青い天使
第十章:青い天使
「もし。この町に、風来坊はいないだろうか」
そう聞かれて、その気もないのに飛び上がった。権兵衛がいなくなって清六がいなくなって、町では馬鹿な噂も出なくなった。何をそんなに慌てていたんだろうなんて今さら言い出す人がたくさんいて、いつの時代もみんな都合がいいものだ。だけど清六と権兵衛がいなくなって、表のうどん屋だって客のいないときが多くて意気消沈、私もあまりしゃべらなくなった。だから少しだけ、前みたいな話ができそうだと思うと、たぶん嬉しいんだろう。見たことのない三十絡みの男は、清六の親戚だという。羽柴の一族も一つや二つではありませんでな、と事情を知っているようだった。でも、自分はもう役に立たないと袖の下の腕を見せた。心なしか緑がかった肌は、腕に針を打たれて動かなくなったのだという。できることがほとんどなく、使うときはいつも気をつけている。清六であれば、何かできるかもしれないと東海道を歩いてきた文吾という男は、江戸に入る前にここらで人を待っているということまでは知っていた。とはいえそれが沼津か吉原か掛川か、そこまではわからない。だいぶ探して、苦労したと言っていた。でも店の片隅に転がっていたわらじが、どうしても気になるようで。
「あれは?」
清六が必死に編んでいた出来損ないのわらじを見て、怪訝な顔をした文吾。駄目なんですって、と教えると、そうか、と残念そうに言った。わかるのね、と感心したつもりだったけど、文吾は気にしているみたいで。
「私も、人のことは言えません」
左腕を押さえて、文吾が呟いた。私もここまで。清六もでしょう。文吾が立ち去ろうとするので、呼び止めた。……町の西の方。宿が集まってるわ。もう帰ってこないとは、私は思ってない。そう言うと文吾は、もういっぱい茶を、と座り直した。清六の待ち人というのは文吾ではないらしく、ならばまだ沼津には誰かが来るということ。何もわからないのは、ごめんだった。清六も権兵衛も、そのうち帰ってくるかもしれないしね。当たり前に言うと、文吾が驚いていた。
「……権兵衛?」
文吾は権兵衛を知らないらしく、そんなむさ苦しい男と一緒にいると目立つだろうと少し怒っていた。権兵衛は女の子、しゃべれないから名無しの権兵衛。かわいい娘よ、と懇切丁寧に教えてやってようやく理解したようだ。普通は権兵衛と聞いて見目麗しい女の子とは思わない、という常識的観点がいつのまにかなくなっていた。文吾が最後に会ったとき、清六の横にはまだ権兵衛はいなかった。そのあと連れ立って歩くようになったのだろうと全部想像で言っておいた。文吾は少し驚いたようで、でもどこか寂しそうに笑った。
「その娘さんと、良い仲になったか。若いとはいいことだ」
負けてはおれぬな、と文吾は宿に向かった。最後の最後にえらく助平なことを言うあたりが、清六の親戚といったところだ。
文吾という男は、来たところで何をするでもなかった。そもそも何もできぬから来たのだ、という本人の言い分とは裏腹に元気そうで、それだけたくましいのなら力仕事ができるだろうに、しない。日向を歩いて散歩ばかりで、あまり私を使わない方がいい、と怠け者全開。私自身が使えない体をあなたが使えるはずがないと言い逃れする。文吾が言っていた。今、この体には棲みついている。妖のような、魔のような、そんな何か。一介の武芸者を喰らい別の物に変えようという何か。私が自分を、神だの王だのと言いはじめないうちに蹴り出した方がいい。……今はまだ、大丈夫だと思いますが……そんなことを言ってなんとかなると思っているのだろうか。私が待っているのが天狗でなければ、誰も耳を貸さないだろう。
それから割とすぐ、沼津の町に人が来た。そっか、もうそんな時期か。お上に言われて遠くの偉い人が行列こさえて江戸へ行く。年に一回たくさん通って、沼津に泊まる人もいる。ちょっと時期が早いけど、大変だから早めに来たのかもしれない。町の人がお出迎え。上方の偉い人の一族だというその人の、お連れの人と話してた。文吾はそれを横目に、いちいち構わない。その割には気にしていて、間に合わなかったか、と何か知っている風だった。文吾は、何もできないな、と最初から諦めていた。
「あれは待ち人です。清六はいませんが」
……え?じゃあ言いに行ったほうがいい?そう聞いたのに、必要ないと止められた。あれには構う必要がないから、清六は待っていたのだ、と。もう明智でも細川でもない。女の姿をしているだけ。構うような相手では、ありませぬ。……文吾は何もしなかった。しようとしなかった、と言った方がいいかもしれない。
店に入ってきた人たちに、文吾は囲まれた。何もしないのは文吾だけで後の人はそうではなく、文吾は左腕を抱えたまま詰め寄られた。諦めろ、母君の命だ。そう言われても文吾は構わず、白けた顔で断った。囲んでいた男たちは半刻ほど居座り、呼ばれて宿に帰っていった。文吾は思ったより辛そうで、そんなに嫌だったのかと聞くとこんなくだらぬ手に抗えないのが情けないと吐き出した。
人とは、人を真似るもの。真似ようとせずとも真似ていて、周りを埋め尽くされれば同じ物になっていく。わかっていれば避けれるものを、避けれないように人を変える。こんな妖術は種さえ割れればくだらない。……とわかっているのだが……。文吾は左手をゆっくりと返した。手のひらから先が、ろくに動いていない。そんなに悪いの?と手を取ろうとすると、触ってはいけないと引っ込められた。
さっき来た客は、イチノコという者。呼びに来た男はニノロウという。おかしな名前だと思ったら、一の虎、二の狼と書くらしい。本当はもう一人いたが、文吾と試合い命を落とした。そのときの相手は大したものではない。だが念の為の手当と言い張り、文吾の左腕に妙なものを入れた。それ以来左手は動かず、黄色くなってまともに動かない。困るかと言えば、そうではないが……武芸者だなどとは、恥ずかしくてもう言えない。その程度の者に、成り下がった。はなからそのために試合ったのならば、大した狸だ、と言っていたけど、自分が死んでまでそんなことをする奴はいない。普通は。そう、普通はいません。文吾は俯いて茶をすすり、もう話さなかった。
その人たちは、何日か町に居座った。感じのいい人たちだ、という人が割とたくさんいて、なら大丈夫かと思っていた。でも何人か、薄気味悪いという人もいた。……人というのはよくできたもの、異様なものを見れば一目で異様とわかる。そんな話を、ふと思い出した。町の人が集まって、その人たちを囲んでいて、みんなの手前行こうとしたときも、ちょっと思っていて。
「行ってはいけない」
文吾は、眉一つ動かさずに呟いた。止めるわけでもなく、割って入ることもない。ただ、行ってはいけないとだけ言っていた。なんでと聞いても何も答えず、理由を言う者など信用できぬでしょうと付け加えて、もう一度言った。行ってはいけない。私はちょっと迷ったけど、文吾のせいで行けなかったことにした。別に行きたいわけでもなかったと、後から気がついた。
細川の人たちは、誰かを探しているという。決して触れてはいけない、呪われた子。悪魔の化身だという何かを探して、東海道を上っている。何を追っているかは誰もよくわからなくて、森で妙な声を聞いた!と告げ口した人が「そいつじゃない」と追い返された。なんでわかるんだろうと不思議に思っていた客は、どんな声かもわからないのに、と愚痴をこぼした。どんな声かもわからないのにそいつじゃないとわかった。……声が出ない相手なんじゃ……。権兵衛がどこの誰なのかは、誰も知らない。清六ですらわからない。声が出ないのだから自分で言うこともできず、ああいう子なのだとしか知らない。私は迂闊なことを言わないように黙っていたけど、文吾が口を出した。大名行列にしては、人の数が少ない。いつからかは知らないが、ここに来るまでに抜けが出たのではないか。いつからかわからないから、ずっと前からかもしれないし来るすぐ前に減ったのかもしれない。権兵衛が消えたのは、上方に向かう道。上方の人が江戸を目指すときに、使う道。……ここに来る前に、何かあったのだろうか。怖くてそれ以上考えられず、その日は過ぎていった。
明くる日、一の虎、二の狼という二人が店に来た。村井の出した店だと聞いて、出向いたらしい。村井は、自分たちが教えた。村井の弟も、門弟。父君の師に当たるのが、我々の母君です。変に改まって言いに来たけど、そんなの聞いたことない。私は父さんのことをよく知らない。でもそんな話があるなら、たぶん聞いている。そう言ったけど、父君にも事情があると言って譲らない。なんだかだんだん、私が仲間だという感じを出すから、ちょっと待ってよと止めたけど、止まらない。父君は我々のために生きて、死んでいきました。さあ、貴女も。一の虎がそう口走ったときに、鉄拳が飛んだ。文吾の拳が、一の虎を殴り飛ばして二の狼も黙った。くだらぬ。帰れ。それだけ言われて、一の虎と二の狼は帰っていった。店に残された文吾は、出過ぎた真似をした、と自分も立ち去ろうとした。私は終わりだ、いない方がいい。そんなことを言って立ち去ろうとするから、無責任なと引き留めた。真にその通り、黙っていればいいものをと文吾は言っていた。でも文吾は、黙っていられなかったという。真左衛門を愚弄するなら、ああするしかないでしょう。……父さんを知っているの?真左衛門の名前は、言っていないはずだった。わずかにしか知りません、と文吾は多くを語らなかった。いつかこの世の者たちが、自分が何かを忘れるまで、その名を残さねばならない。自分の目が黒いうちは、それをやめれないだろう。そう言って店を出た文吾は、立ち止まった。周りには細川の人たち、町の人もたくさんいる。文吾の両脇から一の虎、二の狼が飛びかかり、捕まえた。左を捩り右を握って、片腕しか使えない文吾は何もできない。放せと叫んで放す相手であるはずがなく、引っ立てられるように連れていかれたのは、人混みの前。その向こうから、女が一人。美しいといえば美しい女が、文吾の前に立った。その途端、文吾の体から力が抜けた。一の虎、二の狼が離れてもそれは戻らず、ゆっくりと振り向いた。もう文吾ではない。一目でわかるのが、あまりにも怖かった。
目の色が変わった。赤い目の奥に、もう文吾はいない。顔の肌が黄色く、どこか緑がかってすらいる色に変わり、不気味に笑っていた。私は囲まれて、詰め寄られた。村井の娘、こちらに来なさい。女の気味の悪い声が耳の奥に響く。私は、泣かずにいられなかった。泣いて、叫んで。そうしないと言えなかった。
「嫌だ!」
勝手なことを言わないで!父さんは、あんたなんかのために死んだんじゃない!私は、あんたなんかのために生きてるんじゃない!女は少しだけ怒ったようだけど、手を挙げて一の虎に指図した。一の虎はこっちに、来ようとしたんだと思う。でも来れなかった。ふらりと現れた娘一人に、近寄れもせず後ずさる。一の虎も二の狼も、女もみんな息を呑む。娘はもちろんしゃべらない。権兵衛は、声が出ないんだから。女は怒って汗を流した。微笑む権兵衛に、何もできずに怯えていた。そしたら女は、首根っこを引っ掴まれて投げられた。お前などいらん、用無しだと言わんばかりに。女を投げ捨てた文吾が、権兵衛の前に立ちはだかった。権兵衛を見下す文吾は、容赦なく拳を振り上げた。
「さあ、外の世界だ」
こんなのに負けるはずがない。権兵衛だって強いんだ。文吾は壊れて力が出ない、そんな奴が強いわけない。強いわけないのに、全部が全部壊れた奴が、なんでこんなに強いのよ!権兵衛を投げ飛ばし、得意になって笑う一の虎も二の狼も薙ぎ払い、もう誰にも止められない。魔だの王だのおかしくなって、一人も生かしておく気がない。細川たちは蹴散らされて、青くなって逃げていく。自分で作っておきながら、自分たちが殴られて、あんたら何がしたいのよ!そんな馬鹿みたいなことを、泣きじゃくって言っていた。女の子をぶちのめして、何を得意になってるの!私は泣き崩れて、涙に滲む文吾の額に何が刺さったのか、よく見えていなかった。
がつん!とすごい音がして文吾の額に血が噴き出す。何かを引っこ抜いて、文吾が人混みの向こうを睨んだ。その向こうで、誰かが身を翻した。誰というなら、あれしかいない。消えた天狗が現れた!文吾がその後を追い、権兵衛も走り出した。私も、黙っていられなかった。私は父さんの娘。行かないわけがないでしょう!
山の向こう、川を伝って登っていくと、滝がある。滅多に誰も来ない滝の水飛沫の向こうに、文吾がいた。激しく打ち合い、文吾は滝壺に落ちて、浮かんでこなかった。それを倒した清六は、こちらに気がついて笑っていた。……どうしたの。あんた、一体どうしたの!紫色に染まった肌、黒く変わった爪の色!もう生きているとは思えない、死人よりも酷い姿の清六は、それでも私に笑っていた。馬鹿!涙の一つも流さずに、何がそんなに悲しいの!今度こそここまでです。お借りしたものは、返せませんでした。父さんの下駄と杖が、川に流れて見えなくなった。かなめさん、頼みます。権兵衛が、もう泣かなくていいように。……何言ってるの!権兵衛は、一度も泣いてないでしょう!清六はもう一度だけこちらを見て、言っていた。かなめさん、よく見てください。……ずっと泣いているでしょう。私が権兵衛の顔を見ているうちに、清六は消えた。もう現れることはなかった。
沼津の町に、次の朝日が登った。権兵衛は沼津を出る。……わからないけどそう言っていて、上方へ帰った。私はできるだけのものを持たせたくて、わらじを編んだ。いつの間にか上手くなっていた私のわらじ作りを見て、権兵衛は笑顔で受け取ってくれた。細川たちは、どこに行ったかわからない。二度と来るな、さあ商売だ!と張り切るうどん屋の若旦那の空元気が、嬉しくて仕方なかった。




