氷上ワカサギ釣りとひもかわうどん
挿絵の画像を作成する際には、「AIイラストくん」を使用させて頂きました。
大学の試験が終わって春休みに入った二月中旬、俺は群馬県の湖上に釣り糸を垂らしてワカサギを待っていた。
ワカサギ釣り自体は俺の住んでいる近畿地方でも出来るけれど、本式に氷上でやるとしたら関東甲信越以北へ行かなければならないのが厄介な所だ。
だが、テントで暖を取りながら氷に空けた穴へ釣り糸を垂らして釣果を待つというのは、いかにも「冬の釣り」という風情がある。
釣り好きならば一度は試してみたい、憧れのシチュエーションだ。
とはいえ、この日は釣果が今一つで釣り糸はピクリとも反応しなかったんだ。
確かに釣りは待ち時間を楽しむ趣味だが、流石に全く釣れないままで徒に時間が過ぎていくのでは張り合いがない。
「駄目か、釣れないな…」
ふやけた餌を新しい物に取り替えたものの、俺は殆ど期待していなかった。
「いっその事、場所を変えようか。新しく穴を空けるのは面倒だけど。」
深い溜め息をつけば、真っ白い気霜が視界一杯に広がって一層に侘びしくなってくる。
そんな具合に寒さと退屈で気怠くなってきた頃、ようやく俺の垂らした釣り糸がピクピクと動き始めたんだ。
「おっ、なかなか引きが強いな!もしかして入れ食いか?」
逸る心を抑えながらリールを巻き上げ、釣果を慎重に手繰り寄せる。
「げっ?!」
そして次の瞬間、俺はあまりの事に思わずたじろいでしまったんだ。
凍った湖上の上で跳ねる、何匹ものワカサギ達。
それは正しく、俺の望んだ入れ食い状態だった。
ワカサギ達が食い付いていた餌に目を瞑ればの話だったが。
俺が釣り針に付けた虫餌なら、どんなに良かっただろう。
「たっ…大変だ!指が…人間の指が!」
腰を抜かした姿勢でへたり込んだ俺には、そう叫ぶのが精一杯だった。
釣り糸に絡まっていたのは、ワカサギ達に啄まれて半ばボロボロになった人間の手の指なのだから…
当然ながら、ワカサギ釣りどころではなくなってしまった。
通報で駆け付けた地元警察によって湖は封鎖されるし、第一発見者である俺も事情聴取を受ける羽目になったのだから。
とはいえ発見されたのが指だけという事もあり、現状では事件か事故かも判断しかねるようだ。
いずれにせよ、湖底を漁って残りの死体が回収出来れば、身元を始めとする色々な事が判明するだろう。
事情聴取から解放された俺は、何とも後味の悪い思いを抱えながら帰路に着いたんだ。
そうして下宿先の賃貸マンションに帰り着いた俺を待っていたのは、あの嫌な思い出を払拭するかのような素敵な出会いだった。
「はじめまして、緒形陰華と申します。この度、こちらへ引っ越してきました。」
長らく空いていた奥の部屋に入居したという年若い看護士は、俺好みの美人だった。
ポニーテールで露わになったうなじは白くて美しいし、落ち着いた雰囲気もたまらない。
そして何より白い歯の目立つ快活な笑顔は、正しく白衣の天使に相応しい物だったよ。
「これ、引っ越し蕎麦です。御口に合えば良いのですが…」
「アハハ…いやぁ、これはどうも。」
上州蕎麦の詰め合わせを受け取った俺は、終始デレデレしている有り様だった。
今にして思えば、この時にもう少しだけ注意深くしていても良かったんだろうな…
看護士としてのシフトの都合か、緒形さんを見かける事は然程多くはなかった。
だけど好みの美人が御近所に住んでいて、顔を合わせれば気さくに世間話に応じてくれるのだから、俺としては満足だった。
そんな或る日、緒形さんの方から俺の事を訪ねてくれたんだ。
「今日はシフトが御休みでしてね。もしも夕食がまだでしたら、ご一緒しませんか?」
浮いた話の殆ど無かった俺にとって、またとない幸運だった。
快活な笑顔を浮かべる緒形さんを、俺は快く出迎えたんだ。
「今日は寒いですからね…ひもかわうどんを御馳走しますよ。」
そうしていそいそとキッチンに消えていく緒形さんの背中を見送りながら、俺は妙な事を思い出したのだ。
−そう言えば緒形さん、引っ越しの挨拶に上州蕎麦をくれたっけ。ひもかわうどんも上州蕎麦も、群馬県の名物だったよなぁ…
群馬県と聞くと、あのワカサギ釣りの日の事を思い出してしまう。
その後、何らかの進展があったのだろうか。
好奇心に駆られた俺は、退屈凌ぎにスマホで検索してみたんだ。
「へぇ、『湖底から発見された死体の身元判明。』ねぇ…それで肝心の身元は?えっ、緒形陰華!?」
見知った名前を見つけて面食らった俺は、ページをスクロールさせた瞬間に激しい後悔に襲われた。
ニュースサイトの記事に掲載されていた写真は、ひもかわうどんをキッチンで作っているはずの看護士と全く同じ顔をしていたんだ…
「入水する時に遺書も置いといたんですけどね。でも、風に吹き散らかされたのか無くなっちゃったんですよ。」
ひもかわうどんの丼を運んできた緒形さんは、普段と変わらない快活な笑顔を浮かべていた。
だが、今の俺には妙に恐ろしくて薄気味悪く感じられたんだ。
「こうして見つけてくれて感謝しますよ。凍り付いた冬の湖底で忘れられていくのって、本当に寂しいですから。このひもかわうどんは、その御礼です。」
湯気の立つ温かいひもかわうどんの丼が置かれたが、俺の頭は真っ白になってしまって何も考えられなかった。
ハッキリしているのは、このひもかわうどんを食べないとタダでは済まないという事だろうな…