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1-5. いつか終わる夢

 それからの一週間、カイウスはリアの家で療養の日々を送った。


 森の朝は静かでどこか柔らかい。窓辺に差し込む木漏れ日と、小鳥たちのさえずりが一日の始まりを告げるころ、既に炉端に立ち食事の支度をするリアの姿があった。


「おはようございます、カイウスさん。今日もいい天気ですよ。具合はいかがですか?」

 

 朝の挨拶は日ごとに柔らかさを増していった。最初こそ遠慮が混ざっていたが、いまはほっとする様な自然な笑みで溢れている。 


「お陰様で調子いいよ。薪割りもまた手伝えそうだぞ」

 

「あ、無理はダメですよ。まだ完治はしてないんですから。後でまたアレシア草の塗り薬、作ってあげますね」


 リアは世話を焼きすぎることなく、しかし必要なことは手を抜かない甲斐甲斐しさがあった。

 朝は薬草入りの粥に刻んだ山菜を添え、昼には患部を冷ました湿布を替え、夜はじっくり煮込んだスープに干し肉や木の実を加えて温かな食事を整える。

 

「この実、煎ると香ばしくなるんです。ちょっと焦がしちゃったかも知れませんけど」

 

「いや、これくらいのほうが風味が立って美味いよ。ありがとう」

 

「ふふっ……そう言ってもらえると嬉しいです」

 

 何気ないやりとりも徐々に増えていった。

 

 思えばこの一週間は、本当に平穏な時間を過ごした。

 

 雨の日には、家の隅に積まれた書物をリアが朗読し、雨音の中二人で感想を言い合った。

 晴れた日には、縁側に二人並び、たわいも無い話をしながら干籠の薬草を仕分けした。

 朝には料理のお礼にとリアの髪を梳かしてやり、午後には散歩がてら野の花を持ち帰り二人で窓際を飾り付けた。

 そして夜には、決まった時間にひとつの卓を囲み、談笑を交えた素朴な食事を取る。


 そんなささやかな共同生活を、リアは心の底から楽しんでいるようだった。

 

 はじめこそ言葉少ない彼女だったが、次第に薪割りのコツを得意げに語ったり、森で見つけた奇天烈なキノコを揶揄いながら差し出したり、褒めて欲しい時は物欲しそうに少し屈んで頭を差し出すなど、凛とした外見に押し留められた年相応の子どもらしさを惜しみなくぶつけてきた。

 久しぶりに誰かと過ごす日々が、彼女にとってどれほど嬉しいものなのか、言葉はなくとも痛いほど伝わってきた。


 カイウスもその変化を穏やかに見守っていた。肩の力が抜けていく自分にも気づいていた。不器用だが真っ直ぐで、どこまでも誠実なリアの在り方が、疲れ切っていた心にそっと寄り添ってくるようだった。


 だが、時は確実に流れていく。

 そして、八日目の朝。


 炉の前に置かれた小さな卓に、二人分の朝食が並ぶ。

 蒸した根菜に、干し肉と森で採れた木の実。

 リアは「今日は何をしましょうか」と言わんばかりに嬉しそうに頬を膨らませていた。


 だが、その前にカイウスがゆっくりと口を開いた。


「……今日、ノルヴィアの村に戻ろうと思う」


 途端に、リアの手が止まった。

 木椀の縁に添えていた指がかすかに揺れ、顔がうつむき加減になる。室内に流れていた温かな空気が、ゆっくりと張り詰めていく。


「リアのお陰で、身体も随分動くようになった。手負いになったあの狼がいつ人里を襲うとも分からない。一刻も早く、村に報告をする必要がある」


 義務感からの言葉だった。だが、語尾にはわずかな迷いが滲んでいた。

 リアは黙ったまま、卓に視線を落とした。しばしの沈黙の後、か細い声で呟く。


「……そうですよね。カイウスさんは、村の依頼を受けてるんですから」


 彼女の手がわずかに震えているのが見えた。


「……カイウスさん。」


 ふいに名前を呼ばれたカイウスは、少しだけ顔を上げる。リアは視線を下げたまま、湿り気を帯びた声で続けた。


「ひとつだけ、お願いがあります。聞いてもらえませんか?」

 

「……ああ」

 

「ここに……いてくれませんか?わたしと、森で……ずっと、一緒に」


 少女の声が出会った時と同じ……いや、それ以上に深い孤独と寂寥を孕んでいた。酷く小さく、沈んだ声だった。

 

「分かってます。いつまでも、ここに居てくれるはずないって。……でも」


 リアはゆっくりと顔を上げた。その瞳には、今にも零れそうな涙が浮かんでいた。


「……わたし、すごく、楽しかったんです。この一週間、誰かとご飯を食べて、話して、笑って……そんなこと、本当に久しぶりで」


 泣きつくような声ではなかった。けれど真っ直ぐでいじらしく、思わず胸を打たれる想いだった。


「ほんの少しだけ、夢を見ちゃったんです。……もしずっと、こうして二人で暮らせたら。こんなに楽しい日々が毎日続いたら、わたし、どんなに幸せなんだろうって。一人で起きる朝が怖くないって、こんな気持ち……初めてだったから」


 リアの瞳が揺れる。鼻頭は既に赤い。必死に泣くまいと、ただじっとカイウスを見つめていた。

 カイウスは、言葉を探しながら彼女を見つめ返した。何も言えずにいる彼を見て、リアはかすかに微笑み、肩を落とした。


「……すみません、困らせちゃって。わたし、分かってますよ。カイウスさんは……旅の人ですもんね。ここに縛ることなんて、できません。全部、子供の我儘だって……わたし、ちゃんと分かってるんですよ。でもーー」


 ーーもし叶うなら。

 そう呟いたリアは、湧き出る想いを必死に押さえ込むように、唇を震わせて手で顔を覆った。


「お願い……わたしを、もう、ひとりにしないでください……」


 縋るような最後の声は、ほとんど囁きのように掠れていた。けれど、はっきりと伝わった。

 震える肩。嗚咽を必死に抑えているのは、何れにせよ旅立つであろうカイウスに後ろめたさを感じさせない、彼女なりの精一杯の配慮だった。

 

 カイウスが静かに立ち上がる。

 迷いのない足取りで卓を回り、リアに歩み寄る。手で覆われた彼女の顔は、まだ伺えない。


「……ありがとう」


 不意にカイウスがそう呟いた。リアの肩がびくりと揺れる。


「俺を助けて……滞在の間、世話まで見てくれて。リアがいなければ、本当に俺は、今ごろどうなっていたか分からない」


 リアは黙ったまま、小さく首を振った。まるで「そんなの当たり前だ」と言いたげに。


「本当のこと言うと……俺も、ここでの暮らしが好きだ。朝、鳥の鳴き声で目が覚めて。誰かと食事をして、他愛もない話をして……そんな日々が、俺にもあったんだって思い出させてもらった」


「っ!なら!」


 その言葉に、リアは顔を覗かせた。その目にわずかばかりの希望の色が戻る。けれどーー。


「けど、やっぱり……俺は行かないといけない。あの狼のことを村に伝えなきゃ、他の誰かが犠牲になるかもしれない」


 リアは何も言わなかった。ただ、小さく肩を震わせるだけだった。カイウスはその様子を見つめた後静かに続けた。


「でも……ひとつ、提案がある」


 リアの目元は涙で濡れていたが、視線はまっすぐカイウスを捉えていた。


「一緒に、ノルヴィア村に来ないか。そしてリアのことを、みんなにきちんと知ってもらうんだ。この森の異変と、リアが無関係だってことも。そして……六年前の、《祈りの大樹》のことも」


 リアは驚いたように瞬きをした。長い睫毛の間から涙が一粒、頬を伝って落ちた。


「……で、でも……わたし、せ、"赤獣"、なんですよ?村のみんなから、憎まれている、あの」


「関係ないさ。俺はリアの優しさを知っている。君を見て、君と接して、君の言葉を聞いて。いい加減なことを言ってるのかも知れない。でも、今のリアを見れば、村のみんなもきっと分かってくれる。確証はないけど、そう思うんだよ」


 カイウスの口調に力が籠る。普段の飄々とした彼には無い真剣味を帯びていた。

 リアは目を見開いたまま、しばらく何も言えなかった。やがてかすかに震える声で、問い返す。


「……わたしのこと、信じてくれるんですか?まだ何も、説明してないのに……」

 

「もうとっくに、ずっと信じてる。リアは俺の命を救ってくれた。それ以外に何もいらない」


 その言葉に、リアの表情がほんの少しだけ綻んだ。

 手の甲でそっと目元を拭いながらも、小さな声で答えた。


「……わかりました。わたしも、カイウスさんを信じます。……一緒に行きましょう。ノルヴィア村に」


 その声には、まだ不安の色が混じっていた。

 それでも、胸の奥に宿った小さな希望の光が、彼女の瞳を照らしていた。


***


 朝靄が森の奥を淡く包む中、ふたりはゆっくりと歩いていた。森の獣道は湿った落ち葉に覆われ、歩くたびに足元で控えめな音がする。


 リアは一歩ごとに表情を曇らせていた。

 肩をすぼめ、視線を足元に落としたまま、言葉少なに歩を進める。手には祖父のお下がりと言っていた小さな包みをぎゅっと握り締めていた。

 そんな彼女の様子を横目に見ながら、カイウスは軽く息を吐いた。


「……怖いか?」


 問いかけに、リアは少しだけ顎を引いて頷いた。


「はい。すごく……怖いです」


 言葉の端に震えが混じっていた。顔を上げようともしないリアに、カイウスは少し足を止める。


「なら、俺が先に歩くから、俺の背中だけ見てればいい。ちゃんと前を見て、前に進む。先ずはそこから始めよう」


 その声に、リアははっとしたように顔を上げた。

 少し照れくさそうに頭を掻くカイウスの言葉は、少女の胸に力強く響いた。リアの表情が、少しだけ緩む。けれど、その不安が全て消えることはなかった。


 そんな様子をちらりと見やりながら、カイウスはふと口を開いた。


「なあ、リア」


 リアが後ろから小さく「はい」と返す。


「村に着いたら、立ち寄りたい場所とかあるのか?」


 唐突な問いに、リアは瞬きを一つして少しだけ考える。それから、言葉を選ぶようにぽつりと答えた。


「……北の、用水路の石橋。あと、村外れの薬草畑です」

 

「薬草畑?」

 

「はい。おじいちゃんが薬師だったので、手入れを任されてたんです。わたしも小さい頃、よく一緒に薬草を摘みに行きました。その時、おじいちゃんが色々教えてくれたんです。薬草の種類とその効用。葉の形や匂いでの見分け方とか」


 温かい思い出に絆されてか、リアの声は次第に柔らかくなっていった。


「あと、夏になると用水路の石橋に腰かけて、ふたりで足を水に浸したんです。ひんやりして気持ちよくて……そのまま昼寝しちゃったり。そういえば、幼馴染の男の子と水の掛け合いっこをして遊んだなぁ」


 そこで、リアははっとして口をつぐむ。


「す、すみません。いま村に行ったら、って話なのに……わたし、ついつい昔のことばかり……」

 

「いや、いいんだ」


 カイウスは歩を緩めて再びリアに振り返る。


「むしろ安心した。そうやって笑って話せる思い出があるって、ちょっと意外だったからな」

 

「……意外、ですか?」

 

「そう。リアは少し大人ぶる所があるから。子供の頃も難しい学術書ばっか読んでたんじゃないかと思ってさ」

 

「……っ!」


 リアは唇をとがらせて、カイウスをじとりと睨んだ。


「失礼ですね。わたし、ちゃんと子供らしい子供でしたよ!」

 

「へぇ、そうか。薬草畑で泥だらけになってるリア、見てみたかったな」

 

「や、やめてください。ほんとに泥まみれでしたから……」


 リアは不機嫌そうに言いつつも、その頬にはほんのり赤みが差していた。空気が少しだけ和らぎ、緊張の糸が緩む。


 程なくして、森の奥に差し込む陽光が濃くなり始めた。湿った空気を和らげるように風が吹き抜けていく。草葉が揺れ、土と緑の匂いが微かに香る中。

 木々の間を抜けたその先、ふいに視界が開ける。


 そこに広がっていたのは、一面の金色だった。

 朝陽を受け、たわわに実った麦の穂が風に揺れていた。緩やかな起伏の中で黄金の波が次々と起こり、遥か彼方まで続いている。


 リアは、思わず息を呑んだ。

 幼い頃、何度も目にしてきたはずの光景。けれど、それはまるで初めて見るかのように鮮やかで。胸の奥に遠ざかっていた記憶が、一気に手の届く場所に舞い戻ってくるようだった。


「……こんなにきれいだったんだ」


 その囁きのような声に、隣を歩くカイウスがふっと目を細める。風に揺れる麦の中立ち尽くすリアの横顔は、笑顔に溢れていた。


「……この景色も、さっきの石橋や薬草畑みたいにいつか良い昔話になるさ。『あの時は大変だったけど楽しかったね』って、笑いながら言い合える様な」


 そう言ったあと、カイウスは茶化した口調で柔らかく付け加えた。


「全部片付いたら、またこの景色を見に来ればいい。その時は、童心に戻って遊び尽くそう。それこそ、泥まみれになってさ」


 リアは驚いたようにカイウスを見た。

 赤い瞳の奥が柔らかく揺れる。


「……はい。約束ですよ、カイウスさん」


 その約束は風にのり、金色の海の向こうに揺れる、ノルヴィアの村へと運ばれてゆく。


 やがてふたりは、再び歩き出した。

 過去を乗り越えた先に、ほんの少しの未来を願って。

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