1-2. 異変、そして出会い
夜風が湿り気を帯びはじめた頃、カイウスとエルンは村の奥まった一角へと歩いていた。
足元には踏み固められた小道が伸び、両脇には静まり返った麦畑が広がる。日中は金色に輝いていた穂は、今は月明かりを受け銀糸のように揺れていた。村の喧噪はすでに遠く、道中はほとんど会話もなかった。エルンの足取りはやや硬く、何かを言い出すのを迷っている様にも見えた。
半刻ほど歩いたころ、目の前に古びた石造りの屋敷が見えてきた。麦畑の中にぽつんと建つそれは、村にしては珍しい重厚な造りだった。
所々に木組みの梁が通り、柱には古代文様が刺繍された布が巻かれている。簡素ながら、歴史と格式の片鱗を漂わせていた。
「村長、夜分にすみません。……例の件で、ちょっと話をしてほしい人がいて」
エルンが控えめに戸を叩くと、古びた木戸がギイ、とゆっくり開いた。
中から現れたのは白髪混じりの壮年の男。がっしりとした体格に似合わず、どこか柔和な目をしていた。彼はカイウスを一瞥し、目を細めた。
「……只者ではないな。相応の人物だ」
カイウスは一歩進み出て、静かに頭を下げた。
「カイウス・ヴァンデルといいます。傭兵です。商団の護衛で今日ノルヴィアに着きました。護衛や随行任務を請け負っています」
「村長、この人すごかったんです。さっき酒場で農夫同士が喧嘩を始めたんですが、スルスルっと間に入って……手を出さずに気迫だけでその場を収めたんですよ」
興奮気味に語るエルンを横目に、村長はふと目を細め、静かに手を差し出した。
「私はオルド。オルド・グレイヴ。ノルヴィアの村長だ。……実のところ、手を貸してもらいたいことがある。内容は、そう、とても穏便とは言い難いが」
そう言ってから、オルドは屋敷の中へと身を引き、手招きするように言った。
「まずは中へ。立ち話も何だからな」
カイウスとエルンは静かにうなずき、古びた木戸をくぐって屋敷の中へと入る。
内装は石壁の骨組みに木材が多用され、重厚さと温かみが同居していた。蝋燭の灯りが柱の文様を照らし出し、床には手織りの敷物が敷かれている。ほのかに古い香草と蝋の匂いが混ざった、静かな空気が漂っていた。
オルドに導かれ、ふたりは屋敷の奥の一室へと通された。
応接間として使われているらしく、中央には古い木製の円卓。壁際の棚には分厚い帳簿や村の地図、古い儀礼器具のようなものが整然と並べられている。
「ここは少し狭いが、話をするには丁度いい」
オルドの勧めに従い、カイウスは腰を下ろす。エルンもその隣に控えるように椅子へ腰を落ち着けた。
やがて、オルドが円卓の上に両肘を乗せ、組んだ指先を見つめながら、静かに口を開いた。
「早速だが、本題に入ろう。これから話す村の問題について
、どうか驚かずに聞いてもらいたい」
カイウスは頷いた。応接間の静けさが、何か大きな言葉を待っているように感じられた。
そして、オルドは一拍置いてから、静かに口を開いた。
「ここのところ、北西の森が妙なのだ」
その口調こそ穏やかだったが、声の奥に宿る張り詰めた緊張は隠しようがなかった。蝋燭の灯りがオルド額を照らし、刻まれた皺の谷間に深い影を落とす。
「妙……と言いますと?」
カイウスが問い返すと、オルドは腕を組み、重たげに続けた。
「元々あそこは、小動物や鳥たち、薬草などが豊かに息づく平和な森だった。それが、先月の初め頃からだ。死骸が見つかるようになった。しかも……どれも普通の死に方ではない。喰いちぎられ、蹂躙され尽くされた、目を背けたくなるような有り様でな」
カイウスは眉間に皺を寄せる。
「獣害……ということでしょうか?」
オルドは、すぐに首を横に振った。
「そう単純ではない。問題は、残された痕跡だ。地に付いた足跡がーー成人男性がすっぽりと収まるほどの大きさなのだ。しかも、周囲の木々も薙ぎ倒されている。一本を倒すのに、屈強な男でも半日かかる木が、何本もまとめて……根こそぎだ」
語るうちに、彼の声にかすかな震えが混じる。
「まるで……森そのものが、何かに怯えているようなのだ」
屋敷の窓枠が、夜風に軋んで小さな音を立てた。ぴたりと静まり返った室内に、その音が妙に耳に残る。
「帰還した狩人たちも正体は見ていない。ただ、痕跡を見ただけでみな、口を揃えて言う。『あれは俺たちの敵う相手じゃない』と」
沈黙が落ちる。
「それで……私に、何を?」
カイウスの問いに、オルドは真っ直ぐな視線を向けた。
「調査を依頼したい。異変の正体を確かめてくれ。無闇に兵を出せば村の不安を煽る。だが確証さえ得られれば、都市へ軍の派遣を正式に要請できる。これは手練れであるカイウス殿にしか任せられぬ事なのだ」
カイウスは一瞬だけ目を細めた。虚言を弄する輩ではない。オルドの目は誠実で、そしてどこか痛々しかった。村を守ろうとする覚悟が、言葉より先に滲み出ている。
「……報酬は?」
静かに問いかけると、オルドは無言でエルンに頷いた。
「エルン。例の袋を」
エルンが慌てて差し出さしたのは、麻袋にぎっしりと詰まった銀貨だった。調査任務にしては破格の額である。
「支度金として一部前払いも可能だ。ただ……命を懸ける任務になる。森に入って戻ってこなかった者も、既に少なくない」
言い終えるより早く、カイウスは頷いた。
「ーー受けましょう」
即答だった。オルドの目がわずかに見開かれる。
「……いいのか?」
「人よりも獣を相手にする方が性に合ってるもので。旅の疲れもあるので、今夜は宿で休んで、明朝から動きます」
オルドは深く頷いた……が、そのまましばし言葉を探すように沈黙した。視線が宙を彷徨い、口元に硬い影が宿る。やがて、低く慎重な声音で言葉を落とす。
「一つ、忠告しておきたい。……無いとは思うが、この異変、もしや"セキジュウ"が関わっているやも知れん」
その瞬間、応接間の空気が静まった。
「……"セキジュウ”?」
カイリスが眉をひそめると、オルドはわずかに唇を引き結んだ。躊躇いの色を含んだ目で、卓上の蝋燭を見つめる。
「そうだ。奴は六年前、村の象徴を――豊穣の女神様の御神体であるあの《祈りの大樹》を、尋常ならぬ怪力で真っ二つに裂いた化け物だ。当時の光景を目にした者は皆、それを赤いケモノ……"赤獣"と呼び、恐れ忌み嫌うようになった。触れてはならぬ村の傷だ」
その言葉に、カイウスは無意識に息を止めた。
――あの木のことだ。
村へ来る途中、小麦畑の向こうにそびえ立っていた巨木。丘の上に聳えるその姿は、幹の中央から縦に裂け、左右に開いた断面が空を引き裂くように突き立つ、異様な“骸”だった。その禍々しさに、畏怖すら感じたのを思い出す。
ヴォルトは原因不明とは言っていたが、「大方落雷でも当たったんだろう」とカイウスは内心そう踏んでいた。だがまさか、それを――
(一体の“獣”が裂いた、だと?)
ぞわりと、背に冷たい汗が這う。
「……その赤獣とやらが、今も森に?」
「……分からん」
オルドはゆっくりと首を横に振り、続ける。
「ただ今回の件は、現場に足跡の痕跡もある。奴ならそんな痕跡は、残らない。だから違うとは思うのだが……」
「?赤獣の足跡という可能性もありますよね」
当然のように返すカイリスに、オルドは一瞬、目を伏せる。蝋燭の炎が揺らぐ中、表情に微かな緊張が走った。
(……?なんだ?)
カイリスは小さく首を傾げた。赤獣が獣である以上、足跡は残して然るべきである。むしろ無ければ不自然だ。しかしオルドの口ぶりは、それを“赤獣ではない証拠”のように捉えている。
ふと視線を隣に移すと、エルンが俯いたまま拳を強く握っていた。まるで胸の奥に、得体の知れない何かを押し込めているように。
(何を……隠しているんだ?)
小さな違和感が、胸の底に沈殿していく。言葉では説明できない。ただ、何かを伏せられた感触があった。だが、いま言葉にすれば、きっとこの二人に対し“踏み込む”ことになる。
カイリスは、そっと視線を落とした。
目の前の答えに手を伸ばすには、材料が足りない。――今は、まだ。静かに息を吐き、彼は決断を一つ心に置いた。
(……まずは情報だ。森の調査で痕跡の実物を確認する。問い詰めるのは、それからでいい)
やがて、カイウスが腰を上げる。
「いずれにせよ、承りました。報告は適宜させて頂きます。吉報をお待ちください、オルド殿」
カイウスは礼を告げて応接間の出口へ向かう。だが扉を閉める直前、何かを思い出したかの様にふと足を止め、振り返る。
「……あの。すみませんが」
オルドとエルンが驚いたように顔を上げる。
「前金は、少しだけ頂けないでしょうか……。いや、ちょっと情けない話ですが、風の壺亭のシチュー、さっきは味わう余裕がなかったもので」
◆
翌日。
言葉通りカイウスは問題の森に足を踏み入れていた。
陽はすでに高く昇り正午を過ぎていたが、ノルヴィアの森の中は驚くほど薄暗かった。木々が光を遮り、昼間なのに空気は冷たく澱んでいる。鳥の声も、風の音もない。森閑とした沈黙の中に、異質な気配だけが満ちていた。
足を踏み入れた瞬間から、森そのものが何かを恐れ、息を潜めているかのようだった。カイウスは手にした両手剣を抜いたまま、深く苔むした獣道を慎重に進んでゆく。
一刻半時は歩いただろうか。少し開けた場所に出た。——いや、正確には「抉じ開けられた跡」と言った方が近い。周囲の樹木は根元から薙ぎ倒され、地面には巨大な足跡がいくつも残されていた。成人男性一人分はあろうか。深く刻まれた泥の痕跡が、獣の質量と異常さを物語っていた。
「これは確かに、普通ではないな……」
誰に聞かせるでもなくカイウスはそう呟いた。
晩夏の森は本来、涼しいはずだった。にもかかわらず、カイウスの額にはじっとりと汗が滲み、空気は肌にまとわりつくほど濃く、重い。形容し難い不快感が続く。
――その瞬間だった。
右横の茂みから、何かが風すら切らずに襲いかかってきた。音も、気配すらなかった。存在そのものが、突然そこに現れたかのようだった。
カイウスは反射で体を捻り、抜き身の両手剣を一閃させた。金属の風切り音とともに刃が唸る。辛うじて斜めに斬り払った一撃は、襲撃者の進路を逸らすには足りた。
着地と同時に、咆哮が炸裂した。
「グルルアァァァアッ!!」
耳をつんざくような音圧が、森の沈黙を破った。小鳥のさえずりも、虫の羽音も消え失せた空間に、不釣り合いなほど獰猛だった。
現れたのは、一頭の異形の狼。
全身は灰銀の毛皮に包まれ、目は血に濡れたような深紅。鋭く剥き出した牙は、人間の腕ほどの長さを誇り、その巨大な顎がわずかに開くだけで空気が震える。四肢はしなやかで、無駄がない。体躯は優に通常の狼の八倍はある。
圧倒的だった。存在そのものが“死”を纏っていた。
カイウスは直感する。これはただの獣ではない。
研ぎ澄ました殺意。殺しの技術を感じさせる佇まいーーまるで戦場を生き抜いてきた歴戦の戦士のようだ。
狼が低く唸り、地を掻いた。
(来るーー!)
剣を構え、地を蹴る。
反応の遅れは死を意味する。まともに受ければ潰される。相手の動きを読み、捌き、逃げ、削るしかない。
その判断が終わるより早く、狼は滑るように宙を舞った。重力を無視したような軽さ。巨体が静かに迫るという矛盾。視界が黒く染まる。
間一髪で身を翻し、カイウスは地を転がって回避。起き上がりざまに斬撃を見舞った。鋭く閃いた刃が狼の左前脚を捉え、鮮血が飛び散る。
だが、狼は一切反応を見せなかった。
そのまま流れるように跳びかかってくる。
無感情。無痛。無慈悲。
ただ淡々と、命を刈り取る動作が機械的に繰り返される。
回避、反撃、そしてまた回避。
肩にかすった爪撃だけで、皮膚が裂け、血が噴き出した。鋭利な刃のような一撃に、肉がたやすく裂かれる。
(……凌ぎきれない!到底勝てる相手じゃない!)
戦いではない。これはただの狩りだ。
狩人は巨狼で、自分は、獲物だ。
カイウスは冷静に、自身の死の可能性を計算し始めていた。感情を殺し、逃げの選択肢を探る。
カイウスは跳躍し樹上へと素早く移動した。
木々の影に紛れ、呼吸を整える。任務は討伐ではない、調査だ。生きて戻りさえすればいい。
(出し抜くしかない。先ずは逃げきる道を──)
その一瞬の気の緩みを、巨狼は逃さなかった。
巨体が轟音と共に樹を蹴り、衝突。幹がへし折れた。
空が揺れる。
バランスを崩し、カイウスは地面に叩きつけられた。
衝撃。息が止まる。
肺から空気が強制的に押し出され、視界が揺れる。両手剣は手から離れ、どこかへ転がっていった。
骨が軋み、背が焼けるように痛む。叫びたくなるほどの激痛を、傭兵としての最後の意地で押し殺した。
目の前には狼。
血塗られた口が、こちらを喰らわんと開いていた。
逃げ場はない。
動けない。
武器もない。
(くそ、ここまでかーー)
心が静かに諦念へ傾きかけた、その時だった。
突風に揺れた木々の隙間から、陰鬱とした森に一条の光が差す。陽光が斑に漏れる中、天を仰ぐカイウスの視界が奇妙な物を捉えた。
流星だった。
真昼の空に、紅蓮の閃光が煌めきながら駆けている。
(……は?)
そして、その紅は隕石の様な軌道を描きーー雷鳴のような衝撃と共に二人の間に着地した。
「なっ──」
轟音。
土煙が爆ぜる。衝撃に巨狼がひるみ、カイウスも視界を奪われた。
そして――
「どいてぇええええぇっ!!」
突如耳を劈くような叫びが轟き、赤い影が狼の顎を撃ち抜いた。
バァンッ!!
瞬間、爆裂音と共に火花が散る。
狼の巨体が、まるで重力を無視したかのように、信じがたい速度で後方へ吹き飛ばされた。枝を折り、幹を裂き、地面を抉りながら、十数メートルはあろうかという距離を転がっていく。その衝撃に、森の表層の土と落ち葉が一気に巻き上がり、巨大な土煙の帯が生まれた。
狼がようやくその慣性を失った。
その巨体が完全に止まったとき、鋭い耳は倒れ、赤く濁った両目が苦痛に染まっていた。血がしたたり落ちる顎の骨は、明らかに砕けていた。
やがて、半身を引きずるように立ち上がったその眼には、先程まで見せていた冷徹な狩人の光はなく、焼け付くような痛みと、本能的な恐怖を映していた。そのまま巨狼は、唸り声とも呻き声ともつかない音を漏らしながら、ゆっくりと木々の奥へと姿を消していった。
カイウスは、呆然としていた。理解が追いつかない。死の淵から引き戻されたばかりの頭では、今の出来事を正確に処理しきる余裕などなかった。
ただ一つ、はっきりとわかったのはーー
自分は今、確かに生きているということ。
そして、自分を救ったのは。
紅蓮の隕石の正体――燃える様な赤髪を揺らす、目の前の"少女"ということだった。