2-15. 翠風、その名は
星々の街区の奥、黒鉄の館。
ドランベルグ邸の最深部――石造りの書斎。昼間だというのに、窓から差す光はどこか濁り、壁にはぬめるような影が張り付いていた。
部屋の中心、大理石の重厚な机。
マクシミル・ドランベルグは椅子にもたれ、白く細い指をねっとりと擦り合わせていた。指先が机を撫でるたび、粘ついた音が空気を汚す。
「……ほんとォォに。まァァァ、よくもやってくださいましたなァ、“風の方”ァ……ッ!!」
笑っている――が、唇は乾ききり、声だけが異様に湿っていた。
机を挟んだ向かい側、黒衣をまとった男。風の魔術師ゲイルは、ひとことも発さず窓の外に目を向けていた。
「倉庫街を、あんな見事に吹き飛ばすとは……いやァ、まったく、さすがですなァ! 情緒というものが、微塵も感じられないッ! 普通ならば、ね? もっとこう、追い剥ぎか何かの仕業に見せかけて、痕跡をぼかしつつ秘密裏に消しさるのが――常道ってもんでしょうがァアァァ!!!!」
怒声が甲高く跳ね、空気がきしんだ。
「これでは、我らの尻尾が見え見えですぞォ!? ええ!? まったく、機微というものを知らんのですかなァ?! 貴方はァアァァ!!!!」
マクシミルの声が狂った鐘のように響く。怒鳴るたびその顔面が歪み、椅子の肘掛けを苛立ちを隠さず乱暴に叩く。握り締めた拳の白さが、一層気味悪く見えた。
だが――ゲイルは沈黙を崩さない。その無言がマクシミルの神経を余計に焼いた。
「……何か言ったらどうです? それともまた、"風がどうの"とかいう気取った御託を、足りない脳みそで捻り出してる最中ですかなァ?」
鼻にかかった嘲り。粘ついた声色に、皮肉と蔑みが絡みつく。
そのとき、書斎の扉が控えめに開いた。黒衣の密偵が姿を現し、マクシミルの前に片膝をつく。
「……ご報告に上がりました。マクシミル様」
「おやァ? おやおやおやァ?? 貴方は確か、ルザニアに貼らせていた方ですねェ……お帰りなさいましィ。私、いまは少々気が立ってましてねェ。……耳寄りな話を、期待致しますよォ」
「は、はっ! ヴ、ヴァルシェ家のセラフィーナ一行が、ナヴィレザ独立基本憲章を追っている模様です。先ほど、ルザニア家との接触を確認いたしました」
「ほォォォ……やはり、そう来ましたかァ」
マクシミルは椅子の背にもたれ、首をゆっくりとねじる。骨の軋む音が、部屋の隅々にまで響いた。
「にしても、あんな紙切れに、よくもまあ執着なさる。ふフフ……クククフェ……! お、お姫様は、なんとお可愛らしいことでェ! 民衆てものはほんと、“それっぽい”信じる対象さえあれば、理由もなく勝手に安心してくれるものですからなァ!」
指を空中でくるくると回しながら、舌なめずりでもするようにねっとりと声を垂らす。
「そもそも基本憲章なんぞ、王国が実質的な支配の糸を握り続ける仕組みに過ぎませんからなァ。国王陛下が自治権を一方的に授与しつつも、いつでも取り消せる、いわば“許可証”の類。しかも、法的拘束力の判断権も王宮司法院が握っているとなればァ――撤回も改定も、陛下の気まぐれ一つで片がつく。握り潰すなど、朝飯前ですわァ」
だが、その声色がふと濁った。
「……とはいえ。あれを平和ボケした市民達を焚きつける希望の象徴として掲げられると、少々面倒ですなァ。例えば、そうですなァ……ナヴィレザが"国家"としての独立を目指す契機になる、とか。ああ、ほんとォに厄介な蠅虫ですわァ……!」
ねっとりと絡むような不気味な声。
口振は裏腹に、揺るぎない自身の勝利を信じ、相手を蔑むような不快感があった。
――そのとき、それまで沈黙を保っていたゲイルが低く呟いた。
「……我が、行こう」
いやに硬質な声だった。マクシミルの表情が凍りつく。笑顔が、ぴたりと止まった。
「……はァ? いやいやいやいや、待って、待ってくださァいッ!? 急に喋り出したと思えば、一体なァにを仰ってるんですかァ!? 貴方が出向いて……今度は何を壊す気ですかな!? この街か!? 私が築き上げた信用か!? それとも――この私の計画そのものかァッ!?」
青白く湿った手をブンブンと振り回しながら、椅子から半身を乗り出す。
「……この私がッ! 貴方のような何をしでかすか分からぬ異物を、これ以上野放しにするとお思いかァァァ!? 低く見られたものですねェ、まァァアったく! ああッ、もうほんとォに虫酸が走る……ッ! その顔も、その声も、貴方がこの場に居るだけで、私は苛立ちで頭がおかしくなりそうですぞォオオォッ!!」
ようやく、ゲイルが彼を見た。感情が映らない瞳には、狂信にも似た思想だけが宿っている。
「……無理だ」
「……は? ……はァ!?」
「風は……束縛されぬ」
「ッアァァァア!! またその! 意味不明な“風語”かァァッ!! いい加減黙りなさいなッ!! このバカがァッッッ!!!」
マクシミルの声は裏返り、唾を飛ばしながら机を叩いた。だが、ゲイルは静かに言葉を継ぐ。むしろそれは宣告に近かった。
「風は、自由だ。ゆえに、誰にも縛られぬ。そして、縛られぬということは……支配を受けぬということ。支配されぬ者こそが、全てを支配するに値する。風は、最高位に立つべき存在なのだ」
彼の外套が、かすかに揺れる。
「……しかし我が師は、その証明という風の使徒としての使命から目を背け、“真理の探究”という檻に逃げた。だが我は違う。風の剣として、必ずこの世界を裂く。我は、王都に証明せねばならぬ。風が支配の器であると。それこそが――“真理”なのだ、と」
そして、口角が淡く吊り上がる。
「貴様如きの微風に、暴風の化身たる我が歩みは止められ ない。我、行かん。旋風とともに。全ての風のために」
その言葉とともに、窓から風が吹き込んだ。机の上の紙が宙を舞う。次の瞬間、ゲイルの姿はまるで煙のように掻き消えた。
書斎には、マクシミルの荒い息と、紙が舞う音だけが残されていた。しばし沈黙。唇を戦慄かせていたマクシミルが、ついに喉の奥から絶叫を迸らせた。
「……だからッッ!! 普通に喋りなさいなァッ!! 何を言ってるのかァ!! 全ッ然ッ!! 分かんないんですよォォォ!!」
渾身の力で机を叩きつけ、血走った目で密偵を睨みつける。
「――あのイカれた魔術師を追えッ!! これ以上勝手をしないよう、確実に始末しろォ!! 二度と口が利けぬよう、この世から骨の一本も残さず消し去りなさいッ!!!」
***
夕暮れの光が、ヴァルシェ邸を柔らかに染めていた。
応接間にはセラフィーナ、カイウス、そしてセバスが集っていた。セラフィーナは翡翠色の肘掛け椅子に、カイウスは三人掛けの長椅子に腰を下ろし、セバスは静かに紅茶を淹れている。湯気は仄かにカモミールの香を漂わせ、空気を和ませていた。
「……ルザニアとの交渉は悔やまれる結果でしたが、決して無意味な一日ではありませんわ」
カップを取ったセラフィーナが、湯気越しに穏やかに口を開く。
「独立基本憲章こそ得られなかったとはいえ、民意は確実に動き始めています。臨時会合での貴族たちの反応も決して悪くはありませんでした。……焦りを募らせているのは、むしろ敵の方でしょう」
セバスがそっと頷き、控えめな声で続ける。
「市街地の一部では、既にお嬢様の名を掲げた行進が起きていると耳にしました。明日から空いている者で、各街区の世論調査を進めさせていただきます」
「ええ、お願いするわ。……いつもありがとう、セバス」
「勿体なきお言葉でございます」
セラフィーナが笑みを向ける傍らで、カイウスは空になったカップを置くと静かに口を開いた。
「……魔術師の件だが。俺はやっぱり、ドランベルグ個人の手先だと思う」
セラフィーナとセバスが同時に目を向ける。
「根拠は単純。アンタの暗殺に仕向けた刺客が殺されていた事だ。仮にリュミエールとやらが背後にいて、魔術都市全体が攻め入って来てるのなら、魔術師を中隊規模で送り込めば手っ取り早く街を落とせる話だろう。……だが、ご丁寧に刺客の口を封じ、証拠も残さず立ち去った。つまり――『力では押し切れない』と判断し、裏からナヴィレザを破壊しようとしているんだ。そして何より、こういう回りくどく姑息なやり口も、如何にもドランベルグらしいじゃないか」
「た、確かに……ということは、マクシミルに付いている魔術師は一名、多くても数人と言うことでしょうか……?」
「俺としては、前者であってくれれば助かるけどね。敵の手札は少ない方がいい」
カイウスは一息つくと、低く言った。
「いずれにせよ、マルチェロ・ルザニアとの会談で方向は見えた。次にやるべきは、魔術師とドランベルグの関係を暴くこと。魔術師を捕らえれば、一気に風向きが変わる」
セラフィーナは静かに頷いたが、その眉間には僅かな皺が寄っていた。
「……しかし、あのバルコ旧倉庫街での表立った破壊行為は、明らかに敵側の悪手でした。姿をくらませた魔術師が、すぐに目立つ動きを取るとは思えません」
「いや、そうとも限らない。じつは少し心当たりがある。――セバス、しばらくはセラフィーナの護衛を頼む。この件は俺に任せてほしい。大丈夫だ、必ず生きて戻る」
その言葉に、セラフィーナの視線が揺れる、
――カイウスを再び、魔術師に立ち向かわせる。
その選択は友を死線に送り出すことと同義であり、昨夜、自らを『為政者失格』と断じた行為でもあった。
けれども今、彼女は知っていた。このカイウスという男の飄々とした口振りの奥には、信じるに足る覚悟と強さがあるということを。
「……ええ。宜しくお願い致します、カイウス様。貴方様を、強く信じております」
少女の言葉にカイウスは頷きで返すと、長椅子から立ち上がり軽く伸びをした。
「カイウス様。今宵はもうお休みになられますか? 寝室と湯浴の支度は整っております」
セバスが尋ねると、カイウスは腰に手を当てながら首を振った。
「いや、先ずはリアの様子を見に行こうと思う。ずっと顔を出せてなかったからな。怪我の具合も心配だ」
そう言って扉へ向かいかけたカイウスの背を、セラフィーナがふと見やった。
「……あの、カイウス様? ところで、剣はどちらに……?」
「え?」
呼び止められて振り返ったカイウスは背に手をやる。
……そこには、何もなかった。
「あっ……」
瞬間、昨夜の記憶がよみがえる。
魔術師との死闘の最後。残った力を振り絞り投げた剣は、敵に届かぬまま瓦礫の中に沈み――
「……マズい。昨夜の戦いで失くしたままだ。すまん、完全に抜けてた。すぐに街で代わりを調達してくる」
苦笑まじりに頭をかいた彼に、セラフィーナがそっと視線を伏せた。
ややあって、何かを決断したようにセバスに目配せをする。主の意図を汲み取ったセバスが小さく頷き、扉を開けると深く礼をした。
「……それでは、私は鍵を取って参ります。お嬢様、どうぞ扉の前でお待ちして下さい」
応接室の扉が静かに閉じられた。残された室内には、セラフィーナとカイウス、ふたりだけ。
カイウスが怪訝そうに首を傾げるのを横目に、彼女はそっと彼の隣へ並び立つ。
「……カイウス様。少しだけ、お時間を頂けますか?」
***
屋敷の地下階。
重く冷たい石の階段を、三人はゆっくりと降りていく。灯りは、セバスの手にある燭台の炎だけ。揺れる光が壁に淡い陰影を落とし、足音が静かに反響する。
やがて最後の段を踏み下りた先――その眼前に、堅牢な鉄扉が現れた。
セバスが手慣れた所作で鍵を外す。錆びを含んだ金属音とともに、扉は重々しく軋みながら開かれた。
その奥に広がる空間は――まるで時間の止まった聖域だった。
整然と並べられた儀式剣か、槍、甲冑や装飾盾。
どれも丁寧に手入れが施され、無駄なものが一切ない。武器庫いうより、ひとつの思想が形を成した結晶のような空間だった。
「これは……圧巻だな。まるで武器の博物館だ」
カイウスの呟きが、石造りの空間に淡く溶けた。
声に合わせ、燭火に照らされた槍と剣が静かに瞬く。小さく呼吸するかのように、壁に刻まれた陰影がかすかに脈動していた。
「ヴァルシェ前当主である父の収集です。……争いを好まない人でしたが」
セラフィーナはゆっくりと歩を進めながら、静かに語り出した。
「父は生涯、一度も剣を抜きませんでした。力で人を屈せしめることを潔しとせず、常に言葉と誠意で向き合い、理を尽くした人でした。たとえどれほど理不尽な状況でも、声を荒らげることなく、ナヴィレザの信念とともに在り続けた……そんな人です」
彼女の視線が、槍の列の奥に掲げられた一枚の盾へと向けられる。その湾曲した面には、燭火の光がやわらかく波紋のように揺れていた。
「……けれど、そんな父が、これほどの武具を集めていたのです。一振りずつ、自ら手入れを施しながら。――きっと、心のどこかでは悟っていたのでしょう。言葉の届かぬ相手が、この世界の何処かには必ずいるのだと。そしていつの日か、誰かが武器を取りこの街を護らねばならぬ時が訪れてしまうことも」
語尾がかすかに揺れた。炎のゆらめきが彼女の横顔に影を落とす。
「……父亡き後はセバスが手入れをしてくれているので、わたくしがこの部屋を訪れるのは、今日で二度目です。かつて父が、生前に一度だけ、わたくしをここへ連れてきてくれました」
彼女の歩みが止まる。
部屋の最奥。そこに据えられた台座の上には、静かに一枚の白布が掛けられていた。
セラフィーナは目を伏せ、記憶の奥に刻まれた声を思い出すように、そっと言葉を紡ぐ。
「――『これが必要にならないことを祈る。だが、もしナヴィレザが危機に陥り、その未来を託すに相応しい武人が現れたなら、その者に、迷わずこれを託しなさい』」
セラフィーナが、そっと白布に手をかけた。
「……今こそ、約束の時です。わたくしは、父のその祈りに応えましょう」
ゆっくりと、白布がめくられる。
そこに現れたのは、一振りの剣だった。
翡翠のごとく透き通る刀身。
鍔には風の環を模した優美な渦紋が刻まれ、黒革の鞘には銀糸が風の流星のような文様を描いている。
「……ぎ、儀式剣か? ……すごいな。こんなに美しい剣は見たことがない」
思わずこぼれたカイウスの声には、心からの驚きと感嘆が滲んでいた。
「翠風剣シルフォルビス――名匠レミアル・イソルドの遺作にして、彼が鍛えた剣の中でも三宝剣と謳われる傑作の一振り……父が、生涯で最も大切にしていた剣です」
カイウスは目を細め、刃に近づく。
「この刀身……翡翠じゃないな。金属なのか?」
「はい。セレヴァイト鋼と呼ばれる希少素材だそうです。わたくしも詳しくは存じませんが、軽く、しなやかで、それでいて折れない。まだ、あらゆる衝撃を受け流し拡散する特殊な性質も持ち合わせているとか。剣術に深く通じてないと、少々扱い辛いのかも知れません」
そう語るセラフィーナは、台座からそっと剣を持ち上げる。両の手で鞘ごと捧げ持ち、そのまま、カイウスの前へと歩み寄った。
「……カイウス様。どうか、この剣をお受け取りください」
カイウスは目を見開き、困惑の色を浮かべて一歩退く。
「い、いや、いくらなんでもそれは……これはつまり、ヴァルシェ家の家宝じゃないか。俺なんかが受け取っていい代物じゃない」
「そう思われるのも、無理はありませんね」
けれど、彼女の瞳に迷いはなかった。
「しかしカイウス様は、ヴァルシェの危機を何度も救って下さいました。そしていまは、ナヴィレザそのものも救おうと下さっている。『信頼に足る武人に託せ』。もしこの剣がいずれ誰かの手に渡り、振るわれる定めにあるのなら……わたくしはせめて、愛する父の祈りを叶えて上げたいのです。持ち主は――貴方以外には考えられません」
セラフィーナは熱の籠った口調で続ける。
「……シルフォルビスと言う名は、古代語で『世界を巡る風』を意味するそうです。世界を旅し、いまこのナヴィレザに新しい風を吹き込もうとされているカイウス様が、こうしてこの剣に巡り会ったこと……わたくしには、運命としか思えないのです」
カイウスは言葉を失い、数秒黙したのち、小さく息を吐いて手を伸ばす。
鞘に収まったままでも、羽根の様に軽い。
柄に触れた瞬間、驚くほど自然に手に馴染んだ。まるで最初から、自分のものであったかのように。
「……軽いな」
「ええ。わたくしでも扱えるほどに。けれど……カイウス様が振れば、きっと風すら斬れるでしょう」
カイウスは小さく笑みを浮かべ、そのまま剣を背に回す。
黒革の鞘が彼の肩にぴたりと収まり、そこが本来の居場所だったかのように収まった。
「……あとで後悔するなよ? 一度もらった物は、なかなか返さない性分なんだ」
「はい。そもそも最初から、返されるつもりなどございません」
セラフィーナも優しく微笑みながら、きっぱりと応える。
「これは先行投資です。ナヴィレザがいま直面している危機を乗り越えた先にも、きっと多くの混乱と試練が待ち受けているでしょう。……その未来に備えるために、わたくしは頼りになる“杖”を手放したくはないのです」
政治家らしい打算を語る口振りとは裏腹に、その目には父の願いを相応しい者の手に託したという誇りと、そして何より――目の前の相手への、深い信頼に満ちていた。
「これからも、末永く。どうぞよろしくお願いいたしますわ、カイウス様」




