都合のいいオンナ
「わぁ、見て! 蜘蛛の巣に蜘蛛がいるよ」
当たり前のことを珍しそうに知らせてくる優良を馬鹿にするような目で見ると、佳祐はすぐに優しい笑顔を貼りつけた。
「そうだね。……あーあ、こんなところに巣を張りやがって」
佳祐のアパートの部屋は2階だ。ドアの横に設置されたボイラーの配管にゆったりとした巣が張られ、その中心におおきな茶色い蜘蛛がじっとしている。
「中に入って、箒を取ってこよう」
佳祐が言うと、優良は抗議するような表情になる。
「もしかして巣を壊すつもり? かわいそうだよ」
「優しいな、ユウラは」
内心では小馬鹿にしながらも、佳祐は微笑んだ。
「蜘蛛にまで優しいんだな。誰にでも優しいのか?」
「ううん。好きなの、蜘蛛、あたし」
そう言うと優良はしゃがみ込む。ちょうど床の上に中ぐらいの大きさの赤っぽい蛾がじっとしていた。
優良が蛾を素手で掴むと、佳祐が顔を歪めた。
「げ……! 素手で掴んだ……! 何するつもり?」
「エサだよ」
笑顔で優良が、蛾を蜘蛛の巣にくっつけた。
羽根をばたばたさせて暴れる蛾に向かって、すぐに蜘蛛は駆けつけると、尻から糸を出してくるくると巻きはじめる。
「あはは! よかったねー、蜘蛛さん」
あっという間に白い繭のようになった蛾を見ながら、優良は嬉しそうに笑った。初めて見る彼女のそんな一面に、佳祐は少し気持ちが醒めた。
じつは会うたびに少しずつ醒めていた。
しかし別れるつもりはない。
優良は都合のいいオンナだった。
・゜・。・゜・。・゜・。
「あれぇ? ちょっと散らかっちゃったね?」
部屋に入るなり、優良は言った。
佳祐がこの部屋に優良を連れて来たのは三回目だった。
元々男らしく散らかっていた部屋を、最初は全力で綺麗にして迎えた。
二回目は少しだけ手抜きになった。
三回目ともなるとだいぶん散らかしたままになった。
「ごめん。本当は俺、片付けとか苦手なんだ。……コーヒー淹れるよ、座って?」
「ふふ……。男のひとだからね、しょうがないよ」
優良はそう言って微笑むと、ソファーには座らずに腕まくりをした。
「ちょっとあたしが片付けてあげよう」
「いいよ、いいよ。こんな時間だし……。ドタバタ音立てたら下の部屋のひとに迷惑だよ」
「掃除機とかは無理だけど、洗い物とかはできるじゃん。床に散らかしてるものはあたしが弄ると嫌だろうから、後で自分で片付けておくこと!」
「いいって。それより……」
佳祐が後ろから優良を抱きしめる。
「したいんだ。早く、したい」
「だめ、だめ。へんなことしちゃったら、片付けする余力が……」
「残さなくていいよ」
佳祐が後ろから優良の髪をかき上げ、耳を噛んだ。
「残させない」
「あんっ……。もぉっ」
優良の身体から力が抜けていく。
「佳祐ったら……こればっ……」
言葉も抜け落ちていった。
・゜・。・゜・。・゜・。
「あたし……。一番欲しいものを手に入れちゃった」
佳祐の腕枕にキスをしながら、優良が言う。
「佳祐があたしの一番欲しかったものなの」
佳祐は何も答えずに煙草の煙をくゆらせた。
目は天井を見つめながら、早く一人になりたいような顔をしている。
優良が聞く。
「何考えてるの?」
佳祐は優しい笑顔を貼りつけ、答える。
「疲れただけだよ。聞いたことない? 男にとってセックスって、400メートルを全力疾走したぐらいの重労働なんだぜ」
「そっか……」
優良が腕枕の中でうなずく。
「男のひとって大変だよね。女は喜んでるだけでいいけど……」
「気持ちよかった?」
「うん!」
「ところで優良──」
佳祐は煙草をもみ消すと、真剣な顔で振り向いた。
「俺──じつは、借金があるんだ」
「え……。いくら?」
「100万円ほど。パチンコで作っちゃってさ──。優良さ、貯金が600万円あるって言ってたろ? そん中からちょっと都合してくんないかな」
「うん、いいよ」
「必ず返すからそこをなんとか──って、本当に?」
「だって佳祐、困ってるんでしょ? なんとかしてあげたい」
「ありがとう!」
佳祐は優良の手を握ると、そこに激しく何度も口づけた。
「恩に着るよ! 必ず返すから!」
「いいよ。佳祐にあげる」
優良が微笑む。
「その代わり……浮気は絶対にしないでね? それだけはあたし、絶対に許さないから」
「もちろんだよ! 俺は一途だよ! ユウラ一筋だよ!」
「愛してる?」
「愛してるよ」
「……嬉しい」
優良が佳祐にキスをした。
「佳祐はあたしのものなんだからね。忘れないでね」
抱きついた優良の胸のやわらかさが、佳祐を再びムラムラさせる。
「ユウラ……。もう一回、いい?」
「ふふ……。400メートル全力疾走するの?」
「したい!」
「へんなのー! あれほど疲れてたのに……。あんっ」
・゜・。・゜・。・゜・。
優良とはコンビニの深夜バイトを始めてすぐに知り合った。
毎夜、客の少ない時間に彼女は買い物をしにやって来た。二つ年上の、スーツ姿の社会人だった。
担当の客を横取りしてホストクラブをクビになったばかりだった佳祐は、容姿も話術も彼女を夢中にさせた。二つ年下の大学生という、自由な存在感が、優良の目にはキラキラとして見えたようだった。
優良と付き合いはじめてから佳祐は深夜バイトを辞めていた。彼女に面倒を見てもらいながら、昼は大学へ行き、夜はホテルで過ごす。
昼間の講義のない時間は自由だった。
パチンコを打ちに行く以外、佳祐は大抵女の子と遊んでいた。大学にはセフレがいっぱいいる。優良からもらったお小遣いもたくさんあった。パチンコで大勝した日には三人ぐらいホテルに連れ込んだ。
「けいすけー。社会人のお姉さんと付き合ってるんでしょ?」
腕の中でねこのようにゴロゴロとしながら、背の低いツインテールの女の子が聞いた。
「いいの? あたしたちとこんなことして遊んでて? そのひとのこと本気なんでしょ?」
「あー……」
400メートルを3回全力疾走したような表情で、佳祐は答えた。
「アレなー……。べつに本命とかいうわけじゃないんだけど……。何しろカネくれるからなー……。だから本気で付き合ってるふりしてるだけ」
「騙してんの? サイテーな野郎だね」
青い髪のボーイッシュな女の子が笑う。
「バレなきゃいーんだよ。何より俺、自分と同い年でかわいいオマエらのほうがいい」
佳祐は青髪の娘を抱き寄せ、キスをした。
「でも……気をつけな?」
大柄な、長い髪の女の子が心配するように言った。
「女は魔物だよ。食われないようにね」
佳祐は笑い飛ばした。
「いや、ちょれぇから大丈夫。妻にするにはいいオンナだよ。何にも気づかずにひたすらに尽くしてくれるようなヤツ。アイツと結婚したら俺、幸せになれそうな気がする」
ホテルの部屋に四人の爆笑する声が充満した。
・゜・。・゜・。・゜・。
三人のセフレと別れ、車でアパートへ向かいながら、佳祐は考えた。
『そうだよなぁ……。あんまり関係が深くなっちまわないうちに、優良とは別れたほうがいいな。めんどくせーことにならないうちに……』
借金返済に充てる100万円はまだ受け取っていなかった。今日、持って来てもらう約束になっている。
『金を受け取ったら……なんだかんだ理由を押しつけて、別れるか──』
時間は夕方の4時。あと2時間もすれば優良がやって来るだろう。
駐車場に車を停めると、佳祐は手ぶらで階段を昇った。
腹が減っていた。優良が何か食べ物を持って来てくれるだろうことを期待した。それを食べて、セックスしたら別れようと決めた。
ドアに鍵を差し込むと、既に開いていた。
『……あれ? 俺、鍵かけ忘れてた?』
中に入ると、奥から笑顔で優良が迎えに出てきた。佳祐は驚いて優良に聞く。
「合鍵……渡してないよな? どうやって入った?」
優良が粘っこい笑顔を浮かべて答える。
「おかえりなさい。だってあなたはあたしのものだもの。鍵だってあたしのものよ」
わけがわからなかった。
勝手に合鍵を作られているとしか思えなかった。
しかし場を険悪なものにはできない。金を受け取るまでは──
笑顔を貼りつけ、靴を脱いで上がると、佳祐は聞いた。
「お金──持ってきてくれた?」
「こっちへ来て」
優良が勝ち誇ったような笑顔で招く。
その笑顔に佳祐は嫌な予感がした。
セフレたちと会っていたことがバレてるのでは? と不安になった。
しかしすぐに思い直した。バレているわけはない。優良は会社にいて、仕事をしていたはずだ。知られるわけがない。
「でも……早かったね? 仕事、早く終わったの?」
「ずっと待ってたの」
優良が佳祐を愛おしく見つめた。
「ずっとここにいて、あなたが来るのを待っていたのよ」
8個の目が、それぞれに佳祐の姿を映す。
佳祐の身体が硬直する。優良の姿が目の前でどんどん変わりはじめる。腕が二本、後から生え、足も四本になった。その後ろにはいつの間にか巨大な蜘蛛の巣が張られており、優良は浮き上がるように、その中心に身を構えた。
「こっちへ来て、佳祐」
牙を剥いてそう促す優良のほうへ、佳祐はゆっくりと、操られるように歩き出した。借金に充てる100万円をもらうために──
佳祐が自分から蜘蛛の巣にかかりに行くと、優良は八本の足を動かして駆け寄った。尻から粘っこい糸を出し、彼をくるくると巻きはじめる。
すっかり繭のようになった佳祐を抱きしめると、優良は尖った唇でキスをした。彼の口の中へ差し込み、チュウチュウと何かを吸い出しはじめる。
「あたしのこと……都合のいいオンナだって思ってたでしょう?」
ほくそ笑みながら、赤ちゃんを抱くようにして、物も言わなくなった佳祐に、優良は言い聞かせた。
「でも、女は誰でも魔物なのよ? 気をつけなさい」