最終話 初めての夜
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戴冠式と結婚式は、つつがなく終わった。二つの式で異なる装いを魅せた女王エリザベートと、マクシミリアン大公と二人で臨んだ宣誓は、またたく間に西方大陸に広がった。
女王は戴冠式では直線的なシルエットが美しいローブアンピール、結婚式では旧式の幾重にも広がる裾に最新のペチコートと合わせた、ふわりと甘いドレスを纏った。
結婚式のドレスは西方大陸の乙女心をわし掴みにした。女王に続き、ミラべリス王女がこのドレスを花嫁衣装に取り入れ、日常着にもこの【クリノリンドレス】を作らせたという。これにより西大陸と新大陸ではドーム型のシルエットが爆発的に流行ることになる。
自分の装いが未来の流行になるとは露知らず、エレーヌは美しく整えられた夫婦の部屋に入った。宮廷晩餐会も無事終わった。マクシムも、もうすぐここに訪れるはずだ。
白と緑を基調とした、落ち着いた雰囲気に包まれて、エレーヌはやっと息をつくことができた。
寝椅子に座ると、ぐったりとしてしまう。何せ、朝から立ちっぱなしだったのである。それに、誕生日から始まった祝賀期間もこれで一区切りがつく。あんなにも色々なことが起こったのにも関わらず、暦を確認すると、一ヶ月経っていないという事実に慄いてしまう。
(明日が安息日で助かったわ。明後日の午後は、ノアイユ侯爵夫妻とお茶会を……)
最終日程について指折り確認していると、たちまち強い眠気が襲ってくる。慌てて頭を振った。ゆるく編んだ白金の髪がその動きに合わせてふわふわ踊る。
「……寝たらだめ」
毛先を束ねるミモザのレースを結び直し、エレーヌは眉間に力を込めた。マクシムが帰ってきたら「おかえりなさい」と言いたい。きっともう少しで彼は来るはず。
「そうだわ。こういう時こそ、レニラード詩よ」
どんな時も、レニラード詩を読むと力が湧いてきた。エレーヌは純白の夜着を翻し、部屋に備えられた本棚にぱたぱたと走り寄る。しかし、すぐに眉を下げる。レニラード詩集の【秋】が、一番上に収まっていたからだ。
エレーヌはつま先だって、思い切り手を伸ばした。口をとんがらせて飛び跳ねる。届かない。悪戦苦闘を繰り返していると、背後からすっと腕が伸びて【秋】を抜き取った。
「……これ?」
マクシムが微笑みながら【秋】を差し出す。エレーヌは両手で受け取って顔を真っ赤にした。
「マクシムさま、いつお戻りに……?」
「今さっき。エレーヌが飛び跳ねたあたりから」
「……黙ってみてらしたのね」
マクシムはくすくす笑う。エレーヌは口をとんがらせてマクシムを睨んだが、柔らかく抱き寄せられて、たちまち機嫌が治ってしまう。
近くの寝椅子に隣り合って座り、エレーヌはマクシムの背中に腕を回した。
「おかえりなさい。……あなた」
「うん。ただいま、奥さん」
マクシムが腕に力を込めると、エレーヌは素直にすり寄ってくる。想いが通じ合い、婚約してからエレーヌが極端に恥ずかしがることは減った。
代わりに、エレーヌは心から嬉しそうに笑いかけてくれることが多くなった。マクシムと目が合うこと、言葉を交わすこと、再び逢えたことが嬉しくて仕方ないのだと、花咲くような笑顔で伝えてくれる。
とはいえ、マクシムが仕掛ける甘い口付けには、まだまだ慣れる様子を見せない。その初々しさを独り占めできるのは自分だけ。それは途方もない幸福であった。
「……エレーヌ?」
腕の中の重みが増して、マクシムは視線を下ろす。エレーヌはあどけない寝顔を晒して眠っていた。一瞬気絶したのかと思い身構えたが、違うらしい。
静かだが、健やかな寝息は、彼女が安心して眠りの世界に旅立ったことを伝えてくれる。胸元にしっかりレニラード詩集を抱えてる姿は、いじらしく愛らしい。
(……ずっと気を張り詰めてたんだ。無理もない)
再会したエレーヌは、以前の無防備さはどこにもなかった。気高い挙措は威厳に満ちており、他国の君主に引けを取らない輝きを放っている。
そんな彼女も、マクシムの腕の中ではただの『エレーヌ』に戻れるのである。マクシムは詩集をテーブルに置き、細い背中と膝裏に腕を通して、エレーヌを抱き上げた。
天蓋付きの寝台に、そうっと横たえる。寝具を半ばめくったところで、控えめな叩扉音が聞こえた。マクシムはエレーヌの首元まで寝具を引き上げてから、扉に向かう。
把手を回し、扉を開けるとくまとうさぎのぬいぐるみを抱いたリアーヌが立っていた。両目に涙をいっぱい溜めて、唇を噛み締めている。
「……あの、あのね。お姉さまとお兄さまにおやすみなさいを言いにきたの」
「そっか。おいで、リアーヌ」
マクシムは微笑んでリアーヌの頭を撫でた。中に招かれるとは思ってなかったらしく、リアーヌは目を丸くする。その拍子にころりと涙が転がったので、マクシムはハンカチでそれを拭ってやった。
「……いいの?」
「もちろんだよ。今夜は三人で寝よう。そうっとベッドに登るんだ。できるかな?」
「できるわ」
リアーヌは抜き足差し足で天蓋付きの寝台に近づき、枕元にぬいぐるみ達をそうっと置いて、エレーヌの隣に潜り込んだ。手慣れた動作に、マクシムは笑いを堪える。
「ん……?」
ふとエレーヌがまつ毛を震わせる。うっすらと目を開けて、リアーヌを見つけると、優しく微笑んで抱き寄せた。
「リアーヌ、今日はとても立派だったわ……」
「お姉さまも、とってもカッコよかった」
エレーヌはリアーヌに腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。そのまま、眠りの世界に帰ってしまう。
リアーヌはエレーヌに抱きつき、頬擦りする。二人の様子があまりにも愛しくて、マクシムは胸が熱くなるのを感じた。
「お兄さま、はやく。お姉さまのうしろをまもって」
と、リアーヌが急かす。マクシムはリアーヌを見習ってそうっと寝台に乗り上がり、横向きで眠るエレーヌの隣に寝転んだ。
すると、リアーヌは厳かな口調で「ねんねするときは、だっこするものよ」と諭してくる。
「あのね、夜はマモノがくるの。でも、だっこしてれば、マモノがにげてくのよ。お姉さまはね、リアをだっこすると強くなれるっていってたの。リアもそう」
マクシムは、自分がいなくなってからのエレーヌを思った。エレーヌはリアーヌを抱きしめて、何度も辛い夜を乗り越えたのだろう。
リアーヌがいれば、もっと強くなれる。必ずファンデールを富ませてみせると自身に言い聞かせて眠るエレーヌの姿が浮かんだ。もう二度と、そんな夜は過ごさせない。
マクシムはそっとエレーヌの頭の下に腕を差し入れた。
エレーヌは深く眠っているものの、マクシムの温もりを察してすり寄ってくる。背後からすっぽり覆うように抱き寄せると、エレーヌは安堵したように顔を綻ばせた。リアーヌも気づいて、ぎゅっとエレーヌに抱きつく。
(……俺の守るべき家族は、ここにある)
マクシムは腕枕とは逆の手を伸ばして、リアーヌの頭を撫でた。リアーヌの目が眠気でとろんと重くなる。
「おやすみ。エレーヌ、リアーヌ」
エレーヌの頬に口付けて、うとうとするリアーヌの額をふんわり撫でる。マクシムは腕の中の重みが増すのを感じながら、緩やかに瞼を下ろした。
マクシムとエレーヌが身を結び、真実の夫婦となったのは、この夜から七日後のことであった。




