2-10. 僕はその日、ヒーローに会ったんだ
どこまでも湿りきった、ひび割れた石の匂いが鼻を刺す。
耳にまとわりつくのは、濁った下水の流れと天井から滴る水音だけだった。
狭い排水口を這い出た先――そこには、苔むした地下の通路が続いていた。暴風から命からがら逃れたカイウスとリアは、ルカの背を追って歩いていた。
「この先を抜けたら、ちょっと広いところに出られるんだ! そこなら――」
ルカの声だけが頼りだった。震えながらも懸命に前を歩く少年の背が、暗闇に灯る希望に思えた。
カイウスは、血と泥にまみれたリアを抱きかかえるようにして進む。リアの意識は浅く、体温はじわじわと失われていく。まるで泥に溶け込む様な、儚く頼りない熱だった。
それでもリアは、一言も弱音を吐かなかった。肩を預けながらも、ただ必死にカイウスの腕に縋っている。
烈風を受け止めていた両手は赤く腫れ、血が滲んでいた。脇腹どころか、全身に痛々しい裂傷が散っている。
――あれだけの斬撃を、たったひとりで受け止めていたのだ。そのあまりにも大きな代償が、いま彼女を苦しめている。
カイウスの胸が、ひどく締めつけられた。
思わず、灰色の瞳が揺れる。
「……もう少しだ。もう少しで休めるぞ……だから、頑張ってくれ……!」
縋るような声は、かすかに震えていた。
リアはうっすらと目を開けると辛うじてカイウスを見上げる。ほんのわずかに口角を上げ、こくりと頷いた。
「……こっち! 着いたよ、カイウスお兄ちゃん!」
ほどなくして、通路の先に古びた鉄扉が姿を現す。ルカは錆びついた鎖を外し、力いっぱい扉を押し開けた。
その先に広がっていたのは、朽ちかけた木材の床と、雨を凌ぐ天井を備えた空間――まるで廃屋の地下倉庫を転用したような、簡素な隠れ家だった。
隅には毛布の山と、乾きかけた食料箱。わずかばかりだが、人の手が加えられた痕跡もある。
「いつも孤児の仲間たちとここで寝泊まりしてるんだ……。今は、二人とも出払ってていないけど……」
ルカの声を背にカイウスはリアをそっと床に横たえると、彼女の腰元にある袋から薬包を取り出す。
――アレシア草の塗り薬。自然治癒を促す万能薬。ノルヴィアで重傷を負ったとき、リアが何度も使ってくれたものだった。
「……ルカ。火、借りられるか」
「う、うん! このランプ、まだ油、残ってるから」
小さな炎がともり、橙色の明かりがじんわりと広がる。その灯火が、リアの血に濡れた頬と傷だらけの身体を静かに照らした。
「……少し沁みるぞ」
カイウスが薬を丁寧に塗り込めていく。腫れた肌や血を滲ませた裂傷を、指先は迷いなく静かに撫でていく。
リアがわずかに眉を寄せ、小さくうめいた。気づけばカイウスの裾を握り、そっと手を差し出している。
カイウスはその手を優しく握り返す。リアの表情が緩み、安心したようにまぶたを閉じた。
やがて――半刻ほど経った後。リアは安らかな表情を浮かべながら、静かな寝息を立て始めた。
「……ひとまず大丈夫、か。助かった。恩にきるよ、ルカ」
カイウスが静かに言った。ルカは申し訳なさそうに笑う。
「ううん……お兄ちゃんたちが無事でよかった。昨日の恩返しが少しでもできたなら、僕も嬉しいよ」
「少し、だなんでとんでもない。あの時お前が来てくれなかったら、俺たち二人とも今ごろ瓦礫の下だった。本当に良いところに来てくれた……偶然通りかかった、って訳ではないんだろ?」
カイウスが問いかけると、ルカは膝を抱えてぽつりと話し始めた。
「さっきも言ったけど、僕はここで他の仲間と暮らしてるんだ。……でも、今夜は二人とも食べ物の調達に出てて、僕はひとりでここに残ってたんだ。そしたら、地上の方からすごい音がして……!」
ルカの手が、膝の上でぎゅっと握られる。
「怖かったけど……でも、どうしても気になって。そしたら……瓦礫の中に、お兄ちゃんたちが倒れてて……! な、何が起きてるのか全然分からなかったけど、とにかく、助けなきゃって思ったんだ!」
その瞳が、わずかに潤む。
「……そうか。ありがとうな。お前は命の恩人だ」
カイウスの言葉に、ルカは慌てて首を振った。
「そんなこと……! お、お兄ちゃんこそ、僕の恩人だよ。昨日あの果実袋がなかったら、僕たち今ごろどうなってたか……」
奥の木箱の上には、あの袋が置かれていた。少し齧られた果実が数個、綺麗に並んでいる。きっと、仲間たちで分け合ったのだろう。
その時だった。
背後、彼らが通ってきた排水路の先――かすかな足音が近づく。カイウスが肩越しに振り返ると、茶髪を短く切った少年と、長い金髪を後ろで束ねた少女が、扉の外に立っていた。
二人とも、灰色でボロボロのヴィーザを付けている。少年は釣り竿を背負い、大きなバケツを抱えて立ち、少女はその陰に隠れるようにして一歩下がっていた。
「ル、ルカ……!? なんで大人を連れてきてるんだよ! お、俺たちの寝ぐらがバレちゃうだろ……!」
少年が声を荒げる。日々の盗みへの後ろめたさがあるのだろうか、仕返しへの警戒も滲んでいた。
「ルカちゃん……この人たち……だ、誰なのぉ……? すごい怪我、してるけどぉ……」
少女の声は怯え混じりで、震えていた。
「マルコ、ルチア! 大丈夫だよ! この人がカイウスお兄ちゃんなんだ! ほら昨日、ヴェルディ広場で僕を助けてくれた!」
ルカが慌てて間に立ち、二人を宥める。
「――じゃあ……この人が、“ヒーロー”の……?」
マルコと呼ばれた少年が恐る恐る顔を上げた。
「“ヒーロー”……?」
カイウスが眉をひそめると、ルチアと呼ばれた少女も叫ぶように続けた。
「す、すごいすごい……! 本当にいたんだぁ……! この人が、ルカちゃんを助けてくれた“騎士様”なんだねぇ!」
「き、“騎士様”……?」
カイウスの顔が引きつる。何とも言えない称号に、少しばかり面喰らう。
「……ご、ごめん。僕が昨日のことを、そう説明しちゃってて……」
ルカが俯きながら言うと、カイウスは苦笑し肩をすくめた。
「ま、まぁ……たまには“騎士様”と呼ばれるのも悪くない。……嫌いじゃないぞ」
「あ、ありがとう……じゃあ、改めて紹介するね」
ルカが振り返り、にこりと笑う。
「男の子がマルコ・ティルシスで、こっちの女の子はルチア・カレンツィオ。ふたりとも、一緒にここで暮らしてる、僕の大切な仲間だよ」
マルコは照れたように鼻の下をこすり、ルチアは小さくぺこりと頭を下げた。カイウスは少し笑い、応じる。
「宜しくな、二人とも。勝手に寝床を使ってすまないな」
「へへ、全然! 何が有ったか知らないけど、赤いお姉ちゃん、早く良くなるといいね!」
マルコが元気よく返す。カイウスは頷き、静かに寝息を立てるリアの横顔を見つめていた。
手当ては済ませたが、安静が必要なのは言うまでもない。ここに、あとしばらく――せめて、意識が戻るまでは休ませてやりたい。
だが。
胸の奥を、別の焦燥が突き上げる。
(……セラフィーナは、無事なんだろうか)
自分たちを見失ったあの魔術師。本来狙っていたのが、もしセラフィーナだったなら。
自分たちがあの場から逃れた今、次に狙われるのは――彼女の筈だ。
ヴァルシェの屋敷には、セバスや私兵が控えている。だが、あの暴風を前にして、果たしてどこまで持ち堪えられるだろうか。
セラフィーナは、まだ何も知らないのだ。黒い風の殺意も、あの魔術の恐ろしさも――。
(一刻も早くセラフィーナに知らせなければ。全てが間に合わなくなる……!)
だが、立ち上がれなかった。
リアが自分の手を掴んでいた。弱々しく、小さな力。ふいに、自分の盾となり覆い被さった彼女の微笑みが脳裏に蘇る。
(……馬鹿野郎。誰がこんな姿にさせたと思ってるんだ……!)
唇の裏を噛む。血の味が、喉の奥にじわりと滲む。
誰よりも人を恐れていたはずの少女が、自分のために命を懸けて戦った。こんな身体でなければ、また隣に立ち闘ってくれるのだろう。そんな彼女を、一人置いていけるものか。
リアの体温は、わずかに戻ってきていた。
だが、それでも脆く、危うい。ここに残り、せめて意識が戻るまで一緒にいたい。それがカイウスの正直な気持ちだった。
(傍にいてやりたい。でも、セラフィーナを見捨てるわけにもいかない……!)
迷いが、胸を裂く。
守るべきものが、二つある。
一方を選ぶことが、もう一方を裏切るように思えて、カイウスは唇を強く噛みしめた。
そんな時だった。
「カイウスお兄ちゃん」
不意に名前を呼ばれ、カイウスは顔を上げた。
ルカがいた。昨日助けた少年が、まっすぐな眼差しでこちらを見ていた。
「なんとなく分かるよ。お兄ちゃん、今すごく迷ってる……行かなきゃいけない場所があるんだね。でも、赤いお姉ちゃんからも、離れたくない」
カイウスはわずかに驚き、眉を上げた。ルカは言葉を選びながら、静かに言葉を紡ぐ。
「……お兄ちゃん、昨日、僕に言ってくれたよね。"いつか、与えられる側になったら今日の事を思い出せ"って。……あれ、本当に嬉しかったんだ。毎日生きるので精一杯な僕に、どう生きるべきか……人としてどうあるべきかを教えてくれた人なんて、初めてだったから……」
ルカは尚も続けた。
「まだ僕は……こんなんで、相変わらず地下暮らしの子供だけど。でも、いつかカイウスお兄ちゃんみたいに、誰かをちゃんと助けられる人になりたいって……あの時、本気でそう思ったんだ。だから――」
そして少年は、カイウスに手を差し出した。
「――だから、今度は僕がお兄ちゃんを助けるよ! 僕たちに出来る事があったら、教えて欲しいんだ。僕もお兄ちゃんみたいに……ちゃんと、真っ直ぐに生きていたいから!」
その言葉の重みに、カイウスの胸が深く揺れた。幼く痩せた少年の瞳の奥に、確かに信念が灯っていた。
あの時、この少年を助けたのは衝動に近かった。
信念と呼ぶにはどこか曖昧で、ただ思いつきのようなものだったかもしれない。だが――それでも、確かに何かを伝えようとしていた自分がいた。
そしていま、その微かな善意が、これほどまでに真っ直ぐに返ってきた。善意がしばしば踏みにじられ、裏切られ、忘れ去られる、こんな世界で。だからこそ、たった一つでも届いていたことが何よりも尊く感じられた。
(……無駄じゃ、なかったんだな)
思わず目を伏せる。喉の奥が熱い。
それが誇らしさか、嬉しさかなのかは、自分でも分からない。ただ確かなのは、目の前の少年が、本気で自分の力になろうとしているということだった。
「……ありがとう、ルカ」
カイウスはゆっくりと顔を上げ、優しく言った。
「お前は……立派だな」
カイウスは、手にした薬包を差し出した。ルカがその包みを大切そうに受け取る。
ただの治療薬ではない。カイウスからルカへの信頼の証であり、希望の火種だった。いつかこの少年の手で、誰かの命が救われるかもしれない――そんな確信に似た予感さえあった。
「……これはアレシア草の塗り薬だ。打撲にも裂傷にも効く。傷口が乾いたら、もう一度塗ってやってくれ。無いとは思うが、火傷には使うな。逆効果になる」
「……! うん、分かった! 僕、ちゃんとやるよ……!」
ルカは薬包を胸に抱きしめるようにして、真剣に頷いた。その時、ルカの影からおずおずとルチアも前に出てくる。
「……わ、わたしも、少しならお手伝いできると思います。前に、……病気の妹がいて、看病してたから。薬の扱い方とか、ちょっと分かると思う」
カイウスはその言葉に驚き、しかし、心からの安堵を込めて微笑んだ。
「そうか……頼りになるな。ありがとう、ルチア」
ルチアはその礼に驚き少し跳ね、やがて赤面して俯いた。その隣で、マルコが鼻息荒く立ち上がる。
「そしたら、俺はここら辺の通路を見張るよ! ここ、今まで誰にも見つかったことはないけど、もし何かあったらすぐ知らせる。俺、逃げ道も全部把握してるし!」
頼もしい言葉だった。どの子の目にも、揺るぎない意志が灯っている。
「……ありがとう、三人とも。心から感謝してる。お前たちに――俺の、大切な仲間を託す」
カイウスはそう言って、リアの手をそっと両手で包み込む。ぬくもりを手渡すようにわずかに力を込め、そして静かにその手を離した。
「すぐに戻る。……それまではここで、ゆっくり休んでいてくれ」
眠るリアの指先が、かすかに動いた気がした。まるで、その言葉に応えるように。
カイウスは静かに立ち上がり、ゆっくりと少年たちを見渡した。
「全てが終わったら、ヴェルディ広場でご馳走させてくれ。全員の好きなものを、みんなで一緒に腹一杯になるまで食べよう。……約束だ」
少年たちが真剣な表情で頷く。マルコも、ルチアも、ルカも、誰一人目を逸らさない。幼いながらも、瞳にはしっかりと責任の色が宿っている。
その姿を胸に刻むように、カイウスはひと呼吸置いてから背を向ける。
――大きな借りができたな。
そんな言葉が、心の内にふっと浮かぶ。
背後からは、少年たちが忙しなく動く気配。毛布を整え、薬を準備し、見張りの配置を話し合っている声。
それを聞きながら、カイウスはほんの少し口元を緩めた。
不思議なほど、安堵が胸に広がっていた。
託せる背中がある――安心して前を向けることが、嬉しかった。
扉が静かに開く。雨音を混じえた夜の空気が、ひやりと流れ込んできた。
カイウスは振り返らない。
その足をまっすぐ、闇の先へと進めた。




