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とある傭兵の放浪譚 ー流離の傭兵、寂しがり家な少女と共に世界を巡るー  作者: フルツ好き男
第三章 浮遊都市と禁忌の魔女

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3-5. 五賢者ーペンタ・マギステルー①

 カイウス一向が足を踏み入れた先は、円形の広間だった。


 壁も柱も白銀の大理石で組まれた、冷たく硬い、だが手入れが良く行き届いた空間だ。天窓から落ちる昼の光が、その床に白い円を描いている。

 

 その円を、五つの白亜の椅子が並び囲んでいる。

 いずれも人が腰を掛けるべき高さではない。座する者が間に立つ者を自然に見下ろすべきーーまるでそう言わんばかりの"玉座"だった。

 

 そして五席すべてに、すでに“主”が座していた。

 リスティが喉の奥で息を詰まらせ、クルドは反射的に口元を引き締める。


「……ヤ、ヤバっ、もう揃ってたんだ……!」


「だからダラダラするなとあれほど言っただろ……!」


 慌てる二人の声は、場の空気に溶けるように消えた。


 中央の玉座。そこに座す男は、視線を合わせる前から荒い気性が伝わった。

 

 火の賢者(マギステル・イグニス)――グランクス・バルクローグ。

 齢五十九を迎えてなお衰えぬ巨躯。赤を基調にした衣は魔術師というよりも戦装束に近く、身体の厚みを隠そうともしない。

 短く刈り込まれた白髪。頬から顎にかけて消えぬ火傷の痕が刻まれている。

 玉座に腰を下ろしているのに、座っているように見えなかった。いつでも立ち上がり、軍命を叩きつける――そんな気配が場の重心を偏らせている。


 その右隣。対照的に柔らかな雰囲気を纏う女性がいた。

 

 水の賢者(マギステル・アクア)――サリカ・ミュニエル。

 長い紺髪は清涼な川のように背を流れ、誰もが目を奪われる豊満な身体を天女を思わせる薄布がゆるりと包んでいた。

 二十八と賢者マギステルでは最年少ながらも、目尻が垂れた瞳と右頬の小さな涙黒子が妖艶さを醸し出す。

 穏やかに微笑んでいるはずなのに、彼女の目がこちらを捉えた瞬間、背筋を冷たい水が滑る錯覚すら覚えた。


 反対側の左隣。ここに限っては「座っている」と言うより、「置かれている」という表現が似合う。

 

 地の賢者(マギステル・テッラ)――ゴルヴァン・マグルド。

 齢七十を超えた年老いた男。無造作に伸びた茶髪には白が混じり、瞼を閉じたままピクリとも動かない。

 しかしその巨体は不思議と老いを感じさせない。木こりのような粗野な衣装の下に、岩盤のような筋肉が眠っている。

 その肩には、場違いなほど鮮やかなインコが止まっていた。主と同じく、微動だにしない。


 最右席には、軽やかな気配の青年が気楽そうに背もたれへ身を預けている。


 風の賢者(マギステル・アエリス)――レオニダス・ヴァレイン。

 金色の長髪を後ろで束ね、三十という実年齢を感じさせない若く整った顔立ちは、どこか人ならざるものを思わせた。

 ローブではなく緑を基調とした旅装を纏い、リュミエールの賢者マギステルでありながら“旅人”の気配を伴っている。

 その表情は風のように柔らかい。だが緑色の双眸は、室内の全員と“これから起こること”を興味あり気に見据えていた。


 最後の一席、最左席。そこに座る男は、玉座というより講壇に腰掛けているように見えた。

 

 雷の賢者(マギステル・フルマン)――ヴェルネ・クロイツ。

 歳は三十四。黒髪を後ろへきっちりと撫で付け、左右を丁寧に刈り込んだツーブロック。丸眼鏡の奥の視線は感情を測られることを拒むほどに無機質だ。

 黒いスーツ姿は教授じみているのに、シャツだけが不自然なほど鮮やかな黄を覗かせる。

 

 五つの玉座。そして五つの異なる“存在感"。

 ここに座り並ぶ五人がリュミエールの頂点であり、全てを裁く権能なのだと、もはや説明は要らなかった。


「やぁ。案内ご苦労だったね、リスティ」


 軽い声が落ちた。

 見れば風の賢者(マギステル・アエリス)――レオニダスが肘掛けに頬杖をついたまま、にこやかに片手を挙げている。


「外の人との会話はどうだった? 話し上手のキミのことだ、退屈はしなかったろう?」


「え、あ……は、はいっ!」


 名を呼ばれたリスティが反射的に背筋を伸ばす。

 だがその返答が始まるより早く、地を震わせるような声が割り込んだ。


「何を呆けている。疾く下がれ」


 中央の玉座――火の賢者(マギステル・イグニス)、グランクスが放った一言だった。


「貴様らの役目は終わった。そこは中位魔術師メディオマグスごときが平然と立つ場では無い。吾輩は、貴様の発言を許可してないぞ」


 白髪の巨躯がゆっくり身を起こす。

 視線を向けられただけで空気が乾き、温度が沸き立つ錯覚がリスティを襲った。


「ご、ごめんなさい……! すぐに下がります!」


 リスティは頭を下げクルドと目を合わせると壁際へ退いた。クルドも慌てて一礼すると無言で隣に並び立つ。


「相変わらず手厳しいなぁ、グランクスの旦那は」


 レオニダスが冗談めかして息を吐く。


「せっかく若い子が働いてくれたんだ。もう少し労ってやってもいいじゃないか」


「黙れ、風の小僧」


 一蹴だった。


「貴様の軽口を聞くためにわざわざこの場に集ったのではない。吾輩も他の賢者マギステルたちも暇ではないのだ。それに元を正せば、今回は貴様らアエラシオの不手際ではないか。少しは自覚を持ったらどうだ? 小僧」


「……言葉もないね。ご指導痛み入るよ、旦那」


 レオニダスは苦笑し、それ以上は続けなかった。その視線は自然とカイウスたちへと戻る。


「では本題に入るぞ。よいか? 五賢者ペンタ・マギステルらよ」


 グランクスの声に他の賢者マギステルは何も挟まない。沈黙がそのまま合意の形となる。


「……諸君。ナヴィレザとやらから遠路遥々、ご苦労だったな。追放したとはいえ、我らの者が迷惑を掛けたことは聞き及んでいる」


 辛うじて礼の体裁は取っている。だが言葉の芯はすでに次へ向いていた。


「して……諸君の中に、そこの破門者を打ち破った者がいるというではないか。独自の鍛錬でリュミエールの魔術師を凌駕するに至ったその才――吾輩たちが見定めてやろう。名を名乗ることを許す」


 次いで出てきたのは短い命令だった。


「……カ、カイウスさん。あの人、なんであんな偉そうなんですか? すっごく感じ悪いんですけど……」


「ゲイルも最初は似たような態度だったろ。クルドと言い、魔術師ってのはきっと傲慢じゃないと生きてけないんだよ。そういうもんだと分かれば、いちいち腹も立たなくなるな」


「すごい割り切り方……! カイウスさんって、意外に懐が深いですよね。すごいなぁ、憧れちゃうなぁ」


「……なぁ。それ褒めてるんだよな?」


 小声で会話するカイウスとリアを尻目に応じたのは、一歩前へ出たセラフィーナだった。


「……あの。一つ、よろしいでしょうか」


「よい。名乗りと発言を許すぞ、小娘」


「ありがとうございます。わたくしはセラフィーナ。セラフィーナ・エレオノール・ディ・ヴァルシェと申します。ナヴィレザ市民の代弁者たるナヴィレザ評議院セナートの一員を務めております」

 

 蒼い瞳で五つの玉座を見据え、静かに告げる。


「ゲイルを打ち破ったのは、こちらのカイウス・ヴァンデルとリア・フリーディスです。ただし……この二人は、魔術師ではございませんわ」


 セラフィーナの紹介にカイウスは腕を組み、リアはペコリと頭を下げた。


「……なんだと?」


 一瞬で空気が凍りつく。グランクスの声が低く擦れた。

 

非魔術師マナレス如きがリュミエールの魔術師を破った? そんな戯言を吐いて一体何になる。小娘、貴様の狙いはなんだ?」

 

 唸るような威圧が増す。しかしセラフィーナは一歩も退かない。


「狙いも何もございません。わたくしはただ事実を申しているだけです」


「事実だと? 笑止。魔術はこの世で選ばれし者が扱うことを許された"真理に到達する理"だ。いくら破門者と言えど、持たざる下民がそれを破ったなどと……冗談にしては笑えぬぞ、小娘」


「……意図が全く読めませんね」


 雷の賢者(マギステル・フルマン)――ヴェルネが、眼鏡の位置を指先で直しながら淡々と割って入る。


「わざわざリュミエールまで来て、我々にこんな虚偽を申し立てるメリットが思い当たらない。失礼、ご令嬢。少し前提の整理をさせて頂きたい。“打ち破った”とは、"正面衝突のうえ戦闘不能に追い込んだ"と理解すればよろしいか? 夜襲・奇襲で術式石板を先に破壊された場合、魔術師と言えど敗北し得ます。論理的には成立するでしょう」


「夜襲など……! ナヴィレザはただ、襲撃に対して正当防衛を取ったに過ぎません!」


「ふむ……これでは平行線ですね」


「あらあら。随分謎が多いのねぇ。ミステリアスな方は嫌いではないのだけれど」

 

 水の賢者(マギステル・アクア)――サリカが穏やかな声を挟む。


「仮に、ですけれど。"魔術師が非魔術師マナレスに敗れた"。こんな噂が王国内に流布されたら、それはどれほどの波紋を生むのでしょうか。リュミエール陥落を目論む不届き者すら、出てくるかもしれませんね」


 セラフィーナを見据えながら言葉を区切ると、意味深に微笑んだ。


「……セラフィーナさん、と言いましたか? まさかとは思うけど、貴方はこのリュミエールの転覆を狙っている、という訳ではないのですよね?」


「そ、そのような事は! ナヴィレザはリュミエールと敵対する意思など御座いません! だからこうして、身柄の引渡しの要請にも応じているのです!」


「あらあら、そうなの」


 サリカは微笑みを携えたまま視線をレオニダスへと移す。


「レオニダス様。今回捕らえられたアエラシオの子は高位魔術師プリマグスなのですか?」


「いや……彼はゲイル・ヴェロキス。下位魔術師アプレンティクスだね」


 レオニダスはさらりと返す。


「ただ、風圧制御の精度は抜群だった。リュミエールに居たころは魔術戦闘の訓練も齧ってたみたいだ。少なくとも、非魔術師マナレスに力負けする使い手ではないよ」


 顎に指を添え、少しだけ考える素振りを見せる。


「……となると、単純な"力"以外にゲイルが遅れを取る要素があったと見るのが妥当だね。僕らが知らないだけで、下界には僕らが知り得ない底があるのかも。非常に興味深いね」


「――もうよい。議論は終わりだ」


 グランクスが切り捨てる。

 ただそれだけで広間の空気が一段、熱を帯びた気がした。

 

「この者らの意図などどうでもよい。リュミエールの魔術師を破った者なら迎え入れてやろうと思ったが……その気がないなら話は終わりだ」


 視線が切り捨てるように流れる。


「その破門者を置いて、疾く帰るがいい」


「……え。もう帰らされるんですか?」


 思わず漏れたリアの声は小さかった。


「茶の一つも出ないとは……傲慢にもほどがあるな。だが、魔術師らしいと言えば魔術師らしい。ある意味想像できた結末ではあるな」


「お、お待ちくださいグランクス殿」


 セラフィーナが一歩踏み出し声を張る。

 

「この者……ゲイルの処遇は、一体どうなるのですか?」


「愚問だな、小娘」


 グランクスが鼻を鳴らす。


「其奴は王都カリオーネへの要らぬ接近を招いた。"この世の真理の探究"というリュミエールの本懐も忘れ、追放では飽き足らずこうして外部から厄介事を持ち込んだ。無論、極刑しかあるまい」

 

「なっ……!」


 セラフィーナの息が詰まる。


「あら。随分と性急ですのね、グランクス様。触れた一瞬で燃え上がる。本当に、火のようなお方」


 そう言うサリカの声に、グランクスを止める意思は見えない。


「しかし合理的だ。ワタシは同意しますよ。処置は早いに越した事はない。何といってもコストが下がりますから」


 ヴェルネも淡々と続く。一人の生死を分つ話をしているとは思えない口調だった。

 レオニダスとゴルヴァンは言葉もなく鎮座してる。しかし、グランクスに異論を挟む事はしなかった。

 

「お、お待ちください皆様! お言葉ですが、彼に釈明の余地は与えないのですか?! なぜ王都カリオーネについたのか、なぜナヴィレザを襲撃したのか! ナヴィレザは、このような一方的な断罪を望んでおりません! せめて、この者の真意を聞くべきと考えます!」


「そんな事をしてどうする」


 グランクスの声に明確な苛立ちが混じり始める。


「吾輩らは多忙なのだ。これ以上、斯様な些事に時間は割けん。リュミエールの"真理の旅"を妨げるものは全て焼き消す。これ以上の最適解は、存在せん」


 そう言うと、グランクスの右腕に刻まれたタトゥーに紅蓮の閃光が迸る。

 

 ――場の温度が、さらに一段上がった。その巨躯の輪郭を形どるように、背後に蜃気楼が揺らめき始める。

 やがてグランクスの右側で火花が散り始めると、瞬く間に大気を焼く業火の槍が現れた。


「破門者よ、前に出ろ。それ以上吾輩たちの手を焼かせるな」


「っ! ど、どうか再考下さい、グランクス殿!」


「二度は言わんぞ。下がれ小娘。これはリュミエールの問題だ。それとも……ナヴィレザとやらは、吾輩らの内政にまで干渉するつもりか?」


「っ! で、ですが……!」


「……下がってろ"お姫様"。ここはお前の出る幕じゃない」


 ゲイルは隻腕でセラフィーナを押し除けると、白円の中央へと向かい始める。

 

「げ、ゲイル……! 貴方はこれで本当に良いのですか?! 何の釈明も許されず、ただ処刑されるなどと……!」

 

「良いも何も……こうなることは最初から分かっていた。僕は全て覚悟の上でリュミエールに戻ってきたんだ」


「そんなっ……!」


 セラフィーナの声が揺れる。

 ゲイルへと駆け出したその肩を、ハッと我に帰ったリアが慌てて引き止める。


「セ、セラフィーナさん?! 危ないです、本当に巻き込まれちゃいますよ?!」


「離して下さいリア様……っ、は、離して! ゲイル、諦めてはいけません! 早くわたくしの元に戻ってきなさい!」


「良いんだ。僕はナヴィレザで人も殺した。昔なら"非魔術師マナレスごとき"と、何も感じなかったんだろうが……お前らと出会った今なら、ちゃんと思えるんだ。僕は罪を償うべきだと」


「マクシミルの刺客のことですか?! それなら、もう調べはついています! 彼らは多数の殺人で極刑されるべき死刑囚だったと! もちろん、人を殺めたことは手放しに許されることでは有りません! ただ……貴方は、その事も知っていたのではないですか?!」


 二人のやり取りの最中にも、紅蓮の槍は着実に大きくなってゆく。

 

「わ、わたくしは、貴方を窮地に追いやるつもりなど無かったのです! リュミエールこそが……貴方の故郷こそが、貴方が正しく罪と向き合える場だとそう思ったから……だから、連れてきたのに……!」


「あぁ、ちゃんと分かってる。これはお前のせいじゃ無い。だから気を病むことも無いんだ」


「まだ交渉の余地はございます! だから早く、わたくしの所に戻ってきなさい! 早く……っ、お、お願いだから、戻ってきて……!」


 ゲイルは小さく首を振る。その場から動こうとしない。

 代わりに、ひらりと揺れたその右袖を掴んだ。


「……腕の治療、助かった。腕を切られたというのに、痛みで寝付けない夜もさほどなかったんだ。それと……」


 三白眼の視線が、一瞬だけセラフィーナに向く。

 

「色々迷惑をかけてすまなかったな。――セラフィーナ」


「っ……ゲイル……っ」


 名を呼ばれた瞬間、セラフィーナの唇が震える。

 その様子を一瞥し、グランクスが大きなため息をついた。

 

「……遺言はそれで十分か? これ以上、下位魔術師が招いた茶番に付き合わされるのも苦痛だ。疾く終わらせるぞ」

 

 そしておもむろに腕を前へと掲げた。

 ――しかし刹那。ゲイルの前に、影が一つ差し込んだ。


「……どういうつもりだ? 下界の剣士よ」

 

 立っていたのは、カイウスだった。


「カ、カイウスさん!?」


「っ?! お、おい! 何をしてるんだ、カイウス・ヴァンデル?! お前まで死ぬぞ、さっさと下がれ!」


 リアとゲイルの声が重なる。

 だがカイウスは振り返らない。抜き身の翠風剣シルフォルビスを下げたまま、その場に佇む。


「……セラフィーナ」

 

 その声は静かな怒りに震えていた。


「先に謝っとく。俺のやってることは、踏み越えてはならない一線を超えてる。ナヴィレザとリュミエールの友好条約を遠退かせるかもしれない。護衛としては、完全に失格だ。その自覚はあるんだ。だけど……もういい加減、限界なんだよ」


 灰色の視線は、戦場のそれに戻っていた。


「俺は……人の命を何とも思わない、こういう連中が一番嫌いなんだよ。ゲイルの言い分一つも聞かず、挙げ句の果てには"真理の旅への障害"だと……? いったい何様なんだよ、お前ら魔術師は!」


 激昂するカイウスの胸の奥で、古い記憶が疼く。

 バルコ港区でゲイルと相対した際も浮かんだ光景。


 仲間を焼き払う炎の熱が、皮膚の奥に蘇る。

 焼け落ちる肉の音。火魔術師の嘲笑うような笑い声。

 そして……命を大切さを教え、自分を逃してくれた「彼ら」の背中。

 

 カイウスの視線が賢者マギステルたちを射抜く。


「こいつはな、アンタらと同じ、血の通った人間なんだぞ!? 即断即決で簡単に奪っていい命じゃないんだよ! そんなことも分からないアンタらがこの世の"真理"を語るだと?! ふざけんな! 人の命を切り捨てることが、世界の真理なわけねぇだろ!」

 

 振り払われた翠風剣シルフォルビスが、熱気を帯びた大気を切り裂く。


「俺は……"カイウス・ヴァンデル"は、この命を見捨てはしない。打ち込むならさっさと来いよ、ヒゲ面」


「……聞くに耐えんな。なに、焼却すべきゴミが一つ増えただけのことよ」


 グランクスは鼻を軽く鳴らすと、術式に発動を命じた。


「疾く消し去れ――紅蓮槍イグニス・スピクルム


 同時に滞空していた業火の槍が一段と熱を増した。

 炎は形を保ったまま圧縮され、次の瞬間、一直線に放たれる。


 標的は二つ。ゲイルと、彼の前に立つカイウス。


「カイウスさんっ!!」「カイウス様っ!!」


 リアとセラフィーナの叫びが重なった。

 乾いた空気が喉に絡み、声は思うほど伸びない。


 ――ゴオオオオオオオッ!!


 爆炎が、広間の中心を覆い尽くした。

 轟音とともに押し寄せる熱波。空気そのものが燃え上がり、視界は紅蓮に塗り潰される。


 やや遅れて、リアとセラフィーナは恐る恐る目を開く。

 焼け焦げた骸が転がっている光景を無意識に想像していた。

 

 しかし、紅蓮の奔流は途中で断絶されたように途切れていた。

 炎の先端は歪み、行き場を失い揺らいでいる。


 その境界に、半透明な翡翠色の薄膜が張られていた。

 

 ――空気が、ない。

 空間を切り分けるようなその層が、炎の進行を根こそぎ奪っていた。

 燃え広がるための足場を奪われた炎は勢いを保てず、左右へと崩れ落ちる。熱だけを名残のように残し、中心は急速に沈黙していった。


「横から水を差して悪いね、グランクスの旦那」


 場に落ちたのは軽い声だった。

 その声に導かれるように、カイウスたちは視線を上げる。

 

 そこには、座席から身を起こしたレオニダスが立っていた。

 腰元に据えられた術式石板が翡翠色の光を脈打たせている。その光は、先ほど炎を拒んだ膜と同じ色調を帯びていた。


「でもこれは、僕たちアエラシオの問題でもあるんだ。ここはひとつ……僕に判断を委ねてもらえないかな?」

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