1-12. 黎明を告げる流星
――ごふっ……。
泥に塗れたカイウスは、肺にたまった空気を吐き出すように咳き込んだ。
全身が鈍い痛みに包まれていたが――とりわけ左の脇腹、肋骨の奥で、鋭い苦痛が脈打っていた。
(……折れてるな。一本や二本じゃ済まないか)
脇を押さえながら、じりじりと身体を起こす。
頭がぐらつき、視界が二重にぶれる。耳鳴りが遠雷のように鳴り続け、雨音すらまともに聞き取れない。
それでも、目だけは巨狼とリアの姿をはっきりと捉えていた。
巨狼は今なお咆哮を上げながら泥の中をのたうち回っている。左の牙を折られた痛みと怒りで、一時的に乱れてはいるが、それでも油断はできなかった。
(……つくづく、奴の動きは速い。さっきの一撃だって、完全に捉えた筈だった……)
死角からの奇襲、練り上げた太刀筋。
仕留めたと確信した一撃だった。
それでも、巨狼はそれを避け、あろうことか反撃してきた。常軌を逸した反応速度。そして、後の先を読み取るセンス。
(純粋な力比べは、リアなら拮抗できる。だが……)
彼女はすでに負傷している。
左肩を噛まれ、腕は満足に上がらない。
力では並び得ても、速度では……圧倒的に分が悪い。
(俺とリアが連携すれば、一撃は入れられる。だが、致命打には、ならない)
歯を食いしばり、泥の上に踏ん張る。
骨が軋み、痛みが警鐘のように鳴り響く。
(……ならどうする)
頭の中で幾通りもの動線を組み立てる。
だが、どれも勝ち筋には繋がらない。
この怪物に時間は与えられない。でなければ、先に力が尽きるのは、こちらの方だ。
――そのとき、不意に脳裏に甦った。
ノルヴィアの森。
初めてリアと出会った日のこと。
自分を襲う巨狼を、彼女は空から現れ、向かい撃った。
(……そうだ)
落下の衝撃。
地を穿つ威力、質量と加速度。まさに流星の如き一撃。
目で捉える暇もない、射程外より来たる、真上からの奇襲。
(真上なら……見切られない。奴も警戒しきれない、縦の死角。落下の力も乗せれれば、俺の剣でも……貫ける!)
痛みに抗い、泥を押して体を起こす。
骨が軋む音と共に、口の中に血の味が広がる。
(これで行くしかない……!)
策は出来た。あとは、自分を、彼女を信じるだけ。
震える手で剣を拾い上げる。
柄を握る指に力を込め、刃を泥から引き抜く。
喉奥から漏れる呼吸に合わせ、痛みがわずかに遠のく。だが、深く、静かに、カイウスは一度だけ息を吐き出した。
そして、不屈の色を瞳に宿し――巨狼とリアが向き合う戦場へと、再び駆け出した。
***
「……リア!」
後方からカイウスの声が飛んできた。
リアが振り返る。泥を蹴り駆けてくるカイウスの姿があった。
肩で大きく息をし、左脇腹を押さえたその動きは不自然で明らかに、満身創痍だった。
それでも、その足は止まらない。
そしてなにより、その瞳は一切濁っていなかった。
血と泥に塗れた顔の奥、深い灰色の眼差しが、まっすぐリアを射抜いてくる。
「カイウスさん……!ご無事っ……では、ないですよね」
「あぁ、残念ながら。初戦の倍はやられてる」
軽口のような声。
だが焦りも恐れも感じない。カイウスは一歩前に出て、深く息を吐いた。
「だからこそ……長引けば負ける。次の一撃で、全てを終わらせる」
その言葉に、リアは眉を引き結び頷く。
目元の濡れた髪を払いながら、真っ直ぐに応える。
「……はい!全力を出します!」
カイウスは一瞬だけ目を細め、顔を上げた。
その先には、泥の中から立ち上がりつつある巨狼。
左の牙を砕かれた獣の顔は、もはや“怒り”という言葉では足りなかった。
醜く、禍々しく歪みきったその表情。
復讐の衝動に突き動かされ、今まさに再び襲い来ようとしていた。
(……間違いなく、次も狙いはリアだ)
カイウスは狼を睨みつけ、そのままリアに向き直る。
「……リア」
「はい!」
リアの背筋が伸びる。緊張が高まり、返事に力がこもる。
「次、奴が突っ込んできたら、俺を真上に投げてほしい」
その一言に、リアの表情が完全に固まった。
「……え?」
目を瞬かせる。聞き間違いではなかったかと、何度も頭の中で反芻する。
「す、すみません。……いま、なんて……?」
「真上だ。聞き手は右、だよな。出来るだけ高く跳ばしてくれ。全力で頼む」
「え、え?だめだ、どうしよう。全然わかりません」
混乱は自然なことだった。
戦場の只中、人を投擲するという発想は、常識では考えられない。
だがカイウスはそのまま一歩近づき、静かに言った。
「大丈夫だ。俺を信じてくれ」
その声は大きくも強くもなかった。
けれど、不思議と心にまっすぐ届く声音だった。
彼の目は、わずかも揺れていない。
「これは、勝てる策だ。そのためにリアの力が必要だ。だから、頼む」
リアは息を飲み、カイウスの顔を見つめた。
血と泥と、雨に濡れた表情。呼吸は荒く、辛うじて立っている状況。
それでもその表情には、何よりも説得力があった。
やがてリアは、ふっと口元をほころばせる。
「……そうでした。理由なんか、要りませんでした。もちろん、わたしも信じます!カイウスさんを!」
それだけで、十分だった。
低く唸る音が地を這うように響く。
巨狼が立ち上がっていた。
泥に塗れたその巨体から、尋常でない熱量が立ちのぼっている。
半壊した顔。その奥、赤く光る双眸は、混沌とした執念が宿っていた。
左の牙を失い、仲間を屠られ、それでもなお燃え盛る殺意。
その全てが、ただ一人の赤髪の少女に注がれていた。
巨狼は一度距離を取り直すと、細く、横へ跳ねるように位置をずらす。
死角を探る。次こそ確実に仕留めるために。
「来ます……!」
リアの声が雨を裂いた。
両脚を沈ませ、泥に足をめり込ませるように重心を落とす。
肩の傷が悲鳴を上げていたが、怯む気配はない。
そして――
巨狼が駆け出した。
轟音と共に泥を蹴立て、空気を裂き、真っ直ぐに殺気の塊が突進してくる。
風が逆巻き、雨粒が砕け、世界が獣の質量によって歪んだ。
「――今だッ!!」
叫ぶ声と同時に、カイウスが短く跳躍する。
リアが彼を受け止める。
片腕に全体重を乗せ、低く膝を折り――渾身の力で、真上へと打ち上げた。
跳ね上がる。
重力と反動が織りなす絶妙な瞬間。
カイウスの体は矢のように空を駆け、雨雲すら貫くかのような勢いで宙へと舞い上がっていった。
地上――
巨狼の牙が、今まさにリアを喰らわんと迫っていた。
だがリアは、一歩も退かない。
肩の激痛に顔を歪めながらも、吼えるように前へ出た。
衝突。再び、轟音。
「くぅ……あああっ!」
今度は牙が右肩を裂く。
だが、この巨体を、もう自由にはさせない。
牙を掴み取る。脚を踏ん張り、滑る地を裂き、獣の質量を押し返す。
肩口から血が流れる。痛みは限界を超えていた。
――それでも。
「うああああああぁあっ!!」
リアが咆哮する。
獣に負けぬ声で、命の全てを震わせて。
そして――
その上空。
カイウスはひとり、風の中にいた。
信じられない高さ。突き刺すような冷気。
雲が近い。地が遠い。耳鳴りが空気を押しつぶす。
あらゆる感覚が崩れ、思考が凍るようだった。
(怖い……!今すぐ叫びたいほど怖い……!)
心臓が、背骨ごと跳ね上がる。
脚が震える。脇腹が軋む。
そして、何より――落ちる。
失速。放物線の頂点。
空が止まり、そして世界が引き寄せられるように急降下が始まった。
その瞬間――カイウスは見た。
下にいる。小さな赤い点が。
リアと巨狼。雨の中でぶつかり合う、命と命。
彼女は、止めていた。痛みに耐えながら、泥に沈みながら、それでも獣を押し留めていた。
全ては、カイウスが放つ、この一撃のために。
(……チャンスは一度だ。やり直しはない!)
カイウスは、剣を逆手に握り直す。
風が暴れ、いつの間にか出ていた涙が上昇し、呼吸が奪われていく。
だが、視線は一切、逸らさない。
突き立てる。狙うは、頭蓋。
獣の命をたった一撃で断ち切る、唯一にして最良の弱点。
「――終わりだァッ!!!!!」
――ズガアアアァァッ!!
雷鳴のような風圧。落下の衝撃。
カイウスは全身を一点に収束させ、空を翔ける流星のように、獣の後頭部へ突き刺さった。
雨さえ止まったかのような沈黙が、一瞬世界を包む。
やがて巨狼の全身が痙攣し、のたうち回る。
「オアアアアアアアァァァァッ!!」
カイウスは吹き飛ばされ、泥の中へ転がった。
受け身は取ったが、痛みは鋭く、視界は霞む。
それでも、その目は――確かな手応えに震えていた。
やがて巨狼は嫌に響く遠吠えを上げると、その直後、まるで何かが抜け落ちたように崩れ落ちた。
揺がすような重たい音が大地に響く。
牙は、動かない。
爪も、動かない。
――沈黙。
それから暫しの間、まるで誰かが時間を止めたかのように、あらゆる音が消えた。
雨音すら、ない。すべてが動きを止めていた。
呼吸を忘れ、まばたきを忘れ、ただその光景を見つめていた。その巨大な影が、二度と動かないと、確信できるまで。
暫しの沈黙の中――。
小さく、麦の擦れる音が聞こえた。
狼たちだ。
残された黒灰の群れが、崩れた巨狼を取り囲む。けれどももはや吠えず、唸らることもなかった。
彼らは一度だけ、起き上がらぬ主を見つめ、まるで何かを悟ったように静かに頭を垂れる。
やがて、一頭。また一頭と身を翻し、麦畑の奥へと消えていった。
気付けば、長く降り続いた雨が途切れていた。
どこか心地よい、空を切るような細い風が吹く。
まるで何かの幕引きを告げる様に、ふわりと夜空へと溶けていった。
次の瞬間――
「た、倒した……!」
誰かが、呟いた。息を呑むように。
その言葉が合図になったかのように、あちこちから歓声が噴き出した。
「や、やった……!」
「か、勝ったぞ!倒したんだ!」
「ま、守れた……家族のことを、守れたんだぁ……!!」
「助かったんだ……!ほんとうに!」
声が、涙が、交錯する。
次々と人々が駆け寄り、泥に膝をついて叫ぶ者、隣人と抱き合って嗚咽する者もいた。
やがて雲の切れ間から、夜明けの兆しがうっすらと覗く。
山の稜線が、濡れた森の向こうに浮かび上がる。東の空が、白み始めていた。
泥の中、カイウスは横たわったまま静かに空を見上げ、安堵の息を吐いた。
「……終わった、か」
空の白が段々と広がってゆく。
あんなに重たかった黒雲の切れ間から、淡い蒼が覗いていた。
雨粒が額から滑り落ち、頬を伝う。張り詰めていた緊張が、ふっと解けていくのが分かった。
「……カイウスさんっ!!」
声と共に、水音が跳ねた。
駆け寄る足音。リアだった。
泥を跳ね飛ばして駆け寄り、膝から崩れるようにカイウスの傍らに座り込んだ。
「生きて、ますよね?い、居なくならない、ですよね?」
「……あぁ。今のところ、一応な」
「よ、よかったぁ」
微笑むリアの声が震えていた。
カイウスは体を起こそうとするが、すぐに顔を顰める。気付いたリアがすかさず肩を貸し、ゆっくりと背を支えた。
二人は並んで泥の中に腰を下ろした。
その目の前で、光が差し込んでくる。ぬかるんだ地面に広がる水たまりが朝日に照らされて、宝石のように輝いていた。
「……きれいな朝日ですね」
リアが、ぽつりと呟いた。
その横顔は、泥と血にまみれながらも、不思議と柔らかだった。赤い髪は濡れて頬に張り付き、朝日に照らされていた。
「まぁ、朝日は大抵綺麗だからな」
カイウスが言う。口調はぶっきらぼうだが、声にはかすかな笑みが滲んでいた。
「ふふ。素直じゃないですね」
「高いところから見れば綺麗かもな。もう一回、飛ばしてくれるか?」
「絶対嫌です。わたしはカイウスさんと一緒に見たいんです」
「それは残念。……まぁ、今回は良しとするか。ちゃんと約束も、果たせたしな」
「……?約束、ですか?」
リアが首を傾げる。カイウスは少し息を吐くと、茶化す様に続けた。
「ノルヴィアの村に来る前に言っただろ?麦畑で子供みたいに、泥まみれになって遊ぼうってさ」
その言葉にリアは目を見開き、次の瞬間吹き出した。
「言ってましたね、そんなこと!でもこれ、遊びって言えますか?」
「泥にはまって転げ回っただろ。十分遊びじゃないか」
「戦いながら、ですよ!わたし、そこまでお転婆じゃありません」
互いに顔を見合わせ、ふっと笑った。
笑うたびに痛みが走る。でも、いまはその痛みすらも心地よかった。
その時、背後から泥を踏みしめる音が聞こえた。
振り返ると、子供たちを抱えた村人たちがゆっくりと近づいてくるのが見えた。
先頭に立つのはオルド。彼の背には、一様に目を赤くした青年たち。エルンもいた。顔に涙の跡を残したまま、まっすぐにリアを見つめていた。
誰もが、言葉を探しているようだった。
やがて――
「……おかえりなさい、リア」
先ずはエルンが、そう口にした。
ただ、真っ直ぐな、帰還を迎える言葉だった。
堰を切ったように、言葉が続く。
「リアぁ……ありがとう……!本当にありがとう!」
「リアお姉ちゃん……っ!助けてくれて、ありがとうねぇ……!」
「……ごめん……っ、本当に、ありがとう……!」
「リアっ……ありがとう!おかえりなさいっ……!」
声が、次々と重なっていく。
リアはぽかんと目を見開いたまま、ただ見ていた。
目の前の光景が、現実かどうかを確かめるように。
ふと、背中を誰かにそっと押された。振り返れば、カイウスだった。
「……家に帰ったら、一番にする挨拶があるだろ?ちゃんと、迎えられてこい」
その言葉に、リアの喉が詰まった。
頷こうとしても、声にならない。涙が知らぬ間に頬を伝っていた。
ようやく、深く息を吸い込む。そして、笑って――叫んだ。
「――みんな、ただいま!」
その瞬間、村人たちが駆け寄ってきた。
誰かが彼女の手を掴み、誰かが肩を抱きしめる。
子どもが泣きながらリアの胸に飛び込み、青年が震える手でその背をさすった。
涙が、声が、重なっていく。
感謝の言葉も、詫びの言葉も――すべてが「おかえり」に帰結していくようだった。
その光景を、少し離れた場所でカイウスは静かに見守っていた。陽の光が彼の濡れた背に差し、泥にまみれた剣を金色に染める。
空には、朝日。
雲の切れ間からは、希望のように差し込む光。
麦畑が風にそよぎ、金の波となって広がった。
その揺れはまるで、全ての者の戦いと和解を、祝福しているようだった。