2-1. 傭兵と水の都
潮の香りと鐘の音が、風に混じって届いてくる。
石畳の坂道をゆっくりと下っていくと、視界がふいに開けた。
運河に沿って築かれた古い街並み。水面を縫うように、細い橋が幾重にも架かっている。
橋の欄干には色とりどりの花飾り、帆布と染布が翻り、涼やかな陽光を受けて波紋が広がっていた。
水面には無数のゴンドラが浮かび、船頭たちは鮮やかな衣装に、顔の下半分を覆う薄布をまとって棹を操っている。
ここは水上の都、ナヴィレア。
眼前に広がるのは、《水都回廊》と呼ばれる街の中心部。最も美しいとされる水路地区だ。
果物や布、花飾りを積んだ船が通り過ぎるたび、水面に鮮やかな影が揺れた。
その光景は、まるで夢が街の形を取ったようだった。
「うわあ……!」
リアが思わず声をあげた。
まるで夢を見ているような表情で、目を丸くし、ぱたぱたと手を振っては指をさす。
「すごい、建物が水の上に浮いてる……!見てくださいカイウスさん!船が建物の下くぐって行きましたよ!」
「見えてる」
「鐘の音もきれいですね。ノルヴィア村のより少し上品な音色な気がします!これは何の合図なんでしょう?お昼?」
「ああ、そうかもな」
「なんで行く人行く人、布で顔を隠してるんだろう……!オシャレの一貫なんですかね!」
「……頼む、一回落ち着け」
苦笑いしながらカイウスは彼女の腕を取って引き寄せた。
片足を水路に落としかけていたリアを、ぎりぎりで支える。はしゃぐ彼女を見ながら、カイウスは視線を街の風景へと滑らせた。
彼にとっても、ナヴィレアは初めてだった。
旅の傭兵として各地を転々としながら、この都市の名は幾度となく耳にしていたが、実際にこの目で見る光景は、想像以上だった。
水上に並ぶ白壁の建物の、白と青のコントラスト。
顔飾りを纏う貴族や商人、船上で演奏する楽師、運河沿いの市で飛び交う多言語の呼び声――。
この街に入り混じる全てが、ひとつの調和を生み出している。
「カイウスさんはこの街のこと、詳しいんですか?」
ふと我に返ったように、リアが振り向いた。
興奮がまだ頬に残っているのか、ほんのりと朱が差している。
「まぁ、少しはな。途中の街や酒場で話を聞いてた。この辺じゃ有数の交易都市だ。海に面してるから海運も盛んで、落ちる金も相当らしい。ただ……見た目ほど単純な街じゃない」
「単純じゃない、って……どういうことです?」
「自由都市なんだ、ここは。王都から一定の自治権を与えられてる。……が、最近になって王都が税やら何やら、影響力を増やそうとちょっかいをかけてるらしい。貴族たちも一枚岩じゃなくてな。派閥が入り乱れて、実質的には内乱に近い状態だと聞いた」
「???王都って、つまり……王様がいるところですね?」
「まぁ、だいたい合ってる」
「へぇ……そんな難しいことが起きてるようには、見えませんけど」
リアはそう呟くと、橋の欄干に肘を乗せ水面を眺めた。
向こう岸の塔が、風にたなびく幟とともにきらきらと光っている。すべてが新しく、すべてが眩しい――そんな目をして、彼女は街を見つめていた。
「もしここで生まれてたら、わたし、どんな人生を送ってたんでしょう。ゴンドラに乗って、海を眺めて、広場で珍しいものを買って、タオラの実を食べて……」
「タオラの実はいつも食べてるだろ」
「いいんです!雰囲気が大事なんですから!」
リアは嬉々として橋をぴょんぴょんと飛び跳ねるように渡っていく。
その姿を目で追いながら、カイウスは長いため息をついた。
「やれやれ……はしゃぎすぎて落ちるなよ」
「それはそれでアリです。今日は日差しも強いですし!」
「勘弁してくれ。ゴンドラ代、高いらしいぞ。観光料金でな」
潮風が吹き抜ける。鐘が再び、遠くで鳴った。
ようこそ、ナヴィレアへ。
この都がもたらすのは、平穏か、争いか。
ーーそれとも、新たなる旅路の始まりか。
***
ナヴィレアの海への玄関口《バルコ港》は、朝とはまた違う顔を見せていた。
名物の《水都回廊》を一通り見終えて戻ってくる頃には、日差しはすっかり柔らかくなり、白い石畳に金色の光を落としていた。
潮が満ち始め、運河から湾へと抜ける水流は、静かに街の鼓動を伝えてくる。
岸辺では帆を巻いた小舟が穏やかに揺れ、遠くには貨物船が帆を張りながら進んでいた。青く澄んだ空の下、陽光が水面に反射して石壁にきらきらと踊る。
港湾ギルドの白壁は、ゆらめく光の粒をまとって静かに佇んでいた。
倉庫の隙間を抜ける風は潮と干し草の香りを運び、海鳥の鳴き声が、波の音とともに耳を優しく撫でる。
カイウスとリアは、運河沿いを歩いてギルド事務所へと向かっていた。
「……これが、海……!」
リアが思わず立ち止まり、眼を見開いてつぶやいた。
海の水平線が、空と地の境界を越えるように遠くまで続いている。陽を受けた波が、何層もの光の帯になってゆらめいていた。
「すごいすごい……!話には聞いてましたけど、本当に大きいですね!」
「ああ。声も少し大きいな」
「あ、すみません……舞い上がりすぎました……」
リアは頬を染め、口元を押さえながらも、視線は海から離さなかった。
あの果てに、一体どれだけ広い世界があるのか――初めて“地平線”というものを見た者の顔をしていた。
カイウスは隣で静かに歩きながらも、その無垢な口調を否定せずに聞いていた。
「あ、見えてきました。これでしょうか」
港の隅に立つヴォルトが所属するギルド、《赤鍵運送商会》。
装飾は控えめだが、頑強な石造りの建物だ。
玄関前には、赤い鍵と荷車が交差するシンプルな意匠の小さな紋章旗が掲げられている。
荷を下ろす荷車が行き交い、商人たちが手際よく挨拶を交わしていた。
リアが扉を押し開けたその瞬間、中から朗らかな声が飛んできた。
「おう、嬢ちゃん!きたきた!早速ナヴィレアを楽しんできたみたいだな!」
ヴォルトだった。
すでに帳簿の記入も終えていたらしく、椅子から立ち上がって手を振る。
「ヴォルトさん、さっきぶりです!お仕事、如何でした?」
「納品完了、検品も問題なし。書類もばっちり通ったとこだ。今回もたんまり稼がせてもらったわ」
「わあ、さすが……!ベテランの仕事ぶりですね!」
リアはぱちぱちと小さく手を叩く。
ヴォルトも満更でもなさそうにふんぞり返った。
たった数日間の旅路だったが、リアとヴォルトはすっかり打ち解けていた。
ヴォルトはくしゃりと笑い、腰の袋を鳴らしてみせる。
「というわけで、お待ちかねの護衛報酬だ。嬢ちゃん――と、旦那の分もあわせて、銀貨二十枚。きっちりな」
「やった……!」
「おっちゃん、いま俺を忘れかけたか?」
リアはぱっと顔を輝かせ、小袋を受け取って胸に抱きしめた。しゃらりと鳴った銀の音が、彼女の鼓動と混ざるように響いた。
「すごいすごい……!初めてお金を稼いじゃった!」
その顔には、驚きと喜びが溶け合ったような笑顔が浮かんでいた。
ノルヴィアの村では、労働の対価として金銭を手渡される機会などほとんどなかったはずだ。
ぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねるリアを見て、カイウスは、ぽつりと呟いた。
「……よかったな」
「よしっ、それじゃあ報酬も手に入ったしーー!」
リアはくるりと踵を返し、きらきらとした目でカイウスを見上げる。
「早速使いに行きましょう、カイウスさん!露店とか、お菓子とか、いろいろ見て回りたいです!」
疲れ知らずか?とカイウスが軽く息を吐いたその時だった。
ヴォルトが「お、ちょっと待った」と片手を上げ、腰の鞄からふたつの包みを取り出した。
「その前に、ひとつだけ。ちょいとした餞別ってやつだ。旦那達、まだこれを持ってないだろ?」
包みを解けば、中から現れたのは薄くしなやかな布――美しい模様が織り込まれた顔飾りだった。
白地の薄布は、ほのかに光を透かしながら滑らかに垂れている。表情を隠すほどに薄く、しかし感情を映さぬほどには濃い。
淡い藍の織り模様が流れるように走り、布端には商人ギルドの紋章が小さく刺繍されている。
「わぁ……これ、街の人たちがみんなつけてたやつだ……!」
リアが声を上げる。先ほどまでの市場や水路沿いで見た光景を思い出していた。
「顔を隠してた、あの布だな」
カイウスも頷きながらもう一枚の包みを手に取り、指先で布地を確かめている。
「そうそう。これはな、“ヴィーザ”って言うんだ」
ヴォルトが頷き、二人の顔を順に見やった。
「この街の住人なら誰でもつける。貴族も、港の荷運びも、香草の売人も。あんたらが今いるこの《赤鍵運送商会》の重役だって」
「なんで、そんなに徹底してるんですか?」
リアが首をかしげると、ヴォルトは帳簿を閉じて壁にかけられた紋章を見上げた。
「この街の根っこにあるのは、“自由”と“対等”って理念だ。まだ王都の貴族が街の利権を握ってた時代、出自や階級だけで相手を判断し値踏みするのが当たり前だったのさ。それに反発したナヴィレアの民達が、ある日、顔を覆って王都貴族の邸宅前に立ち並び抗議したんだ。名も出自も身分も明かさず、『我々はみな格差のない平等な民だ』と主張してな」
リアが小さく息を呑んだ。カイウスも興味深そうに耳を傾けている。
「それが自由都市ナヴィレアの生まれた日だ。今じゃヴィーザは半ばファッションだが、このナヴィレアのあり方と密接に結び付いてるんだよ」
「……すてき。この街の歴史、そのものなんですね」
リアは包みを両手で抱き、布をそっと持ち上げた。
陽光に透かしてみると、布地に細かな繊維が浮かび、青と銀がきらりと光った。
「きれい……!本当に貰っていいんですか?!」
「おう。旅人が素顔のまま歩いてても咎められはしねぇが……まあ、地元の流儀ってやつさ。お守りみたいなもんと思っときな」
「ありがとうございます!ヴィーザをつけたら、本当にナヴィレアの人になれる気がしますね!」
リアは嬉しそうに笑いながら、布を頬にあててその香りを確かめる。ごく微かに、香草の爽やかな香りが漂った。
一方カイウスは、自分の包みを見つめたまま黙っていた。
やがて布をそっと元に戻し、包み直して卓に置いた。
「気持ちはありがたいが……俺は遠慮しとくよ」
「それが良いかもな。旦那が顔を隠したら胡散臭さが増してしまう」
「失敬な。……まぁ、否定はしないが」
カイウスはわずかに笑い、肩の荷物を背負い直す。
「……つけてみようかな」
ふと、リアがつぶやくと、彼女は手にしたヴィーザをそっと目元に添える。
頬に垂れた布の感触にくすぐったそうに目を細め、髪を整えると、くるりとカイウスを振り返る。
「………どうですか?似合って、ますか?」
「いや、似合ってないって言ったらどうするつもりだ」
「んもう!たまには素直に褒めてくださいよ!」
リアはぷくっと頬をふくらませると、くるりと背を向けて扉に手をかけた。
「もういいです。捻くれカイウスさんは置いていきます。私はナヴィレア市民になったのでっ!」
勢いよく扉を押し開けて、外に駆け出す。
風を受けてヴィーザがふわりと舞った。
「カイウスさん、早く!通りがけに見たあの大きい市場に行きましょう!ぜったい面白いものが待ってますよ!」
「俺を置いてってくれるんじゃなかったのか?」
大声ではしゃぎながら、リアが通りを指差して走り去る。
カイウスは少しだけ目を細めたあと、ヴォルトに小さく顎を傾けて、無言の礼を送る。
「楽しんできな、旦那。ナヴィレアは見せかけだけじゃねえぞ」
ヴォルトは片手をひらひらと振りながら、いつもの軽い調子で見送った。
白石の扉が閉まり、足音が遠ざかる。
ヴォルトは小さく息を吐いて帳簿を開いた。
ギルド《赤鍵運送商会》の空気には、ほんのりと潮と香草の匂いが残っていた。