2-6. 異様なる痕跡
レース越しに降り注ぐ朝の光が、やわらかに寝室を包み込んでいた。
窓から見下ろすナヴィレザの町も、淡い朝陽を浴びて目を覚まし始めていた。白壁の家々は光を帯び、運河の水面には金の鱗のようなきらめきが踊る。町そのものが光の衣を纏い、ゆっくりと息を吹き返しているかのようだった。
そんな光の中で、カイウスは静かに瞼を開けた。
――すぐ近くに、人の気配。焦点がぼんやりと合った先で、ひとつの顔がこちらを覗き込んでいた。
「……リア?」
「わっ」
ばっちりと目が合った瞬間、リアはぴくりと肩を揺らした。けれど身を引くことはせず、少しだけ気まずそうに、けれど嬉しそうに笑ってみせる。
「……おはようございます、カイウスさん」
「あぁ、おはよう」
カイウスは片手で目元をこすりながら、のそりと寝台から身を起こした。
寝ぐせで跳ねた髪がひと房、朝日に透けて揺れた。それを見たリアは何も言わず、ほんの少しだけ口元を緩めた。
昨夜の拗ねた空気は、すっかり消えていた。
「よく眠れましたか?」
「うーむ……ぼちぼち、かな。屋敷のベッドってのは沈みすぎて、どうにも落ち着かない。……どちらかと言うと、俺は荷台のほうが寝やすいかな」
「ふふ。贅沢なご意見ですね」
リアは笑いながら寝台の端に腰を下ろし、そっとカイウスの顔を覗き込む。カイウスは窓の方へと視線を向け、ぽつりと呟いた。
「……気持ちいい朝だ。なんだか、ノルヴィアの森で療養してた頃を少し思い出すな」
「え?」
「森の小屋。湯気の立つ薬草茶と、乾いた薪の匂い。……それと、やたらと元気な朝の声」
「……それ、もしかしてわたしですか?」
「いや、他に誰がいる」
軽口のように眉をひとつ上げて言えば、リアはくすっと笑い、ほんのりと頬を赤らめた。
「わたしの薬草茶、また飲みたいんですか?」
「そうだな……癖になる味ではあったかな」
「もう……素直に『美味しかった、また飲みたい』って言わないと、作ってあげませんよ」
「……美味しかったよ。また飲みたい」
少し言い淀んだ声。リアはくすっと笑い、小さく頷いた。
「ふふっ。じゃあ、素直で可愛いカイウスさんには、たくさん作ってあげますね」
「あぁ。楽しみにしてるよ」
リアは窓の方をちらりと見やり立ち上がると、思い出したように言葉を継いだ。
「そうだ。さっき、セバスさんが来てました」
「ん、そうなのか」
「はい。朝食の準備ができたから食堂にお越しくださいって。……カイウスさんの"お姫様"も、お待ちみたいですよ」
言葉の端にほんの少し、からかいのような響きが混じる。カイウスは苦笑しながら肩をすくめた。
「……じゃあ、行くとするか。初日から寝坊でクビになるわけにもいかないしな」
そう言って立ち上がり、背筋をひとつ伸ばす。
相変わらず寝癖が跳ねているのを見たリアは、楽しそうにくしゃりと笑うと、カイウスの後に続いて静かに扉へと歩き出した。
***
高窓からこぼれる朝の光が漆喰の天井に柔らかく反射し、静かな光のベールとなって食卓を包んでいた。長いテーブルには、丁寧に仕上げられた朝食が美しく並べられている。
銀の蓋を外した瞬間に立ち上るのは、温かなハーブの芳香。金縁の陶器に盛られた燻製魚には金柑のソースが艶やかに絡み、近海で採れた貝柱は香草バターで蒸されてふっくらと膨らんでいる。
山羊乳の白チーズには干したタオラが添えられ、籠には数種の蒸しパン――仄かな甘みと湯気をまとった、優しい焼き色が食欲を誘う。
銅のポットから注がれるのは、シナモンとローズマリーの香りを添えた紅茶。その温かな蒸気がゆるやかに立ちのぼり、食卓に蕩けるような香気を漂わせていた。
どの皿も、香りも彩りも申し分がない。だが、上品に整えられたそれらの料理とは裏腹に、席についた三人の手元は重く、わずかな緊張の影が差していた。
沈黙を破ったのは、セラフィーナだった。
銀糸を織り込んだ白レースのヴィーザの奥から、不安げな視線が覗く。
「……昨夜のことですが」
紅茶のカップにそっと手を添え、一拍置く。声に震えはないが、言葉を慎重に選ぶ気配があった。
「少々……自分を見失っていたと、自省しております。カイウス様の力がどうしても必要で、なりふり構う余裕がございませんでした。そんなことは理由にならないのに……リア様の気持ちを、踏み躙るような振る舞いをしてしまいました」
そう言って、リアの方へとまっすぐに向き直る。
「一人ひとりの在り方を尊重する――それが、ヴァルシェの家訓ですのに……あのときの私は、それに背いてしまいました。本当に、申し訳ございません」
リアは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに姿勢を正しセラフィーナをまっすぐ見返した。
「そ、そんな。……わたしこそ、ナヴィレザの未来を背負っているセラフィーナさんの立場も、焦りも、ちゃんと分かってたのに。カイウスさんのことばかりで、周りが見えてませんでした」
言葉に棘はなかった。むしろ、昨夜の迷いを清算するような真摯さが滲んでいる。
「だから……よければ、わたしにも手伝わせてください。カイウスさんと一緒に。ナヴィレザのために、できることをしたいんです」
セラフィーナは小さく瞳を瞬きをしてから、ふわりと笑んだ。
「……ありがとうございます。とても心強く思いますわ、リア様」
隣で見ていたカイウスが二人のやりとりを目で追いながら、ゆっくりと頷く。
「……よし。そろそろ本題に入ろうか。評議院まで、あと六日しかないんだろ?」
セラフィーナは空気を切り替えるように小さく息を吐くと、表情を引き締める。
「ええ。わたくしとしては、決議の日までに"自由派"の議席をひとつでも多く確保するため、"中立派"の貴族たちを説得し、票を引き寄せる必要があります」
「……説得の手立てはあるのか?」
「はい。市民世論の圧力です」
紅茶を一口飲み、その向こうの空間へ視線を泳がせながらセラフィーナは続けた。
「ドランベルグの圧力もあり、多くの貴族たちは自己保身に走っています。ですが市民が一斉に声を上げれば、彼らとて無視はできません。民の支持を欠いたままの投票に、正当性などないのですから。しかるに――ドランベルグと王都の癒着。その決定的な証拠を掴み、市民の前に突きつける。それが、今取りうる最も効果的な一手と考えています」
カイウスが短く頷いた。
「すると、まずは証拠探しか……時間に余裕もない。無駄なく動きたいな」
「……昨夜、一件だけ、気になる情報が入りました」
セラフィーナの声がわずかに低くなり、指先がカップの縁に触れたまま、その表情が硬くなる。
「王都の密偵が今夜、ドランベルグ家と非公式に接触するようです。場所はバルコ港湾区の旧倉庫街。時刻は日没後です」
リアが前のめりになる。
「じゃあ、その現場を押さえれば……!」
だがセラフィーナは目を伏せ、慎重に言葉を継ぐ。
「……ただし、情報源は港湾区に住む路上生活者です。信憑性は正直に申し上げて、かなり低い。それどころか、ドランベルグが撒いた罠の可能性すら否定できません。だから……本来はお二人に、このような危険が伴う任をお願いするべきでは無いのですが……」
リアを上目で見るセラフィーナの目には、昨夜にはなかった慎重さと迷いが宿っていた。
「全く問題ない。任せてくれ」
カイウスの即答に、セラフィーナの目が見開かれる。
「わたしも行きます!」
リアも両手を握りしめ、力強く声を重ねる。
「あ……あり、がとうございます。しかし、本当に宜しいのですか? 罠かもしれないのに……」
「あぁ。罠なら罠で構わない。逆にその場で刺客を捕らえられれば、口を割らせるチャンスにもなる」
セラフィーナが口を開くより早く、リアが前に出る。
「さっきも言いましたけど、ナヴィレザのためにできること、全部やりたいんです。わたし、こう見えて力には少し自信あるんです。きっと、わたしもお役に立てますよ!」
「正直、"少し"どころの話じゃ無い。リアの力は俺が保証する。信頼してくれて構わない。この件は、俺たちが対処しよう。……アンタは、アンタがいま為すべきことに集中するべきだ」
「……分かりました。わたくしは今日中に、自由派の残る貴族たちとの調整に向かいます。カイウス様、リア様……どうか、よろしくお願いいたします」
セラフィーナがふたりを見つめ、穏やかに微笑む。
「改めて、ありがとうございます。お二人のお力が、ナヴィレザの未来を切り拓くと信じておりますわ」
ふたりが同時に頷いた、そのとき――
食堂の扉が、乱暴に開かれた。
現れたのは一人の若いメイド。
息を切らし、動揺を隠しきれないまま駆け込んできた。漆黒のヴィーザが、荒い呼吸に揺れている。
「せ、セラフィーナ様……!」
「どうしたの?」
「そ、それが……昨夜捕らえた刺客の三人が、今朝、全員死亡した状態で見つかったそうです!」
その言葉に、空気が凍りつく。
「自殺か?」
カイウスの短い問いに、メイドは硬く首を振った。
「いえ……詳細は不明ですが、初報では『見たこともないほど奇妙な斬られ方をしている』と……」
リアが息を飲み、セラフィーナは即座に席を立つ。
「現場は?」
「中央牢の地下です。すでに憲兵隊が封鎖していますが……セラフィーナ様の許可があれば、立ち入りは可能のはずです」
「分かりました。案内を。すぐに向かいます」
ヴィーザを整えながら、セラフィーナが歩を進める。カイウスとリアも、迷いなくその後に続いた。
***
ナヴィレザ市街地、地下の中央牢。
湿り気を帯びた冷気が、じっとりと肌を這いまわる。
重厚な石壁と鉄格子に囲まれた独房には、松明の橙光がわずかに揺れ、床に落ちた影を不気味に伸ばしていた。
鼻を刺すのは、鉄錆と血、それに長く淀んだ空気の腐臭。
セラフィーナ、カイウス、リアの三人は、無言のままその空間に足を踏み入れた。
壁際には、二人の憲兵が青ざめた顔で立ち尽くしている。片方は唇を噛みしめ、今にも吐き出しそうな様子だった。
その足元には、白布をかけられた三つの遺体――否。もはや“遺体”と呼ぶことすら躊躇われる、無惨な肉塊があった。
布の隙間から覗くのは、血に濡れた肉片。臓器。指。耳。無造作に転がった四肢や首は、まるで見世物のように散らばっている。
その断面は生々しく、そして不自然なまでに綺麗だった。まるで最初からそういう形に成形されたように、乱雑さが一切ない。
「……っ」
リアが息を呑み、反射的に口元を押さえて一歩後ずさる。セラフィーナもヴィーザ越しに瞳を伏せ、短く息を吐く。
次の瞬間、漂う死臭に耐え切れず、憲兵の一人が膝をつき、胃の中のものを吐き出した。その音が石壁に反響し、牢の空気をさらに沈ませてゆく。
そんな中、カイウスだけが前へ出た。無言で一歩、また一歩と肉塊に近づき、布の端を持ち上げ、黙ってその断面を覗き込む。
斬られている――それはすぐ分かった。
だが、その“斬られ方”が、あまりにも異様だった。
切断面が、異常なほど滑らかなのだ。
皮膚も、筋繊維も、骨すらも。まるで空間ごと裂いたように、抵抗の痕跡がまるで無い。
通常の斬撃に必ず現れる、肉のほぐれ、骨の割れ、刃の軌道を示す捻れや圧痕――そのどれもが見当たらなかった。まるで一筆で描いた一直線のように、美しく断たれている。
カイウスは眉をひそめ、低く唸るように呟いた。
「……これは確かに、尋常じゃないな」
セラフィーナが一歩近づき、カイウスの肩越しに覗こうとする。
「カ、カイウス様? ど、どういう意味ですか?」
「見ない方がいい。……説明するから、そのまま聞いてくれ」
カイウスは布を静かに戻し、目を伏せたまま口を開く。
「斬られたことは間違いない。だが、この断面は……おかしいんだ。どんなに鋭利な剣を使ったとしても、普通は肉に解れが、骨には割れや断ち痕が残る。だが、こいつは違う。あり得ない速度と正確さで、一瞬のうちに断たれてる」
カイウスの視線が、空気の揺れた先を見つめる。
「……そ、それほど腕の立つ剣士なんでしょうか」
リアが震える声で問いかけるが、カイウスは静かに首を振る。
「どんな達人でもこれはできない。しかもそんな斬撃を、たった一度じゃない。人体を細切れにするまで、何度も何度も繰り出している。……常識では考えられない」
カイウスはきっぱりと言い切った。
「……不可解な事は、もう一つある」
「えっ……?」
リアが小さく息を呑む。カイウスは壁際の憲兵に目を向けた。
「遺体が見つかったとき、独房の扉は開いていたのか?」
問われた憲兵は顔を引きつらせ、慌てて首を横に振る。
「い、いえ……扉は閉じられたままでした。施錠も確実にされていて……こじ開けた形跡もありません。我々が鍵で開けるまで、牢は確実に封鎖されていたんです……!」
セラフィーナとリアが同時に息を呑む。カイウスは再び、床に広がる肉片へと視線を落とした。
「つまり――何者かが、鉄格子すら破らずに、その外から牢の中にいる三人をこの状態にした、ということになるな」
低く、冷えた声が地下牢に響く。その場の空気が、一瞬で氷のように一層冷え込んだ。
「何が起きたのか……正直、皆目見当もつかない。だが、もしこれがドランベルグによる口封じなら、敵側に恐るべき腕利きが加わったということになる。そして、次に狙われるのは、恐らく――」
カイウスが顔を上げ、セラフィーナと目を合わせる。
「……わたくし、ですね」
セラフィーナが静かに応じる。
ヴィーザの上で、その蒼い瞳が細められた。
カイウスの胸の奥に、かすかな痛みが走った。
それは、これまでの旅で幾度も経験した――護りきれなかった者たちを見送ったときの、あの惜別の痛みだ。
だからこそ――
「……意見をさせてくれ。俺とリアも、アンタの護衛に回るべきだ。ドランベルグの動きを止められないのは痛いが、ここで本丸を落とされるわけにはいかない」
しかしセラフィーナは目を伏せ、ゆっくりと首を横に振った。
「……お気持ちはありがたく存じます。ですが、わたくしにはセバスがいます。時間に猶予もない今は、ただ守るだけではなく……攻めに転じるべき時です。決定打を取るには、リスクを厭ってはいられません」
凛と響くその声に、カイウスは思わず息を詰める。
恐れも、迷いもなかった。
彼女は、自らの命が秤にかけられていることを、誰よりも理解している。それでもなお、前に進むことを選んだのだ。
彼女の蒼い瞳が、その覚悟が本物であることを雄弁に物語っていた。
昨夜のことが脳裏をよぎる。
カイウスの協力を得るためだけに、彼女は己の命を差し出した。セバスがいるとは言え、結果が約束された賭けではなかった筈だ。
この少女は、自らがこの街の、ナヴィレザの自由の礎になることを、恐ろしいほど躊躇わない。そして今また、同じ瞳で、同じ覚悟を示し、同じ決断を口にしている。
だからこそ――彼女は、誰かが守らねばならないのだ。
彼女自身が気づかぬほどに、真っ直ぐなその信念を曇らせないためにも。
カイウスは視線を落としたまま、静かにひと呼吸を置いた。
「……分かった。敵がアンタを狙うなら、港での密会は手薄になる可能性もある。できるだけ早く片をつけて、セバスの援護に回る。それでいいかな?」
「ええ。……どうか、くれぐれもお気をつけて」
セラフィーナの声に、カイウスが短く頷いた。
「分かってる。今度こそ、確実に尻尾を掴む。……もう、逃がさない」
その言葉に、背後で控えていたリアも強く頷く。
地下牢の隙間から吹き抜ける風が、三人の足元にひやりと纏わり付いた。どこかの通風口からかすかな風鳴りが交じり始める。
嵐の気配が、近づいていた。
それは風向きの変化が告げる予兆でもあり――まるで、この街の命運を揺るがす戦の始まりを告げているかのようだった。




