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1-1. 傭兵と小麦の海

 小麦の海が風の通り道に沿ってさざめき、金の波を打っていた。晩夏の陽光が麦の穂先を温かく照らしている。


 南方の都市からノルヴィア村へ向かう街道を、ゆっくりと進む一台の荷馬車があった。

 荷台には干し肉の麻袋と果物を詰めた木箱が積み上げられ、乾いた燻香と甘い香気が辺りに漂う。


 その隙間、ようやく人ひとりが身を収められるほどの場所に、一人の男が胡座をかいていた。

 黒髪を後ろで束ね、灰色の瞳をしたその男ーー名はカイウス・ヴァンデルと言う。歳は二十一。革鎧とくたびれた旅装をまとい、背には風雨に晒され色の褪せたマント。

 その布地にはいくつもの裂け目と縫い跡が刻まれ、過ぎた戦いの記憶を静かに物語っていた。背に負った両手剣の鍔が、馬車の揺れにあわせてチャリ、チャリと金属音を奏でている。


「よくもまぁ、こんな辺鄙な村まで付き合ってくれたもんだな、旦那」


 馬車の前方で手綱を握る男が、振り返りざまに軽口を叩いた。

 丸顔で人懐っこい笑みを浮かべた中年の商人は、名をヴォルトといった。この馬車の主であり、彼の話によればこの護衛任務は急ぎの依頼だったらしい。


「ノルヴィア村か……名前は聞いたことがあるけど、実際に来るのはこれが初めてだ」


 カイウスは静かに返した。

 声色は低く落ち着いているが、風の様に飄々とした彼の性格を匂わせる。人懐っこい性質ではないが、警戒心をむやみに表に出す荒っぽさもない。


「旅慣れた"傭兵"の旦那がそう言うんだ。ノルヴィアは戦争とは縁遠いってことなんだろうな」


 ヴォルトの冗談まじりの問いに、カイウスは口元を緩めて答える。


「いや……案外静かな村ほど火種は燻ってたりもする。だからヴォルトのおっちゃんも、こうして俺を護衛につけたんだろ?」


「こ、怖いこと言うなよ。俺が気にしてんのは、商品を掻っ攫う野盗や獣の類でさぁ。ノルヴィアの連中はいい奴ばかりだから安心しな!俺の親戚が住んでてな、数年前から交易を始めたんだ」


 ヴォルトが機嫌良く鞭を鳴らすと、馬が短く嘶き、荷馬車が僅かに速度を上げた。車輪が石混じりの道を軋みながら進み、荷物がかすかに揺れる。


「たしか、小麦が名産品だったっけ」


「そうだぜ旦那。ノルヴィアの小麦は香りがいいんだ。パンに焼けば皮が薄くて、中はふっくら、香ばしい。挽き方にも村の流儀があるそうだ。旦那も一度食べてってくれよ」


 誇らしげに語るヴォルトの様子が、カイウスの脳裏に香ばしい焼きたてのパンを浮かばせた。割った瞬間に立ちのぼる湯気、ふわりと広がる小麦の香り。大地の恵みがそのまま詰まったような芳醇な味わいーー


(……期待しておこう)


 思わず心のなかで呟いた。


***


 陽がさらに傾き、小麦の穂が影を引き始めた頃。

 街道の先に開けた視界の向こう、緩やかに盛り上がる丘の上に、一本の大樹が立っているのが見えた。

 高さは人の丈の二十倍はあろうか。

 幹も馬を何頭か並べてようやく囲めるほどに太い。


 かつては、さぞ雄大な木だったのだろう。

 だが、今やその巨体には、命の気配というものがなかった。

 というのも、幹が途中から縦に大きく裂けていた。抉れた断面が空へ苦悶の口を開けているかのようだ。

 枝葉のほとんどは失われ、黒ずんだ木肌が痛々しい。

 まるで巨人の骸。その姿は痛々しくもあり、同時にどこか目を離せない不気味さを帯びていた。


「……あの木、随分なことになってるな」


 カイウスの何気ない一言に、手綱を握っていたヴォルトが「ああ」と頷く。


「《祈りの大樹》って言うそうだ。村から少し外れた所にある。昔から豊作の象徴として大事にされてきたらしい」

 

「ずっとあんな調子なのか?」


 カイウスが問いかける。


「そうさ。いつ、何で裂けたのかは俺も詳しくは知らない。けどな……」


 ヴォルトは一拍置いてぽつりと続けた。


「それでも村の連中は、今も変わらずあの木に豊作の祈りを捧げてる。……もう理由とか関係ねぇのかもな。あれがそこにある限り、“祈る”ってことが暮らしの一部になってるんだろうよ」


 ヴォルトの言葉が風と共に流れてく。それを追う様にカイウスは再び大樹を振り返った。

 馬車は街道をそのまま進み、麦畑の合間を抜けていく。その間も、大鹿の角が如きシルエットは丘の上にぽつんと佇み、赤金色の陽を背に黒い影を伸ばしていた。


「おっ……そろそろだぞ」


 ヴォルトがそう呟いたのは、道が丘の影を抜け、緩やかに下り始めた頃だった。

 周囲の風景が少しずつ変わってくる。

 畑の先に人影が現れる。柵のそばで干し草を束ねる農夫の姿。遠くから、家畜の鳴き声も重なり始めた。


 生活の音だ。


 カイウスは目を細めた。

 初めて訪れる村の匂いは、旅の者に十分な情報をもたらす。活気。静けさ。あるいはーー緊張。


「……見えてきたな」


 ヴォルトの声に誘われ前方に目を向けると、街道の先に白壁と木の屋根が連なる集落が現れた。

 村の入口には質素な門と手作りの木看板。軒先で風にたなびく洗濯物が、茜色の光を受けてきらめいている。


 それが、ノルヴィア村だった。


 カイウス達は馬を進め、木製の村の門をくぐる。柵に囲まれたその村には、穏やかな時間が流れていた。

 風に揺れる麦畑。屋根の上を飛び交う雀。子どもたちの笑い声が道端に響き、遠くで教会の鐘が柔らかく一度だけ鳴った。


 荷車から降りたカイウスは、背中の鞘に収めた両手剣の重みを感じながら深く息を吸う。濃密な麦の香りに、ほのかな牛糞の匂い。不快ではなく、むしろ「大地の匂い」とでも呼びたくなる息遣いだった。


「やっと着いたな……旦那、ようこそノルヴィア村へ」


 後ろで荷を降ろしていたヴォルトが笑って言う。


「本当に助かったよ。おかげで何事もなく着けた。報酬は少し色を付けておいた。荷台での寝泊まりが長かったから、今夜は宿でゆっくり休んでくれ」


「悪いな、おっちゃん。また頼むよ。……ところで、この村に護衛を取りたがってる商団とか心当たりないか?土地勘も無いし、次の仕事を見つけるのが手間取りそうで」


 ヴォルトは顎に手を当てて考えるが、やがて首を横に振る。


「今のところはねぇな。俺も今回は少し滞在する予定だしな。……ああ、そうだ。《風の壺亭》に行ってみるといい。村人がよく集まる酒場でな、情報もわりと集まりやすい。俺たちみたいなよそ者でも、酒さえ飲めば馴染めるさ」


「《風の壺亭》……わかった。行ってみるよ。助かった、ありがとう」


 別れ際に革袋の重みを確かめたカイウスは、ヴォルトに別れを告げ、ひとり村の中心へと歩き出した。


***


 ノルヴィアの村道は石畳ではなく、踏み固められた土の道だった。だが草一本生えておらず、整備が良く行き届いているのが見て取れる。

 家々の屋根は藁と赤煉瓦が混じり合い、窓からは夕餉の香りが漂ってきた。どこか懐かしく、胸をくすぐる様な香りだった。


 しばらく歩を進めると、広場に面した木造の酒場ーー《風の壺亭》の看板が視界に入った。


 ギイ、と扉を開けると、酒場の中はすでにかなりの賑わいを見せていた。

 丸太をくり抜いた太い柱、壁に吊るされた農具、香ばしいパンと煮込み料理の匂い。夕陽が窓辺から差し込み、くすんだ床板に橙の光を落としていた。

 店の一角では、農夫たちがジョッキを掲げて笑い声を上げ、木製の椅子がガタガタと忙しなく揺れている。旅の者と思しき客も数人、地元の住人に混ざって酒を傾けていた。


 カイウスはその様子を一瞥した後、カウンターに向かう。


「よう、見ない顔だな旅の人。何を飲む?」


 声をかけてきたのは、髭面の中年男だった。年の頃は四十前後、樽のような胴回りと分厚い腕。恐らく店主だろう。桶に浸けたジョッキを片手で取り出しながら、にやりと笑う。


「軽めの麦酒を。それと小腹が空いてる。何かあたたかいものを頼むよ。ここでしか味わえない物がいい」

 

「了解。今日のシチューは、干し鹿と豆、にんじん、少しだけだけど塩が効いてるぞ。鹿肉は『臭みは薄く、旨さは濃く』ってのがウチの売りさ」


 "下処理の秘訣は教えらんねぇけどな。"

 そう言いながら店主がカウンター裏に消えてゆく。

 ほどなくして、湯気の立つ木椀と麦酒のジョッキが運ばれてきた。シチューの付け合わせは勿論、焼きたてのパン。


カイウスは短く礼を言い、早速スプーンをシチューに潜らせた。干し鹿の肉はほろりと崩れ、豆と野菜がとろけるように混じり合っている。

 堪らず一掬いし口に運ぶ。素朴な味だが、疲れた体に染み渡る。


 ーー悪くない。


 ジョッキを傾け、パンをちぎりシチューに浸す。重すぎず、軽すぎない。旅の途中で出会うには、これ以上ない食事。カイウスは自然と肩の力を抜いていた。

 仕事探しは後回しだ。いまはこの心地いい夕餉を心ゆくまで堪能しよう。カイウスが一人得心する様に頷いた、その時だった。


「てめぇの畑、うちの畦道を削って植えたんだろうが!」

 

「違う!あれは元々そっちの爺さんが……!」


 店の奥の空気がにわかにざわついた。どうやら酒の勢いもあり、隅の席で言い争いが始まったようだ。口角泡を飛ばしていたのは、酔いの回った農夫二人。

 ジョッキがぶつかり、いくつかの視線が騒ぎの方へと向けられる。笑い声は止み、会話の音も細くなる。


 またか、と言わんばかりに店主が眉をひそめる。

 だが、動く様子はない。どうやらよくあることらしい。

 カイウスは一度だけシチューの皿に視線を戻し、ため息のように短く息をついた。


(できれば、荒事で胃を重くしたくはない。だが放っておけば騒ぎは大きくなる。店主も店を閉めるかもしれない)


 農夫たちの怒鳴り声はもう一段階、熱を帯びていた。


「うちの境界石を動かしたのはてめぇだろ!」

 

「てめぇこそ、村の掟を——!」


(……しょうがないな)


 カイウスは皿を静かに置いた。椅子を引き、ゆっくりと立ち上がる。

 そしてその歩みには、迷いがなかった。するり、と二人の間に音もなく風の様に滑り込む。

 右手を片方の胸元へ、左手をもう一人の肩へ。触れるだけの穏やかさで、しかし確かに距離を断ち切る。


「……二人とも。やるなら表でやりなよ。せっかくの飯が不味くなるだろ」


 声は低く、だが静かに店内に響いた。淡々とした口調の奥に、張り詰めた一線がある。

 二人の農夫はハッと息を呑み、カイウスの顔を見上げる。その灰色の瞳に宿る光ーー冷たい。戦場のそれだった。飄々とした風貌の下に隠された、“本物”の気配。


「……す、すまん……」「わりぃ……」


 気まずそうに目を逸らし、二人は元の席へと戻っていく。誰も声をかけなかった。酒を飲んでいた男たちは顔を見合わせ、再びジョッキを手にした。


 張り詰めていた空気が、少しずつ弛緩していく。

 椅子の軋み。パンを千切る音。場の空気が少しずつ温かさを取り戻していった。

 カイウスは何事もなかったかのように自席へ戻り、再び椅子に腰を下ろす。シチューは冷め始めていたが、残っていたパンを一口、噛みしめる。味は落ちていなかった。


(……これにて、一件落着)


 内心でつぶやきながら、ジョッキをゆっくりと傾けた。


***

 

 その一部始終を、店の奥から見ていた者がいた。


 一人の青年。栗毛の短髪に、粗末な布の上衣。年は十八程度か。日に焼けた腕。鋭い目つきだが、その顔つきには真面目さと節度が漂っていた。 

 青年は立ち上がると、迷いなくカイウスの元へ近づいた。


「……なぁ、あんた。ちょっといいか」


 そう問われたカイウスは麦酒のジョッキを置き、ゆっくりと目線を上げる。


「今の手際、見事だった。喧嘩を止める腕前もだが、あの威圧の仕方……あんた、ただの旅人じゃないな?」

 

「……そう見えたか。見せ物でもないんだけどな」


 カイウスは答えながら、内心ではこの青年を測っていた。

 声に無用な色はなく、虚勢も打算も感じない。だが、単純な無垢さともまた違っていた。研がれた真面目さーーまるで、何かを背負ってここへ来たような。


「……実を言えば、あんたのような人を探してたんだ。よければ、少し話を聞いてもらえないか?」


 青年がひと呼吸置いて言う。視線は揺れていない。

 カイウスは眉をわずかに寄せたまま、返事をせずにジョッキを手に取る。


 こうした持ちかけは珍しくもない。旅の傭兵を見込んで、厄介事――例えば、私怨の報復などを押し付ける輩はどこにでもいる。だがこの青年の目には、その類の欲や損得がなかった。

 あったのは、切実さ。迷いながら、それでも踏み出そうとする強い意志だった。


「……話の内容によるな」


 低く答えるカイウスに、青年は真っすぐに言葉を返す。


「この村が抱える問題についてだ。……俺の名はエルン。エルン・ヴァッツだ。ここで農夫をしている」

 

 エルンは短く名乗った後、わずかに言葉を切った。

 

「村に異変が起きている。ここでは詳しく言えないが……あんたの力が、どうしても必要なんだ。もし関心があるなら、俺と一緒にここの村長、オルドさんの家まで来てほしい」


 周囲では、農夫たちがすでに騒動を忘れたようにジョッキを掲げて笑っている。パンと煮込みの香りが漂い、厨房からは湯気が立ちのぼる。


(……村は平和にそのものに見える)


 だが、この青年だけが違っていた。言葉が、顔が、仕草が。何かに迫られている、そんな気がする。


 ーー平穏な日常の裏で、何かが起きている。


 カイウスはそう直感し、残っていたジョッキの中身を一気に煽った。木椀のシチューもスプーンで掻き込み、皿の底が見えるまできれいに平らげる。


 驚くエルンを他所に、袖で口をぬぐいながら短く言った。


「案内してくれ。ちょうどいま、少し暇になったところだ」

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