(9)恋愛小説
( 9 )
正午の鐘が鳴ると、ベルは辞去を伝えた。家族会議を途中で抜けてきたのだという。エルドラン家では、未だエドワードとミルフェリアへのお叱りが続いてるらしい。
「私が出た修道院に入ることになると思うわ。赤ちゃんの頃に病にかかったからと、母はミルフェリアを修道院に入れたがらなかったの」
今年十歳になる妹姫と一緒に入ることになるとのこと。寄宿生活は良い経験になる、とベルは付け加えた。エレーヌは興味深く頷いた。
「エルドラードの女子修道院は、教育に力を入れていると聞いたわ。その辺り、今度詳しく聞かせてね」
エレーヌはお土産に黄李のパイを包んだ。カルーニャの茶葉も添えて渡すとベルは微笑んだ。
「もちろんよ。またお茶にくるわね、エリー」
ベルが去った後、エレーヌは羊絨の肩掛けと小説を持ち【王の園林】に移動した。衣装合わせは十三時半から。それまでは陽にあたりながら読書することにした。
小さな泉をのぞむ日当たりの良いベンチに腰かけて、エレーヌはさっそく『カレンデュラは恋に花咲く』を読み始めた。
婚約破棄の導入場面で一気に引き込まれ、あっという間にカレンデュラから目を離せなくなる。一人称の小説を読むのは初めてだが、高い身分に生まれ、頑なな性格のせいで素直になれないカレンデュラに感情移入してしまう。彼女の揺れる恋模様、キスに戸惑う気持ちなど、強く頷きながら頁をめくる。
問題は、大団円を迎え、二人が結婚して初夜を迎える場面である。そこには詳細なやりとりが描かれていた。
夫婦となった二人は、寝室で深いキスを交わす。薄い夜着をまとったカレンデュラをロメオが寝台に押し倒したところで、エレーヌは一度本を閉じた。
(ど、どうしてロメオ様はカレンデュラの胸元をはだけさせるの!?)
初夜の始まりを告げる濃厚な口付けの場面ですでにエレーヌは許容量の限界を迎えていた。ページを捲るごとに描写はきわどいものとなり、ついにロメオがカレンデュラの衣に手をかけた。これ以上は読めない。開いたページに栞を挟み、本を胸に抱き寄せる。
(ま、まさか……侍女が用意した夜着が薄かったのは……同じことをするから…?)
薄い夜着をまとい、抱きしめ合い、キスを交わして、そしてマクシムが――。
「エレーヌ」
「ひゃあっ」
肩を優しくたたかれ、エレーヌは兎のように飛び上がる。その拍子に、小説が宙を舞った。池に落ちそうになったそれを、慌ててマクシムが掴む。
「……っと」
「ま、ま、マクシムさ……」
「ごめん、集中していたところを、……」
マクシムの視線が小説に落ちる。本は半ば開かれ、栞が傾いている。彼の視線が文字列を追うように動いたのを見て、エレーヌは絶望した。
「ち、ちが、ちがうの。わ、わた、わたし」
「……エレーヌ、落ち着いて。大丈夫だから。勝手に中身を見てごめん」
ベンチにへたり込んだエレーヌの隣に、マクシムが静かに腰を下ろした。エレーヌは両手で顔を覆う。
「き、きらわないで……」
「嫌うなんてこと、あるはずがないよ。……エレーヌ、夫婦の触れ合いについて、ちゃんと話そう。大事なことだから」
マクシムの真摯な態度に、エレーヌの羞恥心が少しだけ和らぐ。エレーヌが顔を上げると、マクシムは目元を緩める。
マクシムは生物学的観点から、淡々と行為の仕組みを説明した。男性の余っている箇所を、女性の欠けた場所に補うこと。男性は女性という畑に種を蒔き、やがて子が実ること。
「俺の場合、この種に子どもを宿す素が入っていないんだ。だから、君と身を繋げても、子どもを実らせることはできない」
マクシムの瞳が、痛みを孕んで揺れる。
だからマクシムは、二年前の夏、エレーヌとの別れを選んだ。女王には世継ぎが必要だ。マクシムでは叶えられない。いずれエレーヌは子を産まなくてはならないのだからと。
「マクシムさま……」
あの時の切なさを思い出し、マクシムのやるせない想いを知り、彼の腕の中に飛び込んだ。優しく抱擁を返され、エレーヌはマクシムの胸元に頬を擦り寄せる。
「マクシムさま、わたしからもお話しなくてはならないことがあります」
「うん」
「……あのね、私の母や祖母はお産で病みついて亡くなったんです。侍医、私の体質では、もし身籠ったらお産で命をなくす可能性が高いと言いました。もし無事身二つになっても床についてしまうだろうと」
「エレーヌ……」
マクシムが息を呑む。エレーヌは広い背中に腕を回して続ける。
「わたしは、女王です。絶対に倒れるわけにはいきません。……摂政や王配に、政治を任せることはしたくない。私自身でなすべきことをやり、リアーヌに引き継ぐ。わたしの夫は、わたしと信頼しあい、そしてリアーヌと三人で家族になってくれる人でなくてはならない。二年かけて、国務諮問会議で説明しました」
ファンデールの政治の仕組みは大きく変わった。
エレーヌは女王として市民に旧体制からの脱却を約束した。目指すはエルドラードのような議会政治で、見よう見まねで王国議会を設立したものの、未だ制度は定まっていない。
エレーヌの夫となる人物は、野心を持たずファンデールの改革を後押しし、国民の信用に応えられる人格を持っていなければならない。
「……彼らは、マクシムさまの実績を重視しました。貴方を迎えれば、未来のファンデールは農業大国として名を馳せることができる。みな、そう確信しています。王配に相応しいのは、貴方だけです」
「エレーヌ……」
マクシムが両手でエレーヌの頬を包み込む。手のひらを重ねてエレーヌは微笑んだ。
「王国議会では、真っ先に王統継承について議題に挙げました。現在、わたしの継承者は第一位のリアーヌから第三位まで確定しています。第二回の頃には、第四位が決まっているはず。……あれこれ言う人はいるでしょう。それでも、わたしの夫は貴方でなくてはだめ。……わがままで、ごめんなさい」
「ありがとう。……エレーヌは、すごいな」
マクシムが感嘆のため息をつく。エレーヌは小首を傾げた。
「どこまでも通る声も素晴らしいし、エレーヌが話せば、そうだろうと頷かせる説得力がある。……女王エリザベートなら、信用できる。君は、必ず歴史に名を残す王になるだろう。俺は命をかけて、エレーヌを守り支えていくと誓うよ」
するりとエレーヌの手をとり、マクシムが立ち上がる。彼は胸の隠しから天鵞絨が張られた小箱を取り出し、芝生の上に片膝をついた。
「エレーヌ、あらためて言わせてほしい。どうか俺の妻になって」
「マクシムさま……」
エレーヌは震える指先で小箱の蓋を開けた。青い虹が、煌めく。クッションの上に、月長石の指輪が収まっていた。台座はミモザの葉を模っている。
「ずっと、エレーヌだけを愛しく思う。夫として、隣にいたい。君を……愛してるんだ」
エレーヌは涙をこらえながら頷いた。
「わたしも、誓います。マクシムさま、あなただけを愛おしく思います。……どうか、わたしを妻にしてください」
マクシムはエレーヌの左手にキスを落とし、そっとレースの手袋を外した。あらわれた細い薬指に、きらりと光る輪がはめられる。
「マクシムさま……これ……」
「王都で買ってきたんだ。どうしても、婚約指輪は俺自身で用意したかった」
「うれしい。ありがとうございます」
エレーヌは腰を落とし、マクシムの額に口づけた。柔らかく腕が回され、引き寄せられる。
「……結婚式の夜だけれど」
マクシムがエレーヌの涙を吸い取るように口付けて、穏やかに囁く。
「何もしないから、一緒の寝台で眠らせてほしい」
「え……?」
「まずは、俺自身に慣れて欲しいんだ。少しずつ、温もりを分かち合って、君の心が追いついてから本当の夫婦になろう」
エレーヌは戸惑い、マクシムを見つめた。その言葉に甘えて良いのだろうか?
「マクシムさまは、それでいいのですか?」
「……まあ、俺も男だから、つらくないといえば嘘になる。……キスは許してくれる?」
「キスしてくれないといやです」
慌ててエレーヌが返すと、マクシムが小さな唇を塞ぐ。そのまま深く絡められ、エレーヌはマクシムの首裏に両腕を回した。
二人は夢中で唇を重ね合い、衣装合わせに遅刻してしまった。女官長は、大司教が庭に続く回廊で眠りこけたことを知ると、怒髪天をついた。
戴冠式と結婚式の、二日前の出来事である。




