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1-9. 「ありがとう」

 暖炉の火がぱち、と音を立ててはぜた。

 その小さな火音に導かれるように、空間に静けさが戻ってきた。


 リアは俯いたまま、語り終えた。

 しん、とした沈黙の中。最初に言葉を発したのは、エルンだった。


「……そうだったんだ……」


 彼の声は震えていた。それでも、真っ直ぐにリアを見つめている。


「……六年前の、あの朝。家を出ようとしたら、扉の前にあったんだ。まだ夜露がついたままの……セリアの葉の薬包が」


 リアの肩が、わずかに動く。


「誰が置いたのか、ずっと分からなかった。けど、きっと誰かが、母さんのために届けてくれたんだって、ずっと思ってた。いや……都合良く、そう解釈してたんだ」


 エルンはもう、涙に歪んだ顔を隠せなかった。


「……それが、君だったなんて……!そんな事が起きてたのに、誰にも、気づかれないように……!」


 横でじっと聞いていたエレノアが、両手で口元を覆った。やがて、掠れた声が漏れる。


「私の……せいだったのね。あの晩、私が弱っていたせいで……アベルさんは、あんな嵐の中に……!」


 その声は震え、痛いほどの後悔を滲ませていた。リアはそっと顔を上げた。


「ち、ちがいます……」


 言葉はまだ少し不器用だったが、少女の偽りのない想いだった。


「お祖父ちゃんは、自分で決めて……助けに行ったんです。エレノアさんのこと、すごく大切に思ってたから。だから、行ったんです」


 はっきり言い切るリアの声に、エレノアの涙が溢れた。


「でも……っ!」


「もし!お祖父ちゃんがいまここにいて、エレノアさんが元気に生きてるって知ったら。きっと、すっごく喜ぶと思います。『大事にならずに良かった』って、笑ってくれます!」


 その言葉にエレノアは目を閉じる。肩を震わせながら堪えていた涙を流した。傍にいたエルンも、拳を握りしめたまま、声にならない嗚咽を洩らす。


「リア……!君は、ずっと……一人でこれを、こんな大きな物を抱えてたのか……?だ、誰にも、何もいわずに……!」


 何も知らなかった。

 六年もの間、誤解し、遠ざけていた。

 その裏で、リアがどれだけの痛みと寂しさを抱え、それでもなお、誰かのために動いていたのか。漸く、漸く理解した。


「……ごめん……!っ、ご、ごめん……リア……っ!」


 エルンの声は涙に塗れていた。

 エレノアもリアの側に寄ると、その手を優しく包んだ。


「……"ありがとう"、リアちゃん……!あなたは……、アベルさんはっ!わ、私たちの、っ、命の、恩人よ……!」


「……あっ」


 "ありがとう"

 その一言を聞いた瞬間、リアの胸の奥で何かが音もなく解けた。

 長い間凍りついた場所に、じんわりと熱が戻ってくる。誰にも届かないと思っていた想いが、いま、確かに届いたのだと――初めて、そう思えた。


 信じ続けてきた祖父の言葉。

 あの日、震える手で決断したこと。

 全てが、ようやく報われたような気がした。


「……わ、わたし、っ、いまようやく、分かった気がする……!」


 ふと、リアの瞳に微かな光が差す。

 喉の奥が詰まって、言葉がうまく出てこない。けれど、どうしても伝えたくて――微かに笑みを浮かべながら、彼女は心の奥底の想いを零し始めた。


「わたし!ただ、だ、誰かにっ、あ、"ありがとう"って……っ、そう、言ってほしかった、だけなのかもしれない……!」


 森の中での孤独な生活。

 人と接することの無い、六年間だった。

 それでもずっと心の底に押し込めてきた、ささやかな願い。決して赦されたいわけじゃない。ただ、自分の選んだ道が間違いではなかったと、誰かに認めてほしかった。


 “ありがとう”。

 たった五文字の言葉が、こんなにも温かく、人の胸を救うものだったのだと、リアは始めて、その心で知った。


 ぽろぽろと、涙が頬を伝う。

 エルンも、エレノアも、そしてリアも。それぞれが言葉にできない想いを抱えながら、寄り添い合い泣いていた。

 言葉の無い時が、ゆっくりと過ぎていく。

 いや、きっと言葉など、もう必要なかった。 

 誰もが、誰かのために涙する、温かさがここにはあった。


 三人から少し離れた場所。

 その様子を見守っていたカイウスは、静かに目を細める。

 幾多の戦場を歩き、人間の“業”を多く見てきた彼にとって、この光景はどこか現実離れした幻のようでもあった。

 だが、いま目の前にあるそれは、紛れもなく本物だった。傷つきながらも他者を想う心が、誤解を越え、再び結ばれていく瞬間。


(……良かったな、リア)


 そしてそれは、気づかぬうちに。

 彼自身の胸にひっそりと残る氷すらも、そっと溶かし始めていた。


***


 涙の余韻がようやく落ち着いた頃。

 エレノアは「夕餉の支度をするわね」と目尻に浮かぶ涙を拭い、エルンと共に席を立った。足音が床を踏み、やがて台所の奥へと消えていく。静かな水音とまな板の軽い音が、かすかに響いていた。


 炉の灯が柔らかに揺れる食卓には、カイウスとリアだけが残された。静かな空間。薪がはぜる音が、時折ぽつりぽつりと穏やかな間を埋めている。

 リアはまだ火の前に座ったまま、小さく身を丸めていた。緊張がほぐれたせいか、頬がほんのりと赤らんでいる。

 

 カイウスはその隣で、胡座をかきながらひとつ伸びをして、軽く肩を鳴らした。


「……今日はなかなかしんどい夜だったな」

 

「……はい」


 リアはこくりと頷き、照れくさそうに小さく口元を引き結んだ。暫しの沈黙のあと、カイウスがぽつりと呟いた。


「おじいさん、立派な人だったんだな。一度会ってみたかったよ」


 リアはわずかに目を瞬き、少し考えてからそっと微笑んだ。


「……たぶん、おじいちゃんもカイウスさんのこと、気に入ってたと思います。誰かのために頑張れるところとか、少し似てるから」

 

「……あと、リアに懐かれてるとこも似てるな」

 

「そうですね……。……?あっ!ち、ちがいます!別に懐いてない……っ」


 思わずリアが声を上げると、カイウスはふっと笑った。からかうようなその笑みに、リアは頬を赤らめながら睨む。


「……からかわないで下さい」

 

「悪い悪い。けど、そういう裏表ないところもお祖父さん譲りなのかもな」


 リアはぷいとそっぽを向いたが、口元は笑っていた。火の灯りが、彼女の赤髪と柔らかな表情を包み込んでいた。


「わたし、お祖父ちゃんみたいになりたいって思ってたけど……でも、自信なかったんです。ずっと誰にも伝わらないで、間違ってたのかなって思うこともあって」

 

「伝わったさ。今日、ちゃんと」


 カイウスは言いながら、ゆっくりと暖炉の火に手をかざす。


「リアがどれだけ迷って、傷ついて。それでも一人で、懸命に歩んできた事……今日、少なくとも三人の人間がそれを知った。正直、俺はリアの強さを尊敬している。多分、エルンとエレノアさんも同じだ。だから、皆が泣いたんだ」


 リアは照れたように目を伏せ、小さく息を吸う。


「……で、でも、“ありがとう”って言葉、すごいですね。ただひとこと言ってもらっただけなのに、誰かにちゃんと見てもらえてる、届いてるって感じて……わたし、安心しちゃいました」


 言葉ははにかんでいたが、込められた想いは真っすぐだった。カイウスも溜息混じりに返す。


「分かるよ。折角人のためを思ってやったのに、何も返ってこないと……ちょっと、やるせなくなる。やり損ってやつだ」

 

「……じゃあ、カイウスさんも。たまにはわたしに、ちゃんと“ありがとう”って、言ってくれたらいいと思いますよ」


 リアが唇を尖らせ、少しむくれた声で言い返す。

 

「……あぁ。わかったよ」


 カイウスは思いのほか素直に頷づき、真剣な眼差しでリアに向き直る。


「改めて、ありがとう、リア。君がお祖父さんの想いを継いで、君らしく生きてくれた事。長い孤独の中でも、その強さを見失わなかった事……思えば、森で、俺をあの巨狼から救ってくれた時もそうだったな。あの時君は、自分の危険も顧みずに、俺の命を救ってくれた。それはきっと、六年前の夜があったからなんだろう」


 その声は、少しだけ熱を帯びていた。飾り気のない言葉のひとつひとつがリアの胸に染み込んでいく。


「俺は、見返りもなく、純粋に誰かの為に立ち上がれるリアを、心から尊敬している。だから……俺は、リアを今のリアにしてくれた、全てに感謝したい。ありがとう」


 リアは目を大きく見開いた。そして真っ赤になった顔を手で覆い、堪えるように俯いた。


「……こ、こちらこそ……ありがとう、ございます。独りぼっちだったわたしを、森から連れ出してくれて……村まで、導いてくれて……」


 リアが震える声でそう言うと、またひとつ、薪の火がぱちりと弾けた。ふたりの間に温かな沈黙が落ちる。互いの想いがそっと触れ合っているような感覚。


 そのとき、窓の外から、ぽつん、と水音がした。


 リアがそっと顔を上げる。

 木枠の窓を、雨粒が一つ、また一つと叩き始めていた。やがて音は連なり、風も湿り気を帯びて軒先の草網が揺れる。


「……雨、降ってきましたね」


 リアがぽつりと呟いた。


「そうだな。空も忙しい。どこかの誰かさんみたいに、笑ったり、泣いたりだ」


 カイウスが冗談めかして笑う。リアも、小さく肩を揺らした。二人は暖を取りながら、しばらく黙って心地よい雨音に耳を傾けていた。

 

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