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1-11. ノルヴィア村のリア

 闇の中、雨が途切れる気配はなく降り続いている。

 ぬかるんだ道を踏みしめて、二人は飛ぶ様に走る。

 リアの息はやや乱れ、それでも足は止めなかった。


「……急がなきゃ……っ」


 荒い息の合間、リアがぽつりと漏らす。

 その声には明らかな焦燥が滲んでいた。

 カイウスは横目で彼女をちらりと見て、ひとつ小さく息をついた。


「そんなにガチガチだと、いつか転ぶぞ」

 

「えっ……?」


 リアが一瞬、戸惑ったようにカイウスを見る。


「肩が上がってる。前傾姿勢しすぎ。あとたまに手と足、同時に出てる」

 

「……っ」


 図星だった。

 リアは一瞬むっとした顔をしたが、すぐに息を吐いて苦笑した。


「すみません。でもわたし、ミラちゃんが心配で……」

 

「分かるよ。だからこそ余計な力は抜くべきだ。到着が遅れるとか、戦闘前に怪我するとか。色々と勿体無いからな」


 カイウスの声は穏やかだった。

 冗談めいた言い方の裏には優しさがあった。


「こんな状況で、ましてや小さな子の命が掛かってる中、焦らない奴はそうそういない……でも、リアならきっと大丈夫だよ」

 

「……それ、根拠はありますか?」

 

「ないかな。でもそう信じてる」


 短く真っ直ぐな返答だった。

 リアは一瞬黙り込んだが、やがて安心したように深く息を吐き、肩の力を少し抜いた。


「……じゃあ、わたしもカイウスさんを信じます。脱力、ですね」

 

「抜き過ぎも良くないけどな。温存した体力は、到着してから全部出せばいい」


 そんな風に言葉を交わしながら、二人はなおも速度を落とさず走り続けた。

 やがて、麦の波が視界を覆う。風と雨に揺れるその間。


(いた……!)

 リアが息を呑む。

 見えた。ぼんやりと、小さな影たちが見える。

 五つ、六つ、身を寄せて蹲っている。

 その向こうから――音もなく忍び寄る、無数の黒い影の気配。

 

「間に合った――」

(ーー数が多い。乱戦になる。指南する暇はない――)

「――俺が先行する!リア、初戦闘だ!無理はするなよ!」


 咄嗟の指示にリアが頷く。

 声とともに剣が抜かれ、カイウスが一気に加速し夜の闇へと踏み込んだ。

 同時に、麦の隙間から赤目の狼たちが次々に姿を現す。

 だが、カイウスは一定の距離を保ち迂闊には動かない。

 背後にはぬかるんだ地形。狼が突撃をしづらい足場を、自らの防壁とした。


 風が裂ける音。一体目が跳んでくる。

 カイウスは剣を構えたまま、わずかに身を引きその動線を的確に読んで――


 ーーザシュッ


 刃を"置く"ように振り抜く。

 勢いのまま狼の胴が裂け、血が泥に跳ねた。

 彼は足元の感触を確かめながら、刃についた血潮を軽く払う。


 その間にも、二体目が横合いから跳ぶ。

 狙いは肩口。

 だがこれは麦穂の擦れる音から読めていた。カイウスは上体だけを逸らし、逆手に持った柄で首を打ち上げる。


 ーーゴンッ!

 二体目の首が"く"の字に折れる。咳き込むような唸り声を残して崩れ落ちた。


(……これで二体か。包囲網を確実に崩すために、手早くもう数匹は仕留めたいな)


 束の間、すぐさま三体目が突進してくる。

 こちらは地を這うような低い姿勢。狙いは腹下――


「お兄さん!昼間の旅の人……!」


 カイウスの存在に気付いたミラの声に、一瞬だけ注意を割く。

 だが目線は切らない。子どもの位置と、敵の角度はすでに把握済みだった。


「やぁ、また会ったね」


 軽く答えながら、狼の突進の出鼻を挫く様に体ごと剣を押し込む。


 ガシュ――ッ


 首が根元から裂け、血が飛び散る。

 灰狼の胴体が泥に沈み、痙攣して……やがて、動きを止めた。


 かすかな足音。風と逆行する気配。


 (来た。……後方っ!)

 カイウスは振り返らず、足で泥を蹴って体勢を半身にずらす。肩越しに刃を一閃。


 ズッーー!


 跳躍してきた四体目の腹が裂け、獣は悲鳴を上げながら叩きつけられた。

 断末魔を背に、カイウスは肩越しに周囲を探る。まだ気配はある。だが、一斉には仕掛けてこない。


「……これは、長期戦になりそうだな」


 この群れは、単なる獣ではない。

 集団で襲い相手の隙を作り、そこを狙って仕留める。

 ーー狩りの理性すら感じる、不気味な狡猾さがある。


 だが、カイウスの呼吸も、微塵も乱れていない。

 彼は剣を抜いてから今に至るまで、子どもたちの前に据えた自身の“剣域”から一歩たりとも動いていない。

 無駄に走らず、無闇に斬らず。必要最小限の動きで、的確に仕留める。

 それが無数の戦場で体得した、乱戦で生き残る者の戦い方だった。

 

(囲まれようと関係ない。俺が崩れない限り、ここは突破されない)


 剣の重みを再確認するように握り直し、カイウスは静かに息を吐いた。

 足元の泥に沈む音すら消え、場の空気は張り詰めていた。


 その時――。

 

「カイウスさん、大丈夫ですか?!」


 雨を切り裂く声が響いた。

 遅れて駆けつけたリアが、息を切らしながら現れる。

 彼女の目は、すぐさま子どもたちへと向けられた。


 しかし、次の刹那ーー


 ――ガルルッ!


 カイウスの“剣域”の外、子どもたちの右斜め後方。

 一体の狼が回り込んでいた。

 カイウスが泥に足を取られながらも駆け付けようとしたその瞬間、既にリアの脚が地を蹴っていた。


「させませんッ――!」


 リアの身体が風のように走る。

 低く沈み、獣の懐へ滑り込むように踏み込むと、全身の重心を拳に集め――


 ドボゴォォオ!!!


 放たれた拳が、狼の顎を真下から突き上げた。

 骨がひしゃげる鈍い音と共に、狼の体が遥か宙を舞い、やがて……数十秒は経っただろうか。背中から泥に叩きつけられる。


 リアは周囲を警戒するように見回した。

 安全を確認すると子どもたちに向き直す。


「みんな、こっちに来て!一緒に逃げよう!」


 リアの声には、努めて子ども達の警戒を解く響きがあった。

 だがその声に、子供たちは応じなかった。


「お、おねえちゃん、誰……?」

「その髪……あ、赤い……っ!」

「あ、あかいけものだ!」


 ひとりの少女が叫ぶ様に言った。

 その声に反応するように、全員がリアの方へおびえた目を向ける。


 雨で濡れた赤い髪が、闇の中で揺れる。

 狼をいとも簡単に屠り、静かに佇むその姿は、まさに“あの歌”で語られた怪物を彷彿とさせたに違いない。

 子どもたちはリアを本能的に恐怖の対象として見ていた。恐怖に染まった瞳が見上げる。狼を上回る、脅威として。


「いやぁ!……こ、来ないで……!」

「こわい……こわい……っ!」

「おかあさん、おかあさん……!」


 子供たちの肩が震え、涙が混じる。

 リアはその場に呆然と立ち尽くした。

 表情から血の気が引く。唇をかすかに噛み、拳に込めていた力が抜けた。

 その一瞬を見逃さず、カイウスがリアと子供たちの間に入り込む。剣を構えて狼の動きを牽制しながら、背後に向けて声を張る。


「子どもたちは確保した!このまま村に退避させる!」


 その言葉に応えるように、村の方から複数の松明の明かりが近付いてくる。

 ぬかるみを蹴って駆けてきたのは、村長オルドと農夫たちだった。農具を手に、泥に足を取られながらも、男たちは子供たちの前に割って入るようにして布陣を取る。


「こ、子供たちは俺たちが守る!だから、どうか……狼たちの相手を頼む!」


「言われるまでもない!」


 カイウスはそう応じながら、狼への牽制を怠らない。

 そのとき、オルドがカイウスの姿を見つけて声をかける。


「……カイウス殿!」


 雨の中で声が届く。

 その声は昼の会議での苛烈な怒りとは違っていた。


「どうか……どうか、昼の無礼を詫びさせて欲しい。あの時、皆で賤業と罵ったことを。今、貴方は再び村のために剣を振るってくれている。そのことに、……改めて、深く礼を申し上げる」


 彼の目には、確かな悔いと感謝が滲んでいた。

 それ以上多くを言わず、深く、頭を下げる。

 カイウスは軽く首を振った。


「……別に、村のためだけじゃない。俺には解くべき蟠りがある。ただ、それだけだ」


 そう言って、リアに目をやる。

 吊られるように、オルドも彼女の方を見る。

 

 雨の中。

 子どもたちから目を背け、肩をすぼめた赤髪の少女。

 信じ難い力を持ち、狼を退けながらも、ただ――怯えた目を向けられていた。


 オルドの眉がわずかに動く。

 唇が何かを言いかけて――言葉にならなかった。

 その顔には色々な感情を混ぜ返した様な複雑な表情が浮かぶ。掛けるべき言葉を慎重に選んでいる、人間の沈黙だった。


 そのときだった。


 ……何かが、来る。

 空気の密度が、確かに変わった。

 肌がざらつく感覚。刺すような視線が、強く、鋭く、こちらを射抜いている。


 突如ーー低く、獣の咆哮が響いた。

 今まで聞いたどれよりも重く、深く、濁っていた。

 雨を裂き、空を叩くような咆哮。

 まるで大地そのものが唸りを上げたような圧倒的な存在感。

 周囲の狼たちがざわめき、道を開けるように次々に後退する。


「来る……!」


 リアが弾かれたように振り返る。

 その先。夜の闇を割って、それが姿を現した。

 ぬらり、と滑るような動き。灰色の体毛は濡れて鈍く光り、顔の左半分は裂けたように抉れ、歪んでいた。

 もはや、獣ではない。

 ぐつぐつと煮え立つ怒りそのもの。ただ一つの“意志”を燃やす、復讐の化身。


 その瞳は、迷いなくリアだけを見据えていた。

 リアの脚が、自然と一歩、前へ出る。

 拳に力がこもり、呼吸が浅くなる。けれど、目は逸らすことはなかった。


「リア、大丈夫だ。……周囲の狼が動きを止めている。今は二対一。数的にはこちらが有利だ」


 横に立ったカイウスの声。

 冷静で、それでいて彼女を気遣う響き。

 リアは小さく頷く。


 その直後ーー巨狼が、動いた。

 雨の帳を裂いて、鋭く、鋼のように跳ぶ。

 巨大な牙が、リアの胸元をまっすぐ狙って迫る。


「くっ……!」 


 リアは両腕を交差させ、防御の姿勢を取る。

 だがその衝撃は、想像を超えていた。

 着弾ーー勢いのまま身体ごと弾かれ、後方へ吹き飛ぶ。

 地面を転がり、肩を激しく打ちつけた。

 

 立ち上がる暇も与えず、再び巨狼が跳びかかる。

 巨狼の足が地を離れ、軌道修正が効かなくなった、その一瞬ーー。

 

 背後からカイウスの剣が、割って入った。


「っ……!」


 殺気を取ったのか、間一髪で振り返る巨狼。

 鋼と牙がぶつかり、火花が散る。

 しかし……押し返せない。

 巨狼はカイウスの非力さを嘲笑うかの様にぐりゃりと笑い、前脚でその腹を蹴り上げる。


「ぐっ……!」


 カイウスの身体が宙を舞い、雨の中を吹き飛ばされる。

 地面に叩きつけらた衝撃に、低い唸り声を上げた。


「カイウスさん……!」 


 リアの叫びが割れる。

 その声に反応して、巨狼の意識はすでに彼女の方へ戻っていた。


 まっすぐに、執念の炎を灯す目。

 雨脚が強まる中、巨狼はゆっくりと歩を進める。

 牙を剥き、裂けた面が雨に濡れるたび、その身から発せられる恨みが、言葉を持ったような気さえする。

 「痛みを知れ」。「その身で償え」と。


 リアは拳を震わせ、構え直す。


「来い……!」


 足元が泥に沈み込む。

 それでも、立つ。

 彼女の背には、守るべき村人たちがいる。

 彼女の心には、まだ光が灯っていた。


 巨狼が動く。

 その動きはあまりにも滑らかで、それでいて速かった。

 地を裂くような加速で一気に間合いを詰める。 


 裂けた口から覗く牙が、横薙ぎにリアの喉元を狙った。

 リアは反射的に身を沈め、軸をわずかにずらす。

 牙が外套を裂き、腕に浅い傷を刻む。

 だが痛みに構っている暇はない。反転と同時に、腰を捻って拳を振り抜く。


「――やぁっ!」


 打ち込んだ拳が、確かに巨狼の顎を捉える。

 だが……硬い。岩を殴ったような衝撃が拳を貫き、骨の奥まで響く。


 リアの身体が、反動で数歩後退する。

 その隙を巨狼は見逃さなかった。

 獰猛な牙がリアの胸元へ再び突き立つ。

 リアは咄嗟に腕を交差させて防ぐが、鋭い犬歯が皮膚を裂き、肉へ食い込む。


「――っ、ぐぅっ……!」


 激痛。息が詰まり、視界が一瞬揺れる。

 だが、崩れない。崩れたくなかった。

 リアは踏ん張り、体勢を維持したまま、巨狼の顎を膝で蹴り返す。

 巨狼がよろめく隙に距離を取り、再び構え直す。


 巨狼は唸るように低く喉を鳴らし、弧を描くように動く。

 その一歩ごとに、周囲の空気が、重く、濃くなる。


 ――このままでは、保たない。

 そんな焦燥がリアの背中に貼りついた瞬間。


「下がれ、リアッ!」


 その声に咄嗟に反応し、リアが横へ跳ぶ。

 次の瞬間、後方から円熟の斬撃が閃いた。


 カイウスだった。

 泥まみれの身体でなお立ち上がり、巨狼の死角から絶妙なタイミングで飛び込んでいた。

 全身の力を刃へと込め、ただ一太刀。

 確実に命を絶てるその一線へ、両手剣を叩き込む。


 ーーだが。


 巨狼の赤い目が、ぎらりと光る。

 直前に迫った刃を、見切っていたかのように、そして嘲笑うかのように、上半身をしならせてかわす。

 剣の軌道を半歩外し、そのまま横薙ぎに身体を回した。


 ――ズドン!


 巨躯から放たれた後脚の一撃が、カイウスの腹を貫いた。


「ぐっ……ぉあ……ッ!」


 何かがへし折れる鈍い音。

 直後、雨の帷を切りながらカイウスの身体が数尺後方へ吹き飛ばされ、泥に沈む。

 すぐに起き上がる気配は、ない。


 後方に控える村人たちは、雨を拭おうともせず、呆然としてその光景を見ていた。

 先ほどまで狼群を翻弄していた猛者の二人が、まるで赤子の様に扱われているいう事実。

 誰もが悟りはじめた。

 この巨狼は、その力も、知恵も、意志も。

 並の人間を、遥かに凌駕している。


 "叶うはずがない。あの二人の次は、自分の番だ"。

 皆が一様に、迫り来る死の足音を感じ始めていた。


 雨が激しくなる中、リアが再び立ち上がる。

 剥き出しの腕には牙の痕が残り、踏ん張りが効かない足元は泥に沈み、息も既に絶え絶えだった。


(……つよい)


 リアは唇を噛んだ。

 前回は、上空からの奇襲だった。

 それは相手の死角を突いた、一度きりの好機。

 だが、今は違う。正面からの、力のぶつかり合い。その差はあまりにも大きかった。


 それでも。

 少女の胸の奥は、まだ温かく灯っていた。


(……大丈夫。わたしは、一人じゃない)


 遠く泥に倒れたカイウスを見やる。

 自分を信じ、受け入れてくれた人。

 尊敬するお祖父ちゃんに似た、何処か温かく、くすぐったい匂いのする人。


 巨狼が再び動き出す。

 血と憎悪の気配をまとい、ゆっくりと、着実に迫る。


 それでもリアは逃げなかった。

 むしろ一歩、前へ出た。

 その背に、村人たちを背負って。腕を広げて、牙を迎える準備をする。

 その瞳は、煌々と燃えていた。恐怖ではない。覚悟の炎で。


「……どうして」


 呆然と松明を掲げていたひとりの青年が、ぼそっと呟いた。


「どうして……ここまでして、戦ってくれるんだ……? アイツは、村の厄災、赤獣なんだろ……?」

「なんで逃げないんだ……?ほ、本当に……死んじまうぞ……!」

「あんなに傷だらけになって……昨日だって、村長にあんな酷いこと言われたのに……」

「ただ足をすくませて、何もできない……俺たちを守るために」


 声が重なり、どよめきが生まれる。

 雨の音の向こう。その勇姿を目の当たりにした者たちの心が、静かに揺れ始める。


 そのときだった。

 巨狼が突如として、宙を翔ける。

 その巨体が弾丸のようにリアへ向かって突進する。

 咆哮はなかった。殺意だけが、牙となって迫る。


 リアも叫ばない。

 目を逸らさず、拳も振るわず、両足を泥に沈めて踏ん張った。


 ――ドゴガァアァア!!!


 巨狼の体当たりが直撃し、牙がリアの左肩に突き刺さる。

 外套が裂け、肉が抉れる音。

 リアの体が数歩押され、背後のぬかるみに足を取られる。


「……っ!うぅぁっ!」


 リアは堪らず苦悶の表情を浮かべる。

 ――だが、なおも崩れない。

 血が滲む肩の痛みに膝が震える。それでも立ち直り、泥に汚れた腕で巨狼の牙を受け止めた。


 そして、ふと。

 自分でも気づかぬほど自然に、リアの胸の奥から言葉が溢れ落ちた。


「……わたし……この村が、好きです」


 リアの声は、掠れていた。


「薪割りのコツを教えてくれた……ノエルお婆ちゃん。魚屋のリオネルさんと、八百屋のアッシュさん……いつも元気で、笑ってて……」


 言葉を探すように、ひとつ、ひとつ。

 記憶のなかにあった温もりが、口から零れていく。


「手芸を教えてくれた、フィリアお姉ちゃん。花冠を作ってくれた、カイルお兄ちゃん。……一緒に遊んでくれた、エルちゃん。あったかいシチューで迎えてくれる、エレノアさん……」


 名を挙げるたびに、かつて自分にも向けられていた、村の人々の笑顔が思い浮かぶ。

 そのひとりひとりを噛み締めるように、リアは言葉を紡いだ。


「……皆んな、わたしの大切な人なんです。……全部、覚えてる。忘れたことなんて、一度も……ない……っ」


 その声は、雨と同じくらい小さかった。

 それでも、その場にいる全員が聴き入っていた。


「森で暮らしてたあいだ……毎日、毎晩、思い出してたんです。……怖くて、寂しくて、苦しくて……。でも……皆んなのとの思い出は全部キラキラしてて、わたしの宝物だった……わたしの事を、ずっと……支えてくれてた……!」


 巨狼が前足を踏み出し、牙がさらに肩に食い込む。

 だがリアは、一歩も退かない。

 むしろ押し返そうと唸り声をあげ、前へと踏ん張る。


「だから……だから!どれだけ、わたしが嫌われても!憎まれても、責められても!わたしがこの村を、見捨てていい理由になんて、絶対ならないんだ!!」


 声が次第に強くなる。

 叫ぶように、必死に喉を振り絞る。切実な、飾らない想いが溢れている。


「わたしは、この村が!この村の皆んなのことが、大好きだから!!だから、ここで……命を賭けてでも!コイツを止めなきゃいけないんだ!!」


 少女の言葉が、村の人々の胸に突き刺さる。

 その場にいた全員が息を呑んだ。

 気付けば、その場に居たオルドも含める全員が、手にした武器を下ろし、少女の独白に聞き入っていた。

 中には涙を流すものさえいた。


 その時、割って入るように村の方から走ってくる人影があった。


「リア……!」


 エルンだった。

 ずぶ濡れの姿で駆け寄り、泥の中で滑りそうになりながらも、必死に声を張る。


「皆んな、リアは悪くないんだ!あの夜、アベルさんが大樹の下敷きになったのは……俺のせいだ!俺がアベルさんに母さんの病気を相談したから!!」


 村人たちの目線がエルンに集まる。


「リアは、大樹の下敷きになったアベルさんを助けようとした!ただ、それだけだったんだ!あの晩、六年前の嵐の夜に、赤獣の悪意なんて一欠片もなかったんだ!ただ全員が、誰かを救いたいって必死に願ってた……純粋な善意しか、無かったんだよ!!」


 エルンの嗚咽混じりの叫びが、雨音をも凌ぐ力で辺りに響いた。

 沈黙。誰もが、言葉を失っていた。


「……じゃあ、私は……なんだ……?」


 ぽつりと、膝を崩したのは村長――オルドだった。

 どっしりとしたその身体が、泥の上に沈むように座り込む。


「親友を……懸命に救おうとしたその孫娘を……意味もなく村から追放したということか……?六年間……なんの罪もない子を……たった一人、孤独に追いやって。私は……私は、なんて事をぉ……!」


 肩が震えていた。

 老いた男の背が、雨に濡れて一層小さく見えた。

 震える手が泥を掻く。胸元を掴んでも、鋭い痛みは掻き消えない。

 重い後悔が、胸を締め上げる。

 

 だが、その前にエルンが立つ。

 泥まみれの足で踏み出し、オルドを奮い立たせる様に懸命に声を張る。


「……村長!リアはもう過去を振り返らない!きっと謝罪なんて、求めてない!見てくださいよ!いまもたった一人で、村を守ろうとしてくれてるんですよ!」


 エルンがオルドの胸ぐらを掴む。

 雨音に負けぬよう、言葉は裂帛の気合と共に放たれた。


「だから、いまは泣いてる場合じゃ無いんだ!いま、この時じゃ無いんですか?!あの晩、誰一人信じてやれなかったリアを……誰よりも誠実な、彼女のことを!今こそ!心から信じるべきじゃ無いんですか!?」


 オルドが顔を上げる。

 しばし迷いを湛えたその視線の奥に、わずかに宿る光があった。


「……リア……」


 オルドが涙を流しながら発した、掠れた、小さな呟き。

 だがそれは、確かにこの場の空気を変えた。

 すぐに別の誰か青年がそれに応えるように、震える声を上げる。


「……リ、リアぁ……!」


 一人、そしてまた一人。

 名を呼ぶ声が、雨の帳を破るように次々と重なっていく。


「リア、がんばれ……がんばってくれぇ……!」

「頼む、リア……勝ってくれ……!」

「何も力になれなくて、すまん……リア!」

「リアお姉ちゃん!負けないで!」

「リア……!!」


 群衆の声が大きな唸りとなり、空気を振動させる。

 空まで震わせんばかりの熱量に、巨狼がわずかに怯んだ。

 左肩に喰らいついていた牙が、ほんの一瞬ーー緩んだ。


 その瞬間を、リアは見逃さなかった。


(みんな……)


 全ての声が、確かに届いていた。

 名を呼ばれる温かさが、胸の奥を震わせる。

 濁った泥の上。しかしリアは、自分の足元にだけ温かい灯が宿っている気がした。


 ゆっくりと、深く息を吐く。

 そして、地を踏みしめて、蹴り跳んだ。

 風を切る音が耳を裂く。軸足をひねり、腰を捻り、雨を断ち割るように繰り出されたフック。


「――ッ!」


 打ち込まれた渾身の拳が、巨狼の顔面――左の牙を捉えた。


 パアァアァンッ!!


 乾いた破裂音。

 閃光のような衝撃と共に、巨狼の白牙が霧散する。

 一本ではない。左側の牙のほとんどが、爆ぜるように砕け散った。


「オギョオオオアァァァ!!!!」


 この世のものとは思えぬ断末魔が、喉の奥から迸る。

 巨狼は泥を蹴立て、のたうつように後退した。その身をよじらせ、咆哮しながら地面を引き裂く。


 リアはもう、揺るがなかった。

 血と泥に塗れながらも、彼女はゆっくりと姿勢を戻す。

 夜に映える赤髪が、風に靡いて煌めく。まるで焔の化身かの様に、少女の輪郭は崩れない。

 その炎を灯すのは、決して生来の力だけではない。

 それは気高く燃える、意志。

 多くの信頼に応えるために、何度でも立ち上がる、不屈の象徴だった。


「……何度でも来い」


 再び一歩、前へ踏み出す。

 静かな声は、確かな熱を帯びていた。


「わたしが――ノルヴィア村のリアが、相手だ!!」

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