(5)王女の失言
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ホワイエで賓客と挨拶を交わし、王族専用通路を過ぎると、正面に大理石の柱時計が現れる。左右には三階に通じる階段が伸びており、左は王室桟敷席、右は国賓用の桟敷席にそれぞれ通じている。
「今夜、エレインを招待したんです。始まる前にここでお話しようと思ったのですけれど……」
エレーヌは時計の前で立ち止まり、周囲を見渡す。マクシムは苦笑をこぼした。
「アルが王女に誘われたって有頂天になってたよ。もしかしたら、楽団のチューニングを見たくて、引っ張り回してるのかも」
「まあ」
その光景がたやすく想像できてしまい、エレーヌは笑みほころぶ。
「マクシムさまは、ヴィオラをお続けになってらっしゃるの?」
「うん。……昔、合奏をしたね」
まだ二人が出会って間もない頃、国王の談話室で即興の音楽会が開かれた。始まりは王妃の「マックスのヴィオラが聴きたいわ」という一言だった。
「懐かしいです」
「姉上がいきなりヴィオラを渡すものだから、かなり緊張したんだよ」
「え? マクシムさま、緊張なさってたんですか?」
エレーヌが瞬きをすると、マクシムは肩をすくめる。
「していたよ。君に幻滅されたらどうしようって冷や汗をかいてた。あまり披露したことがなかったし」
「マクシムさま、素敵でしたよ。……また合わせたいです」
「そうだね。リアーヌと三人で合奏しようか」
エレーヌはクラヴサン、マクシムはヴィオラ、リアーヌはヴァイオリン。素晴らしい提案にエレーヌは瞳を輝かせた。
「とても楽しそう」
マクシムは頷いて、エレーヌのこめかみを淡く撫でる。そのまま甘く見つめられ、エレーヌの胸が高鳴り、体温がにわかにあがる。
「……よく似合ってる」
黒手袋に包まれた指先が、翠玉の揺れる耳元をかすめる。エレーヌは瞳を潤ませながら、マクシムを見つめた。
「……ありがとうございます。マクシムさまも」
マクシムは目を細め、青玉の胸章を撫でた。
「ありがとう。……でも、自分でつけたら少し傾いちゃったんだ。直してくれる?」
「はい。わかりました」
エレーヌはマクシムと向き合って、胸章に指先を伸ばす。彼が言うほど曲がってはいなかったので、エレーヌは小首を傾げた。
付け直す必要はなさそうと顔を上げたところで、エレーヌの両手が柔らかく包まれる。
「あ……」
「……すごく綺麗だよ。だから、今日は俺から離れないで」
吐息が触れ合うほど近くで囁かれ、エレーヌはうなじまで真っ赤に染めた。
マノンやクルトがいるのに、と視線をめぐらすと、二人はこちらに背を向けて時計を支える女人柱を見物していた。
「エレーヌ、返事は?」
「マ、マクシムさま……」
とがめるような口づけが目元に落ちて、エレーヌのむきだしの肩が震える。
そのまま顎が上向かされ、深緑のまなざしが迫ってくる。エレーヌはまつ毛を震わせて降りてくる熱を待った。
「マックスお兄さま!」
二人が振り返ると、淡い黄色の夜会服に身を包んだ少女が立っていた。
太陽のような金髪に、夏のドーラ海峡を思わせる青い瞳。エルドラード第二王女ミルフェリア王女である。その後ろには慌てふためく王太子エドワードがいる。
「陛下、閣下。すみません。ミルフェリア、失礼じゃないか」
「あ……ごめんなさい。わたくし、ファンデールのマナーがわからなくって……」
ミルフェリアはうるりと青い瞳を潤ませる。確か第二王女は十三歳と聞いていたが、ずいぶん幼い口調だった。……おそらく使い慣れないファラル語を懸命に話しているからだろう。
マクシムをじっと見つめる瞳には、はっきりと恋の熱が宿っている。エレーヌは胸のうちに泥々とした感情を覚えたが、微笑みの裏にかくした。
「どうかお気になさらないで。ごきげんよう。エドワード王太子、ミルフェリア王女」
「姉君はどうしたんだい?」
と、マクシムが穏やかに尋ねる。エドワード王太子は十五歳で、十三歳の妹と二人だけで夜のオペラ座を歩き回るのは不自然だ。ミルフェリアが瞳を輝かせて答えた。
「お姉さまは、楽団席の近くで皇太子殿下とお話ししてますの」
「姉君には、こちらに来ることは伝えたのかな」
マクシムが静かに質問すると、エドワードとミルフェリアはぎくりと肩を硬らせた。ややしてエドワードが「言ってないです……」と白状した。ミルフェリアはたちまち瞳を潤ませる。
「でも、ミルフェリアはお兄さまにお会いしたくて……」
エレーヌは居た堪らなくなって、二人の間に入るように声をかけてしまう。
「そうだったのですね。では、わたくしの侍女からエレイン王女に伝えましょう」
「本当ですかっ」
マノンはエレーヌを意を組み、扉近くに控えていた侍女に目配せする。侍女は裾を摘んで一礼すると、さっと踵を返した。
「ここでわたくしたちとお話しながら、待っていましょうね」
「よろしいのですか?」
と言ったのはエドワードだ。頬を真っ赤に染めてエレーヌを見ている。緊張させてしまったのだろう。エレーヌは柔らかく微笑み返す。
「エレイン王女と皇太子の桟敷席は、わたくしたちと同じ三階ですから」
階段もここから二股に分かれている。ホワイエのように混み合っていないから、立ち止まっても問題ない。エドワードは青い瞳を輝かせてエレーヌを見つめる。
「ありがとうございます。陛下。先日の夜会でも優しくしてくださって、僕はとても幸せです。僕、また陛下と踊りたいです。明日の舞踏会のダンスカードはまだ空いてますか?」
エドワードは積極的に訴えた。子犬のような眼差しを向けられ、エレーヌは脳内でダンスカードのリストを思い出す。明日は十人以上と踊る予定だ。一人ぐらいなら、おそらく大丈夫。
了承しようと口を開いたところで、背中を支えるマクシムの手に力がこもり、引き寄せられる。
「王太子。まず、エルドラードの秘書官から宮内伯に通すべきだ。上に立つものが手順を勝手に変えると、混乱を生む」
硬質な声で返され、王太子が怯む。その横でミルフェリアが口をとんがらせた。
「陛下を王妃に迎えられなくてとってもざんねんだわ」
しん、と踊り場が静まり返る。エレーヌは表情を取り繕うのが一拍遅れた。
「ミ、ミルフェリア! 変なこと言うんじゃないよ」
エドワードが顔を真っ赤にしてちらちらとエレーヌを見る。ミルフェリアは青い瞳を潤ませて、早口で言葉を重ねた。
「変じゃあないわ。お祖父様が死んだら、エドワードお兄さまのお妃になるってお話しだったもの。わたし、そう聞いたもの。お兄さまだって、陛下の肖像画をまだお部屋に――」
エドワードは慌ててミルフェリアの口をつぐませる。
「その、父上が議会でそのような話をされていたのは事実です。僕もそうなったらいいなあ、と思ったりはしてましたが、でも……陛下が即位されたから……」
「そ、うですか……」
エレーヌはやっと、エドワードの物言いたげな視線の正体を悟った。この場合、何と返すのが正解なのだろう。
「王太子、ミルフェリア王女」
エレーヌの腰を大胆に引き寄せて、マクシムは笑みを深めた。その目は全く笑っていない。
「王族や皇族の人間は、常に政略的な結婚がつきまとう。一種の挨拶のようにね。だから、そういった話があったのは事実だろう。けれど、」
一旦言葉を区切り、マクシムが表情を消す。温和な雰囲気が消え去り、凍てつくような眼差しが王太子と王女を射抜く。
「終わった話をわざわざ蒸し返すような言動は、適切ではないね。……姉君は、君たちをもう幼い子供ではないと判断したから、夜の公務に同行することを許可したのだろう。その期待に応えなくてはね。身分が高い者は、言葉を軽々しく扱ってはならない。……今夜は聞かなかったことにするよ」
その声は静かで、触れれば切れるような鋭さがあった。間近で聞くエレーヌさえ、身震いするほどの冷たさを感じた。
「そろそろ座長が挨拶に来る時間だ。俺たちはここで失礼するよ。クルト、王太子と王女をお守りしろ」
「かしこまりました」
クルトは頷いて、エドワード王大子に愛想よく笑いかける。マノンはというと、ミルフェリア王女の後ろに回ってそっと小声で囁いた。
「第二王女殿下、腰のレース飾りが……」
「え、やだ!」
「このくらいならすぐに繕えますわ」
ほほほ、とマノンの笑い声が遠ざかっていく。エレーヌはマクシムに引っ張られるようにしてその場を後にした。




