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2-2. 杖

 ナヴィレア市街の中心、《ヴェルディ広場》。


 石畳の大地をぐるりと囲むように、半月形の回廊と階段が連なっている。

 広場を見下ろす位置には、演説用の立ち台と古塔の鐘楼がそびえ、白と青を基調とした建物には緑の蔦と鮮やかな花が彩りを添えていた。

 噴水の縁では、楽師たちが涼やかな旋律を奏で、水音と調和するように絡み合っている。


 広場には市が立ち、露店と人波が織りなす光景はまるで移動する絵巻のようだった。

 香辛料の煙、干し果実の香り、たなびく染布、焼きたてのパンの芳ばしい匂い。

 すべてが風と共に流れ、街の空気そのものが祝祭のように輝いていた。


「わああああ……!」


 リアの瞳がきらきらと輝く。

 口をぽかんと開けたまま、視線をあちこちに跳ばせていた。


「タオラの実、専門店……?!み、緑色のタオラとかあるんだ、食べてみたいなぁ……!ヴィーザもあんなにたくさん!あれは……一体何を売ってるんですか!?カイウスさん!!」


「好奇心旺盛なのは、本当に良いことだな」


 カイウスはため息を吐きつつも、リアの背中を見失わぬように歩幅を合わせる。視線を右へ左へと飛ばす彼女は、まるで広場全体にじゃれつく大きな猫のようだった。


「すごい……すごすぎます……!毎日豊穣祭をやってるみたい!」


 目を輝かせたまま人並みを掻き分けていたリアが、ふと足を止めた。

 露店の一つ。木箱にぎっしりと古本が並べられている。


「……っ!?ええっ、ええええ!?ちょっと待ってください、これ!!」


 リアが慌てたように棚に駆け寄り、一冊の厚手の本を両手で引き抜いた。表紙には銀の箔押しで《~貴方は私の薔薇の騎士~ 第四巻》と書かれている。


「うそ……うそ、うそ!これ、"わたバラ"ですよ!?続いてたんだ!私が持ってたの第三巻までだったのに……!」


 リアは目を白黒させたまましばし絶句し、ページをぱらぱらとめくってから、力を込めて叫んだ。


「どうりで、生煮えな終わり方だと思いました!あれで完結なんてありえないって、ずっと思ってて……!」


 カイウスはその反応をどこか懐かしいものを見るように眺めていた。


(そういえば……)


 ノルヴィアの森。

 雨音が屋根を叩く夜、リアの古びた家の一室でリアが本を読んで聞かせてくれたことがあった。

 確かその内の一冊がこの《貴方は私の薔薇の騎士》、通称"わたバラ"だったと思い返す。

 幼少期に冷遇された主人公の姫が、薔薇の騎士と出会い、ゆっくりと心を通わせていく話。いかにも年頃の少女が夢中になりそうな筋書きだった。

 

「あぁ、一巻だけ読んでくれたアレか。お気に入りだったんだな」


 そう声をかけると、リアは何度もこくこくと頷いた。

 

「とうぜんです!これは、ただの恋愛ものじゃないんです!孤独に悩む姫の心の揺れや、それでも誰かを信じたいっていう願いが、ほんとうに丁寧に描かれていて……それに応える薔薇騎士様の想いも、もう……読んでると胸がぎゅーってなるんです……!」


 そう言いながら、リアは本を胸に抱きしめる。


「わたし、とくに好きなシーンがあって」


 少し照れくさそうに、でも言わずにはいられないように続ける。

 

「薔薇騎士様が、姫に告白する場面なんです。『貴方の生きてきた過去、抱えてきた苦しみ……私はその全てが愛おしい。今の貴方を形作るすべてに、感謝したい』って」


 リアの声が少し震える。


「もう、最初に読んだとき、本当に感動しちゃって!もしこんなこと言われたら、わたし、簡単に好きになっ──」


 その瞬間、リアの言葉が止まった。

 何かを思い出したようにはっと目を見開き、ヴィーザ越しでも分かるほどみるみる顔が赤くなっていく。

  言いかけた言葉をのみこみ、本を抱きしめ直すと、顔を逸らした。


「……すみません。なんでもないです。ほんとに。でも、とにかく、素敵なんです……」


 途端にしおらしくなるリアに、カイウスは小さくため息をついた。

 忙しい奴だ、と思いながらも、どこか目尻が緩む。

 

 ――そのときだった。

 広場の一角で、ざわめきが上がった。


「おい、こいつだ!盗みやがったぞ!」


 怒鳴り声。人だかり。

 露店のひとつで、金髪の少年が店主に髪をつかまれていた。

 手には、複数の果物が入った袋。怯えた表情で、痩せこけたその身を必死によじっている。


「返せ!この小僧、さっきも別の店で!こっちは商売でやってんだぞ!二度とできないよう、徹底的に懲らしめてやる!」


 怒りに任せて声を荒げ、露店主は少年の髪をさらに強く引いた。

 少年は怯え、泣きそうな目で、助けを求める様に周囲を見回していた。

 リアが顔をしかめたちょうどその瞬間、カイウスはすでに歩み出ていた。

 

「待て」


 低く抑えられた声が、空気を切り裂いた。

 周囲の目がカイウスに集まる。


「盗まれたら取り返す。それは当然のことだ。だがーー盗んだものは返せばいい。これも、当然の話だ。必要以上の怒鳴りと罰は、ただの見世物に過ぎない」


「な、なんだあんた……部外者が口出しするな!」


「………代金は俺が払うよ。いくらだ?」


「なっ?!なんであんたが?!」


「その子を見ろ。ボロボロのヴィーザ。痩せた体。明らかに限界を超えての犯行だ。ここで手を差し伸べないことは――命を摘むのと同じだ。俺はそんな夜を眠れるほど図太くないんでね。今日もぐっすり眠りたいんだ」


 露店主は苦虫を噛み潰したような顔をした。

 

「……チッ。銅貨三枚だ。どこから来たか知らんが、ヴィーザも付けずナヴィレアへの敬意もない外者が……とんだ偽善者だな!」

 

「俺はただ俺が正しいと思うことをする。それだけだ」


 カイウスは懐から銀貨を一枚取り出し店主の手に置いた。

 銀と店主の指輪が触れ合う、乾いた音が、騒ぎの終わりを告げる合図のように響いた。

 露店主はわずかに目を細めながらも、渋々と少年の髪を放し、懐から銅貨七枚を数えてカイウスに手渡す。


「……次はねぇぞ」


「随分使い古した脅し文句だな。棚卸しした方がいいぞ」

 

 カイウスの言葉に店主は舌打ちしながら人垣の向こうへ引っ込んでいく。


 野次馬たちも潮が引くように散っていった。

 喧騒も何事もなかったかのように広場へと戻っていく。

 取り残されたように立ち尽くした少年に、カイウスは視線を落とした。


「……お兄ちゃん。あ、ありがとう……!僕、もう、何日も……何も食べてなくて……」


 少年の声は掠れていた。怯えと安堵の入り混じる目で、彼は必死にカイウスを見上げていた。


「……礼はいらないよ」


 カイウスは静かに、できるだけ熱を込めずに言った。


「冷たい事を言うが……これは根本的な解決じゃない。お前は明日も空腹に襲われるかもしれないし、また盗みに手を出すかもしれない。……俺がやったのは、きっと、ただの自己満足に近い」


 そのまま腰を落とし、カイウスは少年と同じ高さまで身をかがめる。

 灰色の瞳が、まっすぐに少年の目を射抜いた。


「ーーけれど、もしもだ」


 ほんのわずかだが、言葉に熱が乗り始める。


「お前がいつか、その日暮らしのこの生活から抜け出せて。誰かに与えられる側になれたとしたら……そのときは今日のことを思い出してくれ。非力な傭兵が、こんなやり方でしか正しさを通せなかったことを」


 少年は息を飲むように、小さく頷いた。

 カイウスは少年の頭をそっと撫でた。

 その手つきは、荒んだ日々に傷ついた獣を労るように優しかった。

 

「……お前、名前は?」

 

「……ルカ。ルカ・リーヴァです」

 

「ルカ、か。……俺は、カイウスだ。また、どこかで会えるといいな」


 そう言って、カイウスは静かに立ち上がる。

 ルカはその背中を、しばらく黙って見つめていた。

 

「カ、カイウスさん!」


 駆けてきたリアが、目をきらきらと輝かせながら叫ぶ。

 

「さっきの場面、わたバラ第二巻の薔薇騎士様そのままでしたよ!」


 カイウスは諦めた様に空を見上げる。


「……またそれか」

 

「だって本当にそっくりだったんです!盗賊に襲われた領民を救い出すとき、言うんです!『勘違いするな。私はただーー日課である散歩を邪魔されるのが嫌いなだけだ』って!」


 言いながら、リアは真剣な顔をしてカイウスの目元をのぞきこむ。


「カイウスさん……よく見ると、目元も少し薔薇騎士様の特徴を捉えてますね」

 

「……勘弁してくれ。似てたとしても、好きで似てる訳じゃない」


 そっぽを向いたカイウスの頬に、ほんのわずか、光が差した。それは疲れでもない、微かに緩んだ陰影だった。


***


 《ヴェルディ広場》を見下ろす回廊。

 白大理石の手すりにもたれ、純白のヴィーザを頬に垂らした貴婦人がひとり、静かに広場を見下ろしていた。


 セラフィーナ・エレオノール・ディ・ヴァルシェ。

 ナヴィレアの名家、ヴァルシェ家の令嬢にして、《貴族議会》を構成する三名家のひとつを背負う若き議員。

 この都市の自由と秩序、その両方を背負う者。


 陽光を纏い軽やかに波打つ金髪が背中で結わえられ、真珠細工の髪留めにそっと留められている。

 金糸を織り込んだ上質な藍のドレスが、海風を受けて柔らかに靡く。

 頬を覆うのは銀糸刺繍入りの白いヴィーザ。彼女のものは特別製で、柑橘の香りがわずかに漂う。

 その布の奥から覗く瞳は、深い海を思わせる蒼。真珠のように白い肌に長い睫毛が影を落とし、整った横顔はまさに一幅の肖像画の様だった。


 そんな彼女の蒼い視線が、広場の片隅に注がれていた。


 粗末な果物を盗んだ少年。

 怒号を上げる露店主。

 集まる人垣。

 彼女にとっては見慣れた“見過ごすべき日常”のひとつにすぎなかった。

 

 だが、その中心へと迷わず歩み出た男がひとり。

 くたびれた旅装、背に剣。ヴィーザで顔を隠さない、傭兵の風体をしたその男は、抜剣することもなく、ひとつひとつの言葉で場を納めた。


 "盗まれたら取り返す。でも、盗んだものは返せばいい。必要以上の罰は、見世物でしかない"


(……綺麗事ですね)

 

 それが通るなら、このナヴィレアに涙は流れない。


 けれど。

 その男の言葉には、剣よりも強いものがあった。

 正しさを押しつけるでも、誇示するでもなく。

 たった一人の少年のために、自分の信念を曲げなかった。

 その在り方は、どの貴族よりも、どの議員よりも、まっすぐで、危うくて――だが、一際美しかった。


(あれは……わたくしが昔、夢見ていた在り方)

 

 セラフィーナは目を伏せた。


 信念のままに立つ。

 現実の政治では、そんな生き方は嘲笑の的にしかならない。

 議場で理想を語れば失笑を買い、正論は「現実を見ろ」の一言で踏み潰される。

 自らの言葉を貫くために、いつしか彼女は「理想を捨てたふり」を覚えた。青臭い信念は、夜な夜な自分を問い正すだけの枷に過ぎない。


 けれど、彼は違った。


 少年に「明日は与える者になれ」と希望を語った。

 自己満足だと理解したうえで、弁明もせず、それがどれほど滑稽で、理解されず、報われない行いだとしても。

 

(……それでも、信念を貫いた)


 胸の奥に、波紋のような何かが広がる。

 

(あの方なら)


 かつての自分が夢見た笑われるだけの理想を、ただひたすらに通す姿。


(あの方なら、わたくしの“杖”になってくださるかもしれない)


 風が回廊を抜ける。

 ヴィーザの端がふわりと舞い、その下の唇に、微かに笑みが浮かぶ。

 誰に見せることも無い、ひとときの感情だった。


 セラフィーナは身を引きドレスの裾を翻すと、回廊の影へと静かに身を沈めた。


「セバス」


 その名を呼ぶと、後方の柱の陰から年配の執事が音もなく現れる。

 銀の髪を後ろで束ね、黒の礼服とヴィーザに身を包んだ老執事は、主の呼吸一つで察するような沈黙を保っていた。

 

 セラフィーナは広場の下を一瞥し、こう命じる。


「……あの方の素性を調べて。接触の機会もなるべく早く、自然な形で整えておいて。わたくしの立場が“言葉で説明せずとも伝わる”場面が望ましいわ」

 

「かしこまりました、セラフィーナお嬢様」


 セバスが静かに一礼する。


 その瞬間、風が吹いた。

 果実と香辛料、そして潮の匂いを含んだ風が、広場を吹き抜けていく。


 優雅な水上都市の裏側。

 カイウス達の知らぬ所で、新しい歯車が静かに動きはじめていた。

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