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(6)大公と黄李「そのうち、果実もお届けできたら嬉しいです」

( 6 )


 エレーヌは小花模様の刺繍が愛らしい綿紗(モスリン)ドレスに着替えた。このドレスは義姉が考案したもので、パニエもコルセットもつけない。着心地の良さが好きで、エレーヌは家族の時間はいつもこのドレスを着ている。

 朝食で姪と髪型をお揃いにすると約束したので、リアーヌの髪結係を呼んだ。白金の髪を半ば下ろし、上の髪をリボンごと緩く編み込んで両側に小さなシニョンを作った。(オレンジ)の花を模ったピンを挿して、完成である。

 いつも通りの時刻に、国王夫妻の談話室を訪問する。三時から開かれるこのサロンは、ごくごく身内のために開かれる。国王が手ずから淹れたコーヒーを嗜みながら、私的な時間を過ごすのだ。


「王妹殿下のおなりです」


 侍従が開けた扉をくぐって入室した途端、エレーヌは驚いてその場から動けなくなった。

 暖炉の前でくつろぐ国王夫妻の傍らに、黒髪の少年が立っていたからだ。華やかな夜礼服から一転、落ち着いた色調の平服を身に纏っている。


「ねえね」


 エレーヌが呆然としていると、大人たちの間からぴょこんとリアーヌが現れる。二つのシニョンを揺らしながら、姪は自分より大きなぬいぐるみを引きずっていた。


「くましゃんのにいに」


 と、少年を見てにっこりする。少年からぬいぐるみをもらったらしい。たくさんの疑問を飲み込んで、エレーヌは淑女の礼をとった。


「お兄さま、お義姉さま、ごきげんうるわしゅう存じます」

「エレーヌ、待っていたよ」

「こちらにいらっしゃい。エレーヌにわたくしの弟を紹介するわ」


 王妃の招きに応じてゆっくり近づくと、彼が麗しく微笑んだ。王妃が誇らしげに胸を張り「ご挨拶なさい」と少年を促す。


「イシュルバートから参りました。マクシミリアン・ヴェンツェル・フォン・ツークフォーゲルです。お初にお目にかかります、エリザベート姫」


 王妃の弟――つまり、イシュルバート帝国の大公(ヘルツォーク)

 ヘルツォークは、イシュルバート帝国の皇子が使う称号である。聖王庁の軍事権を預かる大帝国として、イシュルバートは『聖教の騎士』、かたや大陸で最も多くの聖教徒を孕むファンデールは『聖教の長女』と呼ばれている。


 少年――マクシミリアンが他の者が容易に真似できない品格を身につけているわけを、ようやく理解した。


「初めまして。エリザベート・エレーヌ・ド・シェルファローズと申します」


 かろうじて笑みを浮かべて、優雅に指先を差し出した。エレーヌの手を取ったマクシミリアンだけが、その指の震えからエレーヌの動揺に気づいた。


「マックスは十八歳なの。九月からイルヴォンヌ大学に入学するのよ」

「主に農業と商工を学ばせていただきます」


 と、マクシミリアンが静かに補足する。エレーヌは早まる鼓動を感じながら「素晴らしいですわね」と微笑み返した。


「さあ、座って話そう」


 国王の言葉に、エレーヌはどきどきしながら長椅子(ソファ)の端に腰掛けた。猫足のテーブルを挟んだ目の前に国王が、その隣に、マクシミリアンが座る。一瞬目が合って、心臓が駒鳥のように飛び上がった。

 国王夫妻の談話室(サロン)は全体的にこじんまりとしている。テーブルも、珈琲の用意一式が置かれたら埋まってしまうぐらい狭い。だから、どこに座っても距離が近い。

 緊張のあまりみっともない所作をしてしまったらどうしよう。こんなに近くでは隠せない。ぐるぐると思考を巡らすエレーヌに、国王が珈琲カップを差し出す。


「エレーヌ、お前の分だ。……エレーヌ?」

「ひゃいっ」


 エレーヌが素っ頓狂な返事をしたので、国王が少し眉をひそめた。感情に乏しい兄がそういう顔をすると、とても怖い。

 エレーヌは咳払いして、花飾り模様(ガーラント)と東洋の香炉が描かれた珈琲カップを受け取った。


「またエルドラード王に何か言われたのではあるまいな」


 その名をここで出してほしくはない。マクシミリアンがどんな顔をしているのか、見るのが怖い。なぜかそう思って、エレーヌは努めて明るく微笑んだ。


「いいえ。つつがなくお見送りを済ませてまいりました」

「そうか。なら良い。珈琲は疲れにも効く。飲むといい」

「はい、お兄さま。いただきます」


 エレーヌはせめて優美に珈琲を飲もうとカップを傾けて、きゅっと眉を寄せた。


(……にがい)


 そろりと視線を走らせて、エレーヌは絶望した。

 今日に限って、牛乳(ミルク)の入った陶磁器がマクシミリアンの前に置かれていた。更にその隣には、角砂糖の入った硝子の器がある。


(どうしよう)


 エレーヌは牛乳と砂糖を入れないと飲めない。でも、この状況で手を伸ばして器を取るのははしたない。国王が淹れたコーヒーを残すなんて言語道断だ。結局、エレーヌは涙目でちびちび飲むことを選んだ。

 そこに、王妃が銀盆(サルヴァ)を持って現れた。足元ではリアーヌがじっと銀盆を見つめている。


「今日のお茶請けは黄李(ミラベル)のジャムパイよ。わたくし、嫁ぐ前はこれが大好物だったの」

「ミラベル……?」

「私の戴冠式で、トルキア帝国の特使から贈られた果物だ。そなたが七つの時だよ」


 あっとエレーヌは声を上げた。黄金に輝く小さなスモモを摘んで、頬張った記憶が蘇る。


「あの果物はミラベルというのですね。覚えてます。とっても美味しかったわ」


 銀盆に並べられたジャムパイはひと口大で、エレーヌはそのうちの一つをつまんだ。

 国王と王妃が食べてから、エレーヌも口に運ぶ。繊細な果肉の味わいが口腔を満たした。


「おいしい」


 ほんのりとした甘さは、エレーヌをたちまち幸福にした。リアーヌも夢中で食べている。


「イシュルバートでも収穫できるようになったのよね?」

「はい。喜んでいただけて良かった」


 マクシミリアンから微笑ましく見つめられて、エレーヌは真っ赤になってしまう。


「そのうち、果実もお届けできたら嬉しいです」

「そうだな。私ももう一度食べてみたい」

「わたくしも。黄李(ミラベル)は美味しいけれど、旬が短いのが難点ですわ」


 王妃が牛乳(ミルク)入れを取り、さりげなくエレーヌの前に置いてくれる。エレーヌは義姉の気配りに感謝して、リアーヌと自分のカップに牛乳を注いだ。


「ねえね、もいっこ」


 と、リアーヌがねだる。エレーヌがつまむと、姪は雛鳥のように口を丸く開けた。

 エレーヌは給餌をする親鳥のような気持ちで、リアーヌの口にジャムパイを持っていく。自分でも、もうひとつ口に運ぶ。幸せがほどけて身体中に満ちていくようだった。

 エレーヌが姪とジャムパイを啄んでいる間に、大人たちの話題は果物から昨今の食糧難の話に変わっていく。

 冷害により昨今のファンデールの農作物は、収穫量が下がる一方であった。王妃の実家であるイシュルバートを通じて、帝国領南端のカストーレから小麦を輸入しているが、それも今年までの話だ。

 多額の戦債を抱えるファンデールにとって、遠方からの小麦輸入は火に油を注ぐようなもの。じっと国王夫妻の話に耳を傾けていたマクシミリアンは、こう提案した。


「じゃがいもを育ててみてはいかがでしょうか」

「えっ、あれは食べられるのですか?」


 エレーヌは思わず声を上げてしまい、慌てて口元を覆った。マクシミリアンは目を丸くしてエレーヌをみている。


「エリザベート姫はじゃがいもをご存じなのですか?」

「えっと、わたしが育てている花が、確かそのような名前だったと……」


 エレーヌは恐る恐る答えた。マクシミリアンは流暢なファラル語を話すが、ゲルト語圏の人間である。彼の思い浮かべる【食べ物】と自分が口走った【花】が同じとは限らない。


「ああ、思い出した。エレーヌがモントルイユで見せてくれたお花よね?」


 真っ先に反応を示したのは王妃だった。エレーヌはこくこくと頷く。


「モントルイユに遊びに行く時、いつもお花を見せてもらっていたの。お兄さま陛下の菜園で咲いていた花と似てるなあと思ったのよ」


 イシュルバートの皇帝は、宮殿の日陰にじゃがいも畑を作っているという。観賞用ではなく、食用として。思わずエレーヌは兄と顔を見合わせてしまう。


「じゃがいもは寒さに強く、栄養価も高い。食糧問題にうってつけの野菜なのです。ファンデールはイシュルバートより温暖ですし、花が咲くのなら条件も悪くないと思います」


 マクシミリアンは熱のこもった口調で説明した。それに対し、王妃が思案げに眉を寄せる。


「わたくしは故郷で食べていたから抵抗はないけれど……、ファンデールではどうかしら。難しいのではなくって?」

「確かに抵抗はあるが、新しくイルヴォンヌに迎えた学者がマクシミリアン大公と同じことを言っていたのも事実だ」


 と、国王が言った。王妃は驚いた様子で夫を見る。


「まあそうでしたの?」


 国王は頷いて、そして、マクシミリアンに鷹揚な笑みを見せる。


「大公の……マックスの書いた農地改革についての論文を読ませてもらった。価値ある考えだ」

「……! ありがとうございます」


 それまで緊張していたマクシミリアンの顔がほころぶ。エレーヌは彼が書いたという論文に興味を持った。難しそうだけれど、読んでみたい。

 大人たちの会話がひと段落したのを察したのか、大人しくしていたリアーヌが国王に走り寄り、父親の腕を引っ張った。


「ぱぱ、くましゃん」

「リアーヌ、お話の邪魔をしないのよ」

「よい。マックス、今夜の晩餐までいてくれるか。農学博士も呼んで話の続きをしよう」

「光栄です。陛下」

「それまで寛いでいるといい。エレーヌ、お相手を」

「はい、お兄さま」


 リアーヌはぬいぐるみが置かれた窓辺に走っていく。国王夫妻は腕を組んで娘に続いた。

 仲睦まじい親子を微笑ましく眺めながらカップを傾けると、不意にマクシミリアンと目が合った。


「もうひとついかがですか?」

「い、いえ。もう充分頂きましたから……」


 銀盆(サルヴァ)の上のジャムパイは、残り二つになっていた。本音を言えば、もう一つ食べたい。でも、意地汚いと思われたくない。


「実は、この二つに使われたジャムは、収穫期をずらした実で作ったものなのです。できれば味についてのご意見を伺いたいのですが……」


 と言われて、改めて二つを見下ろす。確かに、ジャムの色が違う。エレーヌが食べたものは全て盛夏そのものの爽やかな黄色だったが、これは晩夏を思わせる鮮やかな橙色だ。


「ひとつずつ食べましょう」


 と、マクシミリアンが提案する。明るい日差しの中で、柔らかく微笑むのはずるい。エレーヌは頬に熱が集まるのを感じながら頷いた。


「わかりましたわ。いただきます」


 エレーヌはそっと指先でパイをつまんだ。ひと口かじって、驚く。橙色のジャムを使ったパイは、甘酸っぱかった。優しい甘さの黄色も好きだが、橙色の方も負けていない。


「こちらも美味しいです。ほのかに酸味があって、ほっぺたが落ちてしまいそう」


 エレーヌは頬に手を当てて、ほうっと息をつく。マクシミリアンは嬉しそうに笑った。


「お口に合ってよかった。俺はこちらの方が好きなんですよ」


 エレーヌはちょっと迷ってから、素直に気持ちを伝えることにした。


「……わたし、黄李(ミラベル)をもう一度食べてみたかったんです」


 と言うと、マクシミリアンが目を丸くした。王女がこんなことを言うのなんて、はしたないかもしれない。でも、ちゃんと伝えたい。エレーヌは頬を赤くしながら続けた。


「この宮殿で初めて美味しいと思えたのが、黄李(ミラベル)だったんです。ありがとうございます」

「そうなんですね」


 マクシミリアンはどこまでも優しく見つめてくる。エレーヌは恥ずかしくて堪らない。


「あの……あまり、見ないでくださいませ」

「あ、すみません」


 どうやら無意識だったらしい。エレーヌは少し迷ってから、マクシミリアンを見た。


「どうか、敬語はおやめになって。大公閣下の方が身分が高いのですもの」

「姫もそうして下さいますか?」

「年上の方に敬語を使うのは当然です」

「では、せめてマクシムと呼んでください」

「マクシムさま?」

「大学には【マクシム・フォン・ファルケンシュタイン】という名で通う予定だから」


 マクシムの留学にあたり、イシュルバート皇帝は大公待遇は無用だと言ったらしい。確かに、大公(ヘルツォーク)が来るのならば、エルドラード王と同様、盛大に出迎えなくてはならない。様々な儀式があるので、学業どころではなくなってしまう。


「わかりました。では、わたしのことも、どうぞエレーヌとお呼びください」


 エリザベートは、公式儀礼用の名前なのでよそよそしい。聖教圏では公私で名前を呼び分けるのだ。マクシムはこほんと咳払いをした。


「……じゃあ、エレーヌ。手のひらを出してくれる?」

「……こうでしょうか?」


 なんだろうとエレーヌが言われた通りに両手を差し出すと、綺麗に包装された小包が優しく置かれる。エレーヌはきょとんとマクシミリアン――マクシムを見上げる。


「開けてみて。気に入ってもらえるといいのだけれど」


 と言われて、エレーヌは青色のリボンをほどいた。ぴょこんとうさぎのぬいぐるみが現れて、エレーヌはたちまち顔を綻ばせる。


「かわいい」


 エレーヌはぬいぐるみを両手で抱き上げる。白の毛氈(フェルト)に瞳は青の玻璃珠(ビーズ)、手のひらにちょうど収まる大きさの、可愛らしいうさぎである。

 エレーヌは嬉しくてたまらず、うさぎを胸に抱き寄せてマクシムを見上げた。


「ありがとうございます。マクシムさま」

「どういたしまして」


 マクシムは、はにかむように笑った。


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