(7)エレインの素顔
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観劇の翌日、エレーヌは執務室で羽根ペンを持ったままぼんやりしていた。
朝の御前会議が終わったあと、急ぎの仕事を片付けようとしたのだが、決裁箱は空である。夜会や園遊会を減らしたので、諮問機関の仕事はさくさく進んでいるらしい。
「午後の衣装合わせまで、ゆっくりお休みください」
と女官長が千寿菊のお茶を淹れて席を外していった。
宰相と大法官は官房書記を連れて会計院に行っているので、執務室にはエレーヌ一人だけだ。
エレーヌの頭を占めるのは、マクシムとの甘い口づけである。あまりにも深いキスの印象が強すぎて、エレーヌはその後見たはずの歌劇の内容がおぼろげである。
(あれも……口づけ、なの?)
そっと唇に触れると、熱い。まるで彼の想いが刻まれたよう。首筋や肩にも口づけが落ちてきたことを思い出し、エレーヌは真っ赤になった。
不意に叩扉音が響き、エレーヌは飛び上がった。手元が狂い、羊皮紙に黒墨のしみが飛ぶ。
「ど、どうぞ」
エレーヌは羊皮紙を折り畳みながら返事をする。開いた扉の向こうから侍従長が現れ、にこやかに告げる。
「陛下、ミラべリス王女殿下がご挨拶にいらっしゃいました」
「エレインが? ……分かったわ。談話室にお通しして」
訪問予定にはなかったはずだが、おそらく昨日のことだろう。
弟妹たちの振る舞いに、エレインは激怒していた。彼女はエレーヌとマクシムに謝り、すぐにオズワルドに連絡した。幕間にオズワルド自らが子どもたちを迎えに来た際に、国王からも謝罪してもらった。エレーヌとマクシムは逆に恐縮してしまった。
(ずいぶんエレインは気にしていたわ。エレインだって観劇を楽しみにしていたでしょうに)
戴冠式と結婚式の後にはなるが、宮殿の小劇場でも歌劇を予定している。あらためてそこに招待しようと思いながら廊下に出ると、女官長が優雅に腰を落とす。
「陛下、ちょうどカルーニャの茶葉が入ってきております」
「ありがとう。お茶菓子はどうしようかしら……」
エレインの心をほぐすようなお菓子が良い。悩んでいると、エレインの全名【ミラべリス・エレイン・デイ・エルドラン】がふっとよぎる。
「黄李がいいわ。すぐ用意できるものはあるかしら」
「王太子殿下のご要望で、料理長が黄李のパイどっさり焼き上げたところです」
「まあ。あの子があまり食べすぎないように気をつけてくれる? 今日の夕食会に、王太子として出席するのだから」
「もちろんです」
ちょっと目を離すとこれだ。リアーヌはエレーヌと同じく黄李に目がない。今夜は歯磨きを監督しなければ。リアーヌを構う理由ができて、エレーヌは嬉しくなった。
「でも、お手柄ね。夕食会のメインは鶏肉のソテーよね? リアーヌの皿には黄李を多めに添えてあげて」
「かしこまりました」
(リアーヌは、いったいどんな女の子になるのかしら)
口の周りを黄色くして、黄李のジャム瓶を抱えて離さない姪を思い浮かべ、エレーヌはふふっと笑う。マクシムと一緒に、あの子の成長を見守れる。それはとても幸福なことだ。
エレーヌはほのぼのとした気持ちで談話室を訪れた。しかし、エレインが深く腰を落とす姿を見て絶句する。
エレイン付きの侍女は半泣きで同じ姿勢をとっている。彼女はエレーヌが訪れる前からずっと首を垂れていたのだ。
「エレイン」
「昨夜は、ご迷惑をおかけして大変申し訳ありませんでした」
と言って、頭を深く下げる。癖のない葡萄色の髪が、もう少しで床に擦れそうになるのを見て、エレーヌは慌ててエレインの手を取った。
「エレイン。すでに、オズワルド陛下からもお詫びいただいているのよ。もう充分だわ」
「いいえ。私自身、謝らなくてはいけないことがあるんです」
「まず立ってちょうだい。……二人にしてくれるかしら?」
と、エレーヌは侍女を見る。侍女はほっとした様子で、続きの間の控室に下がっていく。
「エレイン、さあ座って。ね?」
エレインは俯きがちに長椅子に座る。エレーヌは隣に座った。彼女の横顔は張り詰めており、今にも折れてしまいそうな儚さがあった。
「陛下、私はファンデールの恋愛小説を好んで読んでおります。……弟妹たち、特にミルフェリアもそれを読んで、絵本の代わりに私自身が書いた物語も読みきかせてました……」
「そうなのね。エレインの文章、わたくしも好きよ。大公と一緒に読んで、心理描写の美しさに息を呑んだもの。ファラル語をあそこまで使いこなすために、貴女が何年も修練を重ねたと分かったわ。素晴らしいことよ」
「陛下……、ありがとうございます。でも、それこそが過ちなのです。ミルフェリアは、ファンデールの恋愛小説や私の物語しか読まない子なのです。両親も私も、まだ子どもだからとそれを放任しました。結果として、あの子は現実と空想の区別がつかず、思い込んだら抑えきれない性格になったのです。昨夜の配慮のなさも、反省の仕方が分からないのも、私たち大人の責任なのです」
「まあ……」
ミルフェリアは十三歳。あの年齢で恋愛小説以外を読まないのは、確かに問題かもしれない。
今さっきリアーヌの成長に思いを寄せたこともあり、エレーヌは他人事とは思えなかった。リアーヌは本の好き嫌いはないものの、授業となると嫌がって脱走を試みることがあるのだ。
(……様子を見るだけではだめだわ。やり方を変えて、あの子がどうしたら集中できるか考えないと)
「エレイン、どうか顔を上げて。昨夜は確かに驚いたけれど、わたくしも大公も気にしていません」
「……陛下……」
エレインは唇を震わせて、ぎゅっとハンカチを握りしめる。
「私、お芝居をしてました。初めてお会いした日、わざと陛下と大公閣下を困らせるような態度を取りました」
「ええ?」
「皇太子殿下と示しあわせていたんです。ご不快でしたよね」
確かに、第一印象とかなり違う。今のエレインは大国の長女に相応しい品格を兼ね備えている。配慮に満ちた言葉遣いと気高い所作は、彼女が責任ある立場として努力を重ねてきたことを窺わせる。
「不快じゃないわ。だって、二人は誰かを傷つけようとしてお芝居をしたんじゃないでしょう?」
エレインはためらいがちに頷く。あの日、リアーヌの発案でエレーヌとマクシムにサプライズプレゼントをすることになった。それを聞いたエレインは脚本を書き、皇太子が演出を考えたのだという。
「あの南瓜の馬車は、貴女と皇太子が手ずから飾りつけてくれたと聞いたわ。ほんとうに嬉しかった。あの贈り物は一生忘れないわ。ありがとう」
「……陛下……ありがとうございます」
エレインの顔に赤味が戻り、エレーヌはほっとした。そして、手を握って覗き込む。エレインが本当はとても真面目で責任感の強い少女だということがわかり、もっと彼女を知りたいと思った。
「ねえ、エレイン。一つ教えて欲しいのだけれど」
「はい。何でしょうか?」
「……木登りしたのも、お芝居だったの?」
彼女の見事な動きは、印象に残っている。どきどきしながら尋ねると、エレインはふるふると頭を振る。
「違います。あの時は、エドワードがあまりにも不甲斐なくて、気付いたらやってしまったというか……」
エレーヌは吹き出してしまった。
「じゃあ、皇太子は即興で合わせたのね?」
「……あそこまで合わせてくれるとは思いませんでした」
神妙に頷く姿が可愛くて、エレーヌはころころ笑った。エレインも俯いたまま、小さく微笑んだ。




