(3)女官長の教え
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エレーヌは、王妹時代から使用する右翼の自室から引っ越すことになった。
今まではリアーヌの部屋と隣り合っていることを重要視し、寝起きや食事は全て右翼で済ませていた。戴冠式と結婚式が終わったら、代々の国王夫妻が住む左翼に移ることになったのだ。
「右翼は王太子殿下専用の居住区域となります」
と宮内伯が説明すると、リアーヌは満足げに頷いた。
「リアは、オトナになったということね」
「さようでございます」
エレーヌはその会話を複雑な気持ちで聞いていた。今まで、リアーヌとは枕を並べて寝ていた。いきなり一人にするのは性急ではないだろうか。
「リアーヌ、お泊まり会をたくさんしましょうね」
「お姉さま、リアはもう赤ちゃんじゃあなくってよ」
リアーヌは最近「大人として」扱われることを好む。エレーヌがつい癖で甘やかすようなことを言うと、こうしてぴしゃりと釘を刺してくるのだ。八歳の王太子にやり込められて、しょんぼりする十八歳の女王の姿に、侍従や女官達が苦笑する。
「殿下は八歳になられます。王侯貴族では、お子様を親元から離して育てるのが慣わしですよ」
家具類の移動を指揮していた女官長が、きびきびと発言する。女官長はエレーヌの兄が生まれた頃から宮殿に仕えている。あまり近くで構いすぎるのもいけないのだと、言いにくいことを女王に伝えるのが彼女の役目だ。
エレーヌの戴冠式は、リアーヌにとって立太子式も同然だ。王太子教育も本格化する。エレーヌも、導き手としての覚悟をしなければならない。
(……まずわたしがリアーヌ離れしないといけないのかも)
リアーヌを甘やかしているつもりが、エレーヌ自身が甘えていたことに気づく。エレーヌはようやく長年過ごしていた部屋から出る決意を固めた。
忘れ物はないかと王妹の居間を確認し、最後に寝室に入る。天蓋付きの寝台には、新しく用意された夜着や化粧着などが広げられていた。エレーヌはそのうちの一枚を広げる。
夜着は白や淡藍、薄紅色で、いずれも繊細なモントルイユ・レースが縫い付けられている。仙女の纏う衣のように軽い。エレーヌは小首を傾げた。
「……どうしてこんなに薄いのかしら」
これを発注した侍女は目を輝かせ『花嫁の夜具はふりふりのペラペラと決まっているのです!』と言っていた。夏物よりも薄いのは気のせいだろうか。
胡桃釦が全て前にあったり、すっぽり被って胸元のリボンを結ぶだけのものがあったりする。
前者は全て外せばガウンのように前がはだけてしまうし、後者はリボンが解けたらすぐにずり下がってしまいそうだ。エレーヌは化粧着も広げてみた。やはり、生地が頼りない。
「陛下、観劇のお支度をしませんと」
扉の向こうからマノンが呼びかける。エレーヌは慌てて立ち上がった。女王の予定は分刻みである。ぼんやりしている時間などない。
ルヴェルのオペラ座は、ファンデール初の王立バレエアカデミーを前身としている。
エレーヌの兄は財政破綻回避の一つとして、経営管理をルヴェル市に委譲した。運営権譲渡後は【市民の代表が運営する劇場】となり、観劇券さえ買えば誰でも入れる場所となった。
今夜はそのオペラ座で、女王の戴冠を祝う歌劇が催される予定である。化粧の間で、いつも通りマノンが熱心にエレーヌの肌を磨いていた。
「ねえ、マノン。あなたの支度は大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ。化粧は終わっているので」
マノンは白粉に真珠の粉を混ぜながら答える。マノンはこの秋、イルヴォンヌ大学の商工学部を卒業した。今年の冬からはトリアノン商会で実績を積む予定である。
「やっぱり、戴冠式の後も女官を続けたいです」
「マノンったら。未来の経済大臣が何を言うの」
エレーヌはくすくす笑って答える。女王の頬に白粉をはたき、紅を引きながらマノンは膨れた。
「経済大臣としてお側に上がれるのは、最低でも二十年はかかってしまいます」
「ええそうね。その間は、私の一番のお友達として宮殿を訪ねてきて。女商人マルグリートの稼ぎぶりを教えてもらわなきゃ。期待しているわ」
「任せてください」
二人が笑い合っていると、叩扉音が響く。マノンが返事をすると、女官長が現れた。
「ランバル女官。そろそろあなたも着替えてらっしゃい。陛下の御髪はわたくしが仕上げます」
「かしこまりました」
エレーヌの後ろに居たマノンは、持っていた首飾りをエレーヌの華奢な首にかけて留金を止めた。
「ありがとう。また後でね」
姿見越しにエレーヌが微笑むと、マノンは静かに頷いた。マノンは侍女を連れて退室し、化粧の間は エレーヌと女官長の二人きりになる。
「王太子殿下は、無事夕食をお済ませになり寝室に。今夜は乳姉妹のエメがつきます」
「エメが一緒なら安心ね。よかった」
エレーヌがほっと胸を撫で下ろすと、女官長は厳かに口を開いた。
「陛下に、大事なお話があります」
女官長は櫛で白金の髪を丁寧に梳る。エレーヌは瞬きをした。
「何かしら?」
「聖教圏における、結婚の成立についてでございます。陛下と大公閣下の結婚は、聖王猊下に認められました。しかしながら、婚姻届を書くだけでは完全な夫婦になったとは言えません」
「……そうなのね……。知らなかったわ」
エレーヌは神妙に頷いた。婚姻届に署名し、特使に受理されたら終わりだと思っていた。他にも手続きが必要であると知り、エレーヌはとても申し訳ない気持ちになった。
「ごめんなさい。わたし、自分の気持ちばかりを優先していたわ」
「いいえ、陛下のお考えはご立派です。我らも想い合うお二人には早くご夫婦として過ごしていただきたく思っております」
女官長が園遊会などを減らすよう進言したのは、準備とその手続きの説明が必要だったからだという。エレーヌは納得し、女官長に椅子を進めた。女官長は優雅に腰を下ろし、背筋を伸ばした。
「お二人の身が結ばれなければ、結婚は不完全なものとして簡単に離婚ができます」
女官長の台詞の中で、エレーヌが理解できた言葉は【不完全】と【離婚】の二つであった。エレーヌは瞬きをした。
「……えっと……?」
「……本来であれば、もっとはやく夫婦の営みについてお伝えすべきだったのですが……」
女官長曰く、夫婦の触れ合いについては初潮を迎えたら必ず授けられる知識だという。
しかし、エレーヌの兄は、エルドラード王に嫁ぐ妹に対する直截な教育を禁じた。まだ早い、もう少しあと。せめて十六になってから、と。そのうち、あの惨劇が起きてしまった。
「お兄さまが……」
皇帝から譲られた兄の手紙を思い出す。兄は、エレーヌの婚約を白紙に戻そうと努力してくれていた。義姉もそれに賛同していた。
(……もし、あの夜がなければ、お二人は生きて……)
二人の亡骸を思い出し、エレーヌは途端に苦しくなる。にわかに呼吸が浅くなったエレーヌの背を、女官長がさすった。
「陛下、申し訳ありません」
「貴女が謝ることはないわ。……以前より、こうなる回数は減ってるの。大丈夫よ」
あの夜のことを思い出すと、身体中の血が下がり、呼吸が難しくなってしまう。医師曰く、心的外傷によるものだという。命に関わることではないけれど、過去の恐怖と絶望はふいに現れて エレーヌを苦しめる。
(……もう、一人じゃないわ。ううん、今までも一人ではなかった)
エレーヌは侍医から教わった呼吸の仕方を思い出して、息をゆっくりと整える。そして、身体を支えてくれる女官長に微笑んだ。
「あの夜、女官長が宮殿に残ってくれて、どんなに心強かったか。その後も人手不足で、大変な思いをさせていますね。心配をかけてばかりで、ごめんなさい」
「陛下、とんでもないお言葉です。私は、望んでここにいるのです」
「ありがとう。嬉しい」
エレーヌは女官長の柔らかい胸元にもたれかかる。小さな頃、エレーヌは宮殿に上がるのが怖かった。不安に怯えていると、彼女はエレーヌを抱いて宮殿の庭に連れ出してくれた。
「陛下、どうか忘れないでくださいね。皆、陛下と閣下の幸せを願っているのです」
女官長はエレーヌの背をあやすように叩き、繻子織の手袋ごしに手を握った。
「……身をつなげるということは肌を重ねるということです。それは、必ずしも子作りを目的にするものではありません。夫婦がより深く、天上に召されても離れぬための儀式です」
肌を重ねる。エレーヌはマクシムとの口付けを思い出し、たちまち顔を赤くした。そういえば、兄夫婦もよく唇を重ねていた。あれは、夫婦だけに許された儀式の一つだったということか。
「にょ、女官長……わたし、結婚前に口付けをしてしまったわ……」
エレーヌは顔を真っ赤にして懺悔をした。女官長は可愛らしい罪の告白に、顔を綻ばせる。
「まあ、陛下。口付けは恋人であれば誰でもするものです」
女官長は一見冷たい顔立ちをしているが、笑うと笑窪ができる。エレーヌは小さな頃、彼女とこっそり笑いあうのが大好きだった。
女官長の笑顔に安心して、エレーヌはとくとくと高鳴る胸に手を置く。
「恋人……わたし、マクシムさまと恋人同士になったのね」
頬を薔薇色に染める女王の姿に、女官長は目を細める。彼女はエレーヌを小さな頃から見守ってきた。それだけに、エレーヌがこうして大人になり、好きな人と想いが通じ合ったことが我が事のように嬉しい。
「夫婦の交わりは、恋人の触れ合いよりもっと深いものです。夫に愛され、妻として愛す行為はとても尊いものなのですよ」
「わたし、どうしたらいいの……?」
エレーヌは女官長の手を握り返し、泣きそうな声で尋ねた。
「安心して大公閣下に身をお任せください。大丈夫ですよ。最初は少し辛いですけれど、じきに平気になりますわ。大公閣下は何よりも陛下を大事に想ってらっしゃいますもの」
エレーヌは「具体的に何が起こるのか」を知りたかったのだが、女官長は「全て夫の求めに応えれば全てうまくいく」と言う。世の未婚令嬢は、みんな祖母や母親から折に触れてこのように教わるのだという。
(わたしにはお母様もお祖母さまもいらっしゃらないから……)
唯一伯母がいるけれど、彼女は未婚のまま修道女になっている。夫婦について教えることは難しいだろう。
「世の既婚女性はみな通ってきた道です。難しく考える必要はないのですよ」
女官長は励ますように言って、エレーヌの髪をコテで緩やかに巻き始める。エレーヌは頷いて、高鳴る胸をそっと押さえた。




