(46)ユディトとアレス「あのね、ユディト。わたし、欲しいものがあるの」
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日暮れ間際、エレーヌは石造の厩舎を訪ねた。柵の内で黒馬がぴくりと顔を上げる。
「ユディト。こんばんは」
ユディトは外套を羽織ったエレーヌを、嗜めるような目つきで見下ろした。
「ちゃんと護衛と一緒に来たわ。貴女と二人きりになりたいとお願いしたの」
スカートの裾をからげて、エレーヌは柵をくぐる。ユディトはやれやれと言わんばかりに擦り寄ってくる。エレーヌは持っていた角灯を吊るしてから、彼女の首筋を撫でた。
「……マクシムさまが、王都にいらしたわ。アレスも一緒よ」
エレーヌの言葉に、ユディトがつんと顔を逸らす。リクヴィルから帰ってこのかた、ユディトはマクシムとアレスの名が出ると、こうやって気高い抗議を示すのだ。
「ねえユディト、貴女はあの時、どうしてわたしのそばに残ってくれたの?」
リクヴィル城塞から皇帝一行が去った後、厩にはユディト一頭が残っていた。
厩番によると、ユディトはマクシムが呼んでも一歩も動かず、代わりにアレスが意気揚々と彼についていったのだという。
ユディトとアレスがどうしてそんなことをしたのか。彼女達と言葉を交わすことのできないエレーヌは、推測するしかない。
「……わたしを、励ましたいと思ってくれたのよね。ありがとう」
ユディトの眼差しは、全てを包み込むようだ。この二年、挫けてしまいそうな時がなん度もあった。その度に、エレーヌはユディトに話しかけ、その温もりに甘えた。
「わたしね、女王として人と話す時は、ユディトをお手本にしているのよ。今日もそう」
エレーヌは提げていた籠から等間隔に切った人参を取り出した。ユディトの口元に持っていくと、彼女は機嫌よくそれを咀嚼する。
「あのね、ユディト。わたし、欲しいものがあるの」
エレーヌの声は震えていた。ユディトは食べるのを止めて、鼻先をエレーヌの肩に擦り付ける。そして、小さく鳴いた。
――うんと欲しがりなさい。貴女なら、絶対に大丈夫。
そう、聞こえたような気がした。
「おいマックス。女王はぼんくら求婚者とお仲間を宮殿から蹴り出したらしいぞ」
厩に入ってきた長兄の手には、市民新聞が握られていた。マクシムはアレスの毛並みを撫でながら嘆息する。
「彼女は亡命貴族の案件を正しく処理しただけです」
「明日の夜会には掃いて捨てるほどの求婚者が来る。どいつが女王を射止めるんだろうな。いや、全員蹴り出されるってのもあり得る」
「下衆の勘ぐりはやめてください」
アレスが同意を示すように、長兄に向かって鼻を鳴らす。
マクシムと各国を旅するうちに、どこか怯えがちだったアレスは、度胸のある雄馬へと成長した。
「アレス。余が皇帝とわかっていて、その態度か?」
長兄は挑発するように持っている人参を振る。アレスはぷいっと顔を背ける。マクシムはあやすように腹を撫でてやり、市場で買ってきた人参を食べさせた。
「うるさくしてごめん、アレス。少し外に行こうか」
「そのまま逃げるなよ。明後日は皇太子の見合いだ。甥っ子の未来がかかってる」
軽い調子で皇帝が釘を刺す。マクシムは振り返り、長兄をまっすぐ見つめ返した。
「逃げません。……彼女の戴冠を見届けてから帰ります」
日没間際だというのに、王都の賑やかさは増すばかりだ。
目抜き通りでは夜市が開かれ、子どもから大人まで、みな陽気に笑っている。マクシムはアレスから降りて、手綱を引きながらゆっくり歩いた。
「正直なところ、明日が来るのが怖いんだ。逃げたくないと言ったら、嘘になる」
マクシムの告白を聞いたアレスは立ち止まり、じいっと睨む。マクシムは振り返って苦笑した。
「それと同じぐらい、エレーヌに逢いたいと思ってる。……自分から離れて、泣かせたくせにね」
アレスは機嫌よく鳴いて、再び歩き出す。
マクシムは目を細めた。この二年、自棄を起こさなかったのはアレスがすぐ側にいたからだ。そして、エレーヌの側には、ユディトがいる。マクシムが断ち切ろうとした縁を、ユディトとアレスが繋いでくれている。
「……俺は、リクヴィルで一方的に別れを告げた。自分が傷つかないよう、必死だった。いつかエレーヌから『あなたなんかいらない』と言われるんじゃないかって、そればかり怯えて。目の前の彼女から逃げた。エレーヌは、何かを伝えようとしていたのに」
マクシムが冷静になれたのは、リクヴィル城塞の厩に降りた時だ。
ユディトは何もかもお見通しと言わんばかりの様子だった。マクシムが厩から出そうとすると激しく抵抗した。
ユディトの瞳は、マクシムを卑怯者だとなじっていた。呆然と立ちすくむマクシムに歩み寄ってきたのが、アレスだったのである。
「アレス、ありがとう。君がついてきてくれたおかげで、俺はあの日の間違いに気づくことができた。今ここで逃げないでいられるのも、君がいるからだ」
目抜き通りを過ぎると、レーヌ川が現れる。向こう岸は国内貴族の邸が並ぶ区画だ。その先の高台に、白亜の大宮殿が建っている。もう二度と、訪れることはないと思っていた場所だ。あそこに、エレーヌがいる。会いたくてたまらなかった、愛しい少女がいる。
エレーヌはマクシムを責めるだろう。いや、言葉も交わしたくないかもしれない。一言も話さないまま、エレーヌが他の誰かの求婚を受け入れることも、覚悟しなければならない。彼女の選択をこの目で見届けること。それが、あの日逃げ出したマクシムに出来る、唯一のことだ。




