逃亡
「な、なんですかあなた達は!?」
「夜分にすまないな。だが、アシェルの食事のことで大事な話があるんだ」
「しょ、食事……!?」
急に呼び出されたと思ったら、寝室には三人の侵入者。動揺するのも無理はないが、今はそんなことより大事な話がある。
「まず大前提として。アシェルの食事のカロリーを増やす必要がある。十二歳の子供が必要とする一日の総摂取カロリーは、おおよそ2000kcalほどだ。氷に砂糖水だけじゃ、どれだけ食べたって足りない」
「なっ、なにを……」
後ずさるばあやの肩をつかみ、俺は言葉を重ねる。この世界の栄養学がどこまで進んでいるのか分からないが、無知は罪ではない。改めないことが罪なのだ。アシェルの健康を取り戻すため、保護者である彼女には必要な情報を共有する必要がある。
「それから食事はバランスが大切だ。糖質、脂質、タンパク質、ビタミン、ミネラル……どれが欠けてもいけない。成長期の身体には脂質とタンパク質は必須だし、糖質はそのまま身体を動かすエネルギー源だ」
「はぁ……? なにを言ってるの、アシェル様の食事は歴代の姫君をお世話してきた私がしっかりと考えているんだから変える必要なんかないわ」
「あなたの過去の功績を否定する気はない。それでも、アシェルは……」
「まさか私が間違ってるというの!? 私は皇帝陛下に直々に任命された乳母なのよ!?」
「それはすごい。でも……」
「あなたは知らないでしょうけど、皇子というものは美しくないといけないの! 少しほっそりしているくらいがちょうどいいのよ!!」
「落ち着いて、話を……」
「何も知らないくせに口出ししないで!!私がどれだけ……!!」
「いい加減にしてくれ! いま俺は、アシェルの話をしているんだ!!」
「ジ、ジゼル……? 声はもう少し落とした方が……」
反論するばあやに、だんだんとヒートアップしていく俺。エイデンが焦ったように肩に手を置くが、それを振り払って、硬直するばあやに詰め寄る。
「とにかく、よく聞いてくれ。アシェルの体調不良の原因は、偏った食事による鉄不足――重度の鉄欠乏性貧血だ!!」
「てっ、鉄不足!? なによそれ、上級治癒士様は“原因不明”と言ってたわ!!」
「これはアシェルの血液を調べて確認した事実だ。いいか、アシェルはほとんど絶食に近い状態で生活していたんだ。まずは消化に負担の少ない食事から始めて、徐々に通常の食事に戻していく。それから体内の鉄を補充するため、吸収されやすいヘム鉄を摂取する必要がある。赤身の肉、魚、レバーが最適だ。鉄の吸収を助けるビタミンを含む果物類も一緒に摂らせないと。逆にミルクや紅茶は鉄の吸収を阻害するから、しばらくは控えたほうがいい。必要なら食品をリストにして渡そう。説明は以上だが、なにか不明な点はあるか?」
言いたいことを全て言ってひとまず反応を確認すると、ばあやは固まったまま、言葉を失っていた。目だけが落ち着きなく左右に揺れている。
……仕方ない。もう一度最初から説明するか。
だが俺が口を開こうとした瞬間、ばあやが大声で叫び始めた。
「だっ誰か!!! 誰か来てぇ!!」
突然の絶叫が部屋に響き渡る。
「アシェル皇子の部屋に不審者よ!! きっと暗殺者よ!! 早く!! 早く!!!」
「は、はぁ!?」
叫び声に続いて、廊下の向こうから複数の足音が一気に近づいてくる。荒い音を立てて、扉が勢いよく開かれた。
「何事だ!」
武装した騎士たちが寝室になだれ込んでくる。その先頭に立つ若い騎士が、俺たちの顔を見て驚いたように目を見開いた。
「エ、エイデン!?」
「やぁ、ひさしぶりだねセドリック。元気かい?」
「な、は、え、どうしてこんな所に!?」
「色々あってね。あぁそうだ、今日は君の天使さまも一緒だよ。お礼を言いたいって言ってただろ?」
「う、嘘だろ……!?」
お、おぉ……。天使さま、などと紹介されてなんとも居心地が悪いが、戸惑っているセドリックに小さく会釈する。すると、セドリックは息を呑み、信じられないものを見たように震え出した。
「ど、どうしてジゼル様がここに……!?これは夢なのか……!!?」
「夢じゃないけど、ゆっくり説明してる時間はなさそうだね。僕たちはもう行くよ。マリサ伯母さまによろしく伝えてくれ。お祖父様が、たまには顔を見せろと言っていたよ」
「え、エイデン! ちょっと待て!!
言うが早いか、エイデンは俺とヘレナの手を掴み、そのまま廊下へ飛び出した。
「ちょっ、エイデン!?」
部屋を出てすぐに反対側から駆け込んできた兵士たちと鉢合わせる。だがエイデンは一瞬も迷わず、身体をひねってすれ違いざまに進路を変え、そのまま廊下を駆け抜けた。
「暗殺者が逃げるわよ!! 早く捕まえて!!」
「止まれ!」
背後で怒号が上がり、曲がり角から次々と兵士が現れ追いかけてくる。もうめちゃくちゃだ。
「っ、エイデン、ちょっと待ってくれ……っ」
「大丈夫。アシェル皇子のことは後で君のお父様に伝えればいい。今は捕まらないように逃げるのが先だ」
「そ、そうじゃなくて……足が、はっ、はやすぎる……っ!」
速い。とにかく速い。長い廊下を風のように駆けるエイデンに、俺もヘレナもついていけない。足がもつれて、今にも転びそうだ。
「あぁ、ごめん。ちょっと失礼」
「うわっ……!」
「きゃぁっ!?」
ぐい、と腕を引かれた次の瞬間、身体がふわりと宙に浮いた。反対側ではヘレナも同じように抱え上げられている。
「ちょっと、急になにを……!?」
「エイデン!俺は自分で走れるから……!」
「ふたりとも黙って、舌を噛むよ」
そのままエイデンは俺たち二人を抱えたまま加速した。長い回廊を駆け抜け、角を鋭く曲がり、螺旋の階段を一気に駆け降りる。視界の先に、開けた広間と外へ続く大扉が見えてきた。
――そのとき。
「ジゼル!? 誰だその男は!!?」
聞き慣れた声が、階段の上から響いた。




