2-27. 旅路の果てとなる場所②
朝の光が白壁の寝室に射し込み、心地よい温度を部屋へ広げていた。
ヴァルシェ旧邸、二階の寝室。
窓の外では、朝靄に包まれたナヴィレザの屋根々が淡く色づき始め、遠くの鐘楼から一日の始まりを告げる澄んだ音が響いてくる。
カイウスはゆっくりと目を開いた。
眩しさに目を細め首を回すと、昨夜の疲労がまだ僅かに残っている。しかし背筋を伸ばした瞬間、目の奥にまとわりついていた眠気がほどけていった。
「……俺の方が先に起きるなんて、珍しいこともあるもんだな」
独り言は朝の空気に吸い込まれた。
隣の寝台は空だった。
代わりに自分の寝台の縁で、毛布がふっくらと大きく膨らんでいる。
「……道理で狭いと思ったよ」
軽く頭を掻き、そっと毛布をめくる。
丸まった背中、抱き込んだ膝。大きな身体を綺麗に畳み布にくるまったリアが、小さな寝息をすうすうと立てていた。
感情豊かでよく喋り、よく笑う普段の様子からは想像できぬほど整った寝相だ。長い睫毛が頬に影を作り、表情は驚くほど穏やかで年齢より少し大人びて見える。
「……ちゃんと寝台は二つあるんだけどな。どうしてこっちで寝てるんだ、お前は……」
呆れたつもりの声には、どこか優しさ響きが混じる。
起こそうと肩に手を伸ばしかけ――ふと止めた。
安心しきった無防備な寝顔。少女から寄せられる無言の信頼が妙にくすぐったくて、触れることは妙に憚られた。
「……いつも作って貰ってばかりだからな。たまには俺が朝飯を用意するか」
呟きながら毛布をかけ直し、静かに寝台を抜け出す。床の軋みに気を配りながらカイウスは部屋を後にした。
***
ヴェルディ市場は、朝から驚くほどの熱気に包まれていた。
焼きたてのパンの香り、果実の甘酸っぱい匂い、炭火で炙られた肉の煙――それらが通りの上で混じり合い、通る人々の足取りを軽くしていく。
露店の店主たちが威勢よく声を張り、噴水のそばでは若い奏者が陽気な旋律を奏で、人々の笑い声があちこちで弾んでいた。
そんな中を、カイウスは手籠を片手に歩いていた。
数店を見て回ったところで、背後から聞き慣れた高い声が跳ねる。
「……カイウスさぁん!」
「うおっ……! ビックリした、ルチアか」
振り返ると、ルチアが陽に揺れる後ろに結えた金髪を弾ませながらこちらへ駆けてくる。飛びつくように抱きついてきた小さな腕の勢いに、カイウスは思わず腰を支えた。
続いて、ルカとマルコ、そして買い出し籠を持つセバスが落ち着いた足取りでやって来る。
「おはようございます、カイウス様。本日も快晴。広場も賑やかで御座いますね」
「あぁ、セバスもおはよう。何と言うか……なかなか珍しい組み合わせだな。ここで何してるんだ?」
「料理長から買い出しを頼まれまして。せっかくの機会ですから、三人には従者としての基礎――目利きや値切りの初歩を、実地で教えておりました」
落ち着いた調子で答えるセバスの隣で、マルコとルカが待ちきれない様子で口を開く。
「聞いてよ、ヒーローの兄ちゃん! 魚屋でセバスさんに鮮度の見分け方を教えてもらったんだけど、セバスさん、その場で店主に管理の改善提案までして、値引きまでさせちゃったんだぜ!? めっちゃカッコよかったよ!」
「あ、あと、香草と茶葉も、ちょっと匂いを嗅いだだけで傷んだ葉っぱを見抜いちゃったんだ! もうほとんど魔術みたいだったよ!」
「へぇ……。頼もしいじゃないか。偉いぞ、二人とも」
興奮気味に話す二人に、思わずカイウスも頬を緩める。
「『日々の積み重ねは、やがて生きる力となる』。お嬢様の教えでも御座います。特にこの三人は素直さという優れた素質も持ち合わせておりますので。鍛える者としても張り合いがあり、楽しい限りでございます」
セバスがそう言ったとき、口元が少し緩んでいた。熟練の従者には珍しい、柔らかな表情だった。
「……あのぉ、カイウスさん」
さっきからカイウスに抱きついたままだったルチアが、控えめに顔を上げる。
「ん?」
「セラフィーナお嬢様から聞いたんですけどぉ……ナヴィレザにお家を持ったって、ほんとなんですかぁ?」
「ああ。正確にはセラフィーナから借りてる家だけど」
「そうなんですねぇ。……そ、そのぉ……お暇ができたらで構わないんですけど、今度……遊びに行ってもいいですかぁ?」
控えめに見上げる瞳があまりにまっすぐで、カイウスは自然と笑みを返した。
「もちろん。それなりに広いから、三人で来てもゆったり出来ると思うぞ。いつでも好きな時に来ていいからな」
「ほ、ほんとですかぁ?! やったぁ……! 絶対、絶対行きますからぁ!」
ぱぁっと顔を明るくするルチア。だが、ふと何か思い出したように眉が寄った。
「……でもぉ、リアお姉ちゃんはずっとカイウスさんと一緒に暮らしてるんですよねぇ。いいなぁ……ずるいなぁ」
その声音には、明確な嫉妬が混じっていた。子供なりの憧れと独占したいという気持ちが垣間見える。
カイウスは苦笑しながら、そっと頭を掻いた。
「……まぁ、リアはあぁ見えても大人だから。一緒に旅をしている仲でもあるし、同じ場所に寝泊まりするのは自然だろ?」
「じゃ……じゃあ! わたしがもうちょっと大きくなったら、旅に連れてってくれますかぁ?! お役に立てるように、色々お勉強しておきますからぁ!」
「い、いやぁ、それは……」
カイウスは一瞬口ごもる。
断ろうとしたが、真っ直ぐな瞳に押されるように、言葉が喉で止まる。幼い約束は忘れるもの――そう心の内で言い訳しながら、小さく頷いた。
「……まぁ、その時が来たら考えてみるよ」
「ほんとですかぁ?! やったぁ! 約束ですからね!」
両手を胸の前でぎゅっと握りしめルチアが跳ねるように喜んだ、その直後。
「あっ! おいルカ、ルチアのやつ顔真っ赤だぞ!!」
「マ、マルコ……からかっちゃ可哀想だろ……」
「ひゅーひゅー! ルチア、ヒーローの兄ちゃんが大好きだもんなぁ! アツアツだぜ!」
マルコの囃し立てに、ルチアの頬がさっと真っ赤に染まる。小さく震えたかと思うと、キッと顔を上げて叫んだ。
「……もぉ!! マルコぉ、ルカぁ! なんで馬鹿にするのぉ!? ぜったい許さないからねぇ!」
「やべっ、噴火した! 逃げるぞルカ!」
「ちょ、なんで僕まで?!」
叫ぶや否や追いかけ、ルカとマルコは悲鳴を上げて逃げ出す。三人が市場の雑踏へ溶けていくまで、カイウスとセバスはただ見守っていた。
「……三人とも、見違えるほど元気になったな。まったく」
「ええ。活き活きとた姿を見れるのは、監督者として嬉しゅうございます」
穏やかに答えたセバスへ、カイウスはふと思い出したように視線を向ける。
「……ところでセバス。結局、アンタの本気にはまだお目にかかれてないな」
「……わたくしの本気、でございますか?」
「そう。できれば今度、模擬戦でも付き合ってもらえないか。素手の技や体捌きを見直したくてね。稽古でもつけてもらえたら助かるよ」
セバスは一拍置き、薄く目を細めたあと静かに頷いた。
「……この老骨でよろしければ、喜んでお相手致しましょう。ただし――」
口元に、老獪な笑みがわずかに刻まれる。
「カイウス様の為にも、手加減は一切致しません。その際は、くれぐれも覚悟はなさって下さいませ」
「う……そ、そりゃあ頼もしいことで。……どうか、お手柔らかにな」
***
カイウスが買い物を終えてヴァルシェ旧邸に戻り朝食の配膳を整えていると、階上から軽やかな足音が降りてきた。
顔を上げれば、リアが踊り場に姿を現した。寝間着から旅装へ着替え、赤い長髪もいつものように整えられていた。
「ふわぁ……おはようございます。……って、あっ! 朝ごはん、用意してくれたんですか?」
まだ少し眠たげな赤い瞳が、テーブルを見た瞬間ぱっと輝く。
素朴な木の卓には焼きたてのパン、彩りの良いサラダ、切り分けた果物――簡素ながら温かい食卓が並んでいた。
「ああ。ちょっと早めに目が覚めてな。ちょうどいま並べ終わったところだ。一緒に食べよう」
「ありがとうございます! でも珍しいですね。カイウスさんってどちらかと言うと、お寝坊さんじゃないですか」
「……そ、そんなことはないぞ」
「ありますよ。だってわたし、最近カイウスさんの寝顔を観察するのが毎朝の楽しみになってますから」
「えっ……? そんなことしてるのか?」
リアは無邪気に笑っていた。
言われてみればここ最近、朝目を覚ますたびに彼女と目が合っていた気がする。「そういうこともあるか」と無理に納得していた違和感の正体が、今になってようやく腑に落ちた。
「それは、ちょっと……いや、だいぶ恥ずかしいから止めてくれ。後生だから」
「いやです。ささやかな楽しみを、わたしから奪わないで下さい。それに、カイウスさんがわたしより早く起きれば良いだけですよ?」
頑張って下さいね、と悪戯っぽい笑みと共にリアが椅子へ腰を下ろす。カイウスも観念したように溜息を落とし、向かいに座った。
ふと視線がぶつかる。赤い瞳にまっすぐ見つめられ、カイウスは弱く息を吐いた。
「……セラフィーナの言ってたこと、正しいのかもな」
「……? どう言うことですか?」
パンに手を伸ばしかけたリアが、首を傾げる。
「“帰りたい”って思える場所を持つこと。……俺には、そういうの無縁だと思ってた。だけど……ノルヴィアと同じ感覚を、今ここでも感じてるんだ。誰かと顔を合わせて、笑い合って、同じ卓で飯を食う。そんな何でもない朝が……案外、悪くないって」
言いながらカイウスは不器用に唇を尖らせる。
リアは数度瞬きをしてから、表情を緩めた。
「……じゃあ、ここはカイウスさんにとって、ノルヴィアに続いて二つ目の“帰る場所”なのかもしれませんね」
そして、ほんの小さく息を整え――
「……もちろん、わたしにとっても、ですけど」
照れた頬が温かな色に染まり、視線がそっと落とされた。
「……あぁ。そうかも知れないな」
カイウスも自然と笑みを返す。
軽口のようでいて、本音でもある。そんな返しだった。
テーブルの上に並ぶ果実から立ちのぼる甘い香りに、初秋の風がそっと触れる。
どこか懐かしい、胸の奥をくすぐるような温かな空気が二人を包むのを感じながら、カイウスは手に取ったパンへ齧りついた。




