(4)女官と乙女心
( 4 )
ふと視線を感じて、マノンは手元の演目次第から顔を上げた。
すると、向かいの座席に座ったエレーヌと目が合う。エレーヌはたちまち頬を染めて俯いてしまう。
十八歳になったエレーヌは、少女から大人の女性として美しく成長している真っ最中である。
女王として気高い挙措を心がけているため、ふとあどけない仕草を見せると破壊力が凄まじい。
エレーヌが結婚したら、この愛らしさをマノンが独り占めできなくなる。それが少し寂しい。
「どうされました?」
「……マノンに、教えてほしいことがあるの」
エレーヌはたどたどしく言葉を紡いだ。両手を膝の上で握り込んでいることに気付いたマノンは、エレーヌの目の前に移動して、そっと手のひらを解かせる。
「……女官長から、夫婦のお話を聞いたんですね」
こくこくとエレーヌは頷いた。マノンはエレーヌが生まれた時のことを思い出し、感慨深い気持ちになった。
おくるみに包まれてすやすやと眠るお姫さま。マノンの人差し指をきゅっと握って笑う顔は愛くるしい。男兄弟しかいなかったマノンにとって、エレーヌは天から与えられた宝物だった。
あれから十八年がたち、エレーヌは心から想い合う男性と結婚する。天に昇った妃殿下と母は、きっと涙を流して手を取り合っているに違いない。
「ま、マノンは、クルトさんと……その、……結婚……するのよね」
「ま、まあそうですね。お二人より後にはなると思いますが……」
エレーヌが尋ねたいことを察し、マノンは顔に熱が集まるのを感じた。左手の薬指には、クルトから贈られた婚約指輪がある。
「えーと、あたしも、最後まで経験したわけではなくて」
「結婚前だものね」
「そ、そうですね」
実は諸事情があり、きわどいコトを致してしまったのだが、これは墓場までもっていくと決めている。エレーヌは初恋を成就させたばかりだ。マクシムとゆっくり愛を育み、できれば健全な手順を踏んで、夫婦生活を営んで欲しい。
(そのためには、あたしが恥ずかしがっちゃだめよね。姫さまが意識しすぎて、大公閣下を避けるようなことになったら、大変だわ)
エレーヌは気づいていないけれど、大公はかなり独占欲が強い。本人は「最初は妹のような存在だった」とか言っていたがとんでもない。彼はエレーヌが十二歳の頃からさりげなく牽制してきた。その度にマノンは目を光らせたし、クルトは面白がってきた歴史があるのである。
しかも、今は女官長によって二人きりになるのを制限されている。エレーヌがはにかんで大公との触れ合いを拒んだりしたら……考えるのも恐ろしい。
男の独占欲が暴走するととんでもないことになる。マノンはそれを恋人から嫌というほど学んだ。大公の性格上、暴走は考えにくいが、災いの種は無くすに限る。
「陛下、あたしは好きな人と触れ合うととても幸せになります。最初はもちろん恥ずかしかったけれど、でも、彼からのキスを嫌だと思ったことはありません」
エレーヌは共感を覚えたらしく、きらきらと青い瞳を輝かせた。素直な気性だから、羞恥を煽るようなことをしなければ、エレーヌの混乱は最小限で済むだろう。マノンは深呼吸をして、クルトにさえ言ったことのない胸の裡を曝け出した。
「結婚式の夜にあの人に愛されたら……愛し返したいです。それは、彼が絶対にあたしを大事に慈しんでくれると信じているから。――陛下はどうですか?」
と尋ねると、エレーヌは頬を染めながらも頷いた。
「……わたしも……そうしたいわ」
「でも、何が起きるかわからないのは不安ですよね。今日の演目は、初夜の雰囲気を知るのにぴったりだと思います」
「そうなのね。わたし、夜のオペラは初めてで……」
「夜は昼とは違って、恋愛を深く掘り下げた歌劇が催されます。『アスカニオ』は、新婚夫婦のためにクレメンテの音楽家が書き下ろしたものなんですよ。あたしも、今日は勉強させていただこうと思ってるんです」
勉強と言う単語は、真面目なエレーヌをすんなり納得させた。マノンはにっこり微笑んでエレーヌの頬を優しく包み込む。
「好きな人と触れ合うことに、恥ずかしさを感じる必要はありません。もっと好きになることを、どうか怖がらないでください」
「……ありがとう、マノン」
エレーヌが落ち着きを取り戻したところで、馬車が緩やかに止まった。オペラ座の馬車寄せの賑わいが伝わってくる。女王を待つ賓客と、女王を一目見ようと市民たちが集まっているのだ。
侍従が扉を開いた先には、マクシミリアン大公が待っていた。漆黒の聖ゲルト騎士団の礼装に身を包んだ姿に、エレーヌはたちまち見惚れて頬を赤らめる。
女王が大公のエスコートで馬車から降りる光景は、まるで御伽噺の一幕のようであった。想い合う二人の表情は輝いており、賓客達はため息をつき、市民達は拍手や口笛で祝福する。マノンは、渾身の力作である女王の装いを見つめた。
今夜の女王は、髪の半分を頭上でまとめ、下の半分をコテで緩やかに巻いて垂らしている。青の夜会服の胸元は大きく開いているものの、肩の露出は少ない。繻子織の手袋で二の腕まで覆っているため、女王の楚々とした印象を損ねることはない。
そして、女王の耳と首を飾るのは翠玉である。大公が婚約の証に贈ったもので、品よく輝いている。
一方の大公はというと、ゲルト騎士団の礼装である。左胸を飾る青玉の胸章は女王が贈ったもの。お互いの瞳の色に寄せた宝石を身につける二人の姿に、マノンの胸が熱くなる。
「オレの嫁さんがちっとも構ってくれない」
と間近でぼやかれ、マノンはびっくりした。本気で婚約者の存在を忘れていたことを悟ったのか、夜会服姿のクルトは不満そうに口をとんがらせている。
「あなたも素敵よ。ていうかまだ嫁じゃないでしょ」
「いーじゃん。あーあ、聖ゲルト騎士団の制服、取っとくんだった」
「馬鹿ね。自分から辞めたんでしょ?」
「そーだけど。マノンちゃん、オレの軍服姿好きだったでしょ?」
図星を刺され、マノンは耳を真っ赤にした。確かに、クルトの軍服姿はかなり格好良かった。言動がちゃらんぽらんでも、まあいいかなんて思ってしまうほど危険だった。
「それは昔の話でしょ。今は、白衣の方が似合ってるし、す、好きだもの」
とマノンがいうと、クルトはけろりと機嫌を直した。組んだ腕に手のひらを乗せて、マノンは頬を膨らませる。
「なんだか言わされた気分……」
「気のせい気のせい、ほら二人の側にいないと」
戴冠式と結婚式が終わるまで、クルトは大公の従者を再び務める。マノンは彼と共に二人の門出を祝えるのを嬉しく思いながら、組んだ腕に力を込めた。




