(43)リクヴィルの別れ「俺は、このまま帝都に戻る」
( 43 )
会談が終わり、エレーヌは皇帝と共にテラスに出た。
リアーヌはすぐに気づいて、エレーヌの広げた腕の中に飛び込んだ。泣きじゃくる姪を抱きしめながら、エレーヌもまた涙をこぼした。
リアーヌが泣き疲れて眠る頃、マノンとクルトが庭に現れた。ひとしきり再会を喜び合ったあと、ふとマクシムが口を開く。
「エレーヌに見せたいものがあるんだ。ちょっといい?」
ふわりと手のひらが差し出される。エレーヌは頬に熱が集まるのを感じながら、彼の手にそっと手のひらを重ねた。マノンがにっこり笑う。
「あたしたちは先に荷造りをしてますので」
マノンはリアーヌを背負ったクルトとともに城内に下がっていく。
エレーヌはマクシムに手を引かれながらゆっくり庭を進んだ。やがて、眼下にリクヴィルの村が見えてくる。エレーヌはその景色に息を呑んだ。
夕映えに照らされ優美にうねる運河、木組の家屋が連なる多彩な村、村を抱くように広がる果樹園。
家路を急ぐ農民たちが背負う籠には、熟した黄金のスモモがぎっしり詰まっている。
「マクシムさま……あれは……」
「黄李だよ」
「えっ?」
エレーヌは驚いてマクシムを仰ぎ見る。マクシムは村を眺めおろして、ほんのり微笑みを浮かべた。
「四年前、リクヴィルのぶどう畑は八割が駄目になってね。村の人と話し合って、思い切って黄李に変えることにしたんだ。……今年は一番の眺めだよ」
その言葉通り、黄李の木はいずれも鈴鳴りに実っていた。果実からは蒸留酒も作るようになり、その飲み心地は葡萄酒に勝るとも劣らないと言う。
「アルザスの気候は黄李に適していると分かった。きっと、特産物になるよ」
「マクシムさま……」
マクシムはエレーヌとゆっくり向き合い、懐かしそうに目元を綻ばせた。
「君が黄李を美味しいって言ってくれた時、必ずこの子に果実を贈りたいと思ったんだ」
「……うれしいです。ありがとうございます」
エレーヌは歓喜に震えながら、マクシムと視線を絡める。胸が高鳴り、甘い喜びが全身を満たす。
(わたし、マクシムさまが好き)
エレーヌはマクシムを見つめながら、言葉を探した。
アルザスの会談が成功に終わったら、エレーヌはこの想いを告げようと決めていた。
降り積もった気持ちをマクシムに明かしたい。そして、できるなら。
(同じ気持ちを、返して欲しい)
あの恐ろしい夜。マクシムはエレーヌから離れないと約束してくれた。
直接的な言葉は交わしてないけれど、自惚れても良いのなら、マクシムもエレーヌを大事に想ってくれている。
エレーヌは恋心を明かすべく、息を吸い込んだ。
「わたし……」
「エレーヌ」
エレーヌの言葉を遮るように、マクシムが一歩距離を詰める。
マクシムがエレーヌの話をさえぎることなど、今まで一度もなかった。
彼と近づいて初めて、その表情がこわばっていることに気づいて、エレーヌは目を瞠る。
「話がある」
と、マクシムが硬い声色で切り出した。感情をどこかに落としてきたような声に、エレーヌは嫌な予感に襲われた。
「俺は、このまま帝都に戻る」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。エレーヌは全ての音が遠ざかった心地がした。
「え……?」
「安心して。ローゼンベルク伯とクルトはファンデールに残る。彼らに相談するといい」
繋がりあっていた手のひらが解かれ、エレーヌは愕然とした。そのまま立ち去ろうとするマクシムの袖を掴もうと、腕を伸ばす。
「待って、マクシムさま。わたし、わたしは、貴方が……っ」
さまよう手のひらをマクシムの指先が捕らえ、逆の手で二の腕を強く引き寄せられる。
エレーヌはマクシムの胸元に閉じ込められ、そのまま、苦しいほど抱きしめられた。混乱するエレーヌの耳元に血を吐くような声が届く。
「俺は、君に、子どもを抱かせてやれない」
「え……?」
何を言っているの。エレーヌはマクシムの顔を見ようとしたが、ますます強い力で抱きしめられてしまう。
「君は女王だ。俺はその隣に立つ資格がない」
「マクシムさま、何を……」
「……俺のことは忘れて。幸せを祈ってる。――誰よりも」
マクシムはそっと腕の力を緩めて、震えるエレーヌの頬をそっと撫でる。エレーヌの面影を、忘れまいとするように。
彼は、本気なのだ。二度とエレーヌに逢わないつもりで、別れを告げている。
目の前の現実をにわかには受け入れられず、エレーヌは弱々しく首を振った。
「いや……、嫌です……だって……」
「君が本当の大人になる前に、間に合ってよかった」
優しく引き離され、マクシムがエレーヌの前に跪く。エレーヌは呆然とその姿を見つめた。
「女王陛下。即位を心よりお祝い申し上げます。貴女と過ごした歳月は、私にとって無常の喜びでした」
マクシムは、ゆっくりと立ち上がる。
エレーヌは細い肩を震わせ、大粒の涙をこぼしながらマクシムを見つめていた。
マクシムはひどい痛みを堪えるような表情を浮かべ、顔を背ける。
「……女官を呼んできます」
「マクシムさま! おねがい、待って!」
エレーヌが呼んでも、マクシムは振り返らなかった。
全てを拒絶する背中が遠ざかっていく。エレーヌは目の前が真っ暗になり、石畳の上にくずおれる。
「おいて、いかないで」
誰もいなくなった庭に、エレーヌの声が響く。エレーヌは一人きりで泣いた。両手で顔を覆い、声を押し殺すことも忘れて、泣き崩れた。
エレーヌが泣いている。大事な、女の子が悲しんでいる。
マクシムは振り返りたかった。走って戻り、少女を抱きしめて、想いを明かして、この場から連れ去ってしまいたい。
庭と大広間を隔てる扉の前で、マクシムは立ち止まった。
(今なら、まだ間に合う)
皇帝はエレーヌを認めたが、もともとファンデールを帝国領にするつもりだったのだ。マクシムがエレーヌを攫ってしまえば、きっとうまく事を運ぶだろう。
そして、身分を捨て、リアーヌも一緒に、三人で暮らすのだ。苦労はあるだろう。贅沢はさせられない。けれど、二人を飢えさせない程度には稼ぐ自信がある。思い切って新大陸に渡ろう。エルトリア大陸の学校は教師不足と聞いた。農夫をやりながら教師をしよう。
エレーヌはマクシムを慕っている。潤んだ瞳は、恋心に揺れていた。マクシムが望めば彼女は――。
『わたくしは逃げない。隠れもしない。この国に命をかける。それを、一生かけて証明してみせる』
夏空に響くエレーヌの透き通った声。緊張しながら、神妙に頷くジャンヌの横顔。あの瞬間から、エレーヌは本物のファンデールの女王となった。
(エレーヌは、女王として歩き出した。ファンデール人の母として生きることを誓った)
把手を回し、大広間を大股で横切る。北側の廊下に抜けると、誰もいなかった。エレーヌの泣き声は、もう届かない。マクシムは扉を背にして、座り込んだ。
「どうして」
シェルファローズとツークフォーゲル。女王と大公。身分は釣り合っている。
マクシムの聖ゲルト騎士団副総長という職位は『聖教の長女』の王配にふさわしい。
なにより、マクシムはエレーヌを愛している。世界で一番、彼女を想っているのは自分だ。世界で一番幸せにしたい。誰にも渡したくない。
想いの強さも、身分も、誰にも負けない。
それなのに、自分はエレーヌに一番必要なものを与えてやれない。
「――畜生!」
息荒く廊下の壁に拳をぶつける。誰もいない廊下に、むなしい叫びが木霊する。
女王となる彼女に、一番支えとなるもの。
母が自身の不安定な地位を盤石にさせたもの。
それは、自分の血を引く、たくさんの子ども達だ。
兄も姉も、縁付いた先で血を繋ぎ、その土地における地位を確立している。
カシャ熱に罹ったマクシムの精には、種がない。いくら彼女を全身で愛しても、マクシムとエレーヌの間に子どもができることはない。
シェルファローズはツークフォーゲルに次いで、由緒ある家系だ。エレーヌとリアーヌだけで抱えるには、あまりにも負担が大きすぎる。
(エレーヌも、十六を過ぎれば理解する。俺がいては、彼女を惑わせるだけだ)
彼女はふいに王位を継承し、荊の道を歩いている。誰よりも王冠の重みを知っている。やがて、リアーヌを助ける存在を必要とするはず。賢い彼女のことだから、リアーヌが王位継承をしない可能性も考慮するだろう。そして近い未来に、王配を迎えて子を産むことが最良だと、決断するはず。
そうしたら、子供のできないマクシムは不要の存在だ。エレーヌの傍にいては、駄目なのだ。
(これでいいんだ。これで……)
マクシムが馬車寄せに現れると、皇帝が眉を顰めた。皇太子に馬車へ乗るよう促してから、末弟に歩み寄る。
「なんだ、マックス。やっぱり駆け落ちするのか? 路銀なら……」
「帝都に戻ります。……そのまま、レニラード神国に行こうと思ってます」
「はあ?」
皇帝は耳を疑った。てっきりこのままマクシムはファンデールに帰ると思っていたのだ。
「お前、お嬢さんと好き合ってるんじゃないのか」
「……違います」
「でも、お前はあの子のこと、愛しく思っているだろう」
「――愛してますよ! だから手放したんです!」
マクシムは感情を爆発させた。ヴェネト平野で捕虜になった時も、宮殿で母になじられた時も、マクシムは感情を露わになどしなかった。
マクシムはきょうだいの中で、一番大人しく最も聞き分けが良かった。その弟が、迸る激情のままに前髪をかきむしって叫ぶ。
「あの子は女王だ! ファンデール王族は、リアーヌしか残っていない。エレーヌが背負うには、ファンデール王家は大きすぎる! ……彼女を支える夫と、彼女の志を継ぐこども達が必要だ。俺では、彼女の隣にふさわしくない」
「マックス……」
「俺は、彼女を、世界の誰よりも幸せにしたい。その為にはここで別れるしかないんです」
マクシムは、力なく笑う。彼の頬に一雫、涙が伝った。




