2-22. 暴風ほどけ、空は澄む
ゲイルは倒れたまま肩を震わせ、血を噛み切るように荒く息を吐いた。
灼けつく刃を突き立てるような鋭痛と、肉を抉るような鈍痛が全身の至るところで入り混じっている。
「ぐぉッ……こ、この僕がぁ……ッ!」
唇が裂けそうなほど強く噛みしめ、呻き声を漏らす。だが若き天才にとって本当に耐え難いものは、身体を苛む痛みそのものではない。
目の前に突きつけられた、容赦のない現実のほうだった。
――魔力を持たぬ“雑種”が、天才たる自分の才覚を超えた?
――たった一振りの剣で、風の絶対たる“支配"が叩き砕かれた?
――こんな理不尽、許されてたまるものか。
「……違う……! 違う違う違う違う違うッ!!」
肩の震えが全身に広がり、目を見開いたまま虚ろな視線が夜空を彷徨う。
理解できないのではない。理解することを、本能的に拒んでいた。認めた瞬間、自分の根幹を支える大事な何かが崩れ落ちるのを、ゲイルは直感で理解していた。
「もう、どうでもいい……! 風の支配の力は、こんなものじゃ無いッ! 最初からお前ら雑種なんて、まともに相手するべきじゃなかったんだッ……!」
低く唸る声に、狂気が混じる。
「面倒だ……もう、すべてを消し飛ばしてやるッ! ――この鬱陶しい、街ごとなぁッ!!!」
理性の堤が音を立てて崩れ、どす黒い激情が濁流のように溢れ出す。
ゲイルは膝に手をつき、糸の切れた人形のようによろめきながら立ち上がった。そして天を一瞥し、片腕を高く掲げる。
石板が、脈動を再開する。
空気が軋み、気流が震え、風が逆巻く。水路の水面がざわりと跳ね、石畳へ細かな水飛沫が舞い散った。
――空創波。
バルコの旧倉庫街を吹き飛ばした終末の風――その核が、胎動を始めていた。
***
「カイウスさん……っ! あ、あれ!」
息を整えていたカイウスが、リアの緊迫した声に顔を上げる。
視線の先――満身創痍のゲイルが立っていた。しかし掲げられたその右手の掌に、小さな球体が浮かんでいる。
それが一体何なのかは、カイウスの身体は痛いほど覚えていた。
三日前。旧倉庫街を丸ごと掃き飛ばした、暴風の核――。
「あ、あいつ……! 街ごと吹き飛ばす気か!?」
「ま、まずいです! いまここでアレを使われたら、水都回廊が全部、吹き飛んじゃいますよ! と、止めないと……!」
リアは叫ぶと同時に駆け出した。
――だが。
「――ッ!?」
刹那、風刃が空間に展開される。無数の見えざる刃がリアの足もとを切り裂くように走り、ゲイルへと続く進路を塞いだ。
「また……っ、ほんとうにしつこい!」
飛来する風刃を拳で叩き落とす。
だが一つ潰せば、すぐ次の一撃が迫る。完全に足止めされ、思うように近づけない。
焦りがリアの胸を焼いた。
ゲイルを見る。掌の破壊の核が、ゆっくりと回転を始めていた。高圧の風を螺旋状に飲み込みながら、なおも膨張していく。
あの時と同じ――いや、それ以上に危険な気配。
「だ、だめだっ! このままじゃ、間に合わないっ!」
叫びながらも拳は止めない。だが声には、はっきりと震えが混じっていた。
リアは、“あれ”が呼び起こすものを知っている。それゆえの恐怖が、胸を凍てつかせる様に広がってゆく。
だが、その時ーー。
「一つ、忠告だ。魔術師」
背後から、低く静かな声が通る。
カイウスだった。翠風剣を下げたまま、真っ直ぐにゲイルを見据えている。
「確かにお前の魔術は、大きな脅威だ。戦ったから分かるが、才能も間違いなくあるんだろう。だが……魔力の有無だけじゃ、人の価値は測れないんだよ」
「……は?」
「リアの言葉を借りるなら、他人を“雑種”なんて呼ぶのも止めた方がいい。特にここナヴィレザは、“自由と平等”を掲げる街だ。滞在するなら、その文化に敬意くらい払うべきだろう」
「は、はぁ? はぁはぁはぁ?? 説教かァ?! この天才の僕に向かって、クソッタレの雑種がァ!?」
ゲイルが怒鳴り返す。だがカイウスは、口もとをわずかに吊り上げた。
「そんな大層なものじゃないさ。ただ、そうだな……同じ旅人としての助言だ。旅先で出会う人も、街も、その“中身”を見ることが大事なんだよ。じゃないと――」
短く息を吸い、言葉を鋭く断ち切る。
「いまに足元、掬われるぞ」
呆けたように睨み返すゲイルの、その背後で。
――ガコン!
石畳の脇、水都回廊の排水口の蓋が跳ね上がる。そこから黒い従者服とヴィーザをまとった三つの影――ルカ、マルコ、ルチアが、跳ね上がるように飛び出した。
「今だっ! マルコは右! 僕は左!」
「了解だルカ! “強き守護者”、オルランド様が悪を討つ!」
「ルカちゃん! マルコぉ! いけえええぇ!」
三つの声が、夜を裂いた。
ゲイルが振り返るよりも早く三人は石畳に着地し、その勢いのまま外套の下に隠された石板へ全力の一撃を叩き込む。
――バギィィィンッ!!
鋭い破砕音。砕け散る石板。行き場を失った翡翠の魔力が空間へと霧散してゆく。
「は、はあぁぁあ?! な、なんだ貴様らはぁぁぁ?! 一体どこから湧いてきやがったあぁぁぁあ!!」
ゲイルが激昂し、憤怒に染まった眼で子供たちを睨みつける。その怒号を聞きながら、カイウスは勝ち誇ったように口角を上げた。
「言わんこっちゃないなぁ、魔術師。……可哀想に。周りも見ようともせず、ナヴィレザに馴染めなかったお前は知らないんだろうなぁ。この街には、あるんだよ。地下に張り巡らされた――“自由の風”の、通り道がな!」
「こんのぉ……ッ! ク、クソ雑種共がぁぁあぁあアァァアァ!!」
怒りに我を忘れたゲイルが咆哮する。
その瞳にはもう理性の光は無かった。激情と混乱の中で彼は叫ぶ。
「クソがクソがクソが、甘いんだよクソボケ共がぁあぁアァァア! そんなに見たいんなら、見せてやるよォォオ!! 天の才を持つ“選ばれし者”だけが使える……真の術式をなァあァァアッ!!」
ゲイルが絶叫し、虚空へ左手を伸ばす。
その指先――何もないはずの空間に、突如として風刃の術式が描かれ始めた。
翡翠の光が連なり、交差し、回転しながら幾何学的な円環を形作っていく。やがてそれは、空中に浮かぶ巨大な魔法陣へと変貌していった。
「……は、はっ?」
理解が追いつかず、カイウスの背筋に冷たいものが走る。
"魔術師が魔術を行使するには、あらかじめ魔法陣を刻んだ石板が必要。その石板さえ砕けば、魔術師は無力化できる"
それが、カイウスの知る“対魔術師戦”の絶対にして唯一の不文律だった。その法則に従えば、二枚の石板を粉砕した時点でこの勝負は決した……はずだ。
しかし今、ゲイルが放った言葉が真実だとするなら――。
「……いや必要無いのかよ、石板!!」
「石板なぞ、術を早く、確実に、安定して発動させるためのただの媒体に過ぎないッ! 真の魔術師は、空間そのものに術を刻めるんだよぉッ!」
圧縮される気流。空気が削られていく音。
編み込まれた銀の風刃は、その刃先を――恐怖に足をすくませた三人の子供たちへと向けていた。
「カ、カイウスさん…っ!」
「クソッ! すまない、これは完全に予想外だった!」
カイウスが駆け出す。だが、間に合わない。
魔術が完成する方が、確実に早い。
「……リアァッ!!」
カイウスの叫びに反応し、リアが即座に振り向く。と同時に、彼はその場で短く跳躍する――。
「アレだ!! ノルヴィア、朝日!!」
合言葉のような、謎めいた叫び。
しかしリアは、はっと目を見開き、その意図を一瞬で悟る。
石畳を踏み抜き、重心を沈め、一気に踏み込む。轟音とともにカイウスの背後へ滑り込み、その身体を――右腕に乗せ上げた。
「いっ……けぇぇぇえぇえ!!」
全身全霊の投擲。
全ての筋肉を総動員し、風をも追い越す勢いで放つ。
――カイウスの身体が、黒い槍のように射出された。
「……ッ! ……!」
呼吸すらできないほどの加速。視界が線となって流れる。
――それでも彼は、標的は見失わない。
(……ダメ押しだ! お前の風、全部返すぞ!)
両手で握るのは、特殊機構を備えた翠風剣。
――鍔元に指を掛ける。
カイウスの瞳が細まり、その指先が柄に仕込まれたボタンをカチリと押し込んだ。
風導結晶に蓄積した空渦が、解き放たれる。
――ゴウウウウウッ!!
風導孔から噴き出した高圧の風が回廊を駆け抜ける。カイウスの身体が突風の奔流に乗り、さらに加速した。
翡翠の流線を纏ったその影が、空気すら置き去りにする速度でゲイルへ迫る。
「な、なんなんだよぉォォオ! お前はァァァアァッ!!」
ゲイルの絶叫が響いた、ほぼその瞬間――交錯。
カイウスがシルフォルビスを振り抜く。咆哮にも似た風圧が噴き出し、切っ先が黒い外套を断ち切った。
「う、うわあああああああアアアアアアアッッッ!!!」
ゲイルの断末魔が回廊に反響する。
――右腕が、肩口からきれいに斬り飛ばされていた。飛沫のように血が噴き出す。ゲイルは激痛に膝を折り、そのまま床に崩れ落ちた。
同時に、空中の魔法陣が制御を失い、ひび割れるように崩壊していく。風刃は霞のようにほどけ、空へ溶けるように消え去った。
カイウスはそのまま空中を滑り、やがて石畳に触れて何度も転がる。石壁が迫る――衝突する、その寸前。
翠風剣の風圧を、今度は前方へ一気に逆噴射させた。
吠えるような音とともに圧縮風が吐き出され、突進の勢いを削いでいく。
だが――それでも完全には殺しきれない。
「――ッく……!」
背中から建物に叩きつけられる。肺の空気が一気に押し出され、思わず呻きが漏れた。
背筋に鋭い痛みが走る。それでも致命傷ではないと、鈍い感覚で理解する。
やがてカイウスは、荒い呼吸のまま歯を食いしばり、壁を支えに立ち上がった。背の痛みを押さえつつ、揺れる視界の中を一歩、また一歩と前へ進む。
視界の先――仰向けに倒れるゲイルの姿がある。カイウスはふらつきながらもその傍らまで歩み寄り、足を止めた。
一拍の沈黙ののち、静かに口を開く。
「……右腕、悪いな。こうするしか、手がなかった」
「……くはっ。……お前、マジかよ」
ゲイルの口から零れた声には、もはや気取った言い回しは一つもなかった。
右腕に走る激痛と、じわじわと湧き上がる敗北感が、少年から飾り気のない本音を引き出していた。
「この期に及んで……切りかかった敵に、謝罪、するだと……?」
自嘲まじりの吐息が、血の匂いと一緒に漏れる。どこか愉快そうな色さえ宿した掠れ声で、ぽつりと呟いた。
「……ほんとにお前は……憎たらしい"男"だよ……カイウス・ヴァンデル……」
その言葉を最後に、ゲイルの身体から力が抜けていく。意識は深い闇へ沈み、潮が引くように風が消え、静寂が水都回廊を包み込んだ。
カイウスは、戦いの幕を下ろすようにシルフォルビスを黒皮の鞘へと納める。
そして、肺の底に溜まっていた息を長く吐き出した。
「――カイウスさん!」
リアの声が駆け寄ってくる。赤い瞳は安堵の光で潤んでいた。
次の瞬間、カイウスの身体がふっと崩れた。
疲労が限界を超え糸が切れたように力を失ったその身を、リアが迷わず抱きとめた。
「ま、間に合ったぁ……っ!」
リアの体温が、じんわりとカイウスに伝わる。その腕の中で、カイウスは微かな笑みを浮かべて囁いた。
「……ああ。ギリギリ、だったな。助かるよ」
肩で荒く息をしながらも、カイウスは小さく笑う。
顔を上げた先――まだ揺れる視界の中、ルカたち三人が呆然と立ち尽くしていた。
凄まじい戦いの余韻に、言葉を失っているようだった。
しかし、やがて――。
「……や、やった……! 本当に、僕たちが勝ったんだ!」
ルカが、小さく震える声で叫ぶ。
マルコは固く拳を握りしめ、ルチアは泣き笑いのような顔で何度も頷いていた。
「ああ……大立ち回りだったな、ルカ・エリアス・リーヴァ殿」
カイウスは静かに頷き、どこか悪戯めいた笑みを浮かべる。名を呼ばれたルカは目を瞬かせ、照れくさそうに鼻の下を指でこすった。
カイウスはふと、頬を撫でていく風に顔を向ける。
先ほどまでの暴風とはまるで違う、心にそっと触れるような穏やかな風だった。
「……これで少しは、風通しも良くなるだろ」
誰に言うでもなく漏らしたその呟きは波紋のように水面に広がり、静かなさざ波に溶けていった。




