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1-14. その旅路に、まだ名前はない

 嵐の夜の死戦から数週間後。

 朝露が降り、畑の葉先が陽にきらめく頃。ノルヴィアの広場は、まだ深い静けさに包まれていた。


 カイウスは荷馬車の後ろで、鞍袋の紐を確かめていた。

 淡くたなびく朝霧の中、馬の鼻息が白く吐き出される。そのたびに、静かな世界がほんの少しだけ揺れた。


「まったく……商売繁盛も悩みものだ。どう考えても詰めすぎの荷物……。まあ、旦那が、いや……"ノルヴィアの英雄様”がいれば、道中は心強いがね」


 ヴォルトが手綱を巻きながら、茶化すように言う。


「……やめてくれよ、おっちゃん。そういうの柄じゃないんだって」

 

「そうかいそうかい。だがな旦那、あんたの噂はもう村の外まで出てるって話だぜ。“巨狼を討った剣士”、だとか、“空を翔ける流星”だとか……吟遊詩人が歌にして回ってるってさ」


 カイウスは苦笑し、背の鞘を軽く叩いた。


「……まあ、名が売れるのは悪くないか。これで少しは仕事も増えるだろう」

 

「その粋だぜ、旦那。さ、準備は万端だ」


 ヴォルトは荷馬車の幌をもう一度確かめ、馬のたてがみに軽く手をやる。空は徐々に白み始め、麦畑の先から淡い陽光が差し込み始めていた。


「……でも、本当にいいのかい旦那」


 ヴォルトが、少しだけ声を低めて尋ねた。


「あの子に黙って出ていっちまって。後悔はないか?」


 カイウスは一拍だけ黙り、そっと頷いた。


「ああ。きっと、これが正解なんだ。リアにとっては」

 

「……ったく、旦那も頑固だねぇ」


 ヴォルトが肩をすくめ、荷馬車がゆっくりと動き出す。

 まだ眠る村の小道を、ひとつまたひとつ、車輪が静かに刻んでいった。


***


 やがて村の門が見えてきたとき――荷馬車の上でカイウスは目を細めてギョッと身を固めた。


 朝日を背に、門の前に立つ一人の少女。

 風に揺れる、赤い髪。

 旅の袋を肩にかけた、リアがそこにいた。


「……なんで」


 思わずこぼれた声に、ヴォルトがばつが悪そうに目を逸らした。


「出発することは誰にも教えてなかったはずだぞ」


「え、えーっと……まぁ、なんだ?この村に"英雄様”は二人いるんだ。どっちかだけに肩入れするなんて、俺にはできねぇって話だわな」


「……おっちゃん、喋ったな」


「黙って消えるってのも悪かねぇが、後味が悪いだろ。俺は今後もノルヴィアに世話になるんだ。商売に響くってもんさ。恨むなら、軽くで頼むぜ?」


 カイウスは溜息をつき、無言で荷台から飛び降りた。

 リアはその場に立ったまま、まっすぐこちらを見つめていた。揺るがぬ瞳で、何も言わず、しかし、すべてを知っている目だった。


「……あ、カイウスさんじゃないですか。珍しいですね。こんな朝早くから、どちらへ行かれるんですか?」


 作ったような明るい声。その奥で静かに燃える怒りにカイウスはすぐに気付いた。


「あ、ああ……ちょっと路銀が心もとなくてな。短期の仕事で稼ごうと。十日もすれば戻るつもりだ。心配いらない」

 

「へぇ、そうなんですね。それなら、わたしもついて行っていいですよね?ちゃんとお役に立ちますよ」

 

「い、いや。リアは村の皆に頼りにされてるし、畑仕事だってあるだろ?」


 リアはふっと笑った。けれど、それは笑みではなかった。

 

「……うそつき」

 

「え」

 

「黙って出ていくつもりだったんですよね。わたしを置いて」


 その一言が、霧のように胸にしみ入った。リアは目を伏せたまま、静かに言葉を継ぐ。


「なんで、何も言ってくれなかったんですか。わたしの気持ちも聞かないで。置いて行かれたと知ったわたしが、どれだけ悲しむか、少しも考えなかったんですか?」

 

「……すまん」

 

「謝らないでください。でも、もう二度とこんなことしないで。あとヴォルトさんのことも責めないで。わたしの恩人なんですから」


 業者台の上ではヴォルトが気まずそうに頬を掻いている。ひと呼吸置き、リアはほんの少しだけ声を震わせた。


「もしこのまま何も知らずに、……本当にお別れになってたら。わたし、カイウスさんのこと、きっと死ぬほど恨んでました」


 カイウスは何も言えなかった。

 けれど、胸の奥に確かに届いていた。冷えた何かが溶けて、代わりにあたたかなものがじわじわと満ちていく。


「カイウスさん」

 

「……ああ」

 

「何か、わたしに言いたいことは無いですか?」

 

「え……あ、ええと……おはよう、リア」

 

「全然違います。そういうのいらないです」

 

「じゃあ……朝日が綺麗だな、リア……?」

 

「朝日は大体綺麗です。カイウスさんが言ってたんですよ?やり直し」


 朝風が吹いた。リアの髪が焦れるように揺れる。


「……本当に、わからないんですか?わたしが、何て言ってほしいのか」


 その言葉のあと、短い沈黙が流れた。


 分からないわけがなかった。

 リアが何を願い、何を信じて、ここに立っているのか。

 そのすべてが、真っ直ぐな赤い瞳に映っていた。


 けれど、カイウスはすぐに言葉を返せなかった。

 その一言は、あまりにも重かった。

 リアの願いに応えることは、独りで歩いてきたこの生き方に、誰かを巻き込むことになる。

  彼女の命を自分が預かるという覚悟。自分に、それが本当に担えるのか。それが、ずっと怖かった。


 けれど。

 彼女もきっと、同じ思いを抱えていたのだ。

 「重荷になるかもしれない」と、悩みながら。

 それでも、来てくれた。自分よりずっと若い心で、それでも前を向いてここまで来た。

 彼女はすでに、乗り越えてきたのだ。自分がまだ、越えられずにいる壁を。


 ――だったら。


 もう、迷う理由なんてないんじゃないか?

 一度は蓋をしたこの想いは、もう言葉にしてもいいのではないか?

 その結果、どんな結末が待ち構えようとも、この少女と歩むなら、きっとどんな旅路も悪くない。

 いまは、確信を持ってそう思えた。


 カイウスは、ゆっくりと頭を下げた。


「………すまなかった」


 リアが、ぱちりと目を見開く。


「いじいじと悩んで……俺らしくなかった。ただ、自分に自信がなかっただけの癖に。それらしい理由を探して言い訳ばかりしてた。未来なんて、誰にも分からないのに」


 顔をあげたカイウスの瞳に、もう迷いはなかった。

 

「一緒に行こう、リア。目的地はない。行く宛のない放浪の旅だ。危険な事も沢山ある。だけど、……君と俺なら、きっと楽しい旅になる」


 リアは待ち侘びていた様に少し跳ね、それから花が咲くように笑った。


「はいっ! 喜んで!」


 その返事と笑顔に、一切の迷いも不安もなかった。

 これ以上は待ち切れないとばかりに、カイウスの隣に嬉しそうに駆け寄ってくる。


「おじいちゃんにも、もう挨拶を済ませて来ました。“しばらく留守にするけど、カイウスさんが一緒だから心配しないでね”って」


 その言葉にカイウスは一瞬だけ目を伏せ、そしてふっと笑った。


「最初からそのつもりか。全部一人で決めて……勝手な奴だなぁ」

 

「ふふ。そっくりそのまま、お返ししますね」


 リアは軽く肩をすくめ、いたずらっぽく笑った。

 

「でも、本当にいいのか。ノルヴィアはやっと出来た居場所だったろうに」


 その問いに、リアは一瞬だけ表情をやわらげ、そして力強く頷いた。

 

「最後のお別れじゃありませんから。わたしはいつか、ちゃんとここに帰ってきます。エルちゃんやミラちゃん達、みんながワクワクするような思い出話をたくさん持ち帰って。それに――」


 リアが一歩、すっと距離を詰めてくる。

 自分の肩を、少しだけぶつけるようにして寄せてきた。

 照れ隠しのような、さりげない仕草。赤い髪が、朝風にそよいでふわりと揺れる。


「居場所って、きっといくつあってもいいんです。村も大好きだけど……今は、わたしの心がここがいいって。そう言ってるんです」


 照れくさそうに目尻を下げ、そう笑った。


***


 木造りの村門をくぐると、荷馬車の車輪がコトリと音を立てた。

 朝露に濡れた道を、ゆっくりと進む馬の足取り。

 背後の村の屋根が小さくなっていく。前を向く三人の表情は明るく、どこまでも晴れやかだった。


「……ここ通るの、久しぶりだな」


 リアがぽつりと呟く。

 視線の先には、村の東に広がるなだらかな丘。

 その頂に、悠然とそびえる《祈りの大樹》の姿があった。

 幹の途中から裂けた大樹。それでも枝を広げ、金色の光を受けて輝く姿は、まるで村を見守るようだった。


 丘の麓を通りかかろうとした、その時。

 ヴォルトが手綱を引き、馬を止めた。


「……おや」


 カイウスが目を細めた。


 《祈りの大樹》の前。

 そこに、ノルヴィアの村人たちが並んでいた。


 オルド、エルン、ミラ。

 エレノアを始めとする母親たち、畑仕事の農夫たち。

 井戸端の老婆、鍛冶屋の若い衆、《風の壺亭》の店主。

 子どもから老人まで。

 あの夜、共に心を通わし合った者たちが、誰ひとり欠けることなくそこにいた。


 やがて誰かが手を振ると、それは次々と波のように広がった。


「ありがとう!」

「二人とも、気をつけてなー!」

「ノルヴィアのこと、忘れるなよー!!」

「帰ってきたら、また麦茶煎ってやるからね!」

「英雄さま!今度は外の世界を守ってやってくれ!」

「また立ち寄ってくれよ!いつでも歓迎するからな!」

 

 祝福と名残を混ぜた声が、朝の風に乗って荷馬車を包んだ。


「……こりゃ、ずいぶん大げさな見送りだな」

 

「そりゃあ、“英雄様”二人の門出だからな。これぐらいじゃなきゃ足りないってさ」


 カイウスが照れくさそうに口を開くと、ヴォルトがにやりと口元を歪め返す。

 ふいに、一際大きな声が響いた。


「おーい!リアーっ!!!!」


 見ると、丘の前列でエルンが両手を大きく振りながら、声を張り上げていた。その隣で、ミラも全身を使って手を振っている。


「……寂しくなったら!いつでも!帰ってこいよ!!ここは、……お前の!!たった一つの!!故郷なんだからな!!!」


 少し震えているその言葉に、リアの胸がきゅっと締めつけられる。

 思わず両手で口を覆った。こみあげるものに耐えきれず、目元が熱を帯びる。

 涙が声を奪ってしまう前に、彼女は荷台の上に立ち上がった。そして、風を切るように、笑顔で叫んだ。


「ありがとう、みんなっ!みんなもどうか、お元気で!行ってきます!!」


 その叫びは、澄んだ朝空に吸い込まれた。

 一瞬の静けさのあと、丘の上から歓声が湧き起こった。

 誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが"英雄"の名を呼んだ。


 ヴォルトが手綱を引く。ぎゅるりと軋む音がして、荷馬車がゆっくりと動き出す。

 リアは立ったまま、何度も手を振った。誰よりも高く、誰よりも大きく。なおも響く歓声に答えるように。

 カイウスはその隣で黙ったまま、穏やかな顔で前を向いていた。


 村の屋根が、木々が、麦畑が、遠ざかっていく。

 いまや見えるのは、広がる空と、続く道だけ。


 リアとカイウス、そしてヴォルトを乗せた荷馬車は、朝の光の中を、静かに進んでいった。

 

***

 

 ――そして、丘の上。


 誰もいなくなった祈りの大樹の根元。


 黒く変色した裂け目。

 風雨にさらされ、何度も踏みつけられ、陽に焼かれた断面。かつて「壊された」と言われた、その傷口から。


 ひっそりと、ひとつの小さな芽が顔を出していた。

 若葉の緑は、傷跡をなぞるように、静かに空を仰ぐ。


 風が吹く。

 芽は、わずかにしなりながらも、折れなかった。

 空の彼方に向かって、懸命にその身を伸ばそうとしていた。


 それはまるで、そこにしっかりと根を張った、ひとつの祈りのようだった。

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