表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

LAZULI番外編

LAZULI ~碧の夢~

作者: 羽月

「LAZULI」本編で度々出て来る、遺跡であった”2年生の学年末試験”のお話です。

まだ主人公が誰とも仲良くない頃の出来事で、このエピソードをきっかけに距離がだんだんと近くなっていきます。


このお話の時点で……

主人公ディートハルト15歳(8月生まれ)

エトワス17歳(4月生まれ もうすぐ18歳)

翠17歳(8月生まれ)

フレッド17歳(5月生まれ)

ジェス17歳(11月生まれ)<本編エピソード3にも登場してるジェス・カースルさん

その他同級生17歳(一部16歳)

 自分が居る場所が何処なのか、初めは分からなかった。目の前も後ろも、上も下も、左も右も、周囲を取り巻く全てが青一色の世界だったからだ。

しかし、やがて髪を揺らす風に気付き、次にうっすらと広がる白い物にも気付いてそれが雲だと分かり、そこが空だという事を理解した。


これは、夢……


それは、幼い頃から何度も見る青空の夢。


……


白い鳥の群れが遥か下の方を飛んでいるのが見えた。

目が覚めてしまえば、この夢の事は忘れてしまう。いつも同じだ。そして、再び同じ空の夢を見た時に思い出す。

『?』

不意に誰かに呼ばれた様な気がした。

『何だ?』

呼び声は、何かを訴えかけている様だった。しかし、外国の言葉なのかさっぱり理解する事が出来ない。しかも、だんだんとそれが人の言葉なのか、声なのか、ただの何か物の音なのか分からなくなって来た。

『……』

何故かは分からないが、理解不能の声の様な音を聞いているうちに不安が胸に押し寄せて来る。

『……やめろ』

両手で耳を塞ぐ。

『聞きたくない……!』

「!」

たまらず、叫びそうになった瞬間、再び名前を呼ばれた。同時に、ピタリとその不快な音も止む。自分を呼んだのは、今度は聞き覚えのある声だった。


『……エトワス……?』


自分を呼ぶ声と、その声の持ち主の顔が頭の中で一致した途端、現実の世界へと引き戻されるのを感じた。



「ディートハルト……!」

何度か呼び掛けると、部屋の共有スペースのテーブルに突っ伏して眠っていたルームメイトはようやく顔を上げた。しかし、ボーっとして視点は定まっていない。どうやらまだ頭は眠っている様だった。

「酷い顔してるな。またリカルド達と喧嘩したのか?」

瑠璃色の瞳の下が青く腫れているのを見て、エトワスが眉を顰める。

「……」

ディートハルトから返事は返って来なかったが、エトワスは構わず話し続ける。

「お前達を見てると、趣味で殴り合ってるとしか思えないな。そうじゃなきゃ、もう部活かサークル活動か……」

エトワスがファセリア帝国学院の騎士科へ入学してもうすぐ2年が経とうとしていたが、この学生寮でディートハルトと同室のエトワスの観察によると、ディートハルトは少なくとも週に4日は他の学生相手に喧嘩をしていた。そのほとんどが同級生だが、稀に上級生を相手にしている事もある。ディートハルトもエトワスも喧嘩相手達も、皆学院の特殊なコース――騎士科(ナイトコース)という学科に在籍しているのだが、その名の通り兵士を養成するためのコースで、教養として求められる広い分野の一般知識だけでなく、戦闘に関する授業を受けていた。もちろん、座学だけではない。身体と精神を鍛え、剣術や格闘術などあらゆる武術や魔術を身に付けるため、実戦の戦闘訓練は毎日必ずある。にも関わらず、ほぼ毎日授業以外の貴重な時間を使って仲間相手にボロボロになるまで自主訓練(殴り合い)しているディートハルト達のような者はまずいない。エトワスはそのような彼らに半ば呆れていた。

 エトワスはテーブルの上に持っていた本数冊とノートを置き、ディートハルトの向かい側の席に座った。

「寝るんだったら、ベッドで寝ろよ」

学生寮の部屋は、共有スペース以外に個人のスペースもあり、ベッドと机と収納棚が一人ずつ与えられ、収納棚を境にした3つの個人スペースが並んでいる。その中で、端の壁際がディートハルトのスペースだった。その隣、真ん中はエトワスのスペースで、さらにその横はもう一人のルームメイト、翠の場所だ。

「目の下、かなり痛そうだけど冷やせば?」

エトワスが何を言っても、ディートハルトの反応はなかった。半分はまだ寝ぼけているせいだろう。

「……」

しばらくの間、ボーッとした顔でルームメイトの話を聞いていた(?)ディートハルトは、何かを思い立ったかの様に徐に席を立った。ルームメイトの勧めに従って素直にベッドで休むのかと思いきや、自分の収納棚を漁った後そのままバスルームの方へ姿を消した。

「よっ……と!」

入れ替わるように部屋の扉が勢いよく開き、両手に紙袋を下げた黒髪の学生が入ってきた。もう一人のルームメイト、如月翠(きさらぎすい)だ。

「何?勉強してんの?」

そう言いながら翠は持ってきた紙袋を無造作に床に置くと、先程までディートハルトの座っていた椅子に、どっかりと腰を下ろした。

「休みのときくらい遊べば?」

「今度の演習の資料が仕上がってないんだ。と言うか、もうすぐ試験だろ?勉強しなくていいのか?」

「まあ、まだ余裕あるしね」

分厚い本を見ながらルーズリーフに何やら書いているエトワスを観察しつつ、翠はヘラりと笑って答えた。

「なあ、メシ食った?学食行きそびれちゃってさあ。もー腹減って腹減って」

翠が抱えていた紙袋には、まとめて洗濯した一週間分の洗濯物が入っていた。彼の場合、限界まで洗濯物を溜め込んで、まとめて洗うのが習慣になっている。

「俺も食べてない。閉館ぎりぎりまで図書館にいたから。でも、この時間じゃ商店街まで行かなきゃ、近くの店には何も残ってないかもな」

エトワスが時計を見上げる。午後九時前だった。学生寮近くにも、学生達を主な客として商売しているパン屋や総菜屋があるのだが、この時間では開いている店でもほぼ売り切れてしまっている可能性が高い。

そこへ、バスルームでシャワーを浴びていたディートハルトが戻ってきた。

「お、ディー君……男前だねえ。ってゆーか、美人が台無しじゃないの。リカルド君達も酷い事するね」

顔を見てニヤニヤ笑う翠を冷たい視線で一瞥したが、ディートハルトは何も言わずに翠の前を素通りし、部屋の奥にある自分のベッドに腰を下ろした。

 いつでもどこでもマイペースな翠とは違った意味で、このディートハルト・フレイクという学生は他の学生や教官達に目を付けられていた。一つは外見上の理由がある。珍しい鮮やかな瑠璃色の瞳に金の髪をしたこの学生は、どう見ても軍人を志す者には見えなかった。眉目秀麗という言葉が文句無しに似合いそうな誰が見ても美形顔をしている上に、毎日授業で体を鍛えさせられているとは思えないような体格をしていたからだ。背が低い方ではないが、これで女子の制服でも着ていれば立派に女の子に見えることは間違いなかった。しかも、少年っぽくもある可憐な美少女といった感じだろうか。そして、目を付けられているもう一つの理由は、性格にあった。入学して以来、自分から他人に話し掛ける事はほぼ皆無で、話し掛けられても殆ど返事はせず、たまに口を開いても不愛想で、憎まれ口しかたたかない。それ以前に、他人と目を合わせる事すら殆どなかった。例え稀に目が合ったとしても、それは無表情な氷のように冷たい瞳でしかない。まるで、自分以外は誰も存在していないかのように、完全に周囲の人間を無視していた。そのため、彼を嫌っている学生達に何かにつけて絡まれていた。初め、その学生達は、ディートハルトを痛い目に遭わせて懲らしめてやろうと、私的制裁を加えるつもりだったのだが、ディートハルトは口撃にはしっかり倍返しで応戦し、いわゆるいじめ的な物にも「俺に喧嘩売ってんのか?いい度胸だな」と拳で反撃に出て、もちろん、物理的な暴力にもしっかり暴力で応える等、可愛らしい見た目に反し馴れたものでしっかり応戦していた。その結果、どちらがどちらに制裁を加えているのか分からないといった状態がずっと続いている。

 今では、非常に気の強いディートハルトにいじめなどして絡める強者は無く、正面から拳で戦いを挑む決まった者達との殴り合いが日常茶飯事となっていた。稀に、ディートハルトの方が人数で負けて満身創痍になっている姿も見かけるが、それでも気持ちは負けていない様で、その後も逃げる事はなく売られた喧嘩は必ず買っている。中でも同級生のリカルドとロイが、一番喧嘩の頻度の高い相手だった。

 そのような訳で、2年近く同じ部屋で生活しているエトワスや翠でさえ、ディートハルトとまともに会話を交わしたことは一度もなかった。しかし、翠やエトワスの場合一方的に話し掛けている。

「その様子じゃ、ディー君もメシ食ってないな?んじゃあ、親切なオレが三人分の食料を調達してきてあげよう」

濡れた金色の髪をタオルで拭いているディートハルトを見ながら、翠はそう言うと椅子から立ち上がった。

「あ、エトワス。お湯沸かしといてね」

という事は、学生寮の1階にある自動販売機に即席ラーメンを買いに行くつもりらしい。

「分かった」

翠の言葉に、エトワスも給湯室にお湯を沸かしに行くため席を立った。


 一人残されたディートハルトは、ベッドに仰向けに寝転んだ。体のあちこちに痣やすり傷ができていて痛かった。特に、左目の下の腫れている部分がズキズキする。ディートハルトはそっと腫れている部分に触れてみた。熱い。とりあえず目が無事で良かったが、このまま腫れが治らなかったら、いかにも負けましたという見た目でとてもかっこ悪いなと思った。

『冗談じゃない!』

ディートハルトはとりあえず冷やそうと思い、髪を拭いたタオルを濡らすためにベッドを降りた。

バスルーム前の洗面所で、季節のわりにあまり冷たくない水道水をザーザーと流しながらタオルを湿らせていると、不意にドアが乱暴に開く音がした。早すぎる気もするが、エトワスか翠が戻ってきたのだろう。

「……」

ディートハルトは濡らしたタオルをそっと目に当てた。あまり冷たくなかったが、無いよりはましだった。熱を持った鈍い痛みが少しだけ和らぐような気がする。

『……?』

ふと、背後に人の気配を感じ、目の前にある鏡に視線を移すと、そこにはエトワスでも翠でもない人物が立っていた。


* * * * * * *


 給湯室は、学生達の部屋が並ぶ廊下の突き当たりにあった。エトワス達の部屋は反対側の端に近いため少し離れている。給湯室には他に誰の姿もなく、コンロにかけたやかんから沸騰する前のシューッという音だけがやけに大きく聞こえていた。

「食べないよりはましか……」

エトワスは一人で呟いた。自動販売機の即席ラーメンは、味は良いが何の具もなく麺だけなので正直物足りないと思ってしまう。しかし、ルームメイトのディートハルトは人と話すのが嫌い(多分)なため、よく食べている様だった。もしかしたら、単に麺が大好きなだけなのかもしれないが。一度、『たまには他のものも食べないと、体に悪いよ』と言ってみたことがあった。しかし、冷たい視線に加えて一言「関係ねーだろ」という短い答えが返ってきただけだった。


『そろそろいいかな』

やかんから白い湯気が噴出して来たため火を止めると、エトワスは持ってきたポットにお湯を移し、給湯室を後にした。部屋が並んでいるのに廊下が静まり返っているのは、学年末試験が近いせいだろう。この試験が終われば、長期休暇に入る。殆どの学生は帰郷するのだが、エトワスには帰る気は全くなかった。実家は、首都ファセリアの南方のウルセオリナにある。遠いと言えば遠いが気軽に帰れないという程ではないのだが、帰ること自体が面倒だった。家の方では休みの度に、たまには帰ってこいと催促しているのだが、なかなかその気にならない。ウルセオリナ地方の領主の跡継ぎであるため地元では彼の事を知らない者はなく、帝都にいる方が自由を満喫出来るからだ。ルームメイトの翠も、戻る気はないようだった。彼の場合は、実家はファセリア帝国よりずっと南にある別の国で本当に遠いので、学校の長期休暇で行き来する事も難しいからだ。とはいえ、母親がファセリア人なので、実家代わりとなっている祖父母の家が帝都の北にある北ファセリアの町にあり、他の親戚も帝都やその周辺の町に住んでいるので、祖父母の家や親戚の家にはよくお邪魔している。そして、ディートハルトは何も話さないので謎だったが、休暇で帰省した様子は一度もないため、今回も戻らない確率が高そうだった。


* * * * * * *


 突然の来訪者は、ディートハルト達とは違い普通科の制服を着ていた。色白で黒髪に暗い色の瞳をした見慣れないその学生は、何も言わずにただボーッとその場に突っ立っている。しかし、鏡の中の人物を目にしたディートハルトの方も特に何の興味を示す訳でもなく、傍らを通り抜けて部屋の方へ戻ろうとした。

「どけよ」

相変わらずその学生がバスルームの入り口に立ちふさがったままで動こうとしなかったため、ディートハルトは、自分よりかなり背の高い相手を睨み付けた。

「……」

その学生の赤に近い茶色い目が、無表情にディートハルトを見降ろす。

「見りゃ分かるだろ?次期公爵かキサラギに用なんだったら、ここにはいないぞ」

ディートハルトは不機嫌に言った。

「邪魔なんだよ!」

いい加減、無口で無表情な相手に苛立ったディートハルトは、無理矢理横を通ってバスルームの外に出た。

「!」

直後に、背後に殺気を感じたディートハルトが振り向いたのと、その学生が飛び掛かって来たのはほぼ同時だった。

「なっ!?」

かろうじてそれをかわす。しかし、すぐに見慣れぬ学生は再び攻撃態勢に入った。

「??」

どう考えても、ディートハルトはこの学生とは初対面のはずだった。喧嘩を売られる覚えはない。しかし、騎士科の学生として普通科の学生に負ける訳にはいかない。そう考えたディートハルトは、応戦することにしたのだが……。


 エトワスが部屋に戻ってみると、閉めたはずのドアは大きく開け放たれていた。先に戻った翠が閉め忘れたのだろうと思い、部屋に入ろうとした途端、部屋の中からディートハルトがもの凄い勢いで出てきた。と言うより飛ばされてきた。

「ッ!」

エトワスは思いっきりぶつかってしまいよろめいたものの、なんとかディートハルトの体を受け止めた。その代わり、ポットは飛ばされて派手な音とともに廊下に転がった。幸い、蓋は開かなかったのでお湯は零れていない。

「どうし……」

呆気に取られたエトワスが尋ねるより先に、部屋の中からゆっくりと男が姿を現した。身長182センチのエトワスよりもかなり大きい、2メートル以上あるのではないかと思われる立派な体躯をしたその男は、普通科の濃いグレーの制服を着ている。

「こんなところで、何をしてるんだ?」

専攻コースごとに学生達の寮は別れている。わざわざディートハルトを殴りつけるために、この様な遅い時間に別棟から来たのだろうか?そう思い、エトワスが幾分厳しい口調で問うと、その学生は蹲ったままのディートハルトを指さした。

「そいつを渡せ……」

と、そこへ即席ラーメンの袋を抱えた翠が戻ってきた。

「何やってんの?」

見た事のない大柄な普通科の学生と、蹲るディートハルトと、彼を支えて普通科の学生を睨んでいるエトワスと、順に見た翠が不思議そうに声を掛ける。

「よく分からないけど、ディートハルトに用があるらしい」

エトワスが簡単に説明する。

「何?ディー君、他の科にまで喧嘩友達いるわけ?以外と交友関係広いじゃん」

翠がそう言うと、今まで腹部を押さえていたディートハルトは顔を上げ、キッと鮮やかな瑠璃色の瞳で翠を睨み付けた。

「……」

何か言いたげだが、何も言わない。痛そうに顔を顰めて腹部を押えているため、話せないのかもしれない。

「お前らに用はない。どけ」

訪問者は無表情にエトワスと翠に告げる。

「どけって言われてもねえ。あんたがそこにいちゃ部屋にも入れないじゃん。あんたがどけば?」

少しムッとした様子で翠が言う。すると、その学生は表情一つ変えずに翠に向き直った。

「!」

突然の攻撃を翠は軽くかわした。翠めがけて斜めに振り下ろされた腕は、そのまま石の壁にあたり、鈍く大きな音がした。かなり痛そうだったが、やはりその学生が表情を変えることはない。

「何なんだ??何でオレまで」

文句を言う翠を無視し、学生は再びディートハルトの方に向き直った。しかし、すぐにエトワスがディートハルトを背に庇うようにして学生の前に立ち、その顔を見据える。

「3人を相手にするつもりか?」

「……」

エトワスの言葉に、学生は躊躇したように動きを止めた。普通科の学生と違って、騎士科の学生達は剣術だけでなく格闘術やいわゆる魔法や魔術と呼ばれる様な類の術も学んでいる。その事を襲撃者の学生は当然知っていた。

「何の騒ぎだ?」

そこへ、タイミング良く、騒ぎを聞きつけた隣の部屋の学生達が顔を覗かせた。

「喧嘩か?」

「おい、見ろよ。喧嘩だって!」

「フレイクが喧嘩してるぞ!」

並んだ部屋の扉が、近い所から順に次々と開いていく。

「……」

騎士科の学生達が集まりつつある様子に、ディートハルトに用があると言った普通科の学生も流石に分が悪いと感じたのか、無言のまま突然踵を返し走り出した。そして一同が、呆気にとられている前で、そのまま一目散に走り去っていってしまった。つまり、逃げたのだ。いつもなら、『待て、逃げんな!』等と言って怒りそうなディートハルトも、今日はもう1ラウンド戦うには気力も体力も残っていないらしく、黙って床に座り込んだままだ。

「なんだ、あいつ?」

「せっかく見に来たのに」

「おい、フレイク、一般学生に負けてんじゃねーぞ」

集まっていた同級生の野次馬達も、好き勝手な事を言いながら面白くない、と解散し自室へと戻っていった。


「ほら、使えよ」

エトワスは露骨に不機嫌な表情をしているディートハルトに、医務室からもらってきた氷の入った袋を差し出した。ディートハルトはしばらく躊躇っている様だったが、何も言わずにそれを受け取り目の下に当てる。

「今日は、いつもより怪我が酷いし、ちゃんと医務室に行った方がいいと思うけど……」

エトワスは、何度目かになる同じ言葉を掛ける。ただでさえいつもより酷い怪我を負って見える上に、ついさっきまで腹を押さえて動けなくなっていたからだ。しかし、案の定ディートハルトは無視している。

「じゃあ、ちょっと診せてみろよ」

エトワスが怪我の具合を調べようとディートハルトのTシャツの裾に手を伸ばすと、思いっきり距離を取られた。

「ディー君さ、真面目な話あいつに何したの?」

翠が食後のお茶を一口飲み、尋ねる。

「……何も」

翠の方は見もせずに、ボソッとディートハルトが言う。もし、身に覚えがあるなら無言でいるか、「関係ねーだろ?」と言う言葉が返ってくるかのどちらかだ。『何も』と答えたという事は、本当に何もしていないのだろう。

「じゃあ、何で来たわけ?」

「おれが知るわけねーだろ?!初対面だし、大体あいつ誰なんだよ?」

おもいっきり怒っているディートハルトに、エトワスが『はい』と、お湯を入れた即席ラーメンの器を差し出した。

「……」

ディートハルトは一瞬何か言いたげだったが、無言でそれを受け取った。突き返さないところをみると、かなり空腹だったらしい。しかし、これがエトワス相手でなければ、「何の真似だ?」と冷たい視線で睨み付けただろう。

とにかく、ディートハルトは自分以外の人間を全て敵とみなしている傾向がある。その様な彼を気に入らない、許せない、と、しつこく絡んで喧嘩を売っている者も少なくなかったが、それ以外の者達は敬遠し関わらないようにしていた。中には性格を改善してやろうとする、ディートハルトにとってはお節介でしかない熱血漢もいたが、その努力は報われず、結局、敬遠組か絡み組かのどちらかに入っていた。翠もどちらかというと敬遠組だ。そのような中、エトワスはこの2年間、無視されようと、どんなに悪口雑言を浴びせられようと辛辣な皮肉を言われようと軽く受け流し、全く気にした様子もなくディートハルトに接していた。余程心に余裕があって根気強いのか、そうでなければ暴言も暴言に聞こえない程ディートハルトに心底惚れ込んでいるのか、単に嫌みを言われるのに快感を覚える性質なのか……その何れかに違いないと翠は思っている。結局、その努力の甲斐あってか、最近ではディートハルトも以前よりはエトワスに対してだけ、という限定付きだが、他の生徒達に対してよりは幾分警戒を緩めるようになってきているように思われた。

「たまに学食とかで見かけるけど、確か一年のウェズリー・ローリーだったかな?」

エトワスの言葉に翠が苦笑する。

「他の科の学生なのに、よく名前知ってんな。しかもフルネームで」

「この間、バートがサークルに勧誘したいって言ってたからさ。ガタイいいからな。あちこちから誘われてるみたいだよ」

「で、そのローリー君にディー君は身に覚えのない喧嘩を売られた訳か。有名人だからかね?」

ディートハルトは二人を全く無視してラーメンを食べている。ベッドに座り、女の子にしか見えない顔を青く腫れ上がらせ、不機嫌そうにフォークでラーメンを食べている姿はなかなかシュールだ……エトワスはそう思ったが、言えば確実に怒るので黙って観察していた。


 それから数日過ぎたが、ウェズリー・ローリーという一年生が再びディートハルトに喧嘩を売って来ることはなく、また、普通科の学生とは過ごしている生活の場も違うので、その姿を言見掛ける事もなかった。しかし、騎士科の学生達の間では、ディートハルトがローリーに対して何か不況を買うような事でも言ったのだろうと囁かれていて、ディートハルトはかなり不機嫌な日々を送っていた。

そのような噂も、さらにそれから一週間たった頃には学生達の間からすっかり消えていた。学年末試験が始まったからだ。流石に翠も進級に関わるとなれば机に向かわない訳にはいかず、呑気さは相変わらずだったが大人しく部屋で教科書を開いていた。もっとも、集中力が続かない様で、勉強している時間よりも睡眠時間の方が長かった。そして、ディートハルトの方も、この期間中は喧嘩を売ってくる者はいないらしく、それ以上怪我をする事もなく大人しく部屋で勉強していた。



* * * * * * *


 一週間後――。

無事試験期間も終わり、学生達の待ちに待った長期休暇がやってきた。……が、それは騎士科以外の話で、彼らには最後にもう一つ実戦の試験が残っていた。今年はディートハルト達の学年は、最近発見されたばかりだという古い時代の遺跡がテストの実施される場所だった。その遺跡に学者達調査団が乗り込むにあたって、遺跡内に棲み棲みついてる魔物の駆除をしなければならないのだが、たまたま試験期間だった学生を利用することにしたのがその理由だった。試験場である遺跡は、帝都ファセリアから北に位置するギリア地方の海に浮かぶ小島にあった。

ギリア地方も島なのだが、今回遺跡が見付かったのは沖に浮かぶこれまでに人が渡った事のない小さな島で、その小島が、ギリア地方と、大陸側のファセリア地方とロンサール地方のちょうど真ん中辺りの海上にあるため、港を作れば便利かもしれないとふと思い立ったギリア地方の領主が島の様子を調べようと人を送ったところ、たまたま遺跡の発見へと繋がったらしい。


 試験当日の早朝、ディートハルトらは試験監督である教官達と供にファセリア大陸北の港町シレネから船でその小島に渡った。鬱蒼と茂る森の中に、かなり昔の物に思われる古びて崩れかけた石造りの建造物が建ち並んでいるのが海岸からでも窺えた。

 学生達は名前順に5人ずつのグループに別れ、島のどこかに隠れている試験官を一人捜し出す。途中、魔物を倒したらその証拠の品―牙等を持ち帰る。というのが試験内容だった。一斉に全グループが試験を受けるのではなく、一度に1組のグループが出発し、他の学生達はその間は海岸で待機という形になるため、全20組の試験が三日間に分けて行われる事になっていた。今日は、まず最初の7組が試験を受ける事になっている。今日は試験のない学生達は、海岸付近で自主訓練するよう言われていたが、大半は砂浜で遊んだりお喋りしたりと気ままに過ごしている者が多かった。


「時間切れだな」

時計を見ていた試験官の一人が言う。順番を待つ学生達の間に忍び笑いが漏れた。時間切れなど、そうあるものではないからだ。

「最初からこうでは先が思いやられるな。まあ、いい。じゃあ次、2班。君達は前のグループにあったら、時間切れなので戻って来るよう伝えること」

そう試験官に言われ、2番目のグループ、エトワス達は海岸を後にした。生い茂る背の高い植物の中を進んで行くと、崩れかけた石の建造物の残骸が散らばっていた。かろうじて建物の形が残っているものを一つずつ調べていったが、今のところ試験官も魔物も見あたらなかった。時間切れになった学生達の姿もない。

「時間切れなんて、あいつらよっぽど遠くまで行ったのかもな」

最後尾を歩いていた淡い金髪にブルーグレーの目をしたフレッドという名の学生が、並んで歩いているエトワスにそう話し掛けた。すると、すぐ前を歩いていたジェスという名の学生が振り返って口を挟んだ。

「仲間割れでもしたんじゃないか?」

1班のメンバーは、そりが合わなそうなタイプが揃っていた。皆で協力して仲良く、というよりは、強気で“俺に任せろ、俺に従え”という気質の者、他人に無関心で協力する気が無い様に思える者、自己主張をあまりせず何を考えているか分からない者等……といった感じだ。

「前のグループには、ディートハルト・フレイクがいるからな」

「アルの奴がかなり嫌がってたぜ」

聞こえていたのか、先頭を行くエリックとハロルドも話に加わる。

「名前順だから仕方ないけど、運悪かったな~。あいつら」

「そう言えば、知ってるか?ロイに聞いたんだけど……」

と、そのままエリックとハロルドはディートハルトの悪口を言い始めた。エトワスとフレッドとジェスは黙って聞いている。

「……なあ、俺さ、フレイクのこと嫌いじゃないぜ」

ふと、フレッドは、悪口で盛り上がっている二人には聞こえないように、エトワスにそう言った。

「?」

「あいつ、確かに性格すっげーキツイけどさ、何て言うか……う~ん」

フレッドは言葉が見付からずに悩んでいる。

「ほら、目がすっげー綺麗じゃん?冷たくて表情のない目だけど」

フレッドの言う通り、ディートハルトの鮮やかな瑠璃色の瞳は常に冷たい光を宿していた。

「色が珍しくて綺麗とか造りが整ってるって意味じゃなくてさ……」

「ああ、分かる。澄んでるって事だよな」

エトワスが頷いた。

「そうそう。本当に嫌な奴はあんな目じゃないって言うか。あいつの目、嫌いじゃないな」

「俺もだよ。でも、ディートハルトが聞いたら何て言うかな」

エトワスは笑った。

「気色悪いこと言ってんじゃねーよ!……かな?」

「多分な」

再び二人が笑う。

「フレイクはさ、多分、俺達より年下だろ?だから、まだ子供なんだよ」

再び振り返ったジェスがそう言った時だった。5人の4メートルほど前方の草がゆらゆらと揺れた。


 来る……!


5人はそれぞれ武器に手を掛けた。

「あ……」

揺れる茂みの中から足早に現れたのは、魔物ではなく最初のグループのアーネストという名の学生だった。見知った姿に、ジェスが短く溜息を吐く。

「お前ら時間切れだぞ。他の奴らは?」

呆れる様に告げるジェスの言葉は耳に入らない様子で、アーネストは喋りだした。

「それどころじゃなくてさ、緊急事態なんだ!」

彼の説明によると、こうだった……。


 アーネストたちのグループは、島のほぼ中央で大きな神殿のような建物を見付けた。

「よし、入るぞ」

班長のアルは真っ先に建物の中に入り、残りの4人がそれに続く。中は、崩れかけた大きな石の柱が立ち並ぶ広い空間があるだけで、ところどころ崩れて落ちた天井の瓦礫が床に散乱している以外特に何も見あたらなかった。ただ、奥の方に石造りの祭壇らしきものがある。何かの神を祀る神殿だったのかもしれない。学生達はそう考えた。

「おい!来て見ろよ!」

祭壇の周辺を調べていたアーネストが、ただならぬ様子で声を上げた。

「……」

駆けつけた4人の学生達の間に沈黙が流れる。祭壇の裏の床に地下へ続くとみられる幅の広い階段があり、そのすぐ側には血糊がべったりとついた通信機が落ちていた。そして、階下へ向かい何かを引きずったように乾ききっていない血の跡が石畳に残っている。

「……」

嫌な光景と匂いに、学生達は眉を顰めた。学生達の中でこの場に来たのは、最初のグループである彼ら以外にいない。ということは、通信機は教官のものだということになる。学生達は無言でアルを見た。リーダーに判断を委ねようというわけだ。班長は、真っ先に自身が持つ通信機で海岸に居る教官達に連絡する事を選択したが、何度呼びかけても通信機は雑音を放つだけで、反応を示さなかった。再び学生達の間に沈黙が流れる。

「アーネストとフレイクはこの場に待機。俺達は地下に下りる」

リーダーの言葉にすかさずアーネストは抗議の声を上げた。

「何で、俺とフレイクが待機なんだ?」

「待機組の方が安全だぞ?」

アルはそう答えたが、アーネストが不平を漏らしたのは“フレイクと”待機という事が気に入らないのだと、その場にいる全員が分かっていた。しかし、敢えて誰も何も言わない。

「こっちは一人でもいいぜ?うざいしな」

言わなくてもいい一言を付け加えてディートハルトがアルに申し出た。

「それはこっちの台詞だ!」

当然、アーネストは怒る。

「残念だけどグループ行動は鉄則だからな」

嫌がるアーネストを宥め、アル達3人の学生は二人を残して地下へと向かった。


「それで?」

アルと仲が良いハロルドが先を促す。

「時間切れになっても戻ってこないからさ、報告しに戻ろうと思ってたところなんだ」

「ディートハルトは?」

エトワスが尋ねると、アーネストは“関係ないね”といった面もちで、『まだ神殿内にいる』と答えた。


 報告しに戻るというアーネストと別れたエトワスたち5人は、そのまま教えられた神殿へと向かった。

「何だ、フレイクの奴いないじゃないか」

ハロルドがフンと鼻で笑う。その広い神殿内の何処にも、地下に下りた学生3人を待っているはずのディートハルトの姿はなかった。

「下に下りたのかな?」

フレッドの問いをエリックが一笑に付した。

「あいつが他人の心配をするわけないじゃないか。海岸に戻ったに決まってるだろ」

「だけど、俺達がここに来る途中、会わなかっただろ。それに、友好的なタイプじゃないけど、仲間をほっといて自分だけ帰るなんて、そこまで勝手な行動をとるような奴じゃないと思うけどな」

フレッドが眉を顰めて言う。

「あのさぁ、あいつ、アルにこの場に居るようにって言われてたんだろ?現にいないじゃないか。どこに消えたにしろ、勝手な行動をとったことに変わりないって」

ハロルドもそう言って笑った。

「でも……」

「まあ、とにかく下りてみようか?」

言い返せず黙ってしまったフレッドに向かいエトワスはそう言うと、早速階段を下り始めた。


 地下は殆ど光がなく、携帯用のライトを使ったが目が慣れるのにはいくらか時間を要した。階段を下りてしばらくは一本道だったのだが、すぐに通路は十字路へと差し掛かった。

「こっちに行くぞ」

二番目のグループ、2班のリーダーであるエリックの判断で、迷わないよう真っ直ぐ行く道を選択し、5人は迷路のようになっている狭い通路を注意深く進んだ。

「!」

ふと、前方から微かな足音が聞こえてきた。同時に、誰かが駆けてくる気配もする。

「アル!」

現れたのは、アルともう一人、クラウスという名の学生だった。

「良かった。無事だったんだな!」

「お前ら、こんなとこで何やってんだ!?」

ハロルドが笑顔で無事を喜ぶが、駆けてきた1班の班長は開口一番そう言った。

「何って、お前らが戻って来ないってアーネストが……」

ジェスが答える。

「早く、ここから出よう!」

「普通の雑魚魔物とは違う化け物がいるんだ。教官も殺られたらしい」

ほんの僅かな時間足を止めた二人は、早くも階段へと向かう通路を進みながら、早口にそう言った。

「バルサムは?」

エリックが尋ねる。地下に下りたのは3人だったはずだ。

「多分、フレイクと一緒だ」

「ディートハルトも来たのか?」

エトワスの問いに、アルは振り向かずに答えた。

「ああ。お前らも今のうちに逃げた方がいいぞ」

「バルサムとフレイクの二人が残ってんだろ?お前らは帰るのか?」

フレッドが憤慨したような声を上げた。すると、やっと二人は足を止めた。

「ここじゃ剣は思うように使えない。マガジンはもう空っぽだ。あの化け物と接近戦で、素手で戦えってのか?」

アルの言葉に、学生達は沈黙する。ここには帝国の兵士の卵である彼らが守るべき対象はいない。しかも、実戦とは言っても結局は成績を付けるための試験だ。自分の命か、生きている可能性の低い仲間の命か……どちらをとろうと本人の自由だ。

「多分、もう遅い。あいつらの事は諦めろ」

そう言い残し足早に去っていくアルとクラウスの二人の後ろ姿を見送りながら、フレッドは窺うようにエトワスを見た。

「行くだろ?」

「もちろん」

フレッドがエトワスに問いかけると、エトワスはそうニヤリと笑った。

「俺は帰るぜ。教官達に報告して、応援を呼ぶ方が賢明だからな」

エリックの言葉に、ハロルドも頷いた。

「ああ。無謀な事をしても無駄死にするだけで、意味はないからな」

「じゃあ、二手に分かれたな。俺もエトワスたちと行く」

ハンドガンの安全装置を外しながらジェスがそう言った。



* * * * * * *



「……夢、見てんのか?俺……」

バルサムは呟いた。アル、クラウスと共に三人で、姿を消した教官を捜すため地下へ下りた後、しばらくして見たことのない巨大な人型の化け物に遭遇した。発光してるのか、ぼんやりと青白い色をしたその化け物は3人を目にするとすぐに襲ってきた。狭い地下通路では思うように剣も使えず、やむを得ずハンドガンを使ったのだが、図体の割に敏捷なその化け物にはなかなか当たらず、当たっても大した致命傷を与えることはできなかった。そして、とうとう弾も尽きた時、化け物の巨大な手はバルサムの腕を捕えた。アルとクラウスも弾が尽きてしまっていたため、助けようにもどうすることもできない。息を呑む二人の前でバルサムは今にも殺されようとしているという状況で、三人共既にその死を覚悟していた。するとそこへ、意外にもディートハルトが姿を現した。

「!」

駆けてきたディートハルトは、その状況を見て特に感想を漏らすこともなく、立ち止まった瞬間、無表情のまま引き金を引いた。ディートハルトの射撃の腕は学年トップクラスで、弾は全てバルサムの首を鷲掴みにしている化け物の手首に、しかも同じ位置に命中した。近距離だったせいもあるが、撃たれた的も静止しているわけではない。見ていたアルとクラウスも感心せざるを得なかった。

「ううっ!」

解放されたバルサムが床に落とされたのと、見事に手首を撃ち落とされて化け物が咆哮を上げたのは、ほぼ同時だった。辺りにどす黒い液体が飛び散る。すると、化け物はすぐに目標を変え、ディートハルトめがけて突進してきた。

「マズイ!」

「ダメだ……」

それを見たアルとクラウスは、慌てて後退りすると、クルリと背を向けその場から逃げ出した。化け物の近くにいるバルサムを助け出している余裕はなかった。

「!」

撃ち落とした方とは逆の腕が届く刹那、弾を充填し終えたディートハルトは再び化け物を撃った。弾は今度は化け物の赤く光る目に当たった。再び凄まじい奇声が響きわたり、流石の化け物も攻撃を止めた。

「ッ!」

ディートハルトは素早く化け物の脇をすり抜けると、まだ床に座り込んでいたバルサムの腕を乱暴に引っ張り上げた。そして、そのまま走り出した。


「お前が、俺を助けるなんてな……」

バルサムはぼやき、改めて隣を歩くディートハルトの顔をまじまじと観察した。

「たまたま目の前で死にかかってたからだ、つってんだろ」

ディートハルトは冷たくそう答えた。目の前で死なれたら気分が悪い、というのがディートハルトの言い分だった。

「お前のせいで、肩外れて死にかかったんだけどな」

バルサムは付け加えた。立ち上がらせようとディートハルトが勢いよく引っ張った時に脱臼しかけてしまったのだ。もともと、化け物のせいで折れてしまっていた方の腕だったため、痛さのあまり意識が無くなりかけてしまった。しかし、これも驚いてしまったのだが、正体不明の化け物の気配を感じられないところまで逃げて来ると一度立ち止まり、ディートハルトは自分の所持している短剣を利用して、バルサムの骨折の応急処置をしてくれていた。少し不器用なため、巻かれた包帯は所々緩かったりきつかったりとムラがあって不格好だったが、まさかディートハルトが怪我の手当をしてくれるとは思わなかったので、バルサムは妙に感動していた。

「外れたくらいなら、はめりゃいいだろ」

脱臼についての苦情に対しやはり冷たい答えが返ってくると、バルサムは可笑しくなってきた。今までは単に、他者に対して極端な敵意を持った性格の悪いいけ好かない奴だと思っていたのだが、実は良い奴なのかもしれないなと思えてきた。

「……ああ、何だ。今、分かった」

バルサムがくすくすと笑うと、ディートハルトは胡散臭そうに『何だ?』と顔を向けた。

「お前ってさ、あいつに似てんだ」

「?」

実家の近くに住み着いている野良猫に似ている、そう思った。真っ白な毛並みに水色の目をしたその猫は、世間のものには何も興味を示さないといった感じの冷たい瞳をしてマイペースに生きていて、たまに帰った彼が気紛れに撫でようとすると、心底迷惑そうな表情をして鋭い爪で引っ掻いて逃げてしまう。可愛らしい顔をしているため、餌でつって懐かせようとする者もいるのだが、どんな餌やおもちゃをあげても誰にも懐く様子はない。他の野良猫達との交流もないらしく、いつも一匹でひっそりと屋根の上で昼寝をしている。その猫と同じだと思った。ディートハルトも、こちらから話し掛けたりちょっかいを出したりしない限りは無害だし、観察するには申し分ない程可愛らしい外見をしている。

『誰にもなつかない猫か……』

一人でニヤついていると、ディートハルトの方は嫌そうに顔をしかめた。しかし、別につっこんで尋ねてこようとはしない。


「道、覚えてるか?」

唐突にディートハルトが尋ねた。

「……いや」

バルサムは首を振った。どうやら、逃げる時に迷い込んでしまったらしい。目の前には、三方向の通路が延びている。

「どうする?」

バルサムが尋ねると、ディートハルトは躊躇わず歩き出した。

「歩こう。多分、こっちだった気がする」

二人は、とりあえず左側の道を進んでみることにした。方角からして、地下へ下りる時に通った階段へと続いてそうな気がしたからだ。しかし、すぐに立ち止まることになった。

「お前は……」

音もなく二人の前に姿を現したのは、何故か数週間前にディートハルトの前に現れた1年の学生、ウェズリー・ローリーだった。場所も帝都から遠く離れている事もあり人違いかと思いかけたが、やはり着ている服はグレーの普通科の制服だったので本人に間違いない様だ。

「何でこんなとこに、一般学生が……」

バルサムの問いに答えるかのように、ローリーは口を開いた。

「お前を……追ってきた。」

ディートハルトとバルサムは顔を見合わせた。お互いに、俺じゃない、と首を振る。

「どうでもいいけど、こんな危険なとこ……」

バルサムは言いかけた言葉を呑み込んだ。次に続けられたローリーの言葉のせいだった。

「よこせ……目玉を……血を……肉、喰わせろ……」

「……おい、フレイク、こいつヤバくないか?」

「マジで相当ヤバイな……」

大真面目にディートハルトが答えたので、こんな状況でと思いながらもバルサムは再び可笑しくなってしまった。

「うぅ」

と、バルサムの表情に恐怖が浮かんだ。ローリーの背後に、先程襲ってきたあの化け物が姿を現したからだ。

「生きてたのか……」

ディートハルトが傍らで呟く。ここで背を向けて逃げ出したら、確実に殺られる。二人はそう瞬間的に判断した。ディートハルトが剣を抜いて構えたところをみると、ハンドガンの弾は切れてしまったらしい。そして、それを裏付けるように言った。

「おれ、今度は助けらんねーぞ」

バルサムは自分も剣を抜いた。運良く、負傷した腕は利き腕ではなかった。



「おい、あれ……」

フレッドが言葉を呑み込む。薄暗い通路には、数時間程前には人であったであろうものの一部が散乱していた。

「……」

エトワスは、地面に膝を着き死体の服の胸に付いていたネームプレートを調べた。プレートには学院の教官の名前が刻まれている。それは、1班の者達が目撃した通信機の持ち主だろう。

「化け物って、一体どんな奴がいやがるんだ?」

薄暗い照明の中でも分かる程に青ざめた顔で、ジェスが呟く。

「おい……今、何か音がしなかったか?」

エトワスは通路の先に目を向けた。しかし、暗くてよく見えない。

「お、おい、エトワス!」

「待てよ!」

何かに気付いたのか、立ち上がったエトワスは走り出した。ジェスとフレッドの二人も慌ててその後を追う。

「エ、トワ……ス……」

通路の先には、壁に寄りかかるようにしてかろうじて立っているバルサムの姿があった。

「大丈夫か!?」

「早く、フレイクが……!」

苦しそうに呼吸しながら、バルサムは必死の面もちでエトワスの腕を掴んだ。

「殺される……早、く!」

エトワスは反射的に走り出した。

「エトワス!待て、一人で行くな!ジェス、バルサムを頼む!」

フレッドも急いでエトワスの後を追おうと走り出す。

「フレッド!持ってけ!」

背後からジェスが怒鳴り、予備のハンドガンの弾を投げて寄越した。

「おい、バルサム!?」

1人残されたジェスは、気を失ってしまった重傷のバルサムを担ぎ、化け物と遭遇しない事を祈りながらもと来た道を引き返し始めた。



「!!」

凄まじい力で床に叩きつけられ、一瞬息が止まった。

「何で……おれ、を……?」

ローリーはディートハルトの上に乗り、首を両手で締め付けていた。窒息する前に、骨が砕けそうだった。

「分からないのか?俺が……で、お前が……だからだ」

朦朧とする意識の中、ローリーがそう言って笑ったのが耳に入ったが、初めて聞く単語の部分は聞き取れなかった。一応、脳まで届いたのだが音として認識されたに過ぎなかったためだった。芝居がかっている程にゆっくりと、ローリーは拳を振り上げた。それが自分の頭の骨を砕くためだということは分かりきっている。


 喰われるのか……?


そんな疑問がふと頭の中をよぎった。

何故か、バルサムを襲った片手と片目を失った人型の魔物までもがローリーに付き従うようにその場に居て、ローリーが獲物を仕留めるのを待っているかのようにその様子を見守っている。恐らく、とどめを刺した後は、文字通り彼らの餌食になるのだろう。


 冗談じゃ……ねえ……


そう思った次の瞬間にはもう、ディートハルトは意識を手放していた。と同時に、聞きなれた乾いた音が響いた。


「!??」

一瞬、何が起こったのか分からなかった。ローリーは、自分の胸から突き出ている剣の切っ先を茫然と見下ろした。手にした獲物――ディートハルトにとどめをさそうとした瞬間、背後から何者かに剣で刺し貫かれたようだ。その剣を手にしたエトワスは、躊躇いもせずローリーから無造作に剣を引き抜いた。すぐさま、どっと吹き出した大量の液体が石畳を濡らす。同時に、フレッドに至近距離から銃の連射を受けていた人型の魔物が、重い音と供に崩れ落ちた。直後に、フレッドの手にした銃口はローリーに照準を定める。エトワスもそれに倣い、自らのホルスターから拳銃を抜き安全装置を外した。二人分の銃声が響き、薬莢が次々に飛ぶ。しかし、無数の銃弾を受けたローリーは、よろめき後ずさりしたものの、倒れはしなかった。

二人は弾倉が空になるまで、なおも至近距離で撃ちまくった。

そして、とうとうフレッドの銃の弾が尽きて銃声が一時止むと、ローリーは銃弾で絶命した人型の魔物を掴み上げ、以前学生寮でディートハルトを襲った時のように、突然踵を返し走り去ってしまった。

「クソッ!」

追おうとするフレッドをエトワスが制止する。致命傷を与えた。追う必要はない。


 元来た道を急いで辿り、無事に階段を上り明るい神殿内の1階に出たエトワスとフレッドの二人は、神殿の中央付近まで来たところで担いでいたディートハルトを床に下ろした。ちょうど崩れて倒れていた大きな丸い柱に、寄りかからせるようにして座らせる。

「……大丈夫だ」

ディートハルトの呼吸と脈を調べていたエトワスは、安堵したようにほっと息を吐く。そして、名前を数回呼びかけた。

「……」

暫くすると、ディートハルトは意識を取り戻した。

ぼんやりとした視界に、エトワスの姿を確認する。日常よくあるパターンだ。『また、寝過ごしたっけ?』と、思いかけ、ハッと我に返った。

「おれ……」

眉を顰め、ローリーの手の跡が残っている首の辺りに手をやっているディートハルトに、フレッドがにこやかに言った。

「エトワスに感謝しろよ。一瞬でも遅かったら、お前、あいつにグチャグチャにされてたんだぞ」

「あいつ……殺ったのか?」

ディートハルトは驚いたようにエトワスを見た。

「致命傷だと思うんだけど、どうかな」

エトワスは血糊がこびりついている剣の刃を眺めながら言った。

「エトワスが剣で串刺しにしたし俺も銃で撃ちまくったんだけど、死ななくてさ。逃げてったんだ」

フレッドもそう答える。

「!?」

と、二人の背後に視線をやったディートハルトが、急に驚いた様にその表情を変えた。

「?」

二人がその視線の先にあるものを目で追ってみると……

「!?」

巨大な青白い人型の怪物が、地下からの階段を上って来たところだった。それは、先程絶命したはずの片手の先と片目に傷を受けていた魔物かと思ったのだが、よく見ると、血に染まった濃いグレーの服を着ていた。それは、彼らの見知った普通科の制服だった。心なしか、身体のサイズが増している様にも見える。

「おい……」

フレッドが傍らのエトワスに合図を送った。何時の間にか、彼らの背後からも同じ背格好の怪物が現れている。それらは、間違いなく初めに教官やバルサムらを襲った魔物と同型の魔物達だった。

「ハンドガン、あるだろ?」

座っていたディートハルトは立ち上がりながら、剣を構えている二人に尋ねた。

自分の所持していた武器は、長剣もハンドガンもなくしていた。短剣も、バルサムの折れた骨を固定するために使ってしまったので手元にない。

「弾がない」

エトワスが答え、フレッドも首を振った。

「俺のも」

その間にも怪物達はジワジワと近付いてくる。その時、思い出したフレッドが声を上げた。

「あ、ポケットんなか!ジェスがくれたのが。逆、逆!」

ディートハルトは剣を構えたままのフレッドの上着のポケットから弾を取り出すと、ハンドガンも借りて急いで装填した。

「そいつを……よこせ。お前達に、用はない」

血に汚れたボロボロの制服を纏っている傷を負った怪物が、数週間前に聞いたものと同じ台詞を吐いた。その時の物に比べ人間離れした獣の唸り声の様な声だったが、それは言葉だった。

「……」

エトワスは目を細めた。やはり、この化け物はあの時と同じ、ローリーらしい。

『でも、どうしてディートハルトを?』

エトワスがそう尋ねるより先に、ディートハルトは引き金を引いていた。

「喰われてたまるかよ!」

動揺しているのか、珍しく最初の弾は大きく逸れていったが、続けて放たれた2発目はローリーの顔面に当たった。しかし、ディートハルトが発砲した途端、その場に集まっていた複数の青白い化け物の群れが一斉に飛びかかってきた。

「ディートハルト、逃げろ!ここは俺達が防ぐ!」

剣で怪物をなぎ払いながら、エトワスがそう怒鳴った。

「……」

ディートハルトは沈黙してエトワスに視線をやる。

「何してるんだ!狙われてるのはお前なんだぞ!?」

フレッドも言った。

「じゃあ、お前らの方が逃げろよ!」

日頃の自主訓練の成果か、ディートハルトは素手で化け物を相手にしていた。弾倉の弾は尽きたらしい。今もまた、化け物の腹部に強烈な蹴りをお見舞いしながら怒鳴り返している。

「俺達が助けに来た意味が、ないじゃないか!」

フレッドの言葉に、ディートハルトは眉を顰めた。

助けに来た?おれを?どうして?何のために?何の得が?そう、次々と疑問が沸き起こる。そのため、僅かの間だが動きを止めてしまった。その隙を逃さず、ローリーが掴みかかってきた。

「!?」

鮮血が飛び散った。右肩を鋭い爪に切り裂かれてしまったらしい。それを見てローリーを始め、化け物達は歓喜の咆哮を上げた。

「逃げるぞ!」

突然、エトワスがディートハルトの腕を引っ張った。

「三人で逃げれば文句ないだろ?上着を脱げ」

「?」

ディートハルトが戸惑っていると、エトワスは強引に野戦用の制服の上着を脱がせ、それを化け物達の中心に放り投げた。途端に化け物達はその血の付いた上着に群がり、奪い合いを始めた。エトワスに引っ張られて走りながら、その様子を見てディートハルトはぞっとした。

『何なんだ?一体??』

流石にローリーは人間だからか、奪い合いには加わらず、彼ら三人の後を追ってきた。体は巨大だが筋肉が発達しているため、かなりのスピードで追ってくる。三人は全力疾走した。


『マズイな……』

エトワスは走りながら、傍らのディートハルトに目をやった。上着の下は黒いTシャツだったので分かりにくいが、肩の出血が酷い様だ。早く手当をする必要があった。もう走るのも限界のはずだ。服の奪い合いをしていた化け物達も、そろそろ血の持ち主である本体の方を追ってくるに違いない。だんだんと、追ってくる魔物達との距離は縮まっていた。

「エトワス!」

その時、突然前方に仲間が現れた。海岸に戻った他の学生達が応援を連れてきたらしい。数十人の学生と教官達が、彼ら三人の方へ――正確には三人の背後の化け物の方へ銃を構えていた。

「撃て!」

三人が彼らの横を走り抜けると、教官の合図と共に学生達が一斉に射撃する。同時に、教官達が術を使い魔物の群れ目がけて光弾を放った。銃声に混じり複数の大きな爆発音が響く。


 こうして三人は、ようやく足を止めることが出来た。生まれて初めて、これ以上はないという程の全力疾走をした三人は、しばらく無言でその場に座り込んでいた。少し離れたところでは学生達と教官が、追ってきた化け物と戦っている。人数が多く優勢なので、やられる心配はなさそうだった。

「大丈夫か?」

先に口を開いたのはエトワスだった。

「間一髪だったな」

そう言ってにっこり笑うエトワスに、ディートハルトは困惑したような表情をしていた。

「早く海岸に戻らないとな。全部肩の血かと思ったら、あちこち怪我してるじゃないか」

何も言わないディートハルトを気にも留めず、エトワスはディートハルトの手を取った。ベタベタすると思えば、掌からも血が流れていた。さっくりと切れたようになっていたが、自分では気付きもしなかった。肩と掌の傷を調べていたエトワスは、学生達が各自携帯しているポーチから消毒液の小瓶とガーゼと包帯を取り出し、手際よく応急処置をし始めた。

「っ」

ディートハルトは、痛くて思わず顔を顰めた。

「少し我慢してくれ。とりあえず止血しないと」

エトワスが包帯をクルクルと巻く様子を、ディートハルトはやはり無言で、ぼんやりと眺めていた。

「よく走って来れたな……」

フレッドは眉を顰め、そっぽを向く。実は血が苦手だった。

「ここも、切れてるな」

エトワスにそう言って頬に触れられた時、ようやくディートハルトは我に返った。

「っ」

音がする程強くエトワスの手を払ってから、キッと睨み付ける。

「何の真似だ?」

エトワスは唖然としてディートハルトを見た。

「何って何が?」

「何を企んでる?」

「はぁ?別に、何も?」

「言えよ、何が目的だ?」

鋭い視線で睨み付けるディートハルトをまじまじと見ていたエトワスは、ようやくディートハルトの言いたい事を理解した。

「別に、何も企んでないよ。……非道いなあ。心配して来たのに」

何事かと、二人のやりとりを黙ってみていたフレッドは訳が分からず、きょとんとした顔をしている。

「ふざけんな!白々しい嘘ついてんじゃねーよ!」

怒るディートハルトにエトワスは苦笑しながら尋ねる。

「じゃあさ、俺が何企んでると思う訳?」

「……お前と違って、俺は金も権力も無いからな……」

ディートハルトは考え込む。エトワスは、ファセリア帝国の各地方の中でも最大の領地を持つウルセオリナ地方の次期領主で公爵家の令息だ。皇帝に次いで権力も金もある家で、望む物は何でも手に入りそうな恵まれた環境に生まれ育った彼が企むような事が思い浮かばなかった。

「偽善者ぶってテストの点数稼ぎか?」

元々優等生で成績の良い彼が、これ以上点数を稼ぐ必要はなさそうだとは思ったが、他に思いつかなかった。

「……どう考えても、この状況じゃテストは中止だと思うけど……」

「……」

本気で考え込むディートハルトを見て、エトワスは溜息を吐いた。

「何だ、まだそんなところにいたのか?ここは我々に任せて、君たちは早く海岸へ戻るんだ」

と、3人の様子に気付いた教官の一人が大きな声でそう言った。

「……」

ディートハルトは何も言わずに立ち上がると、二人に背を向け歩き出した。


「何だよ?何で、フレイクは怒ってんだ?」

相変わらず全く理解不能といったフレッドが、エトワスに尋ねる。

「俺は助けてくれなんて言ってねーぞ。あと、わざわざ助けに来るなんて、何か裏があるんだろ……ってとこかな」

「はあ……あいつらしいといえば、あいつらしいな……」

フレッドは苦笑した。

「あんな顔してるのに、可愛げがないな~ホントに。”二人とも、助けに来てくれたんだね?ありがとう!”くらい言えばいいのに」

演技たっぷりに、ディートハルトの声色を真似るフレッドの言葉に、今度はエトワスの方が苦笑した。


* * * * * * *


 帰りの船の中、ディートハルトは医務室のベッドの上にぼんやりと座っていた。ベッドに横になっていなければならないほどの容態ではなかったが、他の学生達のいる部屋へ行く気はなかった。人気のないこの部屋の方がずっとましだ。

 あの後すぐに試験は打ち切りになった。島中に潜んでいたらしい例の青白い化け物達が次から次へと溢れ出してきたからだ。エトワス達が教官に『あの化け物は、人を喰う』と、報告したせいもある。

「血の臭いを、敏感に感じ取る性質を持っているようです」

何喰わぬ顔でエトワスはそう告げた。“ディートハルトの”とは言わなかった。その場にいたフレッドも、その事を特に訂正しようとはしなかった。そのような訳で、教官達は、化け物が急に溢れ出し集まってきたのは、惨殺された教官や負傷した学生達の血の臭いを感じ取ってきたのだろう、と納得した。密かに船に忍び込んでいたらしい普通科の学生ウェズリー=ローリーが、何故わざわざこの島までディートハルトを追って来たのか、何故化け物と同じような姿で襲ってきたのか。この事については謎のままだったが、いずれにせよ、今回の試験はこれで終わった。この島へは、改めて正規の軍が送り込まれることになるだろう。もしくは、再び装備を調えて彼ら学生達が行くことになるかもしれない。


「……」

ディートハルトは、何気なく隣のベッドの方へ目をやった。そこにはジェスが連れ帰り、一命を取り留めたバルサムが眠っている。ディートハルト以上に痛々しい包帯姿だった。他人事だが、よく助かったなと思う。

「……」

あまりにも静かなため、もしかして死んでいるのではないかと思い、ディートハルトは側に寄ってみた。

「……ああ、フレイク……。俺、言い忘れてた」

「!?」

突然目を開いたバルサムは、側にいるディートハルトの姿に気付き、ちょっと微笑んで見せた。ディートハルトの方は訝しげな表情で、身を引いている。死んでいるかもしれないと思った相手がいきなり目を開けたのに、少し驚いたらしい。

「……ありがとう。助けてくれて……」

言う事ができてほっとしたのか、そう言うとバルサムはすぐに再び眠りに落ちた。

「…………」

不意を突かれた様子のディートハルトは、かなりの時間その場に立ちつくしていたが、おもむろに踵を返すとゆっくりと医務室を後にした。そして、真っ直ぐに学生達のいる部屋に向かい、ちょっと覗いてみてからそのまま甲板の方へ出た。


「具合はどう?」

甲板で数人の同級生達と話をしていたエトワスが、ディートハルトの姿に気付いて笑いかける。エトワスと共に居た学生達は、ディートハルトの姿を見るとすぐに逃げるようにその場から退散してしまった。

「どうかしたのか?」

近くまで来たものの、何も言わずに視線を逸らしているディートハルトにエトワスは首を傾げた。

「……何で、来たんだ?俺がお前の立場だったら、わざわざ化け物のところに出向いたりしない。自分じゃ無い奴を狙ってるって分かったら、そいつを置いてさっさと逃げる。命令だったら別だけど」

突然の質問にエトワスは目を丸くした。が、小さく笑い、すぐに穏やかな声で問い返す。

「そんな事ないだろ?俺も聞くけど、お前は何でアルの言葉を無視して一人で地下に下りたんだ?バルサムを助けたんだ?」

「それは……地下に下りた奴らが遅すぎるから、見に行こうと思って……。もし下で殺られてたら報告しに戻らなきゃならねーし……。バルサムは、たまたま俺があの化け物を撃てる距離にいたから。もしかしたら助けられるかもしれない状況なのに、自分が何もしなかったせいで、そいつが目の前で殺されるのは気分悪いだろ」

ディートハルトがそう答えると、エトワスはちょっとだけ笑った。

「随分理屈っぽいんだな。ま、いいけど」

「お前はどうなんだ?」

瑠璃色の瞳が挑戦的な光を放つ。

「俺は、単純だよ。助けたかったから。それと、助けられる自信があったから」

その言葉にディートハルトは眉を寄せた。本気で困ったような表情をしている。

「……お前おかしいぜ。いつも、いつも。何でいちいちおれに構うんだ?」

「さっきも言っただろ?別にどうこうしようって気はないよ。……あのさ、ディートハルト。もう少し、俺の事信用してくれていいよ」

「……」

ディートハルトは、探るようにじっとエトワスを見ていた。と、その瑠璃色の瞳を穏やかに見返していたダークブラウンの瞳に笑いが滲む。

「ああ、そうだ。それでも、もしお前が俺を信じられなくて、恩を着せられたって思ってるんなら、借りは返してもらおうかな」

ディートハルトは何も言わなかったが、瑠璃色の瞳には”やっぱりな”という表情が、ありありと浮かんでいた。

「金は無いぞ。……体で払えってことか?」

ディートハルトの言葉に、エトワスは悪戯っぽく笑った。

「まあ、そうだな」

ディートハルトは軽く頷いて先を促した。

「明日から休みだろ。今年はうちに帰るつもりなんだ。今、決めたんだけど。もし、予定がなければ一緒に来てほしいんだ」

エトワスの実家は、ウルセオリナ地方の領主の家だ。という事は、傭兵のような仕事をさせるつもりなのかもしれない。他の学生達の中にも休み中その手のバイトをしている者は少なくない。しかし、そう考えるディートハルトの予想は大きく外れていた。

「一つ下の妹がいるんだけどさ、俺達と同じ騎士科に。その妹が、休みに帰省する度に狂ったように祖母と一緒になって料理をしまくるんだよ。作るのは主にお菓子なんだけどね。俺、甘いものが苦手でさ。お前は平気そうだよな?しょっちゅうチョコレート食ってるもんな」

ディートハルトは、エトワスの言葉をぽかんとした顔で聞いている。あまりにも予期しなかったところから話がきたので、脳がついていけないらしい。

「そういえば、今年は友達も連れてくって言ってたから、さらに地獄になりそうだな……。で、出来た料理を食べて、ついでに感想を述べてくれればいいんだけど?あ、味は保証するよ」

「…………試食しろって、事か?」

「そう。いくらなんでも一日中作ってる訳じゃないから、後は自由にしていいよ。ウルセオリナも帝都に負けないくらい色んなものがあるし、この時期は町で色んなイベントもやってると思うから、退屈はしないと思うけど」

相変わらず、ぼんやりしたままのディートハルトを見てエトワスは苦笑した。

「何か、こんな言い方じゃ卑怯だったかな。……半分は俺をスイーツの試食地獄から救ってくれって事なんだけど、もう半分は、休み中俺のうちに遊びに来ないか?って誘ってるんだ」

他人に、『遊びに来い』と言われたのは初めてだったため、最初何を言われたのか分からなかった。

「乗り気じゃ無かったら、無理にとは言わないけど?」

ダークブラウンの瞳が、じっと自分を見ていた。答えを待っているのが分かる。酷く嬉しい気持ちが半分、戸惑いの気持ちと、信じるなという警戒の声もあった。

「……」

俺の事信用してくれていいよ――先程のエトワスの台詞がふと頭に浮かんで、消えた。

「……行く」

口をついで出た言葉に、ディートハルトは我ながら驚いた。エトワスの方はそれを聞いて嬉しそうに笑う。

「おれ……」

おれが、行ってもいいのか?思わずそう言い掛けたが、ディートハルトは口には出さず言葉を飲み込んだ。

「帰るとこねーし、それで借りが返せるんだったら……」

慌てて言い訳のような言葉を付け加えた。

「じゃ、決まりだな。早速だけど、明日の朝一で出発しよう」

エトワスはディートハルトの背中をポンポンと叩きながら言った。肩の傷に響いて痛かった。

「もう少しで港に着くな。中に入ろうか?」

エトワスに促され、ディートハルトも無言のまま船室へ向かう。


途中の通路で、フレッドと二人の学生が世間話をしていた。

「フレッド……」

すれ違いざま、思いがけずディートハルトが足を止めたため、学生達の会話がぴたりと止んだ。フレッドを始め二人の学生は、ディートハルトが何を言い出すのかと緊張した面もちで彼に視線を注いでいる。

「……」

そんな彼らの様子に気まずくなったのか、ディートハルトは躊躇した様子だったが、やがて決心したように口を開いた。

「……助けてくれて、ありがとう」

「!?」

三人は、愕然とした。文字通り、開いた口がふさがらないといった状態だった。ディートハルトは照れた様子でうつむき、僅かに頬を染めていた。

「……さっき……言ってなかったから……」

そして、ぼそぼそとそう付け加えると、逃げるように背を向けた。

「おい……」

一人が恐る恐る口を開いた。

「あいつ、『ありがとう』って言ったよな??」

三人は顔を見合わせ、何度も頷く。

「なーんか、あいつに言われるとすっげー嬉しいな♪」

フレッドが、本気で嬉しそうにそう言った。

「よし、言いふらしに行こう!」

三人は、ばたばたと駆け出した。

「なんか、もの凄く喜んでるな」

船室に入り、一番後ろの隅の席にディートハルトと並んで座ったエトワスが笑う。

「で、俺には?」

悪戯っぽい笑みを含んだ視線を向けられ、ディートハルトは、やはり頬を染めたまま憮然として言った。

「ああ、感謝してる」

「何か、言い方堅いなぁ」

「何だよ、もう言わねーぞ!」

ディートハルトはプイと横を向いてしまった。その様子に、エトワスはクスクスと笑った。



「想定外の魔物が出て三人負傷者が出たって教官が言ってたけど、まさかその一人はディー君だったの?」

船室の隅に並んで座るエトワスとディートハルトを見付けた翠が、少し驚いた様に声を掛けて来た。

「負傷者は三人?って聞いたのか?」

逆にエトワスに聞き返され、翠が「あれ?」という顔をする。

「ああ。先生はそう言ってたよ。最初のグループ二人と教官の負傷者が出たって。違うの?」

「じゃあ、行方不明の教官は見付かったのか……」

ディートハルトがポツリと言う。エトワス達2班は、教官のネームプレートと共に体の一部を目にしているが、ディートハルトは死体を確認した訳ではない。

「だけど、船に乗って医務室で治療を受けたのは、おれとバルサムだけだった」

少し首を傾げてディートハルトが言うと、エトワスと翠は無言で顔を見合わせる。

「あー、じゃあ、これは、あんま深く追求しちゃいけない話なのかもね」

翠はそう言うと、「1個ズレてよ」と、席を一つ空けてくれるよう要求し、エトワスとディートハルトが横に一つ席を移動すると、一番端の通路側のエトワスの隣の席に座った。

「いや、だけど。まさか試験が中止になるとは思わなかったな。おかげで、明日から春休みだ。オレは、北ファセリアのじいちゃんばあちゃん家に帰るつもりだけど、二人も帰るの?」

「俺も帰る。ディートハルトに、うちに遊びに来て貰おうと思ってるんだ。翠も誘うつもりだったんだけど、北ファセリアに帰るのか?」

エトワスは残念そうに言った。

「こないだ手紙が届いてさ、春休みはどうすんのかって書いてあったから。返事は出してないんだけど、帰ってびっくりさせてやるのもいいかなって」

「そうか。ご家族にとって嬉しいサプライズになるかもな。……それじゃあ、ディートハルトは覚悟しなきゃな。休み明けには体重倍増だろうから」

エトワスがそう言って笑いかけると、ディートハルトは僅かに眉を寄せた。

「体重倍増って?」

不思議そうな顔をする翠に、エトワスは事情を説明した。しかし、今度は手料理の試食という言葉は敢え使っていない。代わりに、一歳下の妹と同級生の女子学生二人も遊びに来るはずだという件を強調する。

「ふ~ん。フュリーちゃんとそのお友達二人ね……。そのコ達、可愛い?」

予想通りの反応が返ってきた、とばかりにエトワスは笑った。

「ああ」

翠は黙って考え込んだ。ファセリア帝国学院に入学する前の学校でも学生寮で翠はエトワスのルームメイトだったので、夏休み中にウルセオリナに遊びに行った事はある。そのため、エトワスの妹のフェリシアとは面識があった。

『フュリーちゃんと仲がいい友達ということは、二人とも貴族のお嬢様かな。別に容姿にこだわるタイプじゃないけど……』

それでも、正直気にはなる。元々、騎士科には女生徒は少数しかいないからだ。そして、その少数の女生徒たちのほとんどは既に交際相手がいて、いない者達は恋愛または男に興味が無いのか、これまでにアプローチした男子生徒達には誰にも応えていない。

「んじゃ、やっぱオレもおじゃまさせてもらおうかな」

翠の言葉に、エトワスは今度はニコリと笑った。

「ああ、歓迎するよ」

ディートハルトは、その様子をぼんやりと眺めていた。何だか、夢を見ているようだった。幼い頃から憧れていて、手に入れることの出来なかったものをやっと掴んだような、不思議な気持ちがした。もの凄く楽しくて嬉しい反面、すぐに失ってしまいそうな不安や恐れもある。これは夢で、夢が覚めたら自分に向けられるのは、今まで通りの嫌悪や憎悪といった負の感情ばかりなのかもしれない。もしかしたら、やっぱり俺は騙されてるのかもしれない……。幼い頃に植えつけられてしまった意識が警鐘を鳴らし始める。


 利用しようとしているだけなのかも。信じたらいけない……!


「どうした?気分でも悪いのか?……怪我が痛むのか?」

表情を強張らせているディートハルトを心配し、ディートハルトの瞳を覗き込むようにして、エトワスが尋ねた。ダークブラウンの瞳は真っ直ぐにディートハルトを見ている。

「結構深い傷だったからな。痕は残らないって話だったけど。薬は?鎮痛剤は貰ったのか?」

エトワスの問いに、ディートハルトは首を振った。

『……違うんだ。そうじゃなくて……』

ダークブラウンの瞳に見られていると、何だか妙に哀しくなってきた。まっすぐ見返すことができない。

『……おれはもう少し、お前のこと信用しなきゃな……』

「貰ってないのか?寮に買い置きは無かったよな。帝都に着くのは遅い時間になるだろうから薬局も空いてないだろうし……。もうすぐ港に着くから、その前に一緒に医師(せんせい)のところに行って分けて貰えないか相談してみよう」

そう言うエトワスに、ディートハルトはぎこちなく笑ってみせた。

「うん、悪いな……」

エトワスも、にっこりと笑い返す。

「じゃ、行こうか」


 船が港に着いたのは、予定していた試験終了時刻より大分早い時刻だった。おかげで、まだ日は高い。本来は、今夜は島で野営となり、翌日の二日目の試験終了後、船で島から戻るはずだった。その後は、学院が予め用意していた馬車を利用し帝都に戻る事となる。予定変更の報せを受けて続々と集まって来た馬車が並ぶ港の隅に向かい、エトワスたちと並んで歩きながら、ディートハルトはふと頭上を見上げた。

「……」


そこには、彼がよく見る夢と同じ、青い空が広がっていた。


読んでくださってありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ