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2-3. 予定調和の邂逅

 夜のナヴィレアは、昼の喧騒を忘れたように静かだった。


 月の光を受けて、運河の水面がゆるやかに揺れている。広場から離れた裏通りは人気も少なく、古い石造りの街灯が橙の灯りを滲ませていた。


「カイウスさん、今日はごちそうさまでした」


 リアが布袋を片手に、ふわりと笑いながら頭を下げた。彼女の歩みは軽やかで、その目元にはヴィーザで隠し切れないほどの幸福感が残っていた。


「苦しゅうない。初給料のお祝いだ。喜んで貰えて何よりだよ」


「それはもう!思い出すだけで、またお腹が空いてきそうな味でした」


 リアの瞳が再び輝く。


「わたし、生の魚って初めて食べました。あのタオラの実のソースもすごく合ってて……それに、あのぷりぷりの貝。名前は忘れちゃいましたけど、びっくりするくらい甘くて。あれはノルヴィアじゃ絶対食べられません」

 

「ノルヴィアは内地だからな。海の幸は川魚とはまた違った味わいがある」


「世界は広いですね……。こんな別世界な街があるなんて、村を出る前は想像もしなかったです」


 ふとリアが立ち止まり、夜空を見上げる。満月が静かに雲間を漂っていた。


「まだ数日しか経ってないのに、なんだか夢みたいです。わたし、やっぱり……カイウスさんについてきて良かったです。毎日驚きと発見があって。昔おじいちゃんが『人生は冒険だ』ってよく言ったの、すごく腑に落ちます」


「そうか……それは、これから立ち寄る街のハードルが上がるな」


「ふふっ。期待してますね」


 リアが冗談っぽく笑った、まさにその時だった。


 右手の細い路地。

 その奥から、影がすべり出るように現れた。

 フードを目深く被った女性。その足取りは乱れ、壁にもたれ掛かり肩で息をしている。

 カイウスとリアの視線に気付いたのか、こちらに向けて手を伸ばし、震える声が夜を裂いた。


「っ!そこのお方……!お、お願い……助けてください……っ!」


 カイウスの目が鋭くなる。

 リアが一歩踏み出そうとするのを、彼が腕で制した。

 フードの隙間から一瞬、深海のように澄んだ蒼の瞳が見えた。恐怖に揺れている。

 ーー逃げている。誰かから。


 その答えは、すぐに現れた。

 別の小道から、闇を裂くように複数の影が姿を見せる。

 漆黒の外套、素顔を隠す黒無地のヴィーザ。

 無言、だが明らかに訓練された動き。


 カイウスは女性を庇うように位置どりをする。


「……一つ訊きたい。何故この人を追うんだ?どちらに非があるのか見極めたい」


 カイウスが問うが、男たちは答えない。

 一歩、また一歩と間合いを詰めてくる。


(……まぁ、分かりやすく、こっちが黒だよな)

 沈黙は明確な回答だった。


「……リア。戦闘だ。彼女の護衛を頼む」


「わ、わたしも……!」


「いや、狼との戦闘で分かったが、まだ君は経験が少ない。乱戦には不向きだ。俺が取りこぼした者だけを頼むよ」


 カイウスの言葉にリアは一拍開けてコクコクと頷き、フードの女性を庇う様にして立った。

 例の巨狼との一戦以来、こと戦闘に於いてリアがカイウスに寄せる信頼は絶大なものがあった。


 カイウスが背中の剣に手をかける。

 だが、抜かない。

 最悪の事態に備えるだけだ。

 彼は"まだ"、殺すつもりはない。

 

「……どうした。来ないのか?」


 刹那、男たちが動いた。


 一人が正面から鋭く踏み込み、

 二人目が視界の端、死角となる側面からすべり込む。

 三人目は気配を消し、背後から音もなく迫っていた。


 しかし次の瞬間、カイウスの身体が“風”そのものと化した。


 まず正面の男。

 踏み込みの一瞬の癖――左肩がわずかに沈むのを見逃さず、肘を切るように打ち払い、体勢を崩させる。

 その動きを利用し、自身の軸足を返すようにして背後へ体を反転。まるで相手の動きを予知していたかのように、後ろからの刃をわずかに肩をずらすだけでかわし、逆手で脇腹に肘を突き入れる。

 男が呻きとともに崩れ落ちる。


 同時に、横から襲いかかった二人目の腕を一拍で掴み、肘関節をわずかに極めて意識を逸らす。

 そのまま軸を沈め、掴んだ腕ごと体を捻るようにして投げ払う。

 間者の背が石畳に打ちつけられ、気絶寸前の痙攣を見せた。

 

 カイウスは間合いを離れず、正面の男へと歩み出た。

 相手が反撃の構えを見せた瞬間、その動きの“始まり”を読む。足首の微妙な重心移動を見たと同時に、内腿を蹴り上げ、さらに喉元へ掌打――

 男は息を詰まらせたままその場に沈んだ。


 三人が、無音のまま石畳に崩れる。

 一瞬の、出来事だった。

 

 一部始終を見ていた残りの影たちは、互いに一瞬だけ視線を交わすと音もなく踵を返し、闇の中へと姿を消す。


 緊張が、薄く解けていく。


「……お見事……!」


 リアが拍手混じりに呟いた。


「……いや。まだだ、リア。気を抜くな」


 カイウスの声に、リアが驚いて目を見開く。


「えっ……?」


「一番厄介そうなのがまだ隠れてる。出てこいよ。そこにいるんだろ」


 カイウスの目が、細道の奥へと鋭く向けられる。

 次の瞬間。まるで闇そのものが輪郭を持ったように、一つの人影が路地奥から静かに現れた。


 黒の礼服に身を包んだ長身の男。

 老舗の館に仕えるような身なりと、漆黒のヴィーザ。

 その所作には研ぎ澄まされた隙のなさがあった。

 無音の歩み。呼吸すら感じさせない。

 動きのひとつひとつが、培ってきた長年の戦場の理を表していた。


 カイウスの喉奥が、ごくりと鳴った。

 反射的に剣へと手が伸びる。

 瞬間、背筋を伝って冷たい汗が一筋、流れ落ちた。

 

(……こいつ、別格だ。一体何者だ?)


 殺気はない。だが、それが逆に恐ろしい。

 目の前の男は「意図的に殺気を消せる側」の人間。数手先を読み、いかなる剣戟にも対応できる者だけが醸せる、洗練された“静”の気配。 

 

 ーー不用意に動けば、斬られる。

 

 空気が、一変していた。

 カイウスが、わずかに剣の柄を握り直す。刃の先を抜きかけた、その時だった。


「セバス!」


 突然、後方から女性の声が上がった。

 振り返る間もなく、リアの影に隠れていたはずのフードの女性が男の胸に飛び込むように駆け寄る。


「お嬢様……!」


 低く、柔らかな声。空気がわずかに緩む。呆気にとられるカイウスとリア。


「お二人が、お嬢様を悪漢から救って下さったのですね……!この度はお嬢様の命を助けていただき、誠にありがとうございます」


 その男は、柔らかく深く頭を下げた。

 銀の髪を後ろで束ね、礼服の襟元を整える所作は優雅で、完璧で、そして隙がない。


「……このセバス・グレゴリオ。ヴァルシェ家に仕える者として、深く御礼を申し上げます」


「……味方だったか」


 カイウスの握った剣の柄から、ようやく力が抜けていく。


「お二人とも、本当にありがとうございます。本当に、何と御礼を申したらいいか」


 先ほどまで黒服の男――セバスに抱きついていた女性が、こちらに向き直る。

 純白のヴィーザの奥から、柔らかく澄んだ声が届いた。


「……あぁ、申し訳ありません。自己紹介が遅れました」


 そう言って彼女はゆるりと手を伸ばし、頭から被っていたフードを外した。


 月明かりが呼応するようにさらりと差し込む。

 こぼれ出た光が、彼女の姿をそっと照らす。

 

 現れたのは、絵画から抜け出したような気高き美貌だった。

 煌めく金の髪が月光を受けふわりと波打つ。長くしなやかな髪は後ろで束ねられ、真珠細工の髪飾りがその流れを優雅に留めている。

 目元と頬を包む白いヴィーザは繊細な刺繍を宿し、肌の白さと調和していた。

 なによりも印象的なのは、その瞳だった。深い海のような、蒼。感情を湛えながらも揺らがぬ光を宿す、そんな色をしていた。


 彼女は一歩下がり、隣に控える黒服――セバスと並んで、深く一礼をする。


「わたくしは、セラフィーナ。セラフィーナ・エレオノール・ディ・ヴァルシェと申します。……以後、お見知り置きを、お願いいたします」


***


 名乗りを終え、姿勢を正したセラフィーナは、目の前に立つ男――カイウスを静かに見つめた。


 先ほどの戦いを思い返す。

 セラフィーナは、リアの後ろからそのすべてを見ていた。

 三人の刺客を瞬時に無力化した身のこなし。

 間合いを詰める際の目線。

 無駄のない脚運び、敵意に反応する動き。

 そして何より。「殺さなかった」。


 剣を携える者の多くは、脅威を示すために命を奪う。

 だが彼は、それをしなかった。意図的に避けたのだ。

 己の力量と相手の動きを瞬時に測り、無力化できると見切ったうえで、それを完璧にやってのけた。

 

 ――それだけではない。


(この方は、わたくしの素性を何ひとつ知らぬままに立ち上がった)


 セラフィーナの胸が、ほんのわずかに熱を帯びる。

 貴族の当主としての名も、立場も、地位も、伝えなかった。


 見返りのない行為。

 戦えば、命の保証はない。

 なのに彼は、自分を疑うことすらせず、ただ助けを求める声に対し迷うことなく動いた。

 その行為が、どれほど稀有で尊いものかを、彼女は誰よりもよく知っていた。

 

(……どこまでも、まっすぐな方)

 

 セラフィーナは小さく息を吸い、誰にも聞かれぬよう喉奥で吐いた。


(間違いない。この方だ)


 名のある者ではなく、信念のある者を。

 誰かの命令で動くのではなく、己の意志と信念で立ち上がり、時には主である自分をも律してくれる"杖"を。


 ずっと、ずっと、探していた。

 でも、今夜、やっと見つけた。


 セラフィーナは視線を少しだけ落とし、そして改めてカイウスを見つめ返す。ヴィーザの奥の蒼い瞳が、夜の光を受けてわずかに揺れた。


 だが、その揺れに気付くものは誰もいなかった。


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