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1-13. 変わる日常、変わらぬ思い

 風に揺れる金の穂が、村全体を呼吸させているかのようにゆったりと波打っている。

 昨日の雨模様がまるで嘘のように、空は雲一つなく晴れわたり、澄んだ青と太陽の輝きが大地を包み込んでいた。


 今日は――ノルヴィアの豊穣祭。


 村中が祝祭の空気に満ちていた。

 広場では笛や太鼓の音が跳ね、子どもたちは花冠を被り笑いながら駆け回る。

 大鍋では旬の野菜がふんだんに使われたスープがぐつぐつと煮え、焼きたてのパンとともに振る舞われる食卓の香りが、村の隅々まで幸せな香気を届けていた。


「……だから無茶だって言ったじゃないですか。痛みますよね、肋骨。それ以外も」


 隣で歩くエルンが、困ったように呟く。

 カイウスはというと、笑みを浮かべながらもわずかに肩をすくめた。


「痛いには痛いが……今日は祭りだからな。寝てるだけじゃ、もったいない」


 左脇腹に包帯を巻き、骨折部分を固定したまま、片腕でエルンの肩を借りて歩くカイウス。

 その姿勢は前かがみで、ひと足ごとに足腰へ鈍い痛みが走る。それでも彼は、視線を広場へと向けたまま、離れようとはしなかった。


「まぁ、確かに。すごい久しぶりですからね。こんな風に、村全体が心から笑ってる光景は」


 エルンの言葉に、カイウスは静かに目を細めた。


「そうか。……それは骨を折った甲斐があったよ」


 カイウスの返しに、エルンは少し気まずそうに小さく笑った。


 ちょうどそのとき。

 ざわめきの向こうから、ひときわ賑やかな声が響いた。


「わあぁあ、リアお姉ちゃんすごーい!」

「い、一体何個のお米袋を一人で持ち上げるんだ!?」

「リアちゃん!こっちの木材もお願いしていい?」

「ちょっとずるい!リアちゃん、こっちの荷車もお願いー!」


 その声に、カイウスは自然と足を止めた。

 広場の一角。眩しい朝の光を受け、赤く輝く髪が風に揺れていた。


 ――リアだった。


 彼女は大鍋の横で笑顔を振りまきながら、村人たちのあれこれの頼みごとを次々にこなしていた。

 米袋を両手で軽々と持ち上げ、木材を肩に担ぎ、転んだ子どもを優しく抱き起こす。

 腰にしがみつくミラをはじめ、何人もの子どもたちがそのあとを楽しげに追いかけていた。


「……リア、すっかり人気者ですね」


 隣でエルンが目を細めて言う。カイウスは口元にかすかな笑みを浮かべた。


「……ああ。ほんと。人に囲まれてるのが、よく似合うよ」


 ほんの少し前まで“赤獣”と恐れられていた少女が、今は頼れるお姉ちゃんとして慕われ、愛されている。

 その姿は、まるでこの村の太陽そのものだった。


 やがて、リアがこちらに気づく。

 笑顔のまま子供たちを引き連れ、カイウスのもとへ駆け寄ってきた。


「カイウスさんっ!どうしてまた出歩いてるんですか?!わたし、絶対安静って言いましたよね? 薬草の効果も万全じゃないんですよ!」

 

「もっと言ってやって、リア。俺が何度止めても聞く耳持たないんだから、この人」


 エルンが肩をすくめ、呆れたように応じる。


「失敬だな。まるで俺が人の忠告を全く聞かない愚か者みたいじゃないか」

 

「でも、……実際そうじゃないですか」


 リアが小さく口を尖らせて返すと、ミラを始め子どもたちが一斉に声を上げた。


「そうだぞー!カイウス!」

「そうだそうだー!」

「話を聞けー!カイウス!」

「バカ!バカイウスー!」


 子どもたちの無邪気な追撃に、カイウスは思わず顔をしかめてうめいた。


「ぐぬぬ……」

 

「こ、こら、みんな!カイウスさんはね、大人の割に意外と……デリケートなんだから!いじめちゃダメでしょっ!?」

 

「リア。それ、フォローになってないよ」


 エルンが即座に突っ込む。リアとカイウスは思わず吹き出した。

 

***


 祭の喧騒が、ほんの少し遠のく場所。

 麦倉の裏手にしつらえられた簡素な腰掛けで、カイウスはひとり、夕風を背に休んでいた。

 それでもなお、笑い声や笛の音は途切れず、裏道の隙間を縫うように届いてくる。


 エルンは、オルドに呼ばれて祭事の手伝いに駆り出されていった。

 どうやら今年の出し物には《麦俵競争》なる催しがあるらしい。屈強な村の男衆が麦俵を担ぎ、村の端から祈りの大樹までを駆け抜けるのだとか。

 ああ見えてエルンは意外と足が速いらしく、例年では上位争いの常連とのこと。

 ただ今年は、リアがいる。勝ち目は薄そうだ。


(久しぶりの競争だ。幼馴染同士、目一杯楽しめよ)


 カイウスが小さく笑みを漏らしたそのとき、不意に視線の端で人影が揺れた。


 現れたのは、競争に出ているはずのリアだった。


「……あれ?麦俵競争に出るんじゃなかったのか?優勝賞品は、籠いっぱいのタオラの実だって聞いたぞ。リアの大好物だろ?」


 からかうような声音に、リアは少しだけ視線を逸らし照れたように笑う。


「えっと、その……ちょっとだけ疲れちゃいまして。少しだけ休もうかなって……お隣、いいですか?」

 

「ああ、もちろん。もてなせるものは何もないけど」


 リアは静かに腰を下ろし、小さく息を吐いた。


「ふぅ。今日はずっと、誰かに頼られてばかりでした」

 

「見てたよ。あっちじゃ荷運び、こっちじゃ祭事の手伝い。大活躍だったな」


 からかい混じりの言葉に、リアは恥ずかしそうにうつむいた。

 

「お祭りなのに、ちっとも見て回れません。でも……全然、嫌じゃないんです。誰かの役に立てるって、こんなに嬉しいんですね」

 

「確かに、活き活きしてたよ。リアの性分に合ってるんだろうな。人に手を貸すのが」

 

「……え?」


 驚いたように顔を上げるリア。

 カイウスは麦穂の向こう、茜に染まる空を見つめていた。


「損得なんて関係なしに、誰かのために動ける。それは貴重な資質だ。少なくとも、俺はそう思う。誇っていい……いや、誇るべきことだ」


 リアは胸の奥にぽっと小さな灯がともるのを感じた。言葉にならない想いが、波のように込み上げてくる。


「……でも」


 ぽつりと呟いた声に、自分でも少し驚く。


「わたし、自分がそんなに出来た人間とは、とても思えません。だって森にいた頃は、こんな風に誰かと話すことも、笑い合うこともできなくて……ただ人が怖くて、村を避けて……ひとりで、ずっと……」


 言いかけて、気付く。リアは息を呑む。

 孤独に苛まれ、助けを求めていた自分の手を、真っ先に取ってくれた人は、誰だったか。

 “赤獣”と呼ばれた忌み嫌われた自分に、人として手を差し伸べてくれた、たったひとりの存在。


 リアは、そっとカイウスの横顔を見つめた。


「……そんなわたしの手を最初に取ってくれたのは……カイウスさんでした」


 その言葉には、照れはなかった。

 心の底から思わず漏れた、そんな想いだった。

 カイウスは目を逸らしたまま、唇の端だけをほんのわずかに緩めた。


「いや……俺は単に、リアに命を助けられただけだろ。むしろ、手を差し伸べてくれたのはリアの方だ」

 

「でも!あのときカイウスさんがいなかったら……ノルヴィア村に連れてきてくれなかったら!きっとわたし、誰の手も取れずに、森でひとりのままでした!」


 リアの瞳が、淡く揺れる。そして思い出す。

 あの夜。崩れかけた祈りの大樹の下で、祖父にすがって泣いた日。

 

『その優しさを、どうか手放さないで。いつかきっと、その手を取ってくれる誰かが――』

 祖父、アベルの言葉が、あの日の声のまま蘇る。


 まるで大切な何かを抱きしめる様に、リアはそっと目を閉じた。


「……あの、カイウスさん」

 

「ん?」

 

「このあと……少しだけ、村の外れまで付き合ってもらえませんか?わたし、大切な人に……どうしても報告したいことがあるんです」


 その申し出に、カイウスは一瞬だけ目を見開いた。

 だがすぐに、何も尋ねずに頷いた。


「この身体だからな。肩を貸してくれるならいいよ」

 

「ふふっ。ありがとうございます」


 リアは微笑みながら、素直に頷いた。


***


 夕暮れの麦畑を抜けた先、村外れの小高い丘に小さな共同墓地があった。

 墓標は皆粗朴で、石の角は長い年月にすり減って丸くなっている。けれどどの墓にも花が絶えず、丁寧に手入れされていることが伝わってくる。


 その一角。

 畑を見下ろす場所にぽつんと立つ墓の前で、リアは立ち止まった。風に揺れる麦の匂いが、どこか懐かしさを感じさせた。


「……おじいちゃん。すぐに来れなくてごめんね。六年も経っちゃったね」


 絞り出すようにして、リアは言った。

 腰を下ろし、膝を折って墓の前に座る。

 胸元から、小さな小袋を取り出した。古びてはいたが、縫い目も紐も丁寧に繕われていて、大切に扱われてきたことが分かる。アベルが生前使っていた、お下がりの薬袋だった。


 そっと、その小袋を墓前に置き、リアは目を閉じた。

 風が吹く。麦畑の海がざわりと揺れ、金色の波が広がっていく。


「……今日はね、話したいことがあるの」


 ぽつりと、リアが呟く。


「わたし、おじいちゃんみたいに誰かのために動ける人になりたかったの。……でも、傷付くのが怖くて、この六年間、ずっと森の中に篭ってた。何も出来ない自分が不甲斐なくて、苦しくて」


 声はかすかに震えていた。けれど涙はこぼれなかった。


「……何度も思ったんだよ。わたしじゃなくて、おじいちゃんが生きてたらよかったのに、って。」


 ゆっくりと顔を上げ、柔らかく笑みを浮かべる。


「……でもね、おじいちゃん。あの日言ってくれた事、覚えてる?いつかきっと、わたしの手を取ってくれる人が来てくれる、って。……わたし、紹介したい人がいるの」


 リアはそっと振り返り、後ろに佇むカイウスを見上げた。


「……カイウスさん。わたしの手を取って、孤独から掬い上げてくれた、温かい人」


 リアは静かに告げた。

 カイウスは黙って一歩、墓に近づいた。

 そして、手に持っていた麦の穂を一本だけ摘むと、墓標の根元にそっと手向けた。エルンが教えてくれた、ノルヴィアの村における死者への敬意を示す所作だった。


「……リア、さんから話は聞いてます。人に優しく、強く、誠実な方だったと」


 少し緊張を含みながら、カイウスは続ける。


「俺、……私は、リアさんに命を救われました。自分を顧みず人の事を想い、立ち上がれる彼女の強さを、尊敬しています。……その心を育くみ、導かれた、アベルさん。貴方の事も」


 その言葉に、リアも続く。


「おじいちゃん。わたし、カイウスさんに救われて……村の皆んなとも仲直りできて、また村で暮らせる様になったんだよ。こんなわたしだけど、少しづつ人の為にも動けるようになったんだ。だからね」

 

 麦畑がざわめく。夕日が傾き二人の影が長く伸びていく。


「……だから、もう心配しなくて大丈夫だよ。わたし、ちゃんと前に進めてるから。だから、安心して見守っててね」


 風が、また吹いた。

 まるでその言葉に応えるかのように、麦の穂がさらさらと揺れる。夕焼けの空に、穏やかな気配があった。

 リアは立ち上がり、小袋を胸に抱くと、もう一度だけ深く頭を下げた。そして安堵した表情でカイウスに振り返る。


「……やっと伝えられました。カイウスさん、お付き合い頂いてありがとうございました」

 

「いや。俺もちゃんと挨拶出来て良かったよ。今度はお供物も持って来よう」

 

 背を向けたリアの横に、カイウスが並ぶ。しばし無言で、沈みゆく太陽を見つめていた。


「……行こうか。夜は少し冷えそうだ」

 

「はい」


 麦畑の向こうで、村の灯りが一つ、また一つと灯り始めていた。


***


 夕暮れがすっかり夜の色に染まるころ、リアとカイウスはエルンの家へ戻ってきた。

 扉を開けた瞬間、あたたかな香りがふわりと二人を包み込む。焼きたてのパンと、香草の匂い。この村にしか漂わない、故郷を思わせる空気。


「おかえりなさい。リアちゃん、カイウスさん。ちょうど焼き上がったところよ」


 台所の奥で、エルンの母、エレノアがにっこりと振り返る。

 腕に抱えた籠には、湯気を立てるパンがこんもりと積まれていた。丸くてふっくらとした表面には小粒のハーブが練り込まれており、香ばしい麦の香りと共に鼻腔をくすぐってくる。


「あっ!エレノアさん特製の香草パンだ……!」


 リアがぱっと目を輝かせる。

 小さな頃から好きだった味。その記憶が、湯気の向こうで蘇ったようだった。


「そうそう!今日は豊穣祭だったから、少し気合い入れて焼き過ぎちゃって。沢山あるから、遠慮しないで食べてってね」


 食卓には、他にも焼きチーズとトマトの煮込み、茹でた根菜のハーブ塩添え、鶏肉の香草ローストが並べられていた。どれも心と手間がこもった、ノルヴィア村の味。


「リアは母さんのこのパン、本当に大好きだったよなぁ。聞いてよカイウスさん。リア、昔アベルさんと一緒に村の市場でね――」

 

「エ、エルちゃん!それは言わないの!」


 リアが慌てて口を挟む。頬を染めてパンをちぎり、むぐっと口に押し込んだ。


「……あぁ、変わってない……すごく美味しくて、懐かしい……」

 

「ほんとに? よかった」


 もきゅもきゅと幸せそうに咀嚼するリアの横で、エレノアがくすくす笑いながら頷く。

 カイウスも一つちぎって口に運ぶ。柔らかな甘みと香草の風味が舌に広がる。思わず顔を上げて、ぽつりとつぶやく。


「……おぉ、うまいなこれ。歯応えもちょうどいい。《風の壺亭》のパンにも劣らないんじゃないか?」

 

「うちの母さん、パンだけはちょっと自慢なんだよ。豆乳を混ぜてるらしい。食感が、もちっとするんだってさ」


「エルちゃん、なんか嬉しそうだねぇ。良かったねぇ」


 パンをちぎりながら話すエルンは少し嬉しそうだ。

 その隣で、リアがにまにまと笑っているのを、カイウスはふと見つめた。


 ――こんな顔、するんだな。

 肩の力が抜けた、自然な笑み。故郷の空気がそうさせるのだろうか。

 あの日、森の中で孤独にまみれていた少女は今、信頼出来る友人たちに囲まれ、優しい温もりの中で、こんなにも柔らかい顔をしている。


「カイウスさん、パンもう一つ取りますか?」

 

「……お。ありがとう、貰おうかな」


 差し出された籠からパンを取ろうとしたとき、リアの指先がわずかに触れた。

 一瞬、二人の動きが止まり、リアがきょとんとした表情を見せる。けれどすぐに、ふっと微笑んだ。


「カイウスさん。こういうの、なんだか夢みたいですね」

 

「ん?香草パンの食べ放題がか?」

 

「ちがいますっ!……こっちのこと、ですよ」


 リアはそう言って、部屋を見渡した。

 湯気が立つ食卓。エルンとエレノアの笑い声。温かい灯り。団欒で過ごす、静かな夜。


「こんな風に、みんなで一緒にごはんを食べるの。カイウスさんと二人きりも良かったけど。みんなで食べるご飯も、美味しいですね」


 リアははにかむように呟き、またパンをちぎって口に運んだ。

 カイウスはただ黙ってそれを聞いていた。そして静かに、その言葉を胸に刻む。


(そうだよな。リアにはもう、帰るべき場所が出来たんだ。思い出があって、名前を呼んでくれる人たちがいて。誰かと心から笑いあえる、食卓がある)


 ふとリアを見やる。

 人といる喜びを全身で感じている、無防備で屈託のない笑顔。

 リアはもう、孤独な過去に囚われていない。誰かの言葉に怯えることもなく、これからは天真爛漫として前を向き生きて行けるだろう。

 そしてこの笑顔は。

 きっと故郷のノルヴィア村にいるからこそ。この場所で、成長を見守ってくれる人たちがいるからこそ、咲くものなのだ。


(……連れていくべきじゃない。外の世界は危険もある。俺の感情だけで、この笑顔を曇らせることは出来ない。……連れていける器じゃ、俺はない)


 ここでなら、リアはきっと幸せになれる。

 アベルから受け継いだ、誰かのために立ちあがる優しさを失わずに。


(だったら……それが一番いいだろ)


 言葉にならない想いが、胸の内でそっと形を結ぶ。


 いつか、またどこかで。

 今生の別れにはならない。

 いつになるかは分からないが、またノルヴィアに立ち寄れば会える。その時はまた卓を囲み、過去の話に花を咲かせよう。

 それがなにより、大切なことだった。

 

 何も言わずに、静かに去ろう。

 それが一番、きれいな別れ方だ。

 それが一番……彼女の為に、なるのだから。


 未だ自身の中で湧き立つ別の感情を無理やり抑え込む様に、カイウスはそう何度も反芻し続けた。

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