2-5. 迫る刃風
応接間での一幕の後、カイウスとリアは来賓用の寝室に案内された。
やわらかな灯が揺れる部屋には、天蓋付きの寝台が二つ。
壁際には銀細工の水差しと洗面台が整えられ、絹と羽毛をふんだんに用いた寝具は、旅慣れたカイウスにとっては些か贅沢すぎるほどだった。
「今後の詳細につきましては、明日改めてご説明いたします。本日はごゆるりとお休みくださいませ」
セバスの丁寧な案内に頷くと、扉が静かに閉じられた。
重厚な木戸が音もなく嵌まり、屋敷の静けさが立ち戻る。
リアは寝台の端に腰を下ろし、膝を抱えて座りこんだ。
ふわりと広がる寝間着の裾。むすっとした表情で床を見つめ、頬を少しだけ膨らませている。ヴィーザはすでに外され、寝台横の机に丁寧に畳まれていた。
その様子を横目に見ながら、カイウスは窓辺に立ち、冷えた夜風に頬を晒していた。
街の気配が遠くから届く。どこか非現実めいた静寂の中、ふとセラフィーナの言葉が脳裏に蘇る。
"監視をしていたわけではございませんが……本日のヴェルディ広場での一部始終、拝見させていただきました"
――あの時からすでに、自分たちは見られていたのだ。
裏通りの奇襲。
いま思えば、刺客の呼吸は乱れ、どこか焦りの気配もあった。セラフィーナを追っていたというより、まるで――追跡する何かから、逃げていたような。
そして、そこに現れたセバス――得体の知れぬ実力を隠し持つ、あの老執事。彼ほどの男が、あの程度の刺客を“取り逃がす”などあり得るのか。
カイウスは首を振る。あれは、逃がしたのではない。"泳がせた"のだ。
十数秒の思考で、全体が繋がる。すべては、仕組まれていたのだ。
セラフィーナはドランベルグ家の襲撃を事前に察知していた。
だがそれを逆手に取り、セバスを遣わせて刺客を小道へと追い込んだ。その上で自ら姿を晒し、“狙われている標的”としてカイウスに助けを求める。
彼女は最初から、会うべくして現れたのだ。
カイウスを自らの陣営に引き込む――恐らくは、ただそれだけの為に。
(やれやれ……あそこまで仕組んでおいて、素知らぬ顔で礼まで言えるとは。つくづく、為政者ってのは恐ろしいもんだな)
だが、欺かれたとは思わない。むしろ、感嘆に近い感情が胸を満たしていた。
ナヴィレザの未来のためなら自らをも駒のひとつとして使う胆力。全幅の信頼を受け、その覚悟を支えるセバスの在り様。
主従でありながら、あの二人には戦場を共にする同志のような結びつきがある。長年に亘り築いてきた信頼関係が、今の彼らの形を作り上げたのだろう。
「……カイウスさん。セラフィーナさんに、ずいぶん甘いんですね」
ふと、背後からリアの声が飛んでくる。
振り返ると、寝台の上のリアが相変わらず膝を抱えながら上目遣いに睨んでいた。
「美人だからですか? セラフィーナさん、まるで絵本のお姫様みたいに綺麗ですもんね」
「……は?」
カイウスが目を瞬かせると、リアはぷいとそっぽを向く。
「依頼のことだって、あんなにあっさり引き受けちゃって。わたしはほんとうに心配してあげてたのに、カイウスさんはデレデレデレデレしちゃって……ほんと、やだ」
不機嫌な声の裏には、少女らしい拗ねた感情が滲んでいた。カイウスは肩をすくめ、ベッドの端に腰を下ろす。
「あれは別に、セラフィーナさんが理由じゃないさ。……正直に言うと、依頼を引き受けたのはリア、むしろ君の影響だ」
「……わたし?」
リアがきょとんと目を瞬かせる。カイウスは少し目を伏せ、静かに言葉を探した。
「アゼルさんの墓前でも言ったろ? 誰かのために損得抜きで立ち上がれるリアの強さを、俺は尊敬してるんだ。そうありたいと心の何処かでは思いながらも、以前の俺にはなかったものだから」
カイウスが頭を掻き、気恥ずかしさから視線を逸らす。
「……だから、少しでも近づきたいと思ったんだ。これからも、リアと一緒に胸を張って歩けるように。旅は始まったばかりだけど、きっと長い旅になると思う。……だから今ここで、少しでも自分のことを変えたかった」
それを聞いたリアの顔が、みるみるうちに真っ赤に染まった。言葉を失ったまま顔を伏せると、膝に額をつける。
「……ずるい」
「えっ」
「ずるいです、カイウスさん。わたしが人慣れしてないの知ってて……そんなふうに言われたら、もう……信じるしかないじゃないですか」
声はくぐもっていて、聞き取りづらい。カイウスは少し困ったように笑うと、ゆっくりと答えた。
「リア……この言葉で何かが変わるとは思ってない。でも、約束するよ。俺は君には嘘はつかない。これまでも、そしてこれからもだ」
リアが顔を上げる。その赤い瞳には涙ではなく、何かに焦がれるような光を宿していた。
「……分かりました。カイウスさんのこと、信じます」
「ありがとう。これで和解、だな」
カイウスが力を抜いた笑みを浮かべると、リアはほんの少し唇を尖らせた。
「……さっきは意地悪なこと言っちゃって、ごめんなさい。なんでか自分でも分からないんですけど……セラフィーナさんにデレデレしてるカイウスさんを見たら、すごく嫌な気分になっちゃって。……でも、心配なのは本当なんです。それだけは、信じてください」
「あぁ、そもそも疑ってないよ。ついでに言うと、デレデレもしていない」
「してましたよ」
「してない」
「……してた気がするんです!」
「文字通り、気のせいだな」
小さな口論が、ふたりのあいだに柔らかい温もりを戻していく。
窓の外では、風が音もなく街を撫でていた。ナヴィレザの夜は深まり、空気がしんしんと冷え込んでいく。
***
場所は変わり、星々の街区の東端。
古い石造りの高台に建つ、重々しい気配を纏った邸宅。星々の街区にあって、その館だけが闇を塗り込めたような黒鉄で造られている。
まるで星々の光すら飲み込もうとするかのように、その不気味なシルエットは深い暗闇に沈んでいた。
その屋敷の奥、最も闇の深い一室。
そこは、書斎だった。
一本の蝋燭の炎が、粘つく空気の中で頼りなく揺れている。棚には帳簿と契約書が並び、壁際には朽ちかけた甲冑と、止まったままの古時計。
その中心で、ドランベルグ家現当主――マクシミル・ドランベルグは、ワイングラスを指先で弄びながら、にたりと歪んだ笑みを浮かべていた。
歳は七十ほどか。老いさらばえた顔には、得体の知れない圧が潜んでいる。
撫でつけた白髪は脂じみて鈍く光り、年老いた分厚い指には金と紅玉の指輪がいくつも嵌められている。濁った目元に深く刻まれた皺は笑うたびに醜悪にたわみ、そしていやに粘ついた舌が涎混じりにぬめりと唇を這う。
「まァァァったく。自由派の小蝿どもときたら、本当に困ったものですなァ」
声は低く、底の見えぬ粘性を帯びている。その響きだけで書斎の空気が湿り気を増すようだった。
「なかでも、あのヴァルシェの小娘よォ。見目は唆る。あァ、実に極上……っ! ですがなァ、中身がいただけませんなァ。理想だの、信念だのと……青臭い戯言ばかりを振りかざしおってェ」
にちゃ、と唇を舐め、舌を歪ませて笑う。
「だがまァ、結局のところ、その小娘さえ摘み取ってしまえば、残りの連中など蜘蛛の子を散らすようなもの。他の凡愚どもは所詮、"誰に尻尾を振れば生き延びられるか"……それしか考えとらん。無学な民など、言わずもがな、ですなァ……」
くぐもった笑いが、喉の奥でくつくつと鳴る。
「……とはいえ。今宵の刺客どもには失望させられましたなァ。三組六名、全員が失敗……挙げ句の果ては、うち三人が捕えられるとは。なァァァんと、無様な。本当に、期待外れですなァ」
ワイングラスをくいと傾け、どろりとした赤を喉へと流し込む。その所作ですら、粘つくように遅い。
「残された時間は、僅か一週間。もはや猶予はありません。次こそは……確実に、仕留めねばなりませんなァ」
老男はふいに目を細めると、手元の小さなベルを鳴らした。澄んだ音が空気を裂き、扉が音もなく開いた。
無音のまま、影が一つ滑り込んできた。
黒いローブ。深く被られたフードが、顔の上半分を覆う。気配すら風のように希薄なその姿に、マクシミルは口角をさらに吊り上げる。
「ようこそ我がナヴィレザへ、“風の方”ァ。色々と相談に乗って頂けると聞いておりますぞォ」
応答はない。ローブの人物はただ、静かに顔を上げた。
フードの奥、その唇がわずかに開く。
「……風は、流れに抗わない。ただ、吹くべきところに吹くだけだ」
乾き切った声だった。感情の起伏すら感じさせない響き。
マクシミルは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに太ももを叩いて笑い飛ばす。
「ハハ、これはまた……解釈のしがいがある台詞ですなァ! ま、宜しいでしょう。私も暇ではないので、早速本題と参りましょう。とある小娘を一人、"処分"して頂けませぬかな? 対象はヴァルシェ家の当主、セラフィーナ嬢――」
そこで意味ありげに言葉を切ると、にたりと顔を崩す。
「――いや、やはり“誘拐”に訂正しましょォ。あの娘……見た目だけは、ホンットォォォォォに、雄心に媚びるように極上でしてなァ……! ど、どうせ消すなら、その前に、す、少しばかり……フヒ! た、愉しませていただかねばァ……ッ! フフ……フフフヘヘェェ……!」
ねっとりとした笑いが書斎に広がる。だが、ローブの男は全くの無反応だった。
「あァ、それと。囚われた三名のおバカさん達の後始末もお願いしますよォ。余計なことを吐かれては、のちのち困りますのでなァ」
ようやく、ローブの男が口を開く。
「……風は、花を揺らし命を育む。だが、同じ風が時に、岩を穿ち、木を裂くこともある。脆きものは、抗う術を持たないものだ」
「……あ、ああ? つまり、引き受け頂けると?」
マクシミルの問いに、わずかな焦りが滲む。
「風。それが答えだ」
そう呟いた瞬間、書斎の空気がわずかに震える。
開け放たれた窓から一陣の風が吹き込んでいた。ローブの裾を巻き上げ、月光が男の腰元を照らし出す。
冊子ほどの大きさの石板が、二枚。
その表面には、幾何学的な紋と、風を象徴するよつな波形の文様、そして螺旋を描くように古文字列が彫られている。
ふと、風に乗って一匹の小蝿が窓から入り込む。
――ローブの男は、一指すらを動かさなかった。
だが次の瞬間、携えていた石板の片方が淡い緑色に発光を始める。中心から螺旋状に、刻まれた溝をゆっくりと光が走る。まるで水が満ちるように。
そして、全体に光が行き渡った瞬間。
――パァァンッ
空気が、鳴った。
一閃の風が走る。いや、厳密には"風"ではなかった。
それは、空間を裂く――“見えざる刃”。
刃が小蝿を通り過ぎる。
――直後、その羽も胴も跡形もなく、蝿は空中で塵のように切れ散った。
「……風からは、逃れ得ない。風は……切るべきものは、全て切り裂く」
マクシミルが見惚れるように呟き、笑みを深めた。
「お、おおおォ! 見事ですなァ、風の方……! ですが、セラフィーナ嬢は切り裂かず、必ず生きたままでお願いしますよォ! 私には死体を弄ぶ趣味など、ありませんからねェ!」
男は一歩だけ前に出る。足取りは、まるで風に乗るように滑らかだった。
「……風」
その一言とともに、影はすっと掻き消える。
残されたのは揺れる蝋燭の炎と、わずかな旋風の名残だけ。月明かりが再び射し込む頃には、そこに“気配”さえ残っていなかった。
書斎に、再び沈黙が戻る。
「……フフ、しかし王都のご友人方も、実に良い贈り物を寄越してくださる」
マクシミルはワインの残りを飲み干し、ぬめるように笑った。
「戦場に出せば、一個中隊に匹敵する戦力を誇ると名高い精鋭中の精鋭――"魔術師"を、こんな雑草狩りに使えるとは! いやはや、これは失敗りようがありませんなァ……!」
その下卑た笑い声が、夜の静寂を湿った裂け目のように、ねっとりと引き裂いた。




