20話 愚者と怒り
─side シロ─
転移した先には、崩れかかった廃ビルがあった。
裏界は建物が出来ては壊される。瓦礫まみれだがまだ形が残っている方だろう。
書き込みによれば、近くに地下室に通じる梯子があり、その先の扉に彩月がいるとか。
きょろきょろと辺りを見回すと、地面に不自然な凹みがあった。そこに霊力を流すと、地面に扉のような物ができる。
その扉を開けると、書き込みにあったように梯子が下に続いていた。
「……うっわぁ…」
思わずそんな声を出してしまう。常人には耐えられないほどの瘴気が充満しているのだ。
ボクには全く効かないけれど、なんとなく嫌だなあ、とは思う。まあそんなこと言っていられる状況ではないため、諦めて梯子を降り始める。
とんとん、という規則的な音が響き、暗さも相まって、かなり不気味な雰囲気を漂わせる。
下に向かえば向かうほど瘴気の濃度は高まっていき、目的地の異常さがはっきりと伝わってきて、焦燥感が湧き出てくる。
美波ちゃんがいくら『神殺し』と言われようが、人間であることに違いはない。耐性を持っていたって、これほどの瘴気に充てられて平気な訳がない。
「………っああもう!」
柄にもなく焦った自分の声が木霊する。
ぱっ、と梯子から手を離し、飛び降りる。
こんなことで悩むなんてボクらしくない!ボクはやりたいようにやる。後悔なんてあとですればいい。
下に何があるかわからないからゆっくり降りる、なんてしてたら美波ちゃんが取り返しのつかないことになるかもしれない。
数秒経った後、石造りの地面が見えてくる。
地面に激突する前に霊術でふわりと浮き、勢いを殺してから霊術を解く。
前を向くと、重厚な鉄扉が目に入る。とても重々しくて、如何にも何かありそうだ。
両手を伸ばし、扉に触れる。
「すぅ…はぁ………よし」
深呼吸をして、力いっぱい扉を押す。
ギギギ──
見た目は綺麗なのに、まるで錆びているような音が響く。おそらく、瘴気のせいで中身が傷んでいるのだろう。見た目に影響がなくとも、正気に触れれば物体自体は腐敗する。しかしあくまで『濃度の高い瘴気』の場合だ。
ある程度扉が開いた後、目に飛び込んできたのは微かな灯り。橙色の小さな光は、ふたつのヒトガタを照らしている。
ひとつは美波ちゃん。眠っているのか、瞼を固く閉ざしていて、その表情は苦しげだった。
もうひとつは、彩月。写真で見た顔と全く同じだった。青色の軍服を身に纏った、小学生ぐらいの女の子。
ボクが入ってきたのに気づいていないのか、彩月の声が呪詛のように聞こえてくる。
「違う違う違うこんなはずじゃないのになんでこんなことにどうしてどこで間違ったの術は完璧だったのになんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで!!!!」
随分と錯乱した声。表情にも焦りが滲みでている。
彩月が声を出す度に瘴気は濃く重くなっていき、瘴気の主は彩月だと、嫌でもわかってしまう。
彩月は美波ちゃんを抱きかかえており、美波ちゃんは荒い呼吸をしていた。彩月はそれに気がついていない。
このままだと美波ちゃんが死んでしまう。
「愚かだね」
そう口を零し、彩月が反応する前に転移を発動する。転移先はこの地下室の真上の地上だ。
「な…!?」
彩月はいきなりのことで頭が混乱している。ボクにさえ気がついていない。
呆けている彩月の傍に転移し、彩月の腕に抱かれている美波ちゃんの腕を少し乱暴に引っ張る。
そしてさっきまでいたところにもう一度転移し、霊力で体を強化して美波ちゃんを横抱きにする。
じっ、と美波ちゃんをよく視ると、妙な術を掛けられていることに気がついた。
「美波を返せ!!」
彩月がそう吠える。しかし、何故か立てないようで、地面に座り込んだままだ。
「悪いけどそれはできないかな。それよりも、美波ちゃんにどんな術を掛けたかを教えてくれないかい?」
「誰が教えるか!」
「………はあ」
溜め息ひとつ。無駄な会話をしつつ、美波ちゃんに染み込んでしまった瘴気を浄化していく。どうやらある程度の耐性はあるようだが、高濃度の瘴気の中に何時間もいたのだ。耐性があろうとも無事では済まない。むしろこの程度で済んだだけマシな方だろう。
美波ちゃんは起きない。無理矢理昏倒させられている?わからない。こんな術は見たことも聞いたこともない。
兎に角時間を稼がないと。今転移しても、問題の先延ばしにしかならない。ボクが浄化をしている限り美波ちゃんは死なない。
美波ちゃんだけでも避難させたいけど、また拐われるかもしれない。今の美波ちゃんは完全に無防備。この状態が一番安全なのだ。
「言っておくけれど、ボクがキミの要望を叶えることはない。そもそも美波ちゃんはキミのものじゃないからね。というか、自分の立場もわかっていないのかい?キミは美波ちゃんを苦しめていた立場なんだよ」
「!違う!美波を傷つけてなんか…!」
やっぱりだ。瘴気を発していたことに気付いていない。美波ちゃんの表情にすら、気付こうとしなかった。
ああ、ボクは今、柄にもなく怒ってしまっている。
「傷付けているだろう。キミは瘴気を発していた。幾ら美波ちゃんが人間離れしていても、その本質は人間だ。美波ちゃんを大切だと言うのなら、そのぐらい気付くだろう?いや、気付くべきだ」
「それに、封印される前の美波ちゃんを苦しめていたのは、美波ちゃんの仲間…つまりキミたちだ」
レイや彩月の言い方からすると、彩月は美波ちゃんの昔の仲間だろう。
美波ちゃんにとっては紛れもない『仲間』なのだろうけれど、話を聞く限り、その仲間たち自身が『仲間』であることを拒んでいたように思えて仕方がない。自分たちは美波ちゃんの信者なのだと、『仲間』だなんて烏滸がましいと、そんなことを思っているように感じた。
そしてどうしようもなく歪んでいる、美波ちゃんへの『愛』が、それぞれの心の奥底にある。それが、美波ちゃんを傷付けた要因の一端だ。
そんなこと、考えればわかるはずなのに。わかっていたはずなのに。それなのに変わろうとしなかったこいつらに、ボクは怒っている。本当に、愚かだ。
「それにさ。美波ちゃんは自分が泣けないと思っているけれど、全く違うんだよ」
美波ちゃんは泣けない訳じゃない。
「美波ちゃんは、泣いていることに気付かないんだ」
確かに美波ちゃんは殆ど泣かない。でも神殺会合の朝、美波ちゃんは泣いていた。悪夢を見て、泣いていた。
その直後、寝ぼけていたことの羞恥心で涙を浮かべていた。
美波ちゃんはきちんと泣けるんだ。
「泣いていることに気付かないなんて、本当ならあり得ない。感覚や視界のぼやけでわかるからね」
なら何故気付かなかったのか。何故、『泣いた記憶がない』なんて言ったのか。理由は案外簡単だ。
「誰にも教えられなかったからだ。あれが涙だと、教わらなかった。知らないままここまで来てしまったんだ。…きっと、泣くことが日常になってしまったせいで、『普通』のことだと自己完結してしまったんじゃないかな」
彩月は、静かに目を見開いた。
今のボクの顔は、今までにないほど冷ややかなものだろう。
「美波ちゃんの詳しい過去は知らない。一体何があってここまでの狂気を溜め込んでいるのかなんて想像もできない。どうすればいいのか、正解なんてわからない。けれど、少なくともキミたちのやり方は間違っている。キミたちはよく話し合い、理解することが必要だった。無理矢理にでも美波ちゃんの思いを聞き出すべきだったんだよ」
「けれど、それができる段階はとっくに過ぎ去った。今は待つしかない。美波ちゃんに心の余裕ができて、張り詰めすぎて絡まった糸が緩んで解けた時に、美波ちゃんから話してくれるだろう」
「だから、キミたちは引っ込んでてくれるかい?」
ぎゅ、と美波ちゃんを抱える手にほんの少しだけ力が入る。
ボクは美波ちゃんに対して、そこまで強い執着心を抱いていない。この世界に存在するものはとある理由により執着心やら仄暗い感情を抱きやすい。だがボクは違う。ボクは執着心をあまり抱かない。
しかし、それでも美波ちゃんを大切だと思っている。
「うるさい!!わたしだってそんなやつに振り回されたくなんかなかった!」
彩月は涙を浮かべながら、そう叫んだ。
その目には嘘なんてなくて、憎悪を込めた瞳で、美波ちゃんを睨んでいた。
「その女を求めているのは『セツナ』であってわたしじゃない!」