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(9)モントルイユの春「大丈夫。おいで」

( 9 )


 朝早くに宮殿を出発し、朝市で賑わう目抜き通りを通り過ぎ、凱旋門を抜けた。

 モントルイユまでは、馬車で二刻(約四時間)の距離だ。目的地はモントルイユの孤児院で、昼食の支度前には到着する予定である。

 春の空は澄み渡り、馬上で感じる風は柔らかい。二頭の馬首を並べ、広大な野原をゆるやかに駆ける。

 野原には李、辛夷(コブシ)、菫といった春の花々が咲き乱れ、エレーヌの心をときめかせた。アレスも機嫌がよく、ユディトも満更ではないといった様子だ。


「残念だな。急ぐのでなけれでば、ここで昼食を取ったのに」


 と、マクシムが惜しむようにいうので、エレーヌは微笑んだ。


「食料を載せていますから。子どもたちがよろこびますわ」


 と返し、エレーヌは後方の荷馬車を振り返った。今日は綿と糸に加えて、パンや野菜を運んでいるのだ。馭者台にはマノンとマクシムの従者であるクルトが並んで座っている。マノンの顔が引き攣っているのは、荷台の【野菜】が原因か、それとも。


「ランバル嬢とクルトも、顔見知りだったなんてね」

「今朝のマノンの顔ったら」


 なんと、クルトが馬車を直してマノンに告白した青年だったのである。

 先ほど顔を合わせたとき、マノンの耳が真っ赤だったのを思い出してエレーヌは口元をほこらばせた。

 クルトは手綱を握りながら、熱心にマノンに話しかけていた。しかし、マノンは冷たく突き放すような言葉を返している。けれど、険悪といった雰囲気は伝わってこない。その証拠に、マノンの耳は真っ赤だ。エレーヌは小さく微笑んで手綱を取り直した。


 春の野原を抜け、緑さざめく森を過ぎ、見晴らしの良い丘に登る。眼下にはミシェル川が優美に蛇行している。エレーヌはミシェル川にかかった桟橋の向こうの町を指差した。


「昔、荒地だった場所にファンデールの王女が自身の為に修道院を建立しました。それが、小さな修道院(モントルイユ)の町の始まりだと言われています」


 当時の国王の肝煎りで建てられた修道院は大きく、王女の希望で国中の本が集められた。その蔵書を求め、周囲に小さな僧院が建ち、学芸都市として栄えたという。


「百年前、王女がレース編みをこの地に伝えてからはレース産業が盛んになり、職人やその家族が引っ越してきて、今の町になったと聞いています」


 エレーヌの説明に耳を傾けていたマクシムがぽんと手を打った。


「そうだ、モントルイユ・レース。どこかで聞いたことがあると思った。二番目の姉がよく『ヴェールはモントルイユ・レースでなければ駄目』といっていたんだ」

「まあ、イシュルバートの大公女さまにも気に入って頂けているのですね。お針子たちが聞いたら喜びます」


 この一帯は土地が痩せていて、作物の収穫量が少ないのだ。レースを売って得た収入で、他の地域から食糧を買っている。


「わたしは十歳までモントルイユの離宮で育ちましたの。離宮の近くに孤児院があって、そこでじゃがいもの花を育てているんです」


 橋を渡り、エレーヌは東の街道へ馬首を向けた。東の高台には、モントルイユを見下ろすように建つ古城が見える。エレーヌが育った離宮だ。離宮の坂の下には、小さな教会と孤児院が建っている。エレーヌは目的地が見えてほっと息をついた。


「ポムドテール孤児院です」


 孤児院を囲むのは石灰の壁だ。その壁を、ぐるりと花壇が囲っている。


「これは……」


 マクシムは花壇の前で手綱を引き、身軽に降りた。エレーヌはその様子を、固唾を飲んんで見守る。

 花壇には緑が生い茂り、紫色のつぼみが風にそよいでいる。亡き母が【土の林檎(ポムドテール)】と呼んでいたこの植物は、エレーヌが種蒔きから開花まで世話をしているので、愛着がある。


「うん間違いない。これはじゃがいもの花だ」


 と、マクシムが振り返って明るく笑う。彼が求めていたもので合っているらしい。エレーヌはほっと胸を撫で下ろした。


「よかった。どうぞ、葉や土が必要であればお持ち帰りください。研究のお役に立ちますように」

「ありがとう。帰りに少し採取させてもらうね」


 マクシムがアレスの手綱を取り、エレーヌに向かって手を差し出した。ユディトの冷ややかな眼差しを感じて、エレーヌはぶんぶんと頭を振る。


「あ、あの一人で降りられます…」

「水たまりがあるから、裾が汚れるよ」


 エレーヌが地面を見ると、アレスの前足あたりに小さな水たまりがあった。ならば、違う場所に移動すれば良いのでは、と思ったが、手綱はマクシムが持っている。


「大丈夫。おいで」


 優しく言われては抗えない。エレーヌはそろそろと両手を伸ばした。次の瞬間、ふわりと身体が浮き上がる。


「……この前も思ったのだけれど」


 エレーヌを乾いた地面にそうっと下ろしてから、マクシムがちょっと眉根を寄せた。


「エレーヌはもっと食べてもいいと思う。軽すぎて、怖くなる」

「ファルケンシュタイン伯爵。女性に体型について意見を述べるのはいささか不躾かと」


 とはっきりきっぱり横槍を入れてきたのは、いつの間にか追いついたマノンである。後ろのクルトは何故か調子っぱずれな口笛を吹いている。二人が思ったより近くにいて、エレーヌは飛び上がんばかりに驚いた。


「い、いつから」

「若がお嬢をお姫様抱っこで下ろすところ? ばっちりみました。ごちそうさん」


 クルトに揶揄われ、エレーヌはたちまち顔を赤くした。両手で顔を覆ったまま肩を震わせるエレーヌを見て、マクシムがクルトに厳しい目を向ける。


「もう少し言い方があるだろう」

「背後の気配に気づけないなんて、若らしくな……いてえ!」


 にやにやするクルトの足の甲に、マノンの(ヒール)が容赦なくめり込んだ。マノンは毅然と顔を上げて、冷ややかに言った。


「それで、お二人はいつまでそうなさってるおつもりですか?」


 厳しい眼差しを向けられたマクシムは、エレーヌを見下ろす。エレーヌも質問の意図が分からず、マクシムを見上げる。

 二人が答えを見つける前に、石灰の壁の向こうが賑やかになった。


「シスター! おじょーさまがきた!」

「ジュアンのばか!」

「キスがまだよ!」

「すっげえ。おいら、コイビトってはじめてみる」


 あどけない声たちを追いかけると、壁にいくつもの穴が空いていた。そこから、好奇心いっぱいに輝く子どもたちの顔が覗いている。

 そこでようやく、エレーヌはマクシムの腕の中にいて、マクシムもエレーヌの肩を抱き寄せたままだということに気付いた。二人の顔が、もぎたての林檎よりも赤く染まった。



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