、試験が終わった僕たちは直ぐさま下校し、電車が止まってしまわない内に家に帰ってきた。
大きな団地の中の三階建のアパート。その三百一号室が僕の家だ。最上階と言ってもエレベーターも無い古いアパートでの暮らしには何らのメリットもなかった。
三つの部屋の間取りで、高校生になって一つの部屋を与えられた僕は、多少の後ろめたさもあったが、平穏を満喫できる環境に歓喜した。
雪は夕方になって小降りになり、夕日の中に舞い落ちる雪は、まるで桜が舞っているように見えた。
窓から舞い散る雪が窓ガラスに当たって、幾何学的な結晶となって消えていく。その繰り返しに虚しさを感じながら、この状況をメタファーでどう言い表すか、一種どうでも良いことにうつつを抜かしていた時。唐突にドアホンの音が鳴った。
静寂を引き裂くような甲高い電子音が、狭い部屋に響き渡る。どうせ宅急便だろうと思い込んだ僕は、いつも通り無造作に玄関ドアを開け、ついでに「ごくろうさま」と付け加えた。
外に立っていたのは、黒猫のマークを付けた制服のお兄さんではなく、見慣れている制服を着た女子だった。
冷気に乗って、ほんのりと甘いシトラスのような香りが、僕の狭い玄関に流れ込んできた。一瞬キョトンとした顔で僕を見つめていたその子は、息を整えてからゆっくりと「こちら、多田野シンさんのお宅でしょうか」
「え・・・・・」
よく見ると、その制服の女子は、自分と同じ高校の制服を着て、そして、濡れた雪に少し色を濃くしたグリーンのスニーカーを履いていた。
僕はあまりの唐突さに、「グリーンシューズ」と呻いて、キョトンとその子を見つめ続けた。
「えと・・・多田野シンさんの」
「ははぁい。こちら、ただのしんのお宅です」
それを聞いたその女子は、不安から解放されるようにいきなり両手で口に手をあてながらクスクスと笑いだした。
「・・・えと、なんで・・・」
「ごめんごめん、急に笑い出して、だって君、自分のことタダのシンですって」
「えと、だから僕の名前は多田野シンです・・・・あっ・・無料のシンではないですけど・・・」
それを聞いて益々笑いが止まらなくなったその女子は、半分笑ながら、「私、君の先輩の秋山ねね です」と挨拶した。
紛れもないグリーンシューズ。この時、初めてグリーンシューズの正体、というか本名を聞いて、今までなんで名前を知ろうとしなかったのか、不思議な感覚に陥った。
ちょっと、落ち着いた模様のグリーンシューズは、急に先輩の顔になってこう言った。
「君、私がどれだけ苦労して君を探し当てたか・・・知らないでしょ」
「えと・・・知りませんけど・・・」
グリーンシューズは、はぁと溜め息をついて、自分を家に入れることを要求してきた。
矢継ぎ早のいきなりの出来事に平常心を失っていた僕は、どうぞと言って、グリーンシューズを家に上げてしまった。
グリーンシューズは、無遠慮に家の中を見渡して、僕の両親は仕事でいつも帰りは夜遅くになること。僕に兄弟が居らず一人っ子であること。などなど、いきなりプライベートな事を聞いて、なるどほ・・・と一人で納得して、それから僕の部屋で話しをしようと言い出した。
ちょっとまて。
約束も何もなくいきなり人の家にやってきて、それで、いきなり自分の部屋に入れろって強要してきて、いったい、何なんだこの人。それもそうだが、グリーンシューズって、こういうキャラだったのだろうか。自分勝手に想像していたグリーンシューズ像とあまりに違っていて、そちらの方がショックが大きいかもしれない。
「いや、いきなり来て、それでいきなり自分の部屋へ入れろって・・・」
「だから、今からそれを話そうとしてるんでしょ。後輩君」
これじゃ埒が明かないと思った僕は、できるだけ早くお帰り願う為には、ここは我慢して言う通りにするのが得策か・・・と判断し、いやいやながら、グリーンシューズを僕の部屋に入れた。
「へぇ、男の子の部屋ってこういう感じなんだ」
といいつつグリーンシューズは、部屋の隅から隅まで観察している。
と、グリーンシューズの目がある一点に釘付けになり、数秒後、スタスタとその一点に向かって突進した。
「あっ、これ!」
そこには、例のグリーンシューズの返信の手紙が手作りの神棚に、あたかも御神体のように飾られている。
「なんですかこれ?これ、私が書いた手紙だよね。なんで君の部屋にあるわけ。そんで、なんで、神様のお供え物みたいに私の手紙置いてあるの?キモイんだけど!」
あっちゃーーーと心臓が飛び出る勢いで心で叫びながら、同時に必死に言い訳を考える。
「ふふぅーーーん。熱烈なラブレターの犯人は、君だったのかね?」
グリーンシューズは探るように僕に迫る。
「いや、先輩に渡した手紙に、差出人書いてあったでしょ」
「書いてなかったよ」
「でも、それを渡しに行ったやつは覚えてるでしょ」
「よくあることなんだけど、自分で手紙渡せないヘタレが、代役を立てて手紙の配達人になることって多いのよ。だから、その代役の人も当然名前なんか聞いてないし」
「よくあることって、そんなに頻繁に手紙もらってるんですか」
それには答えず、グリーンシューズは、僕のベットにドカンと座って、プイと怒り顔になって僕を見つめている。
「ヘタレめ。あの時ちゃんと名乗ってくれてたら、私、こんなに苦労しなかったのに」
はぁ・・・ なんだか、深いため息をついたグリーンシューズは、ここに来た経緯を話し始めた。
事の端緒は、入学して初めての国語の課題・『君に届けろ(きみけろ)』で張り出された僕の文章だったという。
著者はトクメイ(匿名)にしていた為、僕の名前が知られることは無かった。
夢は壮大な幻想だ。
君よ、その壮大な幻想に立ち向かえ。
その情熱で幻想をブチ破れ。
トクメイ
「私ね、あの文を見て、私自身のことを言われていると思ったのよ。だから、あの、きみけろを書いた生徒が誰なのか強烈に知りたくなって。それから、最後の一文について、どう解釈したらいいのか、書いた本人に聞いてみたいと思って、あの文章が掲載された時から作者を探していたのよ」
「はぁ。そうなんですか」
「はぁって君、私がどれだけ苦労したと思ってるの!」
ものすごい怒り顔で睨むグリーンシューズ。
「当然、国語の先生は教えてくれなかったし、一年生の担任の先生にもそれとなく聞いて見たんだけど、はっきり答えてくれる先生はいなかった。それで一度は諦めかけたんだけど、ある時、あの文章を自分の手でノートに書いてみたのよ。そしたら、なんかね。あの文章って、札幌農学校のクラーク博士の文章に似てると思ったのよ。クラークさんは明治初期の人で、日本が好きで日本の文化を知るために古典や漢文なんかを読むことが好きな読書家だった。ってことは、この文書を書いた生徒も前近代的な古文や漢文が好きで、少なくとも古文・漢文の授業は熱心に聞いている生徒や成績が良い生徒ということになる。
という推論から、私も尊敬している古文の先生の実能なら知っているはずだと思って、先生に、それまでの私の推論を披露して、あの文章の作者を先生は知ってるんじゃないのかって、聞いてみたのよ」
「・・・・・・・・」
「そしたら、実能先生、呆れ顔して、私の推論は正しいけれど、固有名詞は言えない。ただ、その子はあなたと同じ電車通学の子で、グループの子達の中で一番おとなしそうに見える男子。それで帰宅部の子だと思う。って教えてくれたの」
「実能・・・先生・・」
「そんでね。私、電車通学でグループで座っている子達のクラスを何とか聞いて、それで、その子達と同じクラスの女子達に、あの文章を書いた人の噂聞いてないかって、聞いて回ったのよ」
「はぁ・・・・」
「はぁって、君、それにどんだけ時間かかったと思ってんのよ」
「はぁ・・いや、はい」
「それで何名かに絞られて、最後に、古典の成績が一番良い子は誰っていうことで絞り込んだら、君の名前が判明したのよ」
「名前は分かっても、住所とかどうやって分かったんですか」
「私、生徒会の書記をしてるって知ってた?」
「はぁ。風の噂で」
「最後は、新生徒会の候補の生徒を絞ったのだけど、生徒の家が遠いとか、何かの事情があって支障が出てはまずいので、候補の生徒の住所だけは把握しておきたいって言って、生徒会の顧問の先生に、君の住所も教えてもらったの」
「そうなんですか。ごくろう様です。ですが、あの文章を書いたのが本当は僕じゃなかったらどうするんですか」
「いや、絶対に君さ。なぜなら、君は電車通学の時、いつも文庫本を開いていたし、時々教科書に出てくるような古文の文庫本も普通の小説のように読んでいた。それに、その他の子達は、あの文章を想像させる外観の子はいなかった」
「なにげに良く見てたんですね。僕の友達は、それ聞いたら喜びますよ」
「いや、それ違うし。私達一応女子んで、新入生が入ってきたら、どういう人物なのか、みんなで監視するのが常識なんだから」
「なんか、セキュリティ意識高いんですね」
「あたりまえね」
「その割に、初対面で得体の知れない僕の家に単身乗り込んでくるって、なんか大いなる矛盾を感じますけど」
グリーンシューズは、聞いていないふりをして、フンっと言って、だまりこんでしまった。
時計は八時半を過ぎている。
「先輩、白状すれば、あの きみけろ の文書の犯人は僕です。これで納得してくれますか」
「やっとはいたか。悪党め」
グリーンシューズは嬉しそうに僕の頭をぽんぽんと軽く叩いて笑っている。
「でも、先輩、これ以上の質問にも答えますが、後日にしてください。先輩のお家方面の電車の最終、九時ですよね。駅まで送って行くんで今日は帰りませんか?」
はぁと、大事なことに気づいたように、急にそわそわし出した先輩は、そそくさと帰り支度を始め、僕に「駅まで送ることを許す」と行って、急いで家を出た。
駅で別れ際に、君が再三言っていたグリーンシューズって何?と聞いてきた。僕は、それも後日に話すことを約束して、気をつけて帰ることに念を押した。
翌日から、電車通学仲間に昨日の出来事が発覚しないことを願いつつ、同時に、グリーンシューズが僕に接近もしくは何らかのアクションを取ることを考慮して、グループと居る時は、グリーンシューズの存在そのものを無視するように振る舞った。
グリーンシューズの方も、さすがに恐怖の女子世界でストレス耐性を身につけている様子で、僕が友人らと居る時は決して僕に近づいてくることは無かった。
平穏な日々が続き、桜が咲き始めた頃、真新しい制服を着た新入生が入学して、その後、新たな生徒会が発足された。グリーンシューズは、副会長に立候補し圧倒的多数で当確。ポンコツの生徒会長の傀儡とまで言われるほど、生徒会の運営を中心となって行っていた。
ある日、放課後、僕に生徒会室に来るよう校内放送が流れた。
同じく帰宅部の友人と別れて、何か嫌な予感を感じながら僕は生徒会室に向かった。
夕暮れ時の生徒会室は、チョークの粉っぽさと古い紙の匂いが漂っていた。窓から差し込むオレンジ色の斜光が、長机の上に不規則な影を落としている。
そこには、生徒会長、副会長二人、書記一人、会計一人、庶務二人の生徒が居り、グリーンシューズが司会で何かを議論していた。
僕が生徒会室に入ったとたん。グリーンシューズがいきなり言った。
「シン君遅いぞ!」
「はぁ?」
「君から提案のあった、公報担当だが、今決議をして、担当の創設とその担当者が君になった。いずれも君の望み通りになったぞ」
生徒達は、その言葉に促されて盛大に拍手している。
僕は、その様子を見て、グリーンシューズの企んだ企画案件が、僕を発起人として成立したというシナリオが遂行したのだと悟った。
「よ、よろしくお願いします」
これしか言いようのないように、議事は進んでしまっている。僕は、言いながらグ
リーンシューズの顔を睨んだが、グリーンシューズは全く無視して、生徒達に次々に僕を紹介して行く。
生徒会が散開となり、僕とグリーンシューズは一緒に学校を出た。
「何でだまっているのかね君」
「黙っているも何も、何も聞いてませんでしたけど」
「君、世の中そんなふうにできているんだ」
「ちょっと、何言ってるかわかんないですけど」
「世の中は理不尽でできてるんだ。理不尽に争っても理不尽な回答しか出ないことを、そろそろ学びたまえ」
「はぁ。別にいいんですけど、これは僕の勝手な言い分ですけど、僕が抱いていた理想を、見事に崩壊させないでください」
「なんですかね、そのチッポケな理想って、ちょっと語ってみて」
「初めからチッポケって決めつけないでください。僕の言う理想って、先輩に対しての理想ですよ」
「だから、聞かせて」
「先輩は、あくまでも可憐で、慎ましやかで、奥ゆかしくて、謙虚で、誰の心も傷つけないよう気を使える人」
「ふむ・・」
「だけど、現実の先輩は何事にも積極的で猪突猛進するタイプで、グイグイ人を引っ張っていってしまう勇猛果敢な人で、そこには可憐さや謙虚さなんて微塵も無かった」
「はぁ、それ理想ではなくて妄想じゃない?。君も見てくれに見事に騙された口かな?容姿と言動の不一致。大体の人はそれに気づいた瞬間に幻滅する。それってあまりに勝手で対象者に対して失礼すぎる。かってに理想を押し付けて勝手に幻滅して、最低だと思う。それに、君の言う理想って、そんな人間がいたとしたら逆に気持ち悪くない?。まぁでも、シン君だったら、いくらでも妄想してもよいよ。私が許可しよう」
「いや、もういいです。なんだか話しするのもバカバカしくなってきたし、勝手に理想を抱いていたのは僕だし、それが現実とは違うからって言って、先輩を非難するのもおかしな話しなんで」
「そか、納得してるんだったら、いいんじゃない。ただ、私は自分を隠したくないし、私は、どこまで行っても私でありたい」
「そうですか。それはそれで分かりましたが、かと言って、それに僕を巻き込むのもどうかと思います。その先輩の思惑を拒否できない自分にも腹がたってます」
「そうだよね。ごめんねシン君。でもね、今を生きている私たちの時間って、驚くほど早く進んでしまう。だから、その短くて濃密な時間に、君と一緒に居たいと思っただけ」
「んっ・・・・・・」
グリーンシューズは僕の方を見ないように、ちょっと俯いて、ぼそりとそう言った。
「・・なんで・・・」
「君が一年生で入学して直ぐに私たちを見つけたでしょ。それは、私たち、いへ、私も同じ。君が通学し始めて直ぐに君を見つけたし、いつかこうやって取り止めのない話ができることを願ってた。そして、なによりも、あの きみけろ の作者が君だって分かった時、こんな偶然ってあるんだって、ほんとに嬉しかった。それに、私の手紙を神様に捧げて大事にとっておいてくれたことも嬉しかったよ」
「ん・・・いや、あれは友人達の間で、なんやかやあって、僕が最終所有者になってしまって、それでああいうことに」
「知ってたよそれも、君を探していた時、君のクラスの女子の間では有名になっていた話で、私にラブレターを書いた犯人も分かってた。・・・君じゃなかったことが残念だったけど」
「・・・」
「・・・でもね、シン君。私が君を好きになったのは、そんな偶然や きみけろ の文章があったからだけじゃないんだよ」
グリーンシューズは急に真面目な顔になり、じっと僕の目を見つめた。
「電車のなかで、君の周りの男の子たちはいつも私を品定めするような目で見てだらしない騒ぎ方をしてた。正直、うんざりしてたの。でもね、君だけは違った。君はいつも、私を『一人の人間』としてどこか気の毒そうに、そっと労るような優しい目で見てくれていた。他の誰とも違う、冷めているけれど温かい、その眼差しがずっと救いだったの。それにね、君の友達が私にあのダサいラブレターを渡した時、周りの男の子たちはみんな面白がってはやし立てていた。だけど君だけは、決して笑わなかった。それどころか、フラれて落ち込む友達の肩をそっと叩いて、彼の傷ついた心を本当に心配そうに庇っていた。……私、それを見てたんだよ」
夕暮れの風が彼女の髪を揺らす。彼女の瞳には、真っ直ぐな光が宿っていた。
「みんなが私の『見栄え』という幻想に群がるなかで、君だけが私の置かれた不自由な立場に同情してくれた。そして、他人の痛みに寄り添える本物の優しさを持っていた。だから私は、君を探したの。きみけろの文章を書いたのがそんな君だと知った時、私は、自分がこれからの人生でどんな理不尽にぶつかっても、この人となら本当の自分でいられるって、心の底から確信したんだよ」
こうして、グリーンシューズと僕との関係は、思い込みや妄想を超えて、現実の距離感で成立するようになった。
僕とグリーンシューズとの関係は、生徒会という防波堤によって、通学グループや友人らに悟られずに推移した。
一方、一緒に居る時間が長くなるにつれ、グリーンシューズは自己顕示欲が強く、それに見合った努力も惜しまない、見た目の可憐さとは反比例する性格である一方、僕との関係で、意外にやきもち焼きで、嘘と分かりきっている噂も真剣に信じてしまう可愛いさも隠さない人だと分かり始めてきた。
僕は僕で、グリーンシューズが僕だけを見ていてくれることを望むようになり、僕の心の半分に、いつもグリーンシューズが居てくれていることに幸せを感じていた。
二年生の夏。僕はグリーンシューズの家に初めて行くことになった。夏休み前の期末試験の勉強を教えてもらう為だ。
行ってみて初めて知ったことだが、グリーンシューズの家は地域で代々に渡って引き継がれている歯科医院で、大きな屋敷の中の別棟が歯科医院になっていた。
重厚なマホガニーの扉を開けると、消毒液のツンとした匂いと、古いワックスの匂いが混ざり合った格式高い空間が広がっていた。床は歩くたびに微かにきしみ、歴史の重みを感じさせる。大きな玄関で迎えてくれたのは、ヒラヒラの衣装を着たグリーンシューズだった。あっけに捕られている僕に、やたらに嬉しそうなグリーンシューズは、僕を自分の部屋に誘った。
全く落ち着くことのできない僕にグリーンシューズは、古風な部屋の造りや装飾品なんかの説明をしている。
「で、デカすぎるんですけど」
「何が?」
「何がって、歯医者さんなんて聞いてないし。こんな大きな家見たことないし、それに、先輩の私服、テレビでしか見たことないような服で・・・」
「はいはい・・そうよね。でもうちが古くからの歯医者だってこと、私とシン君との関係には無関係でしょ。うちは、明治時代からこの地域の名主で、大正時代から歯医者の家系になって今に至ってるだけ。それに、私の服装。今日のために悩みに悩んで、シン君の好みそうなもの選んだだけだよ」
「そ、そうなんだ。なんか全部すごいね・・・」
それを見てグリーンシューズは嬉しそうに僕を見つめている。
午後四時を過ぎた頃、ちょっと早いけれど夕食を用意しているので食べて行ってと言われた。
普通に考えて、グリーンシューズが作ってくれた夕食が食べられるかと期待したが、招かれた食卓は、大きなテーブルに、ご両親と僕と同年代の女の子が既に座っていて、グリーンシューズは、それぞれに僕を紹介していった。
テーブルにはホークとナイフがたくさん並べられていて、もちろんカトラリーという言葉を知らない僕にとって、何でこんなに無駄な物が並べられているのか理解できなかった。
どうも、夕食はフルコースというものらしく、スープから出された物の食べ方を、小さな声でグリーンシューズから教えられながら、黙々と食べ進んだ。料理の味は全く覚えていない。
コースの最終でコーヒーが出された段階になって、父上からの質問攻めが始まった。
お父さんお母さんは何をしている人。どこに誰と住んでいるのか。学校での成績はどの程度。
僕はできるだけ、そつなく返答をしたつもりだったが、父上も母上も、つまらなそうに聞いていて、グリーンシューズの妹と紹介された、能面のように美しい子は最初から僕を無視しているような態度だった。
「それで、君はどの大学の歯学部に行くのかね」
「・・・・?」
「お父さん、そのへんでいいでしょ。初対面の人に失礼よ」
グリーンシューズは、その質問が出た瞬間に割り込んできた。
「そうはいかん。一番大事なことを聞くのは当たり前だと思うが」
「そうだけど、それは、今この場で必要なことだとは思わない」
ちょっと、話が見えなかったが、グリーンシューズが困っていることらしいので、僕は正直にこう言った。
「僕は、できれば古典文学の研究者、できれば大学で教鞭をとる仕事をしたいと思ってます」
それを聞いた父上、母上、妹の三人は、揃ってグリーンシューズの顔を見た。食堂の空気が一瞬にして氷結し、スプーンが皿に触れる微かな音さえも酷く大きく響いた。不思議なことに、グリーンシューズは誰とも目を合わせないように、俯いたままだった。
「そうか」
無感動に、父上が一言そう言うと、後は別のなんの意味も無い話題の中で食事は終わった。
帰り道、もより駅まで送ってくれたグリーンシューズと僕の先に広がっている茜色の夕日が唐紅の夕焼に変化して行く情景が綺麗すぎて、寂しさを覚えてしまう。
「ごめんね。失礼な家族で」
「そんなことないよ。僕がお父さんの立場なら、初めからもっと辛辣なこと聞くと思う」
「お父さん言ってことは分かるの。つまり、後継が必要だってこと。でも、私にも夢があるの」
「夢って?」
「大きな広告代理店でたくさんの人や企業の夢を実現するクリエーターになりたい」
駅で別れたグリーンシューズはいつもと違って、心なしか悲しそうだった。
十一月、秋風が初冬の冷たい風に入れ替わって、高く見えていた空にも低い雲が漂うようになっていた。
街路樹の葉はすっかり落ち、コンクリートの地面をカサカサと乾いた音を立てて転がっていく。夕暮れが訪れるのは驚くほど早くなり、空気は肌を刺すように冷たい。グリーンシューズは、最終的な進路を決定しなければならず、僕も今時点での進路希望を出さなければならない時期となった。
生徒会から引退したグリーンシューズは、僕の生徒会活動が終わるのをいつも待っていてくれて、一緒に帰宅するのが日常となっていた。
「ねぇ君、私と初めて会話した時の質問覚えてる」
「ん?えと、なんだっけ」
「例の きみけろ の君の文章に対する質問」
「あぁ・・・なんだっけ?」
夢は壮大な幻想だ。
君よ、その壮大な幻想に立ち向かえ。
その情熱で幻想をブチ破れ。
「この文章の最後の行の意味についてよ」
「そうだね。あの時は僕自身も解釈は受け手に委ねていたと思う」
「ゆだねるって?」
「幻想をぶち破ってどうするのか。ある人は、いつまでも幻を追いかけてないで、ぶち破って現実を見ろと考える。ある人は、幻想をぶち破って、見事に幻想を現実にしてしまう。つまり読み手によって解釈は変わっていいんじゃないのかって考えたんだと思う」
「君はどっちの方?」
「たぶんどっちも選ばないな。僕は堅実に生きるとか意外に嫌いなんだけど、夢だけは持っていたい。ただ、その夢は壮大で大それたものじゃなくて、ささやかだけど地に足のついた夢を追いかけて、けして壮大な幻想を抱かない」
「・・・・」
「先輩はどうなんですか。どういうふうに解釈したんですか」
「・・・・・まだ、わからない・・・」
それから受験を控えたグリーンシューズは登校日が極端に少なくなり、僕と実際に対面して会話をするのは、あの時の会話が最後になった。
メールでのやりとりは続いていたが、受験に忙しくなっているグリーンシューズからのメールは少なかった。
卒業式が矢継ぎ早に過ぎたものの、卒業式に列席していたグリーンシューズは確認したものの、会話をする機会は無かった。
グリーンシューズからメールで連絡があったのはゴールデンウィークの最中で、その内容も僕の知らないことだらけだった。
結局、親を説得して札幌の国立大学の経済学部・経営学科に入学したこと。札幌で一人暮らしするのも親と一悶着があり、やっと許してもらえたこと。札幌のアパートを探し、引越しを急いで行い、住んでいる環境になれない内に大学に通い始め、あっという間に時間が過ぎてしまった。という趣旨のメールだった。
次の年、僕は東京の大学の文学部へ進学することになった。
羽田行きの飛行機が並ぶ滑走路は、春の温かい日差しを浴びて陽炎が立っていた。旅立つ人々の慌ただしい足音が、出発ロビーの広い空間に反響している。
東京へ向かう日、空港にグリーンシューズが見送りに来てくれた。
「先輩、メールください」
「先輩じゃなく名前で呼んでくれたらメールしてもいいよ」
これが、グリーンシューズとの最後の会話だった。
時が過ぎ、グリーンシューズは大学を卒業し、僕は大学三年生になり、就職をせず、大学院に進学して研究職をめざそうとしていた。
ただ、それ以降グリーンシューズとのやりとりは途絶えてしまった。
一年後、グリーンシューズから唐突に手紙が届いた。
「私は、最後の一行の解釈でシン君の言った、一番目の答えを取りました。いえ、その答えに抗えなかったのです・・いつまでも幻を追いかけてないで、幻想をぶち破って現実を見ろ・・シン君は、ささやかだけど地に足のついた夢を追いかけて、そして、それを着実に実現していける人です。だから、夢を持ちづけてほしい」
その手紙を最後に、グリーンシューズとのやりとりは無くなった。
十数年後、グリーンシューズの実家の歯科医院が、人手に渡って、経営者が変わったと風の噂で聞いた。
当時の友人から詳しい事情を聞いてみると、先代の院長が亡くなって、長女が婿をとって、その後を引き継いでいたが、その婿が放蕩者で、亡き院長が残した資産を食い潰してしまった上に、歯科医院の経営を放棄して、行方をくらましてしまった。というのが事の概要であるらしい。
その長女とは、紛れもなくグリーンシューズのことだ。
グリーンシューズは、大学を卒業後も歯科医院の跡を継ぐことを親から強要されてきたが、なんとかそれに争っていたものの、父の突然の他界によって、全てが崩壊してしまった。
妹は既に結婚して一般の家庭の中で穏やかな生活を営んでいる。家を残していくこと、歯科医院の運営を持続する手段は、自分自身が、その役を担わなければならないと決意したグリーンシューズは、父が存命中から話を進めていた歯科医師との婚姻を受け入れるしかなかった。家族がかかえる不幸の是正と私の夢を天秤にかけた時、答えは自明の理だ。
歯科医師を婿に迎えて以降、グリーンシューズは、歯科医院の運営を一人でこなすようになっていた。婿になった男は、非常勤の医師に治療をまるなげして、自分は放蕩を繰り返すようになり、グリーンシューズは、運転資金の枯渇を避ける為、保有していた田畑を切り売りして、やっとの思いで生計を継続していた。
だが、その男は放蕩を繰り返した挙句、行方をくらましてしまい、跡に残ったのは莫大な借金だけだった。
その話を高校時代のグリーンシューズの学友から聞いたのは、それから数年してからのことだった。
僕は、いてもたってもいられず、その話を聞いた直後に北海道に飛び、グリーンシューズの家に向かった。
広大な田圃の一角に大きな屋敷があった。それが、今は跡形もなく、ただの田圃になっていた。
吹き抜ける風は冷たく、乾いた土の匂いだけが鼻腔をくすぐる。かつて名主として栄華を誇った名残はどこにもなく、ただ雑草がまばらに生える、荒涼とした平地が広がっているだけだった。空はあの時の様に、茜色の夕日が唐紅の夕焼に変化して行き、時の流れを拒むように僕を照らしていた。
なぜ、僕はもっと早く彼女を助けられるように動かなかったのだろうか。荒れ果てた土地を見つめながら、僕は自責の念に押し潰されそうになっていた。
当時の僕には、彼女の家が抱える「明治から続く地方の名家」という圧倒的な現実の質量に対抗する術など何一つなかったのだ。僕は古典の世界に閉じこもり、未来の保証もない一介の院生に過ぎなかった。億単位の借金や、地域社会とのしがらみ、そして彼女が血を流しながら選んだ「家を守る」という悲壮な決意に対して、僕が中途半端に介入することは、彼女の覚擁を侮辱することにしかならないと、当時の僕は思い込んでいた。
ロジックと古典の美に逃げ込み、「ささやかだけど地に足のついた夢」という自身の殻を守るために、僕は彼女の崩壊していく現実から目を背けたのだ。救い出す勇気を持てなかった己の卑怯さと無力さが、唐紅の夕焼けの中で、痛いほど僕の心を抉っていた。
晩年になったある日、僕はここ東都大学の古文学科の教授として、東京ビッグサイトで、古文学とAIについて相関的展示会という大規模なイベントの主催者となっていた。
何千人もの人々が行き交い、最新の電子機器の駆動音と熱気が巨大な空間を支配している。照明の白い光が容赦なく降り注ぐ、現代の象徴のような場所。
この大きなイベントには、他大学の同学の徒と、AI開発事業者、システム開発事業者、半導体開発事業者など、業界の大手企業が軒並み参加し、製品展示会と同時に古文学の学会の開催を予定していた。
大きなイベントの為、その企画と遂行を最大手の広告代理店・(株)電津に発注した。
正式に、今日はその(株)電津との初めての企画会議が予定されていた。
約束の午前十時ぴったりに、元気よく教授室のドアがノックされ、入ってきたのは、ロングヘアーを一本に束ね、キラキラした目を輝かせている若い女性だった。
その女性は、今回の企画を任せて頂いたことを光栄に感じ、全力でサポートさせていただきたい。これは主催者である先生の夢であると同時に私自身の夢の実現でもあります。と、闊達で明瞭な声音で、真っ直ぐに僕に宣言した。
僕は、その元気の良さに驚くと同時に、ずいぶん若い子だなぁとそちらにも驚きながらも、差し出された名刺を見て驚いた。
(株)電津・経営企画本部・プロダクトマネージャー・秋山めめ
そして、その子の足元を見ると、淡いグリーン色のスニーカーが目に飛び込んできた。
「・・え・・と、失礼かもしれませんが、あなたは、秋山ねねさんという方をご存知ないですか?」
「はい。秋山ねね は私の母です。ついでに、母も私もあだ名はグリーンシュ―ズです」
「・・・・・・・・」
「先生は、多田野シン先生ですよね」
「あっ、失礼したね。今名刺を切らしていて・・・・」
「かまいません。私、今日の日が来ることを夢みてました。それがこういう形で実現できるなんて、本当に夢みたいです」
「・・そ、そうなんですね・・」
「亡くなった母からいつも言われてました。あなたが本当に夢を実現したいと心から思った時、変わりたいと本当に思った時、多田野シン先生を頼りなさい。先生はきっと、それに応えてくれます・・・って」
「・・・・」
「『多田野先生はね、幻想だと思われていたものを、すべて現実の力に変えて、学問の頂点にまで登りつめた、誰よりも強くて誠実な人なんだよ』――母は病床で、私の手を握りながらそう言っていました。母は、自分の人生を理不尽な現実によって潰されてしまったことをずっと悔やんでいました。自分の代で『広告代理店でクリエーターになる』という夢をブチ破られ、名家という幻想の犠牲になってしまったからこそ、娘の私にだけは、絶対に同じ思いをさせたくなかったみたいです。
『私には家を捨てる勇気も、シン君の手を引く勇気もなかった。でもね、シン君は私が手放してしまった夢を、そして地に足のついた実直な未来を、絶対に裏切らずに形にし続けてくれる人。あの人は、他人の痛みが分かり、どんなに時間がかかっても約束を果たす人だから。もしあなたが広告の世界で自分の力を試したい、本当の自分として生きたいと願うなら、迷わず多田野先生を頼りなさい。先生なら、私の遺志を汲んで、あなたを全力で引き上げて、あなたの夢を現実の舞台へと導いてくれるから』。そう言って、母はこの日のために、私にあの淡いグリーンのスニーカーを託してくれたんです。母が亡くなって、箪笥の奥に箱があることに気づきました。その箱には、多田野先生から送られてきた高校生の時から母が亡くなるまでの手紙が大事な宝物のように入ってました。私、それを見て、多田野先生に会ってみたい。多田野先生に会うことが私自身の夢になったんです」
古い本の匂いが染み付いた静かな教授室は、かつて冬の雪の日に出会った彼女と同じ、若いグリーンシューズの屈託のない満面の笑顔に、いつまでも、いつまでも包まれていた。かつてブチ破られたはずの壮大な幻想が、時を超えて、今度こそ現実のものとして動き出そうとしていた。




